ルワンダに生かされて

Rwanda gave me a key to new life

『アフリカNOW』91号(2011年5月31日発行)掲載

執筆:曽田 夏記
そだ なつき:1984年生。東京大学教養学部国際関係論学科卒。20歳で変形性股関節症を発症したことがきっかけとなり、途上国における障害者支援に興味を抱く。卒業論文は「紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化」をテーマに執筆。2008年独立行政法人国際協力機構(JICA)入構。人間開発部母子保健課およびフィリピン事務所での研修を経て、現在、JICA沖縄国際センター市民参加協力課に勤務。


機上から3年ぶりに見下ろす、「千の丘の国」ルワンダ。つえを片手にウキウキとタラップを降りる私を、”Rwandair”の真っ青なゼッケンを着けたお兄さんが、優しい表情で迎えてくれた。彼の手元には、タンザニアの空港でのチェックイン時に頼んだ車いす。3年ぶりに利用したこの国の翼は、機内食のみならず、障害者サービスもグレードアップしていた。
2007年7月。当時、大学生だった私は、卒業論文のテーマを「紛争後のルワンダにおける障害者の周辺化」に決め、この国をひとりで訪れた。
「アフリカは問題が山積みで、まだ障害者支援に着手するのは難しい」。そんな言葉を援助関係者から聞くたびに、当時の私は強い違和感を覚えていた。なぜ、この「後回し」の論理が、まるで「仕方ないこと」として通用しているのか。障害者支援は、何も、車いすを供与したり、特殊学校を作ったりすることだけじゃない。山積みにされている問題のひとつひとつ、例えば、食べものがないこと、住む場所がないこと、病院に行けないこと、こうしたすべてのことについて、障害者も健常者と同じように困っているはずなのに……。なぜ、障害者が抱える問題を、健常者のそれとは異質のもののように扱うのだろうか。
その問いを、読み手に投げかける論文が書きたかった。ルワンダは、ジェノサイドがあったアフリカの国である。問題が「山積み」なはずのこの国から、その問いを発信しようと決めた。
大学時代の集大成である卒業論文。「途上国の障害者支援」というテーマにこだわったのには、理由があった。19歳で進行性の関節系疾患のため足に障害を負った私は、入院・リハビリ生活から復学し、この足で生きていく積極的な意味を必死で探していた。
私が突然の痛みで歩けなくなったのは、女子サッカーに熱中していた大学2年生のとき。進行性の病気であると知った。もう大好きなスポーツはできない。足に負担がかからない仕事にしか就けない。医者から矢継ぎ早に宣告される、何の希望もない将来像。
折りしも、前年に母が脳出血で倒れ、そのショックから立ち直りかけていたときだった。こんなにがんばっているのに、どうして悲しいことばかり起きるの? 生きていたって、何の意味もない。自然と将来を悲観するようになり、絶望するだけの日々が長く続いた。
そんなある日、私は駅のベンチで電車を待っていた。すると、かわいいハイヒールを履いた女子大生がカツカツと音を立て、私の前を通っていった。2回も手術をしたのに、つえをついて、格好悪い歩き方しかできない自分。私だって、好きでこんな風になったわけじゃない。
(後ろから、つえで殴ってやりたい)。自分を突然襲った衝動に、私は愕然とした。見知らぬ女子大生に抱いた強い嫉妬心は、当時の私の視野の狭さそのものだった。
もう一度、世界を見にいこう。足を悪くする前、私は国際協力の仕事に憧れ、ケニアでの短期ボランティアに参加していた。視野を広げて、この足でどう生きたいのかを考える必要があると思った。こうして私は、駆り立てられるようにルワンダへ飛び立った。
3年前、私が身を寄せたのは、NGOムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト(ワンラブ:Mulindi/Japan One Love Project)のゲストハウスだった。ワンラブは、義足の提供や障害者スポーツの振興など、大虐殺直後から14年以上にわたり、現地で障害者のために活動を続けている団体である。
ゲストハウスの宿泊料は、1泊30ドル。大学生の私にとっては、決して「安宿」ではなかった。しかし、ワンラブの敷地内には障害を持つスタッフがたくさん働いていた。事実、彼らとのおしゃべりは、お金に替えられない価値があった。
私が一番仲良くなったのは、ゲストハウスの受付にいたスタッフだった。調査から戻ってきては、何時間もおしゃべりをした。帰国が迫ったある日、彼から、1994年のジェノサイドで両親を亡くしたことや、大学に行きたいが、障害を理由に拒否されたことなどを聞かされた。ひと通り話し終わると、ぽつりと言った。“Mais Na-chan…il faut patienter.”(でもね、ナッチャ……我慢しなくちゃ)。
何も言えず、黙って受け止めた。忘れられない一言だった。数多くの我慢をしてきたはずなのに、どうしてまだ我慢しないといけないの? 大学に通えない、つえを買えない、彼個人が引き受けざるをえない我慢は、社会が変わればきっと
取り除ける。そう、強く思った。
同時に、私は自分自身が向き合っている「我慢」のことを考えていた。病気が進行することへの不安。関節の痛み。彼の我慢と比べたとき、これらは、私個人が引き受けざるをえない我慢であることを知った。
すべてを理不尽だと感じ、「どうして私ばっかり」という自己憐憫を増長させていた自分。でも、ルワンダで本物の「理不尽」を目の当たりにし、そんなことは、言うのも思うのも止めようと覚悟した。これからは、同じように障害を抱えた仲間がしなくてもよい我慢をしなくてすむように、笑顔で、自分に残された可能性を全力で注ごう。
目標が決まると、絶望感は消えていた。ルワンダの仲間を想うと、エネルギーが沸いた。自己憐憫や不満は、必要な時間をかけて、周囲への感謝と充足感に変わっていった。
障害があっても、目標があり、誰かの役に立てる喜びを感じられれば、本当の意味で生きていける。私は、自分の心の変化を見つめながら、そう信じるようになった。
私の目標は、障害者が目標を持って生きられる世界を作ること。その想いを胸に、私は国際協力機構(JICA)に入構した。忙しい日々の中でも、ルワンダのみんなのことがいつも心の中にあった。メールやニュースレターで届く仲間の活躍ぶり。みんなに会いたい。その気持ちは、再会したワンラブ代表のルダシングワ真美さんが掛けてくれた一言で、決定的になった。
「みんな、きっと喜ぶよ」
上司に長めの夏休みを懇願し、3年ぶりに戻ったルワンダ。
「ナッチャンさーん」。空港には、ワンラブのスタッフが迎えに来てくれていた。そして、ワンラブに到着すると、大好きだったスタッフのみんなが手を振って迎えてくれた。
大切な仲間との再会のために与えられた、貴重な6日間。今回は、調査らしい調査は何もしていない。それでも、当事者運動の「うねり」を感じる場面が多くあった。国立大学の視覚障害者グループは、教育省に交渉し、音声読み上げソフトを獲得していた。コンゴ国境の町ギセニ(Gisenyi)では、障害当事者グループが公平な商売のルールを決めようと、街角で何時間も議論を続けていた。3年前には実感できなかった、当事者運動の「うねり」。”Nothing About Us, Without Us.”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)、この有名な当事者運動のスローガンどおり、この国の障害者が直面する「理不尽」を解消していくのは、彼ら自身であることを改めて感じた。
「障害者のために、一緒にがんばろうよ」。3年前と同じことを、ワンラブのみんなは言ってくれた。主役はみんな。私は、それを支えたいと思うソトモノ。でも、「想い」しかないソトモノに、何ができるのだろう。当事者を支えるソトモノには、当事者にはない客観的な立場で提供できる「技術」が必要なのではないか。当事者の想いを理解するために、徹底的に共有すべき「時間」が必要なのではないか。
今の私には、どちらも欠けている。この状態で再びルワンダを訪れても、私は何もできない。「ナッチャン、次はいつ来るの」。ワンラブの仲間にそう問われるたびに、私はその想いを強めていった。
私が「国際協力」のあり方を考えるとき、いつも思い浮かべるのは、障害を負って絶望していた自分を救ってくれた大切な人たちの顔だ。どんなに忙しくても、いくらでも時間をさいて傍にいてくれた友人。客観的かつ適切なアドバイスをくれた先輩。そして、「あなたが立ち直るのを支えたいんだよ」という想いを、みんなが行動で伝えてくれた。
「時間」「技術」「想い」。この3つを備え、行動に移せる人が、本当に人を支えることができる。私は、身を持って学んだ。
今は、「想い」しかない自分。次は、「技術」を身につけて、たくさんの「時間」を準備して、戻ってこようね。ルワンダは、今回も私に明確な目標を授けてくれた。その目標に、私は今日も生かされている。

※ 曽田さんは、2005年変形性股関節症発症時(20歳)から現在までの日々の記録をブログで公開しています。でーそ日記


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