WSFで市民版アフリカ委員会の結成をアピール

Call for organizing Civic Commission for Africa at WSF

『アフリカNOW』76号(2007年3月25日発行)掲載

吉田 昌夫
よしだ まさお:1961年1月~1991年3月、アジア経済研究所研究員。ウガンダの東アフリカ大学マケレレ校、タンザニア水資源審議会などに派遣される。 2002年6月~2003年6月、マケレレ大学歴史学科客員教授。1994年のAJF発足から2002年までAJF代表、現在は理事および食料安全保証研究会座長を務める。 2005年5月からTICAD市民社会フォーラム理事。


世界社会フォーラム(WSF)とは何か

世界社会フォーラム(WSF)は、2001年にブラジルのポルトアレグレにおいて最初のフォーラムが開かれ、グローバリゼーションの流れに対抗しようとする多くの市民社会グループ、なかでもフランスのATTAC(市民を支援するために金融取引への課税を求めるアソシエーション)が中心となって、集結したことに始まる運動である。 世界規模の連帯による主張活動(アドボカシー)を目標としながら、各グループがどのような問題をかかえ、どのような取り組みをしているかを知らせあう場をつくりだそう、ということを目的として、2001年以後、毎年開催されてきた。 開催時期を1月にほぼ決めてきたのは、毎年この頃にスイスのダボスにおいて先進資本主義国の指導者による世界経済フォーラム(WEF)が行われるので、その直前にタイミングを合わせたものである。 これまでの6回のWSFのうちの5回はポルトアレグレで開催。 第4回WSFは2004年にインドのムンバイで開催され、75,000人の参加者が見込まれていたが、ふたを開けたらこれを遙かに超す参加者があり、文化的に多様なフォーラムとして知られている。 第6回目の2006年のWSFは、バマコ(マリ)、カラカス(ベネズエラ)、カラチ(パキスタン)の3ヵ所に分かれて行われた(1)。 今回の第7回WSFはケニアのナイロビで、2007年1月20~25日の6日間を通して開催された。 開催後の発表では、約66,000人の参加登録者があり、1,400の団体が110ヵ国より集まったということで、これまでより多くの国や地域からの参加があったことが特徴であったとされている。

会場の印象

私はTICAD市民社会フォーラム(TCSF)の代表の一員として、舩田クラーセンさやかさん、五十嵐真さんと共に、今回のWSFに参加した。 現地ではアフリカ日本協議会(AJF)を代表して参加していた茂住衛さんと近藤徹子さんとも会って話しができた。 その他、日本から他の団体を代表して来ていた顔なじみの何人かに会った。 WSF初日の開会イベントには私は間に合わず、1月22日から参加することになった。 メイン会場は、ナイロビ郊外のカサラニにあるモイ国際競技場で、大きなスタジアムの外側にずらりとテントが多数張り巡らされ、その一つ一つが各団体のブースとして割り当てられていた。 また、スタジアムの観客席の一部や個別のテントの外側には、各団体が単独または共同でアピール活動や講演を行なう場所が設定されていた。 その会場の雰囲気は、日比谷公園で行なうアフリカ・フェスタを巨大化したものに似ていた。 「ジェンダー平等」とか「牧畜民にMDGを」とか「ダルフールの人々に保護を」「エチオピアの農民は遺伝子組み換えに反対」「アジアの人々よ、団結せよ」など、さまざまなプラカードや旗を持った人たちが声を張り上げながら歩き回り、その間にも太鼓をたたく一群や、ダンスを踊りながらパフォーマンスをする一群などがひっきりなしに現れた。 私はもっぱら自分たちのブースにいて、チラシをくばったり、訪れた人たちと話し合ったりしていたが、他のブースも見たくなって、五十嵐さんと交代で他を訪れることにした。 訪れた人たちは、あらゆる団体を代表しているように見えた。 AJFと長い間協力関係にある、アフリカ南部・東部の持続可能な農業をめざしているネットワーク団体のぺラム・アソシエーション(PELUM Association)の事務局長(ザンビア在住)のスーナ氏が来るとおもえば、ナイロビの最悪のスラムといわれるマザレバレーの若者グループを組織しているCBOの事務局長が来るといった按配で、共通している点といえば、皆話しをしたくてしょうがないということであった。 そういうわけで、私たちのブースはいつも人が来て溜まっていた。

WSFの参加者に対する私たちのアピール

TCSFによるアピールは、来年に予定されている第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)に、アフリカの市民社会の考えを反映させるため、アフリカ市民社会グループのネットワークをつくってほしいという希望を伝え、それを推進することであった。 1993年の第1回TICAD以来、このことはアフリカに関係している日本のNGO、とくにAJFがその創立の目的のなかで主張してきたことであった。 TICADが日本ならびにアフリカの政府関係者、国際機関、グローバル・コーリション・フォー・アフリカ(GCA。TICADの推進役となってきた欧米の要人グループ)から成り立っていたので、市民社会グループやこれを代表する立場にあるNGOをメンバーとして入れないことはおかしいと主張する役割を、TCSFが継承したわけである(前回のTICAD IIIではようやく正式にオブザーバーになれた)。 TCSFはこのため、市民版アフリカ委員会(Civic Commission for Africa)を結成するというアイデアを用意し、23日の午後5時から3時間、会場として用意された大型テントでアピールを行なうことを、前もって会場でチラシを配って宣伝し、ぜひ参加して欲しいと呼びかけた。 開始時間が遅かったこともあって、どのくらいの参加者を集められるかが多少心配であった。 この市民版アフリカ委員会はアフリカの人々の組織として造ってもらいたいので、TCSFは極力、呼びかけ人としての役割のみに徹することを理解してもらうようにした。

アピールへの参加度

この会合には、期待を上回り、50名ほどのアフリカのNGOメンバーが参加する結果となり、しかも3時間の会合中に抜ける人も少なく、電灯もない真っ暗になったテントの中で熱心に発言が交わされたことは、成功であったといってよいであろう。 最初はまだこの呼びかけの趣旨が良く理解できないといった人たちもいたが、互いに議論し合ううちに、この考えが受け入れられていくようになった。 援助の受け手に、TICADのような国際会議で発言の機会を与えるというやり方は、これまで行われることが少なかっただけに、積極的な参加を要望する意見が続出した。 ただその代表となる者あるいは団体をどうやって選ぶかということに議論が収斂してきた。 これに対し、アフリカ各国から1つの代表団体を選び、それがまた幹事団体を選ぶという案が出された。 このときの参加者には、地元のケニアの団体と隣国のタンザニアの団体がかなり多かったので、この2つのグループには、その場でそれぞれの国を代表する1団体を選べるかどうか、話し合ってもらった。 結果はこの方式でかなり話は進めそうであると感じた。 この地域代表ともいえる選び方と同時に、アクター別とでもいえる問題ごとの選び方も考えられることをこちらから説明し、例えば、女性グループ、HIV/AIDSにかかわるグループ、障害者グループ、農民グループなどで、アフリカの広域を活動対象とするアンブレラ・グループがあれば、そこからも代表を選ぶという案も出された。 こうして暗い中で熱心に話し合われたアフリカ市民社会の代表を選ぶための議論を、今後なんとか生かして、来年のTICAD IVにアフリカ市民社会の声として届けたいと思っている。

第7回WSF全体の評価

私は、WSFに参加する前には、WSFは参加者が一同に会して、アピールを採択することが主目的であると思っていたが、実際には多くの団体がそれぞれのアピールを声高に叫ぶフォーラムという性格を持ったものであった。 WSF後の現地の新聞を読んでも、「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンのもとに、主として社会正義、国際連帯、ジェンダー平等、平和、環境の保護が唱導された、という報道がなされており、60,000人を超える人々を集めたのは成功であった、と書かれていた。 しかし中には、この会議がダボスで行われていたWEFとあまり変わるところがなかったという、辛口の批評を出した新聞もあったのである

【注】
(1)以上の説明は、WSF のウェブサイトによる。


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