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ジェノサイド後ルワンダにおける赦しと和解

ガチャチャ裁判を事例として

Forgiveness and reconciliation in post-genocide Rwanda Case of the GACACA Courts

『アフリカNOW』99号(2013年10月31日発行)掲載

執筆:片山夏紀
かたやま なつき:大阪大学外国語学部スワヒリ語専攻卒業、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻「人間の安全保障」プログラム修士課程修了( 国際貢献)。現在、同大学院同研究科博士課程所属。ルワンダにおけるジェノサイド後の平和構築について、特にローカルレベルの人々を対象とした和解の研究を行っている。


「和解だと?そんなもの、この国にはない。……いま私が口にしたことが政府にばれて、もし明日私の身に何かあったら、それはお前のせいだ」。あるインタビュイーが言い放ち、通訳者と私の背筋が凍った。和解について調査するはずが、和解などないと突き放されたのだった。そして彼の言葉は、この国で政府を批判することが、いかに危険なのかを物語っている。

1994年、フトゥ(Hutu) の大統領暗殺をきっかけにルワンダでジェノサイド(大量虐殺)が起こり、約100日で50万人以上が亡くなった。それまで同じ村で暮らしていた人々が、当時の政権に扇動され、ジェノサイドに加担せざるをえなくなった。紛争が終結し、ジェノサイドの被害者と加害者が再び同じ村で暮らしていく状況がある。彼らが一緒に暮らす上で、赦しや和解が成されているのか。成されているとすれば、どのように成されているのか。ジェノサイドの罪を裁く「ガチャチャ」と呼ばれる裁判を手掛かりに、ルワンダの人々への聞き取りから修士論文(1) を執筆した。

本稿では、修士論文の骨子に加えて、ルワンダへ関心をもった動機、卒業論文執筆のためのフィールドワーク、学生団体との出会いを振り返る。これらは修士論文には直接記すことができなかったが、修士論文の土台となる大事な要素である。

ルワンダに関心をもったきっかけ

修士論文の話をする前に、私がなぜアフリカ、とりわけルワンダに関心を持ったのかを記す。高校生のとき「もしアフリカの紛争がすべて解決すれば、世界はもっと平和になる」という一文で締めくくられた新聞記事を読み、目を疑った。「本当にそうなのか? 紛争が起こっている地域はアフリカ以外にもあるのに。そもそも、なぜアフリカで紛争が多発したのだろう?」という問題意識を抱くようになった。

アフリカに詳しくなりたい一心で、言語に留まらずアフリカの地域文化を「幅広く」学ぶことができると銘打つ大阪大学外国語学部スワヒリ語専攻に進学した。大学の授業は本当に「幅広く」、スワヒリ語に加えて、ヨルバ語、リンガラ語、ズールー語(2)、タンザニアの言語政策や農村社会経済、ナイジェリアの現代文学、アフリカの手話、日本アフリカ交渉史など、それぞれのフィールドに思い入れのある教員が、心底楽しそうに専門領域を語る授業に聞き入った。授業を通して学びを深めるにつれて、私もアフリカに行ってみたいと強く思うようになった。

アルバイトで資金を貯め、2008年に学部3年生時の夏季休暇を利用して、タンザニアに1ヵ月間滞在した。ダルエスサラーム(Dar es Salaam)、バガモヨ(Bagamoyo)、アルーシャ(Arusha)、ルショト(Lushoto)、ザンジバル(Zanzibar) を周り、拙いスワヒリ語をコミュニケーションの突破口にして、現地の人々の暮らしを垣間見た。そこには貧しさではなく、豊かさがあった。何が豊かなのか、明瞭に応えることはできないが、それは例えば人々の思いやり、美味しい食べ物、都市部の熱気、それに反して息を呑む程美しい自然であったりする。現地で腹立たしさや落胆を味わっても、帰国日には「必ずまた戻って来よう」と思わせる何かがあった。

ルワンダに関心を持ったのは、学部1年生時に武内進一さんの論文(3) に出会ったことがきっかけである。ルワンダの紛争は、単純な「民族」紛争ではない。植民地時代、宗主国ベルギーから独立した後も、トゥチ(Tutsi) やフトゥという「民族」には政治的な意味づけがなされてきた。その背景に着目しなければ、紛争の原因にはたどれないのだということがわかった。この論文をきっかけに、ルワンダに関連する文献を、一般書や学術書を問わずに読み進めた。そのうち、二次情報からルワンダに触れるのではなく、自分の目で見てみたいという思いが募るようになった。

「国民統合」の理想と現実

武内論文をきっかけにルワンダに関心を持ち、その後、ルワンダへの関心をどのように深めていったのか。一つは初めて現地へ赴いたこと、もう一つは日本ルワンダ学生会議(JRYC : Japan-Rwanda Youth Cooperation) という学生団体での活動が大きく影響している。

2009年9月、卒業論文執筆のため、念願のルワンダに初めて足を踏み入れた。約2週間の短い滞在であったが、それまで抱いてきた「ルワンダ=ジェノサイド」というイメージが払拭されるほどルワンダは「平和な」国にみえた。治安が良く、都市部は建設ラッシュで、街の雰囲気も明るい。現地NGO、国際協力機構(JICA)事務所、国連難民高等弁務官(UNHCR) 事務所などで活動見学と聞き取りを行い、現地の人々から活気のある発言を耳にし、この国がまさに経済発展の波に乗っていることが伝わってきた。

そして、インタビューに応じてくれたルワンダの人々の大半が、ルワンダ政府の「国民統合(national unity)」のための政策を称賛した。植民地統治時代、政府は国民一人一人にID カードを発行し、トゥチ、フトゥ、トゥワ(Twa) という「民族」を明記していた。紛争後、現政府はトゥチもフトゥもトゥワも関係なく、皆ルワンダ人であると強調し、「民族」を記すことを廃止した。「民族」に関することに触れると、ジェノサイド・イデオロギー(genocide ideology) や民族分断思想(divisionism) の罪に問われる場合もある。ID カードにおける「民族」区分を廃止し、「民族」を語ることを禁じたからといって「国民統合」が進むのか、私は疑問を持った。

卒業論文(4) では、インタビューをもとに、ルワンダがいかに平和構築を行ってきたのかを執筆した。しかし、ルワンダ政府の掲げる「国民統合」の理想と現実が乖離しているのではないかという疑問は拭ぬぐえなかった 。

平和の創り手

ルワンダへの関心が深まったもう一つの要因は、JRYC に所属したことだ。初めてルワンダに渡航した際にJRYC のメンバーに出会い、活動に興味を持った。

JRYC は、ルワンダと日本の大学生の学術・文化交流を目的とした学生団体である。学校建設などの問題解決型のミッションを掲げるのではなく、「相互理解」を活動理念として、ルワンダの大学生との人間関係の構築を目指す。2005年に小峯茂嗣さんを指導員とし、早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンターの「ルワンダ・プロジェクト」として発足した。その後、学生が主体となって活動する「ルワンダ学生会議」に改名し、今では関東・関西のさまざまな大学生とルワンダの大学生が所属する。毎年、ルワンダへの渡航とルワンダメンバーを日本に招聘する「本会議」を実施し、多岐にわたるテーマの議論、フィールドワーク、ダンスコンサート、企業訪問などを行ってきた(5)。

活動を通して一番心に残った出来事がある。「日本人にも広くルワンダを知ってほしい」と企画したイベントで、来日したルワンダメンバーの一人が、自らのジェノサイドの経験を参加者の前で語ってくれたことである。彼が5歳の時にジェノサイドが起こり、家族は皆殺しにされた。民兵に銃を突き付けられ、「金を出せ」と脅された時、彼のポケットから小さなロザリオが出てきたという。民兵は沈黙した後、「俺が殺さなくても、お前はいずれ誰かに殺されるだろう。行け!」と彼を見逃した。

彼が「ジェノサイドを二度と繰り返さない」と強く言ったとき、一度紛争が起こった国や地域で平和を創っていくのは、紛争を経験した当事者なのだと私は確信した。ルワンダの人々は、少なくとも目の前の彼は、まさに平和の創り手であった。彼の凄惨な経験から、悲哀だけでなく一筋の希望を感じた。

修士論文のテーマを「ガチャチャ裁判」に

卒業論文の執筆やJRYC の活動を通して、ルワンダの平和構築について深く学びたいという思いが強まった。私は大学院へ進学し、修士論文では、ジェノサイドの罪を裁く「ガチャチャ裁判(Gacaca)」をテーマにした。

ルワンダ政府は、2002年から全国でガチャチャ裁判とよばれる法廷を設置した。この制度では、ジェノサイドの被害者と加害者間の和解を促すことを目的の一つとしていた。専門的な法資格をもたない人々が判事に選出され、住民から証言を集めて加害者リストを作成し、法廷に召喚した。その法廷で、加害者は判事と村の住民の前で罪を告白し、被害者に謝罪した。罪状や自白の有無によって量刑が下され、加害者は服や公益労働を経て村へ戻る。殺人・強姦・拷問・傷害・器物破損・窃盗を含めた1,958,634件もの犯罪が審理され、1,003,227人が裁かれ、ガチャチャ裁判は役目を終えたとして2012年6月に閉廷した(6)。

ガチャチャ裁判に批判的な立場を取る先行研究は、裁判がルワンダの人々の和解に貢献していない点を指摘してきた。ガチャチャ裁判が、ジェノサイド時に人権侵害を行った現政権、ルワンダ愛国戦線(RPF :Rwandese Patriotic Front)の中枢を担うトゥチの人々を裁かずに、旧政権に扇動されてジェノサイドに加担したフトゥの人々のみを裁いているという不平等な構図が生じているからである。裁判の被告や証人は、RPF の強い圧力を恐れ、法廷で自由に証言できず、事者間の和解が妨げられたと結論づける研究(7) もある。トムソン(2011) の言葉を借りれば、ガチャチャ裁判はRPF があらかじめ用意した「シナリオ」に沿って運営されており、当事者の恐怖を煽り、RPF への不信感を助長しているという(8)。

ガチャチャ裁判の目的の一つは「国民統合」と和解への貢献である。この裁判を修士論文のテーマに選んだのは、ガチャチャ裁判が掲げる和解が、実際どのように達成されているのかを、当事者の声をもとに調査したかったからである。

現地調査からみえてきた和解の「実践」

ガチャチャ裁判の被害者と加害者(9)、ガチャチャ裁判の判事の声を聴くために、2012年5月29日から8月1日まで、再びルワンダへ足を運んだ。調査を初めて1ヵ月間は、ガチャチャ裁判の運営に携わった国家機関やNGO へ聞き取りをすることはできたが、裁判の当事者たちに直接話を聴くことはできなかった。

調査が思うように進まず焦っていた頃、JRYC の友人や青年海外協力隊員から通訳を引き受けてくれる人を紹介してもらい、通訳の生まれ故郷や馴染みのある土地に住み込んで、聞き取りができる機会が巡ってきた。キガリ(Kigali) 市、東部州ンゴマ(Ngoma) 県、南部州フイエ(Huye) 県にある計4つの村で、被害者と加害者、判事を含めた25名の語りを収集した。

加害者と被害者の語りを例にあげると、加害者A さんは、和解に懐疑的な見解を示した一人である。彼の話によれば、「兄はRPF に殺されたのに、何の補償ももらえない。誰も助けてくれない。いったい何が赦しなのか?」と声を荒げた。また、被害者B さんは、ガチャチャ裁判に不満を漏らした。彼女の話では、兄弟を殺した加害者の家族が判事に賄賂を払い、減刑されたのだという。「私の息子は生きたままトイレに投げ込まれた。ガチャチャ裁判でそれを証言したのに、加害者は無罪だった。これだって賄賂のせいよ!」と涙を滲ませた。

和解を否定する語りとは対照的に、和解を肯定する語りも収集できた。例えば被害者C さんは、「ガチャチャ裁判で裁かれた加害者は、今では友人だし、良いお客さんでもある。私が売っているプリムス(ビールの一種)を買ってくれるしね。一緒にお酒を飲んだりするよ」と述べた。被害者D さんは、「私の夫と息子2人を殺した加害者を、受け入れることができるようになった。ジェノサイドの後は仕立屋を営んで生計を立ててきたの。加害者に仕事を与えて、一緒に働いているのよ」と語った。加害者E さんによれば、「今となっては被害者宅と我が家を行き来するし、被害者の子どもと我が子も一緒に遊んだりする」という。

被害者と加害者が互いの家を行き来する、共に酒を飲む、物を共有する、セレモニーに呼び合う、被害者が加害者を雇用する、共に農作業をする……。彼らは和解を日常生活の具体的な行為として捉え、日々の生活で「実践」しているのではないかという状況が明らかになった。

博士論文のテーマ

修士論文では、ジェノサイドの当事者が和解を日常生活の具体的な行為として捉え、「実践」していると結論づけた。博士論文では、当事者間の和解の「度合い」に着目しようと考えている。その理由は、例えば被害者F さんの場合は、「加害者に強姦されたが、最終的に彼を赦した」と語る一方で、被害者G さんは「加害者に物を盗まれたが、謝罪がなく、和解ができない」と語るからである。F さんは強姦という重度の被害にもかかわらず、加害者の謝罪、加害者から被害者への家畜の贈与、被害者と加害者の互いの家の行き来など、多くの段階を経て赦しが生じ、和解に至ったという。それと比較してG さんは、加害者からの謝罪もなく、日常生活において加害者との接点がなく、和解することができないと語る。

このように和解は、被害の内容にかかわらず、段階を踏んで「実践」されるのではないかという問いがうまれた。この問いを、インタビューへの緻密な聞き取りから検証することが、博士論文のテーマである。

おわりに

自らのジェノサイドの経験を語ったJRYC のルワンダのメンバーが、「ジェノサイドを二度と繰り返さない」と強い意志で語ったとき、紛争の当事者こそが平和の創り手であると痛切に感じた。それと同様に、現地調査でも、想像を絶するジェノサイドの経験を語ってくれたインタビュイー自身が、平和の創り手であった。赦しや和解は、口で言うほどやさしいことではない。しかし、葛藤を抱えながらも、ジェノサイドの当事者一人一人が、地道に平和を築いている。彼らの和解の「実践」を緻密に聞き取り、ゆくゆくは平和構築の途上にある他国の人々に橋渡しできるよう、私は今年も、ルワンダへ赴く。

(1) 題目は『ジェノサイド後ルワンダにおける赦しと和解―ガチャチャ裁判を事例として-』。論文をお読みになりたい方はメールでご連絡ください。
(2) スワヒリ語は東アフリカの地域共通語で、話者数は7千万人を超すといわれる。タンザニア、ケニア、ウガンダをはじめとしておよそ12ヵ国で話されている。ヨルバ語は主にナイジェリアの西部を中心にベナンとトーゴで、リンガラ語は主にコンゴ民主共和国とコンゴ共和国、アンゴラ、中央アフリカで、それぞれ話されている。ズールー語は、南アフリカの11の公用語のうちの一言語。
(3) 武内進一(2004)「ルワンダにおける二つの紛争―ジェノサイドはいかに可能となったのかー」『社会科学研究』第55巻5・6合併号、pp.101-129、東京大学社会科学研究所
(4) 卒業論文「武力紛争の予防・介入と紛争後の平和構築―ルワンダ紛争をケース・スタディとしてー」の要旨が大阪大学言語社会学会誌”EX ORIENTE”18号に掲載された。
(5) 本会議後は必ず報告会を実施し、報告書も執筆する。最近の刊行物は『第9回本会議報告書』で、当団体のウェブサイトからダウンロードが可能である。https://jp-rw.jimdofree.com/%E8%B3%87%E6%96%99-reports/ 現在は、2013年末に控えるルワンダメンバーの日本招聘に伴い、日本の現状を伝えることを目的に、福島県のフィールドワークなどを企画している。 http://jp-rw.jimdo.com/
(6) National Service of Gacaca Courts (June, 2012), Summary of The Report Presented at The Closing of Gacaca Courts Activities, Kigali: Republic of Rwanda.
(7) Bornkamm, Christoph. Paul. (2012) Rwanda’s Gacaca Courts; Between Retribution and Reparation, New York: Oxford University Press.
(8) Thomson, Susan. (2011) “The Darker Side of Transitional Justice: The Power Dynamics behind Rwanda’s Gacaca Courts,” Africa, 81-3, pp.373-90.
(9) 本稿では、ジェノサイドで被害にあった人々と彼らの遺族を被害者、ガチャチャ裁判で裁かれた人々を加害者とする。実際には、被害者と加害者は簡単に区別されるわけではないが、便宜上この二つの言葉を使う。


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