30年の辛苦を償うものは…

アフリカNOW No.73(2006年発行)掲載

執筆:新郷 啓子
しんごう けいこ:1982年、居住地パリで西サハラ紛争を描いたドキュメント映画を見たことがきっかけとなり、フランスの支援委員会で活動を開始。その後在パリのポリサリオ戦線代表部事務所を手伝う。1999年スペインに移り住み、以後現在に至るまでグラナダの支援委員会で活動。著書:『蜃気楼の共和国?』(1992年、現代企画室)。


今日、アフリカ最後の植民地問題となっている「西サハラ紛争」は、かつてヨーロッパ諸国が国連独立付与宣言を遵守してアフリカ植民地支配に終止符を打った時代、旧宗主国スペインが表玄関からではなく裏玄関から撤退したことが発端となり、さらにここを占領したモロッコが国際法に背き通しているために、30年以上も紛争が長期化している。
この稿ではまず30年前にスポットを当て、その後解決が遅れていく過程をひも解き、最後に30年を経ても息絶えない連帯運動を紹介していく。

1975年秋

スペインは1884年のベルリン会議で「スペイン領サハラ」の宗主国となるが、植民地としての実効的支配は一世紀近くの間、水産資源に恵まれた海岸部だけに限られ、現地住民サハラウイたちは従来通り遊牧生活を営んでいた。しかし1962年にブクラアでリン鉱石が発見され、その採掘開発が始まると労働力が必要とされ、ここでサハラウイたちの定住化現象が始まる。

1970年代に入るとサハラウイ青年層を中心に解放運動が始まり、1973年5月にポリサリオ戦線が結成、対スペイン武装解放闘争が開始された。国連は1965年以来スペインに対し西サハラ住民の民族自決権行使のための住民投票実施を求め続け、1974年ようやくスペインは有権者名簿作成を目的とした人口調査を行う。1975年5月国連の現地調査派遣団が関係諸国を歴訪し、この時の報告書でポリサリオ戦線が西サハラ住民を代表する唯一の組織として認められた。こうして1975年夏には、他のアフリカの国々が到達したように、スペイン領サハラにも独立への道が確実に保証されていた。ところがこの年の秋、数ヵ月間で事態は反転、国際正義が巧みに踏みにじられる悲劇が起きてしまう。

モロッコは1956年に独立したものの、ハッサン2世の独裁王制は決して安定しておらず、暴動や軍事クーデタ未遂が1972年まで続いていた。社会的にも経済的にも不安要素を抱えたこの王制にとって、国を統合する唯一の安全弁となったのが「サハラ失地回復」で、これは以後、国是とされていく。この「モロッコ領サハラ」説はそもそも保守系ナショナリストのイスティクラル(独立)党が唱えた説で、16ー19世紀にかけて、モロッコのスルタンが遠征した地点を線で結び合わせて「大モロッコ」の版図を作成、ここではスペイン領サハラが完全に組み入れられていた。

モロッコは、国連が推進していたスペイン領サハラ独立の過程を阻むため、1974年モーリタニアと共に国際司法裁判所(ICJ)に領有権を主張、スペインを相手どって提訴。しかしスペインがこれを拒否したため、ICJは次の二点に関して諮問見解を出すことになる。
(1)スペインが植民地化した時、この地は「主なき地」だったか。
(2)(1)で見解が否定形の場合、領土はモロッコ王国あるいはモーリタニアとの間にどのような法的関係を有していたか。

翌1975年10月16日に発表された諮問見解は、「植民地化された時、主なき地ではなかった」「当地域の氏族の中にはスルタンに忠誠を誓った氏族がいた」「しかし、当地域とモロッコあるいはモーリタニアの間には領土主権を認める関係はなかった」とし、結論として西サハラ住民の民族自決権を提唱した。

しかし国王ハッサン2世はICJ見解の内容を無視するどころか、これを歪曲して国民に演説し、一大イベント「緑の行進」へと煽動した。11月6日、モロッコ国旗とコーランを手にした35万人の行進が一斉にスペイン領サハラへ向けて歩き出す。そして国王は、世界中が注目するこの行進に約3億ドルと4日間を費やした結果、スペイン、モロッコ、モーリタニア間の「マドリッド三国協定」を成立させ、思惑通りにスペインの撤退と西サハラの分割譲与を手に入れる。モロッコ軍の西サハラ侵攻は、この時すでに開始されていた。

では住民投票を準備していたスペインが突然、国際正義を裏切り、モロッコのこのプレッシャーに屈したのはなぜか。それは1975年秋、フランコ将軍の近づく死期を前に、独裁体制終焉後の体制の地固めを行なわねばならなかったからだ。世界が冷戦下にあった当時、アメリカ合州国はスペインで左翼政権の誕生を回避させ、モロッコでは親欧米の王制の安泰を望んでいた。「緑の行進」「三国協定」のシナリオは、当時の国務長官キッシンジャーが片棒をかついでいたと言われる。フランコ政権下末期のスペイン政府は、西サハラをめぐって独立派と譲与派の二派に分かれたが、刻々と迫り寄る「緑の行進」に対し、前者が国連で合法的対処に立ち回る間に、後者がアメリカ合州国とフランスの後押しで迅速な行動に出て、国際的には非承認の「三国協定」を成立させ、モロッコとモーリタニアにそれぞれ西サハラの北半分と南半分を事実上譲与したのだ。

武装闘争の16年間

この1975年秋から今日までの31年は、大きく二つの時期に分けられる。まずは軍事的闘いが続いた1975から1991年まで、次は1991年の国連主導による停戦を迎えて現在に至る「戦争でも、平和でもない」時期である。ポリサリオ戦線にとって解放戦争の最初の3年間は、モロッコとモーリタニアの二国を相手にした武装闘争の時期であった。しかしモーリタニアにとってこの戦争は重い経済負担となり、1979に年ポリサリオ戦線と和平協定を締結し、1984年にはサハラ・アラブ民主共和国(SADR/RASD。以下、現地での呼称に即してRASD)を承認するに至る。

その後モロッコ対ポリサリオ戦線の戦闘では、両者のどちらかが武力で紛争に終止符を打つというような戦局を迎えることはなかった。裏返して言えば、兵力では優勢のモロッコが最新型の武器を導入し、レーダーや砲撃台を備えた長さ2,000km以上に及ぶ「砂の防壁」を建設しても、ポリサリオ戦線を敗北させることは不可能だったということだろう。

この16年間は軍事的攻防が繰り広げられる一方で、二つのことが時代を特徴づけている。一つはサハラウイが外交舞台で見事に駒を進めたこと、二つ目はモロッコが占領下のサハラウイを力で封じ込めモロッコ化することに全力投球していたことだ。

ポリサリオ戦線は1975年モロッコ軍が侵攻してきた時点で、西サハラ各地の住民を避難させ、アルジェリアから譲られた土地ティンドゥーフに難民キャンプを設けた。そして1976年2月スペイン軍が完全に撤退するとすぐに、RASDの建国宣言を行った。その翌日のマダガスカルによる承認に始まり、RASDは1980年代にかけてアフリカ、中南米などの非同盟諸国の承認を着々と獲得していき、1984年には当時のアフリカ統一機構(OAU)に正式メンバー国として加盟する。これを不服としたモロッコはOAUを脱退、続いて今日のアフリカ連合(AU)にも加盟していない。昨年のケニヤ、ウルグアイの承認を加え、承認国数は現在、61を数えている。

一方、前述の「砂の防壁」は西サハラ領土を被占領地と解放区とに分断し、サハラウイ住民は占領下と難民キャンプに完全に切り離されてしまう。ハッサン2世の治世は「鉛の時代」とも呼ばれる恐怖体制で、強制連行、拷問、失踪者など、国際人権団体の報告書で指摘される深刻な人権問題を抱えていた。自国内でこのような人権状況があれば、被占領地となると人権侵害に一層の拍車がかかることは想像にかたくない。

西サハラ被占領地では郵便、電話ありとあらゆる通信手段がコントロール下に置かれ、外国人の入国、自由行動もままならず、占領下状況に関する情報が海外へ流れることは非常にまれであった。こうして人権侵害の非道な手段を用いた軍の支配下において、モロッコ化が着々とで進められていった。

戦争でも、平和でもない時代

この間、国連は「当事者間直接交渉、停戦、住民投票」という解決案をモロッコとポリサリオ戦線に要請していたが、モロッコが直接交渉を拒否し続けたため、1988年に当時のデクエヤル国連事務総長自らが和平案を作成した。それは「1974年のスペイン人口調査をベースに有権者名簿を作成し、独立か併合かを問う住民投票を行う」という骨子で、国連安保理の支持を得て、直接交渉ではなく事務総長が仲介する間接交渉が始まった。こうして1991年4月の国連安保理で決議690号が採択され、西サハラ住民投票組織のための国連派遣団(MINURSO)が発足した。事務総長作成のカレンダーでは、同年9月6日に停戦、その後捕虜交換、政治犯解放、サハラウイ難民の本国帰還、投票キャンペーンなどを経て、翌1992年1月末には住民投票が実施されることになっていた。1991年9月6日、確かに停戦は実施されたが、その後雲行きが怪しくなる。モロッコは有権者として20万人が記載されたリストを提出し、デクエヤル事務総長はこれを元に有権者認定基準の枠を広げる。その後、ガリ国連事務総長の就任とともにモロッコの時間稼ぎ、妨害工作、MINURSO汚職などがまかり通り、住民投票準備に向けたプロセスは次第に暗礁に乗り上げていった。

1997年アナン新国連事務総長は就任早々この長期紛争解決に向けて意気込みを示し、停滞していたMINURSOの作業を再開させた。元アメリカ合州国国務長官のベーカーを事務総長特使に任命し、同特使はこれまで歴代事務総長が実現できなかったモロッコ・ポリサリオ戦線間の直接交渉を成立させ、同年9月のヒューストン合意にまでたどり着く。この合意に基づいて、自決権行使の住民投票組織のための有権者認定委員会の作業が再開するなど、和平プロセスの歯車は再び動きだした。そして2000年1月には有権者名簿が発表され、1974年にスペインが実施した人口調査の数字に近い80,6381人が有権者として認められた。しかしここでまたモロッコは異議を申し立て、新たに14万人のリストを提出。これに立ち往生したアナン事務総長は、「さらに14万人の認定作業を行えば2002年までの年月を要する」という理由で、ベーカー特使に他の解決案を探るよう求める。こうして国連はモロッコに再び足をすくわれてしまった。

ではどうしてモロッコは、このように国際決議を無視した態度を続けられるのか。それは他ならぬフランスの後盾があるからだ。モロッコはフランスから独立を譲与され、両国の間には特に政治、経済の分野でゆるぐことのない関係を保つシステムが確立されている。この関係はモロッコ王制の安泰の上に成立しているため、フランス政権は左派、右派を問わず、「フランスはモロッコの弁護士である」(ジョスパン前首相やドビルパン現首相の言)と標榜し、その弁護術はEU、国連で忠実に披露されている。

2003年ベーカー特使は、モロッコとポリサリオ戦線が受諾する要素を盛った折衷案を両者に差し出す。「ベーカー案」と呼ばれるこの和平案の内容を一言で要約すれば、「5年間、西サハラにモロッコ主権下の自治体制を敷き、その後国連が組織する民族自決権行使のための住民投票で独立か併合かを問う(他の選択肢も追加可能)。有権者は国連有権者認定委員会が作成したリストに記載された者のほか、1999年以来継続的に西サハラに居住する者」となる。自治期間の導入といい、1999年以来居住するモロッコ人を加えた有権者リストといい、15年前の和平案からはほど遠い内容に変貌してしまったが、ポリサリオ戦線は唯一「独立を問う住民投票」が盛り込まれているという理由で、この案を受諾。しかしモロッコはこれもまた跳ね返し、サハラウイ人民に民族自決権を認める意向はないという姿勢をさらけ出す。その後ベーカー特使は辞任し、和平への道は再び迷宮入りしてしまう。

被占領地

国連憲章の原則に従う意思のないモロッコは、フランスとスペインの後押しを得て「自治」による解決策を探っており、今夏あたりに自作の自治案を国連へ提示すると見られる。しかし昨年5月以来、被占領地で間断なく続く抗議行動を見るとき、自治案自体が現実から遊離したものでしかないことは明らかであろう。またモロッコは、欧米諸国における反テロ気運の高まりに乗じて、「西サハラがテロリストの温床となっている」と吹聴し、非植民地化問題を反テロ問題にすり替えようと試みたこともある。こうした窮余の一策は、「モロッコ領サハラ」説には歴史的根拠も国際法上の正当性もないことを自ら物語っているも同然だ。

その被占領地では、国連の約束した住民投票が15年待っても実現されず、国際社会がモロッコの非協力的姿勢に対し何ら実効的態度を取れない現状を前にして、昨年5月に住民が決起した。それ以来引きも切らず、明確な政治スローガンを掲げた平和デモや集会が組織され続けている。子どもまでも対象とした不当な弾圧、逮捕が彼らを襲い、この一年だけで2名の命が奪われたが、西サハラのインティファーダと呼ばれるこの抗議行動の火は消えるきざしすらない。

4、5年前までは被占領地の模様が国外へ流れることはまれだったが、近年インターネットと携帯電話の普及により事態が一変した。確かに現在も国外の連帯組織サイトは西サハラではアクセス不可能、インターネットカフェ新規開業は禁止、あるいは住民の携帯電話やビデオカメラが押収されるなどの妨害は絶えないが、それでも占領下の住民は現地情報を国外へ届けることに力の限りをつくしている。この深刻な人権侵害の事態を憂慮し、去年から今年にかけてスペインなどの諸外国から議員や人権専門家、市民有志で構成された十数名の視察団が現地訪問を試みた。ところが首尾よく潜り込んだ4名の聖職者グループを除いて、どのグループも入国拒否か退去命令にあうというありさまであった。一方で国連は昨年11月に人権高等弁務官の視察団派遣を決定したものの、モロッコ側の拒否が続き、やっと今年5月に実現の運びとなった。

ヨーロッパにおける連帯支援運動

ヨーロッパにおける西サハラ支援活動は、1975年暮れのモロッコ・モーリタニア軍侵攻と同時に、スペイン、フランス、スイスで生まれた。現在では各国に支援委員会がある。活動内容は政治、人権、文化の分野および物資援助などだが、とりわけスペインとフランスの場合は、政府がこの紛争の発端や長期化に深く関わっているため、政府に対する抗議と要求が活動の要となる。医療、食糧援助など人道的活動の場合、これに終始して政治的側面が後回しにされ、行政機関からの援助金などが免罪符に使われる落とし穴もある。特にスペインでは現在の社会党政府が、国連決議内容を逸脱する立場を取っているため、人道援助でこの政治姿勢をカムフラージュしようとする意図が明白にうかがわれる。

一方西サハラ解放に連帯意識を持つ人々が行っている難民援助活動については、いわゆる難民という境遇にある人々が従来の生活へ復帰できるまでの期間を物資的にサポートする活動とは異なる点に注目したい。それは難民キャンプが仮の生活地ではあっても、そこにRASDという国家機関があり、一国の社会生活が営まれているからだ。ここには将来解放された西サハラに建設される社会のひな型があり、物理的には仮であっても、彼らの歴史の中では「建設の過程」にある。したがって諸外国からの援助は、難民救済活動ではなく、将来的ヴィジョンを持つ二国間の政府あるいはNGOの協力関係に等しい。確かに難民という枠組みから様々な限界はまぬがれないが、ここでは教育、医療、農業、通信などさまざまな分野で、建設の意思を礎に諸外国からの援助活動が営まれている。

また支援活動という点では市民団体だけではなく、議員グループの活動もある。地方議会、国会レベルのグループもさることながら、活発な活動を展開する「ヨーロッパ議会の西サハラのための議員グループ」はその代表格だろう。このグループは、西サハラ問題の民族自決権による解決、被占領地での人権問題、そして被占領地の天然資源略奪問題を欧州議会に提議し、サハラウイの正当な権利の擁護を要求している。

EUはモロッコと漁業協定を締結しているが、アメリカがモロッコとの自由貿易協定で西サハラを含まないと明記しているのとは反対に、EUの漁業協定は現在までのところ操業海域に西サハラ海域を含み続けている。しかし、2002年1月29日に国連の法務顧問ハンス・コーレルが見解を発表したように、国連はモロッコに対し西サハラ領土・領海の行政権限を認めておらず、西サハラ資源に関しモロッコと契約することは国際法上は違反となる。こうした中で特筆に値するのは、モロッコとの契約下で西サハラ油田の探査を行っていた世界石油企業が、昨年以来、次々と契約更新を中止したことだ。これはノルウェーの連帯委員会とポリサリオ戦線が地道に、しかし徹底した調査力で企業を追及し獲得した成果だ。

結び

西サハラ紛争は、紛争の当事国間が合意に至らず長引いている国境紛争ではない。歴史的根拠も国際法上の正当性も欠如しているモロッコの領土主張に対し、正当な権利を求めるサハラウイの民族自決の闘いだ。そもそも西サハラがモロッコ領土であるなら、1975年のマドリッド協定でどうして第三国(モーリタニア)と分割したりできるだろうか。当初モロッコの後盾となった大国は、軍事力で短期間内に決着がつくと予測していただろうが、こうして30年を経てもなおモロッコは西サハラを併合できずにいる。それどころか自治案による解決法を探るということは、単純な完全併合が不可能であることを認めたものだろう。

一方サハラウイは、約束した住民投票を実行できない国際社会に対し失望を抱きながらも、30年経った今日も彼らは難民キャンプに、被占領地に存在し闘い続けている。これはもはや歴然とした事実であり、そこには彼らの大義を支援し連帯する国々や人々がいることも否定できない。

国連高等難民弁務官は2年前から家族相互訪問プログラムを軌道に乗せ、被占領地と難民キャンプ間にチャーター機を運行し、離れ離れとなっていた家族は30年ぶりの再会を実現している。難民キャンプからチャーター機で故郷エル・アイウンを訪れたあるサハラウイは、モロッコ当局から「金を渡すから現地にとどまるように」という話を持ち込まれた。彼はこう答えたそうだ。

「30年の辛苦を償えるのは、金ではない。唯一この地にサハラ・アラブ民主共和国の国旗が翻るのを見る時だ」。


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