建国30周年を迎えたサハラウイの現状

国際関係史的意味と日本の関与を考える

アフリカNOW No.73(2006年発行)掲載

執筆:高林 敏之
たかばやし としゆき:1967年生まれ。青山学院大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程を単位取得満期退学(文学修士)。アフリカ協会職員、四国学院大学社会学部教員を歴任し、現在西サハラ問題研究室を主宰。日本サハラウイ協会会員。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員。アフリカ国際関係史、西サハラ問題を専攻。共著に『国家を超える視角-次世代の平和』[法律文化社]、『ハンドブック現代アフリカ』[明石書店]など。


30周年のもつ意味

2006年2月27日は、「アフリカ54ヵ国」のひとつである旧スペイン植民地・西サハラの亡命政府、サハラ・アラブ民主共和国(SADR/RASD。以下、現地での呼称に即してRASD)の建国が1976年に宣言されてから、ちょうど満30周年にあたる。筆者はこの30周年記念式典に参加すべく日本サハラウイ協会、日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会などの市民有志によって組織された代表団の一員として、2月25日から3月4日にかけてアルジェリア領内のサハラウイ(西サハラ人民)難民キャンプおよび西サハラ解放区を訪問した。

これに先立つ昨年11月、モロッコ国王ムハマッド6世が国賓として来日した。この月は、モロッコが国連総会での一連の西サハラ自決支持決議や、モロッコ(およびモーリタニア)の西サハラ領有権主張をしりぞける国際司法裁判所(ICJ)の勧告意見(1975年10月)を無視して西サハラを軍事占領した1975年11月から、ちょうど30年目を画する月であった。モロッコはこの時、35万人にも及ぶ民間人と兵力を動員した「緑の行進」と称される越境侵攻作戦を強行して、独裁者フランコの死没を目前に動揺するスペインに圧力をかけ、モロッコ、モーリタニア両国への西サハラ分割譲渡を取り決める「マドリッド協定」をのませた(モーリタニアは1979年8月に解放運動組織ポリサリオ戦線と講和し撤退)。日本政府はこの西サハラ侵略から満30年を期する時に、侵略政策の最高責任者を国賓という最高級の礼遇をもって迎えたのである。2005年5月以降、被占領地域の各地で「インティファーダ」と称されるサハラウイ市民の非暴力抗議行動が継続し、モロッコ治安当局による熾烈な弾圧が繰り返されている状況にあって、日本政府の行動はサハラウイへの敵対、モロッコの併合政策支持の実質的表明という重大な意味を持つものといえよう。

したがって、RASDの建国30周年に日本市民代表団が訪問することは、サハラウイの自決権に対する日本政府の敵対姿勢に抗し、自由を求めるサハラウイと市民レベルで連帯する決意を示すという意味を持つものであった。

占領と分断の西サハラ

西サハラの国土は「砂の壁:Berm」(p.2の地図を参照)と通称される軍事防壁によって、海側約3分の2のモロッコ占領地域と、内陸側約3分の1のRASD実効支配地域(解放区)に分断されている。したがって、RASDの現状は約18万人の人口を擁する難民キャンプと、ポリサリオ戦線兵士および少数の遊牧民が居住する解放区から構成される、事実上の亡命国家である。

「砂の壁」は1980年に着工され、フランスやイスラエルなどの軍事的・技術的支援を得て1987年に完成した。2-3mの高さに土砂を積み上げ、レーダー施設を有する屯所や地雷原と鉄条網で固めたこの一大軍事建造物は、総延長約2,000kmにも及び(日本列島の南北の長さに匹敵する)、万里の長城以外に宇宙から確認できる唯一の人工建造物であると言われている。ポリサリオのゲリラ活動排除と主要資源の確保を目的として造られた「砂の壁」の内側には、サハラウイ市民約6万5千人を凌駕する約20万人のモロッコ人入植者および約12万人のモロッコ兵が送り込まれ、併合の既成事実化工作が推進されている。

西サハラの状況は、日本でより知られている他の紛争事例とさまざまな類似性をもっている。西サハラと同じ1975年に隣国インドネシアに占領され2002年に独立を回復した旧ポルトガル植民地・東ティモールの事例は、その植民地宗主国におけるファシスト体制の解体に伴う脱植民地化の実現を、隣国に阻止され侵略・同化政策の犠牲とされた点で、西サハラ問題と同質の問題である。インドネシアもモロッコも非同盟運動の創立メンバーであるという点で、ふたつの紛争は「民族自決」を中心的理念に掲げる非同盟運動の実効性を問う問題でもあった。また軍事占領と分離壁による分断や大規模入植の推進という点では、パレスチナやキプロスの事例とも比肩しうる。パレスチナ占領地域に分離壁を建設するイスラエルが「砂の壁」の考案者であることと、モロッコがイスラエルとの和平に積極的な「アラブ穏健派」であったことは、ふたつの占領体制の密接な関連性を示している。分断と外国軍の存在という点のみとれば、ある程度、朝鮮半島の例にも通じるものがある。何より、インドネシア、イスラエル、トルコ(北部キプロスの占領国)さらに韓国が、アメリカ合州国を中心とする反共軍事同盟の橋頭堡として重視されていた点も、西サハラの占領国モロッコと共通する。西サハラは、欧米大国の政治・軍事戦略と民族自決運動の角逐の焦点なのである。

アフリカの一部としてのRASD

RASDを主権国家として承認する国がアフリカおよび中南米を中心に、最多の段階で74ヵ国に達したのも(ちなみに台湾の承認国は25ヵ国程度)、西サハラの問題を民族自決・脱植民地化の課題とみなす認識が、いわゆる第三世界において広く共有されていたことを物語っている。とりわけ1984年(憲章手続き上は1982年)以来、RASDがアフリカ統一機構(OAU)-現在のアフリカ連合(AU)-の正式加盟国として認められ、モロッコが脱退を余儀なくされたまま今日に至っているという事実(よって、「AU加盟53ヵ国」は一般的に言われる「アフリカ53ヵ国」と同一ではない)は、アフリカ諸国がサハラウイの自決問題をアフリカ国際秩序の根幹にかかわる問題であると理解していることを示している。

解放区のティファリティで開催されたRASD建国30周年記念式典には、アフリカ諸国から最大の支援国であるアルジェリアの閣僚2名をはじめ、南アフリカ、ナイジェリア、アンゴラ、タンザニア、かつての占領国モーリタニアの大使や、2005年にRASDを承認したばかりのケニアの政府代表らが参列していた。なかでも南アフリカ、ナイジェリア、アルジェリアの参列は、AU予算の約75%を分担する4ヵ国のうちエジプトを除く3ヵ国、「アフリカ開発のための新パートナーシップ」(NEPAD)原提唱国5ヵ国のうちエジプトとセネガルを除く3ヵ国という枢要国のRASD支持を示す点で重要な意味をもつ。コナレAU委員長も、フランス語圏諸国をはじめ親モロッコ派の国々がAU内部に存在し決して一枚岩ではないという難しい状況の中で、非政治的分野を担当するとはいえ閣僚に相当する格式を持つベルナール・ゾバ委員(インフラ・エネルギー担当。式典直前の1月のAU首脳会議で新議長に選ばれたサスー=ンゲソ大統領と同じくコンゴ共和国出身)を派遣し、RASDへの厚い配慮を示した。

脱植民地化後のアフリカ諸国は、国家単位の見直しに伴う対立と混乱を回避するため、植民地時代に画定された人為的な国境線の維持を安全保障の大原則とした。したがって、モロッコの武力による西サハラ侵略は、脱植民地化プロセスの妨害にとどまらず、アフリカの国際秩序に真っ向から挑戦するものであった。当時のOAUが1978年に、モロッコ統合か独立かを住民投票によってサハラウイ自身に選択させるという解決案を示し活発な調停努力を行ったのも、かりにモロッコと統合するにしても西サハラという植民地単位での自決プロセスが必要だというアフリカのコンセンサスを示すものであった。RASDのOAU加盟承認とモロッコの事実上の追放は、モロッコが住民投票を単なる併合の意思確認作業としてしか認めないという立場に固執したことの、当然の帰結であった。

冷戦終結後のアフリカは、これまでのアフリカ国際秩序の矛盾を克服し再建への足がかりをつかむべく、既存の国家を基礎としながらも、民主主義と集団安全保障の強化に基づく、より強化された地域協力・統合を追求する方向に進んでいる。OAUのAUへの改組はこの方向性を体現するものであるが、RASDはAUの一員として、積極的に統合努力に参加している。かつてRASDはマグレブ(北西アフリカ)統合の目標を憲法中で明記していたが、AU創立時にも設置法(憲章)やパン・アフリカン議会議定書を迅速に批准し、アフリカ統合への積極姿勢を示した。サハラウイは単独独立の限界を承知しており、自決と対等なパートナーシップを基礎とした地域統合には従来から前向きなのである。

確かに、人為的な植民地境界線によりアフリカを細分化してきた従来の国際秩序は限りない矛盾をはらんでおり、再編は必至であった。しかしそのことは、ひとつの人民の自由を求める権利を暴力によって踏みにじることを何ら正当化するものではない。力づくで国境の壁を押し破ったモロッコの行為は、結果として不信と対立の「壁」を生み出し、地雷に固められた物理的な「砂の壁」さえ生み出した。古来よりアフリカを世界と結ぶ動脈であったサハラに打ち立てられたこの「壁」こそが、北西アフリカ最大の不安定要因として地域統合の正常な推進を阻害しているのである。モロッコがサハラウイの自決権を承認し、RASDとモロッコが対等なパートナーとしてAUに参加してこそ(むろん、公正な住民投票の結果としてモロッコとの統合が選択されるなら、それは歓迎されるべきである)、このアフリカ最長の紛争に終止符が打たれ、平和・信頼・共存に基づく実りあるアフリカ地域統合、アフリカにおける民主主義の定着に前進をもたらすであろう。モロッコがAUの枠内でのパートナーシップではなく、西サハラの独占的併合に固執し、そのためにAUの統合努力に参加できないでいることは、アフリカ全体にとっての不幸であると言うほかない。

西サハラをとりまく国際情勢

国連では西サハラを総会非植民地化委員会の「非自治地域」(Non-self-governing Territory)リストに登録している。RASDを国家として認める多数意思は形成されていないにせよ、モロッコの武力併合を是認はしないということである。国連総会でも独立の権利を含めた西サハラの自決権を支持する決議が、1978年以後一貫して採択されてきた。

1990年に国連安全保障理事会で、住民投票による西サハラ帰属問題の解決をめざす「解決計画」(スペイン時代最後の1974年人口調査リストに登録された約7万4千人を主とした有権者による、独立かモロッコ併合かを選択する住民投票実施計画)がポリサリオ戦線とモロッコの合意を得て採択されて以降、西サハラには国連西サハラ住民投票派遣団(MINURSO)が展開し、国連事務総長と安保理を中心として住民投票実現のための仲介努力が継続されてきた。しかし、有権者の大幅拡大を要求しプロセスを妨害するモロッコの姿勢により住民投票は停戦から15年を経ても実現せず、国連和平プロセスは崩壊の危機に瀕している。2001年には長い苦難の末にようやく86,381名の有権者を認定したMINURSO有権者認定委員会の努力を無にするかのように、アナン事務総長がモロッコ主権下の自治を経た住民投票を提案する「枠組合意」案を打ち出し、この骨子を踏襲する形で2003年にベーカー国連事務総長特使(元アメリカ合州国国務長官)が、4-5年の自治期間を経て、入植者も帰還難民も包括した住民投票を実施するという「西サハラ人民の自決のための和平プラン」を提案する。解決計画を棚上げし、限定的とはいえモロッコ支配下での自治を許容するというパレスチナ型解決案をポリサリオ戦線はあえて受諾し、その結果、「和平プラン」は安保理決議として採択される。しかし、モロッコは自治のみが唯一の解決策であり、独立の選択を含む住民投票は受け入れられないとして「和平プラン」の全面拒否を宣言し、独立を選択する権利という自決権の根本すら否定する姿勢を鮮明にするに至った。

このような中で、1996年以降のモロッコ、フランスなどの外交攻勢により漸減傾向にあったRASDへの承認は、「自治」提案が公式化して以後の2002年から再び増加傾向に転じた。特に2004年の南アフリカと2005年のケニアによる承認は、モロッコに大きな衝撃を与えた。ムベキ南アフリカ大統領が2004年8月にムハマッド6世に宛てたRASD承認を予告する書簡の中で、モロッコが自治に固執し民族自決の根本原則を否定したことを厳しく批判していることにも表れているように、2002年以後の承認増加傾向は、独立の選択をあくまで認めようとしないモロッコの頑迷な姿勢に対するフラストレーションを反映している。

国連和平プロセスが遅々として進展しないばかりか、歴代事務総長によって本来の解決計画がなし崩し的に骨抜きにされることを許したのは、国連安保理とりわけ常任理事国の政治姿勢に大きな責任がある。冷戦期にはモロッコ一辺倒の姿勢をとっていたアメリカ合州国は、冷戦終焉後は「イスラーム原理主義」拡大阻止、「テロとの戦い」の観点から北アフリカの安定を志向し、ブッシュ現政権初期の一時期を除きおおむね中立的立場へシフトしている。ただし、パレスチナ的な「自治」案の提唱者がアメリカ合州国の元国務長官であったという事実が示す通り、アメリカ合州国の政策はあくまで自国の国益と戦略的観点に基づくもので、民族自決権に共感するものでないことは言うまでもない。中国、ロシアは西サハラ問題に傍観者的姿勢を取り続けている。大国のかかる曖昧な態度ゆえに、脱植民地化以後もアフリカにおけるフランス勢力圏の「憲兵」としてモロッコを重視し、一貫してモロッコ支持の立場をとるフランスの意向が大きな影響力を持ち、国連安保理はモロッコが住民投票を事実上拒否し占領地域における人権侵害を重ねても、モロッコに対する制裁措置ひとつ発動できないでいる。

日本政府の西サハラ問題に対する姿勢

国連加盟国最多の安保理当選回数(9回)を自ら誇り、しかも1991年の停戦発効後、3度も理事国の座に就いている(1992-93年、1997-98年、2005-2006年)日本もまた、西サハラ和平プロセスの遅滞に、常任理事国5ヵ国に次ぐ責任を負っている。ただでさえ北西アフリカ地域のリン鉱石やタコの大輸入国である上、新設された人権理事会および平和構築委員会組織委員会のメンバーに選出されたことで、日本の責任はますます重いものとなった。しかるに日本政府は、当事者間の話し合いによる早期の平和的解決への「希望」と国連事務総長の仲介努力に対する「支持」を表明するのみという傍観者的姿勢に終始している。これが安保理常任理事国入りを渇望する国の、責任ある態度と言えるであろうか。

日本の態度を単なる消極的中立と評することはできない。日本は国連総会での西サハラ自決支持決議に対して、西サハラ人民の「独立」の権利という語が挿入され、紛争当事者としてポリサリオ戦線の名が明記された1978年以降、一貫して棄権を続けている。また日本は、緯度の南限を明記しないことで西サハラ水域の取り扱いを曖昧にしたまま、モロッコとの漁業協定を更新し続けている。同協定での操業水域に関する1986年の参議院での質問に対しての「モロッコ王国政府が自国の関係法令に従って、日本国の漁船に対し同水域において漁獲を行うことを許可する旨規定している」という政府答弁は、モロッコの法で「サハラ諸県」と呼ばれる西サハラ沖合での操業を事実上認めたに等しいものである。また日本政府は、アフリカ開発会議(TICAD)プロセスからRASDを排除し、一切の対話を拒否し続けている。しかし、AU加盟国であるRASDを日本が承認していないから排除するというのは、AUとの対話および「アフリカのオーナーシップ」尊重というTICADの謳い文句にまったく背反する。日本政府は、国家承認していない朝鮮民主主義人民共和国とも6カ国協議やASEAN地域フォーラムという多国間枠組を通じて協議し、今や2国間交渉さえ行っている。ならば、TICADという多国間枠組、あるいは国際機関であるAUを介してRASDと協議することは充分可能なはずである。仮に国家としてのRASDと対話できないとしても、国連が認める紛争当事者ポリサリオ戦線との対話が不可能なはずはない。日本がTICADの重点課題として「平和の定着」を掲げるなら、今やアフリカ最長の紛争課題である西サハラ紛争について、TICADの枠組を活用し積極的な仲介努力を行うべきである。

要するに、日本政府の西サハラ問題に関する姿勢は、一見消極的中立を装いつつも、そのアフリカ外交の歴史に一貫してきた民族自決権・民族解放運動への否定的姿勢と軌を一にするものである。それは外務省ホームページの「モロッコ王国基礎データ」の中で、モロッコ内政の「最大の懸案は西サハラ帰属問題」であり、「最大の外交課題は、西サハラの領有権につき国際的承認を得ることである」(傍点は筆者)という、モロッコの西サハラ領有を前提とした認識が示されていることからも明らかである。同ホームページの「モロッコ概況」の説明に至っては、「占有」という植民地主義時代の国際法さながらの用語を繰り返し、西サハラの自決権を認めモロッコの領有権を否定した国際司法裁判所(ICJ)の勧告意見や国連総会決議にいっさい触れず、「欧米諸国を含む多数の国が未承認」であることを強調し、アフリカ・中南米諸国のRASD承認を軽んじる姿勢を明確に示している。極めつけは、「その後、モーリタニアは西サハラの占有を放棄し、モーリタニア領西サハラは、モロッコの占有の下に組み入れられた」という記述である。かつてのモーリタニアの「占有」地域を「モーリタニア領」と言い切る論理は、当然モロッコの「占有」する地域を「モロッコ領」とみなすことに直結する。昨年のムハマッド6世訪日時に発表された共同声明は、中東・北アフリカ地域における改革に言及した第6項に、国王の宮中晩餐会スピーチでの「モロッコ領サハラ」に関する表現をそっくり転用して、「国家の統一及び領土の一体性の枠内において各国が自由に固有の民主的、政治的及び社会文化的制度を発展させる主権的権利」を確認する旨の文言を盛り込んだ。この文言は「モロッコ概況」に示された認識を前提として読まれなければならない。侵略30周年の国王招聘でこのような声明が出されたことの、反サハラウイ的意味はきわめて深刻である。日本政府の国際法認識は自決権よりも「占有」を重視する、植民地主義時代の思考様式をいまだに引きずっているのである。

サハラウイそしてRASDはこのような日本政府の姿勢をAU加盟国としてじっと注視している。アブダッラー駐タンザニアRASD大使は私たちとの会見で、日本の安保理常任理事国入り問題に触れ、「その国が他国の権利を尊重しなければ、その国の権利も尊重されないであろう。総会・安保理・非植民地化委員会・人権委員会などでの国連多数派の決議を尊重しなければ支持は得られない」と述べた。昨年、日本はAU独自の国連改革案に関するコンセンサスを軽視したために、「安保理改革」をめぐるAUとの決議案一本化に失敗した。RASDは国連加盟国ではないが、AUの一員としてアフリカのコンセンサス起草に直接関与していることを、日本政府は忘れるべきではない。

30年もの難民生活の中で、サハラウイは数々の苦難に直面し、援助依存を減らす試みの中でキャンプには貨幣経済も徐々に入り込み、格差のきざしも見え始めていた。しかし、サハラウイたちは決して希望を失わず、教育や医療活動、またインターネットを活用して被占領地域のサハラウイ市民と連携した人権運動に、諸外国の政府や地方自治体・民間人の支援を受けながら懸命に取り組んでいる。暴力によってそうした民衆の想いを圧殺することはできない。かつて隣国の占領下にあったナミビア、エリトリア、東ティモールは今やすべて独立し国際社会の一員となった。暴力による占領は決して永続しないという歴史の教訓を、モロッコも日本も肝に銘じるべきであろう。


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