サハラウイ・沙漠の青い薔薇

サハラ・アラブ民主共和国建国30周年記念式典に参加して

アフリカNOW No.73(2006年発行)掲載

執筆:山崎 孝子
やまざき たかこ:子どもに関する職業を約10年間経験。西サハラ問題を知ったことがきっかけで、中近東諸国に関心を持つ。難民キャンプには3度訪問、被占領地も1度訪問した。陶芸では半プロを自称。日本・サハラウイ協会会員


ユートピアで

 

今年2月27日、暑くもなく寒くもない晴れ渡った空の下、サハラウイの国・解放区(モロッコが占領を放棄した地域)のティファリティで、サハラ・アラブ民主共和国(SADR/RASD。以下、現地での呼称に即してRASD)独立宣言の日から30周年を迎える記念式典が行なわれた。この式典に、日本の代表団4名の内の一人として、国会議員や支援団体のメッセージを携えて参加した。

式典には、アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカから、多くの要人や支援者が駆けつけた。特に、EU諸国やラテンアメリカからの参加者には、長年一市民の立場からサハラウイを支えてきた人々が多かった。式典を目前にして難民キャンプが大洪水に襲われたため、ヨーロッパからの参加者が大幅に減らされたと聞いたが、それでも式典に先駆けて、難民キャンプでは国際支援会議が開催され、支援者が参加したサハラ・マラソンも行なわれた。また、ティファリティでは連日コンサートや写真展なども開催されて、沙漠の中とは思えない、国際色あふれた式典となった。

われわれは日程の都合で会議には参加できなかったが、サハラウイ側の評価は高かった。式典では、長年ヨーロッパで孤軍奮闘された新郷啓子さんにひな壇の席が用意され、式典後には4人と首相との会見が設定されていた。会見はわずか15分ほどだったが、日本からの参加で参加国の幅が広がった、と感謝の言葉があった。

この一連の催しが、独立を祝う祭典でなかったことが何とも悔しいが、サハラウイと支援者が一丸となってここまできたことの喜びを分かち合い、決して平坦とは言えない住民投票実施までの道のりを、共に歩むことを誓う場となった。筆者には、自然体でサハラウイを応援する支援者たちと出会え、これからの活動のはずみになる式典参加だった。この時季、解放区には可憐な花が咲き乱れていた。雨季には一面に花が咲いて沙漠がユートピアに変わる、と目を輝かせて話すサハラウイに会ったことがある。式典ははからずもそのユートピアでの開催となった。

難民の優等生

サハラウイの難民キャンプは、アルジェリアの首都アルジェから南に飛行機で約2時間半、モロッコとの国境をにらむ軍事都市ティンドゥーフ近郊にある。空港から車で20分ほどの場所にラブニと呼ばれる政府機関と外国人支援者のための宿泊施設があり、そこから東へ約140kmの間に、占領されている祖国の町の名前を冠したキャンプが4つ設けられている。キャンプを分けたのは、モロッコによる空爆と感染症の蔓延によるサハラウイの全滅を避けるためだと聞いた。

雨が降れば解放区には花が咲くが、被害が出るほどの洪水に見舞われても、キャンプのある辺りには緑は皆無だ。月面にたとえられるような荒涼とした地で、約18万人が30年間の難民生活を送っている。

難民の生活はすべてが援助で成り立っていて、飢えはしないが、それ以上の生活はない。コメが届けばコメを食し、スパゲティが届けばスパゲティを食するという生活だ。子供の教育や保健医療には熱心でも、中・高等教育や高度な医療は外国に頼らざるをえない。国づくりの根幹をすべて援助に頼らざるをえないのは、難民の最大の弱みである。1991年の停戦発効直後から計画されていたティファリティでの首都建設もまったく進んでいない。1992年の8月、モロッコに建設中の建物を空爆されたことが悪しき教訓となり、町の建設も人の移住も中断したままだ。RASDが国であるために必要な固有の領土を手中にしながら、モロッコの軍事的脅威で、国家の建設に手が付けられないでいる。

また、貨幣経済の浸透も、キャンプ生活に大きな変化をもたらしつつある。1998年の訪問時、ポケットの中のお金をちらつかせて、「アメを持っていたら売ってくれない」と言う子どもに出会った。ある家族のテントにはテレビがあった。余裕のある家族はヤギを飼い、ラブニに売って現金収入を得ていた。外国で職を得た身内から送金があったり、スペイン統治時代に公務員だった身内がいて、年金が支給される家族が現われた。今はラブニの一角に店舗が並ぶ。これも自然の成り行きだが、難民の生活に格差が生じるのは好ましくない。

こうした外部と遮断された劣悪な生活環境の中でも、難民キャンプは整然と運営されていて、映像で見慣れた、飢えて疲れ果てた人びとのイメージはない。サハラウイが難民の優等生だと言われる所以である。それは、祖国帰還という明確な目標があるに他ならない。

難民キャンプに通信支援を

今回の訪問で改めて感じたのは、EU諸国の支援規模の大きさである。彼らは、船一艘丸ごと、航空機一機丸ごとの支援物資を積んでキャンプにやって来る。国民病院の外科医はすべて外国人のボランティアだが、年間を通して途切れたことはない。1ヵ月間の休暇をキャンプでボランティアをして過ごす人も多い。日本のNGOにはとても真似のできないことである。

日本の外務省は、昨年を「アフリカ年」と銘打って、アフリカのODAを3年間で2倍にすると表明した。しかし、国益第一で選ばれる二国間支援対象国に、未承認国のRASDは含まれない。RASD支援は「政治的」だからだそうだ。公的資金が得られなければ、ほとんど知られていない難民への支援は困難なのが日本のNGOの国際協力の現実だ。しかし、そうした事情を知らないサハラウイが日本に寄せる期待は大きい。期待が大きいのは物的支援に限らないが、物の支援要請にも応えたいのが心情だ。

サハラウイから支援の要請がひとつ届いている。それは、日本の安くて質の良い通信機材を用いた、病院間をつなぐ医療無線網の建設である。1998年に一度要請を受け、日本・サハラウイ協会として、わずかばかりの機材を寄贈していた。しかしその後も、キャンプや解放区の通信事情はまったく改善されていなかった。難民にはまず衣食住ということで、他の国からの支援でも、通信にまでは手が回らないようだ。先進国では通信のありがた味は忘れられがちだが、乳幼児の死亡率を引き下げ、感染症の予防・対策にも不可欠なインフラだ。

今回の訪問で偶然知り合ったスペインのNGOが、毎年少しずつ無線機材を調達して、地道な支援を行なっていた。その結果、ラブニから50km範囲内にあるスマラ・キャンプまでをつなぐ、無線通信網の建設に漕ぎ着けた。しかし、ラブニにある国民病院と解放区に点在する遊牧生活をするサハラウイの通う病院とを結ぶ通信網がない。その建設をどこが担当するのかが課題となっていた。

そこに昨年、日本から(筆者がした)支援物資の問い合わせが届いたというわけだ。そこで、日本への期待が一気に高まった。式典に日本から代表団が来ると知ったキャンプでは、「無線機が来るぞ」と沸き立ったという。そんな現地の熱い眼差しなど露知らず、無線機材を持たずに行ったものだから、期待を大きく裏切ってしまった。皆様の力も借りて、ぜひとも実現させたい支援である。EU諸国の支援者は、入れ替わり立ち代わり途切れることなくキャンプに来て、継続した支援を行なっている。経済力をつけたアジアに、そうした協力体制ができるのはいつのことか。

アフリカ年は西サハラから

2006年1月1日現在の統計では、世界の難民数は前年と比較して100万人も減少したという。中でも、アフガニスタン難民の帰還が進み、20年以上の難民生活をしいられている難民数の減少が著しい。だとすれば、パレスチナ人以外では、サハラウイは世界で最も長い難民生活をしいられていることになる。緒方貞子元難民高等弁務官(UNHCR)の言葉を借りれば、人間が生きる上で一番大切な「人生という与えられた時間の中で、自分を充分に活かして生きていくこと」が最も困難な人たちだ。それなのにUNHCRの資料にもサハラウイについての記述はない。「私たちはただサハラで遊牧生活を送っていただけなのに、なぜこのような目に会わなければならないのか」というサハラウイの問いは、30年もこの問題を解決できないでいる国際社会に向けられたものである。

われわれと面会した首相は「大国日本の国連安保理常任理事国入りに反対する国はないだろう。それは日本の経済力と経験を生かして、途上国に独自の姿勢をとることを期待してのことだ」と語った。これ対する日本政府の回答は、「西サハラ支援は政治的」だけなのか。青い服をまとった誇り高き沙漠の民を、ヨーロッパ人は「青い種族」と呼んだ。サハラウイは沙漠の青い薔薇、ユートピアに咲き誇る青い薔薇を早くみたいものだ。そのためには、日本でも支援の輪を広げる努力をしなければならない。


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