ジンバブエの「光」 長野から、ジンバブエから

The “light” of Zimbabwe shines in Nagano

『アフリカNOW 』No.81(2008年6月30日発行)掲載

執筆:林本 久美子
はやしもと くみこ:三重県出身。1967年生まれ。看護学校卒業後、病院や市立保育園で看護師として勤務した後、2002年長野に転居し、主婦となる。2003年アフリカ支援グループ・ジンバブエ友の会を設立し代表を務める。2004年ジンバブエに渡航.2005-2006年TICAD市民社会フォーラム(TCSF)主催の講座アフリカ学」初・中・上級コースを受講。現在は某大学の保健学部看護・助産学科に在学中。


最近世界の中では、様々な国の政治不安が報道されている。報道の数は少ないものの、ジンバブエもその中のひとつだ。大統領選挙後の4月23日から約3週間ジンバブエに滞在し、教育支援事業や文化交流事業などを行ってきた。ジンバブエの誰もが本音をあまり語りたがらない中で、彼らが抱えている「影」を、私のインタビューで答えてくれた人がいた。なぜ話してくれたのかを尋ねると、「日本人は平和主義の人たちだから。他の国のように戦争をしたがらない国だ」と話した。私は日本人として、大変誇りに思い、日本人だからこそ出来る支援もあるのではないかと考えた。
しかしジンバブエという国がどうであれ、ジンバブエの人々がもたらしてくれた功績は小さくない。私がジンバブエと関わって得た「光」をここに紹介する。

私は長野県でアフリカ支援グループジンバブエ友の会を主宰している「普通のおばさん」だ。主宰といっても、会員18名の小さな市民グループである。2003年10月末に当会を発足させた。ジンバブエを知るようになったきっかけは、2003年に地元の青年会議所からホームステイを受け入れてくれないかと頼まれたという些細なことだった。
最初はジンバブエという名前も聞いたことがなく、またアフリカに対してはステレオタイプの人間だったため、草原を走るシマウマとライオンというイメージしか持っていなかった。「普通のおばさん」が、ジンバブエの青年と出会ってジンバブエとこんなに深い関わりを持つとは思ってもなかった。

2004年、初めて単身でジンバブエを訪問し、ジンバブエの人々の生活を体験した。電気も水道も住所もない村に行ったとき、携帯電話の充電器やお風呂セットを持っていって村の人に笑われた。「写真が出来上がったら送るから」と言ったら「ここはアドレスがないぞ。どこへ送るんだ」とからかわれた。
ジンバブエから帰国後すぐに私は乳がんとわかり、5年生存率が45%弱といわれたときは頭の中が真っ白になった。しかし、ジンバブエで貧しくとも目を輝かせて生きる人々の姿に勇気付けられ、半年の化学療法の後手術をして、また命を授かった次第だ。
一方、長野では、当会の立ち上げを誰もが理解したわけではない。ジンバブエを支援していることで、地元の人に誹謗中傷されたこともあった。
「ジンバブエを支援しているのは賢い人間のやることではない。なぜなら、アメリカがジンバブエのことを圧政国家だと非難しているじゃないか」
「あんたアフリカで金儲けするつもりか、アフリカと同じ土俵には乗りたくない」……。
そこでアフリカを、ジンバブエを知ってもらう活動が必要であると痛感した。

逆にそんな私を励ましてくれる人もいた。化学療法ではげた頭をみても「頭きれいやな」といいながら、一緒にアフリカを知るためのイベントを企画、運営に協力し支えてくれた。地元のメディアの方も協力してくれた。そのおかげで、毎年長野では”Dance with Africa”というイベントを開催している。(ちなみに今年は、西東京市で8月2日に開催予定)
2004年の初イベントから5回のイベントを行った。2007年はJICA駒ヶ根との共催で、全国巡回型イベント”アフリカキャラバン in NAGANO?Dance with Africa 2007″を開催し、2008年1月には”New Year Africa 2008?人とひとがつながるために?”を開催した

2006年8月の”Dance with Africa 2006″では「アフリカをテーマにしたエッセイ・絵画コンクール」を実施した。最優秀賞の人は、翌年の2007年に私とジンバブエを訪問することができるという企画だ。小さい会だけに、費用は大変なものだったが、興味を持ってもらうには好材料だ。そして、長野市内から52のエッセイや絵画が送られてきた。その中から実行委員会において吟味を重ねた結果、2名の最優秀賞を決めた。一人は小学校5年生の児童と、もう一人は高校2年生の女子学生Yさんだ。
当時のYさんは、友人とのトラブルから高校2年生になってからほとんど学校には通っておらず、心を閉ざしていた。その話を友人から聞き、友人とYさんの自宅をはじめて訪ねたところ、Yさんは向こうが透けて見えるほど髪を金髪に染め、腕には無数のリストカットと思われる傷があった。それを見た私は思わず、Yさんを抱きしめた。
「辛かったんやな。苦しかったんやな」
「一緒にアフリカ行かへんか? アフリカをテーマにしたエッセイや絵画を書いて最優秀賞になったら、ジンバブエに一緒に行けるで」
「辛くても自分の体に傷つけたらあかん。わかってるやろ」
Yさんは涙を流しうなずいた。私はそんなYさんをしばらく抱きしめた。私がエッセイを書くようにYさんにすすめたのは、ジンバブエにYさんが行くことができたら、きっと心の何かが変わると確信していたからだ。
私自身が乳がんに冒され、余命5年足らずと宣告され悲しみに打ちのめされた。しかし幸いにもジンバブエに行った経験があったため、どんなに苦しくても一生懸命生きる彼らの姿が私を後押しして、前向きに生きる力をくれた。そんな経験から私はYさんをどうしてもジンバブエにつれて行きたかった。Yさんは、数日後エッセイを送ってきた。しばらく向かっていなかった机に向かった様子が、そのエッセイから読み取れた。

“Dance with Africa 2006″実行委員会は、全員一致でYさんのエッセイを最優秀賞に選んだ。イベントでYさんを表彰し、両親の承諾も得たことから、Yさんは2007年にジンバブエに行くことが決まった。一方、小学校5年の児童は両親の承諾が得られず、ジンバブエ大使館訪問と上野動物園でアフリカの動物探しを行った。
ジンバブエに行くことが決まった後、Yさんは休学届けを出し、アルバイトを始めた。髪を真っ黒に染めて、もとの黒髪になっていた。毎日、早朝から働いた。そして2007年2月末、私とYさんはジンバブエに出発した。Yさんは初めての海外旅行ということもあり、緊張しているようだったが、約2日間かけて私たちは到着した。
到着後、支援対象であるチノイとムタレの学校に行った。学校に行きたくてもインフレがもたらす貧困で学費が払えず学校に行けない子供たちと交流した。ムトコにある村に行ったとき、私たちのためにと村の人が鶏を「しめる」のを見て、Yさんは驚き泣き出した。スーパーに買い物に行って、100USドルを公定レートに換算したらどれだけの買い物ができるか確かめた。公定レートでは、わずかしか欲しい物が買えないことや、スーパーで空になった商品棚を見た。あるいは何も売っていない店があることを知り愕然とした。ホストファミリーのために、停電の中でお好み焼きを作ったところ、「ジャパニーズ・ピッザ」と喜ぶホストファミリーの人たちと大いに笑った。夜間に外国人が良く行く店の前で物乞いをしている、多くのストリートチルドレンを見て涙声で「なぜ、なぜ」と悲しみにくれた。
そんな現実を知って、ホストファミリーの負担にならないように、私たちは食事回数や量を減らした。「おなかすいた」が、いつの間にか口癖になっていた。お互いが「顔がやせた」「ベルトの穴がいくつ移動した」だのたわいもない話に夢中になった。寝る前には、日本から持参したチョコを分け合って血糖値を上げる努力もした。おなかが空いて眠れない夜は、疲れ果てるまで話続けた。あるいは、呼ばれてもいないのに知らない人の誕生日パーティがあるときいて、金持ちの家にまぎれ込み、久しぶりの豪勢な料理に舌鼓をうった。当時JICA所長をしておられた方の奥さんに、中華料理屋に連れて行っていただき、腹いっぱいご馳走になった。
そしてジンバブエ滞在もわずかとなった夜、私たちはホームステイ先のブランコに乗りながら夜空を見上げていた。満天の星は、すぐそこにあるようだった。
「私、ジンバブエに来て自分の人生をリセットするつもりだった。でもそれ以上に希望というおみやげをジンバブエから授かったような気がする。ジンバブエに来てよかった。日本に帰ったら、両親に『今まで心配かけてごめんね』って言うから」
Yさんは私にそう語りかけた。私もYさんと一緒にジンバブエを訪れることができて本当に良かったと思った。

帰国後Yさんは、学校を退学し、新年度から定時制の高校に編入することを決めた。早朝からスーパーでアルバイトをし、夜間は定時制高校に通っている。そしてYさんは、定時制高校で「ジンバブエに行って思ったこと」というタイトルで作文を書き、長野県高等学校定時制通信制生活体験発表大会で審査員特別賞を受賞した。その作文を以下に紹介する。

私はこの定時制高校に入学する前に全日制高校に通っていました。2年生の5月、私は学校に行くのが嫌になりました。学校に行く時間になると過呼吸になり、ひたすら泣いていました。毎日この世からいなくなることを考え、泣いては過呼吸になり、家の中に引きこもってばかりいました。学校が夏休みになり、私は髪の毛を染めました。その頃です。私に「作文を書いてみない」と進めてくれる人がいました。(中略)その方は、乳がんになり、余命わずかの宣告を受けながらも、支援を行うためにジンバブエにわたり、そこで生きる希望をもらったそうです。そんな経験から、私をジンバブエに連れて行き、私が変わるチャンスをくれようとしたのでした。私はそのアフリカについての作文コンクールで最優秀賞に選ばれました。(中略)学校を休学し、朝8時からのスーパーでの仕事。ひたすらがんばりました。でももう一度学校に戻ることはまだ迷っていました。
それから5ヵ月後、ジンバブエに渡りました。苦手な英語をフルに使い現地の人とたくさん交流し、主に子どもたちの生活や貧しい人たちの生活も見ました。ある小学校に行ったとき、2人の女の子が学校の敷地内で子供たちの様子を見ていました。彼女たちは学校に通っていませんでした。家が貧しく学校に通えないのです。将来、お医者さんと学校の先生になりたいと言っていました。子供たちは夢を見ているのに学べない。学びたくても学べない。そんな子どもたちが同じ世界にいるのに私は何をしているのだろう。私は恵まれた生活をしているのに……と、自分のことを責めました。(中略)日本で当たり前のことでも、ここでは当たり前ではないのです。お金がなくて食事ができない。病気になってもお金もない、診てくれる医師もいない。そんな悪い条件の中、一生懸命がんばっている人がいるのに、私は簡単に死ぬことを考えていました。それから貧しい人や裕福な人など、たくさんの人達に出会いました。裕福な人たちはもちろん笑顔でしたが、貧しい人たちだって決して悲しそうな顔はしていませんでした。(中略)
私はこの旅行で人生のリセットをするつもりでした。だけど私は人生のリセットどころか大きなお土産をもらいました。日本に戻って勉強をして、学びたくても学べない子どもたちの分もがんばろうと思いました。そして生きることを簡単にあきらめないことをジンバブエの空に誓い、帰国しました。(中略)そして、いつか今の自分より成長できたときに、もう一度私のことを変えてくれたジンバブエに行きたいと思います。

ジンバブエのハイパーインフレーションや、政治的な混乱はあったものの、ジンバブエが私たちにもたらした「光」は大きい。現実と真剣に向き合って、ジンバブエ人が一生懸命生きる姿は、Yさんの人生を大きく変えたといっても過言ではない。また私も大きく人生が変わった一人である。もしジンバブエと出会っていなかったら、今頃三途の川を渡っていたかもしれない。生きる希望は、専門の医師をも驚かすほどがん細胞を食いつぶしたのだから。そしてアフリカを通じて、多くの人と出会った。ギニア出身のアブライ・サンコンさんというかけがえのない友人もできた。

それに今春の訪問ではジンバブエ国内にも「光」を見出すことができた。4月23日から5月15日にかけて、私はジンバブエを訪れた。4月29日から5月4日までハラレの中心部で開催されたハラレ国際芸術祭(HIFA: Harare International Festival of the Arts)には、世界中から多くのアーティストが集まった。私は5月1日に、在ジンバブエ日本大使館後援事業として、ムビラ(親指ピアノ)のグループと琴のコラボレーション、雅楽の笙の演奏を行った。

ことの始まりは、2006年にジンバブエを訪れた際に趣味の琴を持ち込んだことだ。空港の税関で「税金払え」「嫌だ」「払え」「払えない」と1時間の押し問答の末、何とか無税で脱出成功したいわくつきの琴と、ジンバブエの伝統楽器であるムビラのコラボレーションの練習を重ねてきた。日本の調律と違うムビラチューニングというものもあみ出した。毎年私は、ムビラ奏者であるアルバートが率いるゴナモンベというグループと親交を深めてきた。ムビラの曲に合わせて、その曲の基音を探し、好き勝手にオリジナル曲を弾くという、いい加減なものではあるが、そのいい加減さがムビラとマッチするのが面白い。
4月29日、HIFAの開催に合わせて、花火が打ち上げられ、多くの人が大声を挙げて楽しんでいる。ハラレの中心は、きらびやかな電灯が灯され、毎夜人々で埋め尽くされていた。おかげで、ホームステイ先は停電・断水が連日続き、洗濯やトイレの水に苦労したが、それも今のジンバブエの状況を考えるといたし方ない。
ジンバブエ出発前に、BBCニュースやCNNニュースでジンバブエの政治に関する情報を得ていた。知り合いのジンバブエ人に「いったいどうなのよ」と尋ねても、「ジンバブエは変わったかい。この美しい風景、青い空、何も変わっていないじゃないか」と言うばかりで、はぐらかされた。
確かに、美しい風景や青い空は変わっていない。HIFAは例年通り開催され、人々は心臓の鼓動のように動いていた。昨年から時折報道された政治不安は、どこにいったのかと思えるほどだった。しかし、HIFA会場の木々が、人々の「平和」を願う短冊で埋め尽くされていたのを見たとき、苦難に直面するジンバブエの人々の「希望」という「光」を垣間見たような気がした。

ジンバブエ友の会
https://www.societyforzimbabwe.org/


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