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リーダー没後の空白と時代の節目に

追悼:ムジ・ンコシさん

南アフリカ・ソウェトの障害者運動

In memory of Muzi Nkosi,his spirit is still alive among persons with disabilities

 

『アフリカNOW』112号(2017年3月31日発行)掲載

執筆:宮本泰輔
みやもと たいすけ:福岡生まれ、神戸育ち。1990年代はじめ、大学時代に地域で暮らす重度障害者の介助に入ったのをきっかけに、障害者運動の事務方をずっと務めてきた。2010年にタイに移り、海外生活をはじめる。2013年から南アフリカ・ヨハネスブルグ郊外に住み、地域の障害者を対象とした自立生活のためのプロジェクトに携わる。


はじめに

南アフリカの障害者運動を創ったフライデー・マブソ(Friday Mavuso)の一番弟子と言われたムジ・ンコシ (Muzi Michael Patrick Nkosi) が亡くなって早くも10ヵ月近くが経った(編集部注:この原稿は2018年12月に執筆された)。

亡くなって早々にAJF の原稿依頼を受けていたが、いざ彼の足跡を振り返ろうとすると、5年も一緒に働いたのに存外何も知らないことに気付かされた。昔の彼を知る人にインタビューしようかと思ったが、亡くなってしばらくの間は、いろんな「ボス」たちの間で、特に国際協力機構(JICA)のお金(そんなものはないのだが)を巡って憶測が多々流されていて、日本人である筆者が誰かに会いに行った、というだけで何を言われるかわからない空気に満ちていたこともあった。それをいい言い訳に執筆をズルズルと遅らせてしまい申し訳なく思う。

筆者と彼との接点は、主にJICA 草の根技術協力事業のカウンターパートであるソウェト自立生活センター(ソウェトILC)のマネージャーとしてである。時に応じて、南アフリカ障害同盟(SADA)や南アフリカDPI(DPSA)の前議長として、あるいはDPI(Disabled Peoples’ International)世界評議員としての彼とも接することがあった。他の肩書を並べるとあまりに多く、ズマ大統領(当時)が立ち上げた障害者委員会、失業保険基金(UIF)、南アフリカ独立通信庁(ICASA)など政府関係の委員も務め、SADA もDPSAの議長も最後は降りていたが、まさに「Nothing about us, without us(私たち抜きに私たちのことを決めないで)」を体現する、障害者運動を代表する顔であった。

本稿は、彼の生涯を振り返るとともに、彼の急逝がもたらした空白を語ることで彼の存在の大きさと南アフリカの障害者施策が向かっている方向についても考えたい。なお、本稿はムジから生前にもらった資料や妻であるシボンギレ・ンコシさん (Mrs. Sibongile Nkosi) へのインタビューを交えて構成しているが、誤りなどの文責はすべて筆者に帰属する。

ムジ・ンコシさん

ムジは1962年に南アフリカのヨハンスブルグ市ソウェトに生まれた。そしてソウェトに育った。10人きょうだいが1 つの寝室を共有する生活だった。母親がスプーンに入れた砂糖を熱して、茶色になったものを水に溶き、レモンティーだよと言って飲ませてくれた話を若い障害者によくしていたが、貧しい生活だった。しかし、そうした中にあって、親は子どもたちをカトリック教会の学校に通わせていた。

1981年、19歳のときに銃に撃たれて頸髄を損傷した。2年の入院生活を経たのち、自宅で寝たきりの生活を送っていた。母親は家政婦の職をやめ、ムジの面倒を見た。大家族みんなが稼ぎを持ち寄る生活の中で、一人自宅で寝たまま、家族の足を引っ張っているのに辛さを感じた時期であった。

そんな折、近所にいた視覚障害者から下肢麻痺者自助協会(SHAP)のことを聞かされる。SHAP は障害当事者たちが作った就労の場であり、障害者運動の発祥の地でもある。ムジはそこのリーダーだったフライデー・マブソたちの家庭訪問を受けた。SHAP はムジのために毎日車で迎えに来てくれた。自立生活センター(ILC)という名の団体が当時すでにヨハネスブルグの中心にあり、ムジはそこに通った。

そのころの福祉団体の年鑑を見ると、当時のILC では脊髄損傷者のためのサポートグループと、アルツハイマー病の患者の家族のためのサポートグループの2つの活動が行われていた。ムジもそうした活動に参加し、障害をもつ仲間を増やしていた。ムジによれば、今のソウェトILC で行っている、ピア・カウンセリング手法を用いた心理的なエンパワメントを目的とするサポートグループというより、褥瘡ケアや排泄管理などの専門家を呼んで勉強し、当事者の経験を持ち寄るという集まりだったらしい。その中で、ムジは多くの刺激を同じ障害をもつ仲間たちから得ていった。

ソウェトから来る黒人がサポートグループの中で最も多かったということもあり、ソウェトにILC を作ろうという動きがあった。やがてSHAP のある敷地(当時の政府から形式的に低額で貸与された土地である)の一角に、ソウェトILC が誕生した。長い間ILC の支部として位置付けられていたが、2016年に独自の法人格を取得した。これが現在、筆者が関与する事業のパートナーである。

ムジはその後、ウィットウォータース大学へ進学。1989年に教育学を修めた。在学中から、本格的に障害当事者運動に身を投じることになる。

1986年から1998年まで、DPSA で権利擁護とパラリーガル・アドバイザー(編集部注:パラリーガルは弁護士の監督のもとで弁護士の業務を補助する職業)として、法律家協会などとともに、アパルトヘイト末期から終焉にかけての南アフリカの障害者運動が発する、力強い当事者の声を文書にしていった。特に、「南アフリカ障害者権利憲章」(1993)は自己決定と自立生活について言及した、途上国にあって極めて先進的な内容の文書で、ムジにとっても「原点」になった。この文書は後に、ポスト・アパルトヘイトの障害政策の基礎となる「障害統合戦略白書」(1997)へとつながっていくことになる。若い障害者たちに、ムジはよく「この障害者権利憲章をまず読め」と繰り返していた。南アフリカの障害政策の歴史は、当事者運動から始まったのだという彼の自負を感じさせるエピソードである。

1999年から4年間、南アフリカ・ハウテン州知事室で女性・障害者・子ども・高齢者の主流化を担当する副課長として、政策のモニタリングや調整を行った。行政での仕事は、ムジの拠って立つところだった運動理念と、アパルトヘイト後の行政の実態との板挟みの中で、身体的にも精神的にも苦しかったと、当時を振り返って筆者に何度も語っていた。行政にいながら、行政への抗議デモなどに関わり疎まれたという話も聞いた。

退職後はそうした行政経験、運動経験を活かし、障害者運動の仲間とパラクア・ダイナミクス(Paraqua Dynamics)社を立ち上げ、コンサルタントとして、行政・企業への取り組みを進める立場に立った。そのかたわら、障害者運動団体には無給のボランティアという形で関わった。

コンサルタント業にとどまらずコンサルタント業が暇な時は文房具の取次販売、ケータリングサービスなど多岐にわたるビジネスに貪欲に取り組むことで、自らの収入を得ていた。その貪欲さは、幼いときからの苦しい経験と、家族を守りたいという思いから出ていたのではないか。ときには、行政の人たちから、コンサルタント業の稼ぎ方について「政府の金を食っている」と疎まれたが、自分の時間・能力を切り売りすることについてはとても厳しい人であった。

また、SHAP の代表を2012年から引き受け、前任者がボロボロにしていった作業所を再び地域の障害のある人もない人も集まり、仕事や職業訓練を行う場として蘇らせたのも素晴らしい業績であった。シボンギレの話では、フライデー・マブソがその死の前に、ムジにあとを引き継ぐようにと言い残したのを守るために戻ったとのことである。

筆者が初めてSHAP を訪れた2012年12月の時点では、フェンスは穴だらけ、縫製工場にも人はほとんどおらず、通所バスはタイヤが取り外された状態で半ば野ざらしになっていた。義足の人のためにと寄贈された古靴が無造作に積み上げられただけの作業部屋もあった。

ムジは、営業マンとして、多くの企業やNGO を回って、事業を募った。すべてがサクセスストーリーだったわけではない。SHAP の敷地を使ったコミュニティの人々による農業事業では、パートナーだったNGOに問題があったらしく、突然全員を解雇して逃げ出した。それでもムジはめげずに新しい事業を求めて動き回った。事業だけでなく、フェンスを塀に取り替えたり、壊れたトイレを直したりするためのスポンサー探しも行った。

ベンチャー企業によるICT 訓練のためのコラボレーションも進められ、障害のある人もない人も集うようになった。他にも、障害のある人もない人も一緒に自営業を始めるためのワークショップを行うNGO を見つけては場所を貸したりもするなど、軌道に乗り始めていた、そんな矢先の急逝であった。

ソウェトILC も、筆者が着任した当初は天井に穴の空いた廃墟同然の建物であった。ムジ自身が30年前に自立生活センターとの出会いから出発したという思い、そして、重度の人の地域生活を支えていくセンターを蘇らせないといけないという彼の強い信念が、日本との協力事業を5年以上にわたって導いてくれた。

2013年に南フリカでの自立生活運動を再開するにあたって(ムジは、日本は「再開」させてくれたといつも強調していた。彼の人生を振り返ると、日本が「作った」「持ち込んだ」と言うのはおこがましく感じるので、ここでも「再開」と言うことにする)、チームを作ろうと仲間を募った。

ムジは、「地域の障害者が自立できるものでないと意味がない」と言って、SHAP の中に入っている団体からは誰も選ばず、公立病院のリハビリ科を回って、最初のメンバーを集めた。事業管理の立場から言うと、そうした「あてのない」方法は好ましくないのかもしれない。しかし、ムジはそうした原理・原則に愚直な人物であった。シボンギレによれは、ムジ自身が年上の当事者たちに助けられて今があるのだから、自分も若い世代を助けたい、と常々言っていたとか。

当然、集まったメンバーを最初に見たハウテン州の行政の担当者は、この事業の将来を悲観した。とにかく、団体運営のことを知らない、英語が上手でない、話し合いもうまくできない、そんな人たちばかり集めてどうするのだろうか、結局ムジが自分の懐を満たしたいだけなのではないか、そう思っていたようだ。

しかし、半年後に行われた中間評価でその評価は一変した。多くのメンバーたちがしっかりと発言し、自分たちで問題点などの指摘をきちんとするようになってきたのである。もちろん、日本が持ち込んだサポートグループの手法や実践は大きなものだったろう。しかしそれは、自分のときとやり方が違ってもそれを受け入れ、賛同し、経験の浅いメンバーを支え、見守ってきたムジのリーダーシップあってこそのものである。

団体運営の経験のない、障害者になってまだ年の浅いメンバーが多い中で、ムジも筆者も手こずることが多かった。晩年はムジも愚痴が多くなっていた。それでも、最後には「彼らは知性と知恵がある。一緒に座って話をしよう」と筆者に声をかけるのもムジだった。スタッフたちにとっても、ムジは父のような存在だった。ソウェトILC の強みはまさに、そのムジを中心としたチームワークだった。

しかし、こうしたムジを軸としたコミュニティ重視の活動が、ムジの死後になって「ムジは自分一人でJICA の利益を独占するために、自立生活センターから俺たちを排除した」とすり替えられ、行政をも巻き込んだ半年以上に渡る政治ゲームへと発展していくことになる。

真空状態と「ボス」

ムジは、脳梗塞のため2018年2月25日(日)午前7時頃、ヨハネスブルグ市南部のネットケア・マルバートン病院で亡くなった。55歳の生涯だった。筆者が東京に出張したその日に入院、戻ってくる前に亡くなってしまった。あっという間であった。

葬儀出席のために早めに出張を切り上げて現地に戻ってみると、スタッフたちは当然、一様に落ち込んでいた。落ち込むだけでなく将来を悲観していた。というのも、亡くなった翌日にさっそくDPSA ハウテン支部の幹部がやってきて、業務を停止しろと圧力をかけてきたからである。それはスタッフたちの反発を招き、即座に撤回された様子だったが、筆者が急きょ戻ったあとも不穏な空気が漂っていた。

ムジの生前から、DPSA ハウテン支部のリーダー(A氏としておく)とソウェトILC の間ですでに対立が始まっていたこともあり、筆者にも「乗っ取り」の動きは容易に想像がついていた。A 氏はムジに見出されて障害者運動に関わっていた、いわば、弟子のような関係であった。しかし、A 氏はムジがSHAP で不正な利益を得ていたという真偽不明な情報を、SHAP に通う通所者に流し、「ムジは私たちの利益を横取りしたから出て行け」と言わせていた(当人は煽ったことはないと否定しているが)。 葬儀の翌々日、筆者はスタッフたちを集めて会議を開いた。その場では、ひと月ほど前にムジが筆者に話してくれた、スタッフ一人ひとりの評価を皆に伝え、活動を途切らせないようにがんばろうという話をし、スタッフみな気持ちを新たにした。しかし、同席したSHAP の事務局長は「今後どうするのかという話をしないのか」という点にとてもこだわった。スタッフにとっては、「地域の障害者を支える活動をきちんと続けていく」というのがムジの残した宿題であったが、彼らにとっては「団体をムジの後、どうやって自分たちの手に渡すのか」が「今後」であった。

ムジはあくまでマネージャーであった。ソウェトILC には議長をはじめとする理事がいた。みな、地域に暮らし、ソウェトILC のサービスを利用する障害者である。しかしA 氏は、彼らはムジが恣意的に選んだ不正な理事であり、DPSA ハウテンの管理下にソウェトILC を置くべきだと主張していた。他方、行政からは筆者に対してはすでに、ソウェトILC の新体制への移行を手伝ってほしい旨と、A 氏に補助金が渡るようなことはないようにしてほしいという旨の要請が非公式になされていた。

A 氏はまず、筆者と個別に話し合いを申し入れてきた。要求は簡単に言えば、自分はムジの後継者なのだからムジと同じようにJICA 研修で日本に行かせろ、そしてソウェトILC の理事は違法に選ばれたものだから全員追い出して、昔のメンバーに引き継ぐ、そのかわりソウェトILC はムジ・ンコシ記念ILC に名を変えてもいいというものであった。いずれも筆者が好き勝手に決めていいものではないので、ソウェトILC 議長と相談して、ハウテン州行政を交えた話し合いを設定した。

当事者団体同士の争いごとに、第三者である筆者や行政が関与することについてはためらいもあった。しかし、ソウェトILC は、ピア・カウンセリングなどのサービス提供や行政への定期報告はきちんとできるようになっていたが、障害者団体の政治や行政との付き合いについてはまったくの素人で、ムジが全面的にその部分の面倒を見ていた。このままでは、密室で圧力をかけられたあげく、団体はA 氏らに乗っ取られ、スタッフたちはみな追い出されてしまう。そして、自立生活センターは行政の補助金を食べるボスたちの餌になるだろう。

A 氏は自分がペースを握れないという理由からか、行政を巻き込んだ筆者を個別に呼び出したり、文書をばらまくなどして激しく非難してきたが、最終的には知事室の斡旋で6月末までにソウェトILC の臨時総会を行い、理事を新しく選ぶことと、A 氏は選挙には出ないで、総会の技術的な部分を支援するということが合意された。A 氏の顔を立てつつ、実質はソウェトILC の自主性を守る内容だった。臨時直前にはDPSAの中でも穏健な人たちがソウェトILC 側と細かい進行を詰めてくれた。

しかし、臨時総会の日、直前に決めたことはすべて一方的に覆された。「自立生活センターはDPSA が作ったのだから自分が仕切る」と言って、A 氏が総会議長を務めた。応援に駆けつけたジャーミストンにあるレメロス自立生活センターのメンバーは会場から追い出され、秘密投票をすることになっていたはずがA 氏の前で挙手をする形に、そして、A 氏が推薦する候補がソウェトILC の利用者から出てきた候補に対抗するようにその場でぶつけられてきた。参加者からはA 氏の役割に疑問を呈する意見も出たが、その都度、外にいた筆者にも聞こえるほどの怒声が響き渡った。

正直なところ、筆者は乗っ取られたら事業を中断して抵抗するしかないかと、諦め半分で覚悟を決めていた。そして投票のときがやってきた。投票の都度「この人にもっと投票しないのか」というA 氏の大声が外まで聞こえた。挙手をためらう人も少なからずいたが、結果は大差で利用者の代表がすべてのポストを占めた。コミュニティの障害者が、運動組織による党派的な「指導」より、自らの「自治」を選んだ瞬間である。

「ミヤ(筆者は現地でこう呼ばれている)、勝ったよ。大差で」と、部屋の外に出てきて興奮気味に教えてくれた仲間たちを見て、ホッとすると同時に、同じDPI運動の人間として、障害者からの信頼のなくなった当者運動団体の姿を見せつけられて複雑な気分であった。きっとムジが生きていたら同じ感情を共有したに違いない。

ムジは最後まで、DPSA が規律を取り戻して自立生活センターの拡大をリードしていくことを願っていたし、それに人々が賛同する姿を描いていた。そうでないと、地域生活の拡大を求める政治的な声を自立生活センターが持つことができないからだ。コミュニティの障害者たちはそこまでの広いビジョンはまだ持てていない。ムジはDPSA の果たすべき役割を最後まで信じていた。

その後、ソウェトILC の前議長となった人物はJICA研修で日本へと渡った。A 氏がおとなしくしているはずはなく、州政府の高官や政治ポストも巻き込んで「彼を日本から呼び戻して、こちらで人選をやりなおさせろ。Nothing about us, without us だ」という文書をばらまかれた。行政側も沈黙を保ち、やり過ごしてくれたが、当事者運動のスローガンが汚されてしまった悲しい出来事であった。

一連のことに区切りがついて(A 氏はまだ続けたいようだが)振り返ると、こうした政治的なゴタゴタにソウェトILC が耐えられないことを一番わかっていたのはムジだったことに気付かされる。ムジは体調が悪い中、個人的な非難にも耐えて防波堤になっていた。特に他国から来た筆者を全力で守ってくれていた、あるいは筆者を巻き込むことなく南アフリカの当事者内でがんばって解決しようとしていたのではないか。もっと早く気づいてなにかできなかったかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいである。

制度化・事業所化の波と時代の変わり目

ムジの存在を痛感させられたもう一つの「波」は行政側からやってきた。ムジの生前から行政によるモニタリングは年を追うごとに強化されてきていたが、ムジの死後、ソウェトILC のみならず彼が仕切っていた団体を「正常化」させないといけない、という行政からの圧力が強まってきたのである。

一つは、ソウェトILC については、ムジ・ンコシという高い能力を持った人物がいなくなり、コミュニティの障害者だけでは運営できなくなるだろう、一方で日本との国際協力のプロジェクトである以上このセンターを失敗させたくない、という行政側の事情がある。

もう一つとして、もっと大きな流れというか、運動体から事業体へと行政の「的」がシフトしてきているのを筆者は感じている。

他分野はわからないが、障害分野に関して言えば、運動の主張をある程度取り入れるように制度を作った、あるいは地域支援サービスに予算を厚くしようとする国ほど、補助や協議の対象が運動体から事業体へとシフトしていこうとする。国連障害者権利条約で政府が一定の義務を負うようになったこともあり、内容はともかく、世界的にそうした形作りが進んでいる。これは、ハウテン州の行政官が数年前に来日した際に言っていた「これまではNPO の側の求めに応じて補助金を出していたが、もっと分野や地域のバランスなどを考慮して戦略的な補助金の枠組みにしたい」という南アフリカ国内の流れとも重なる。

今年度、DQA(Developmental Qualitative Assurance:発展的な質の確保)と呼ばれる、ハウテン州社会開発局が実施するモニタリングの対象にレメロスILC とソウェトILC が選ばれた。

DQA の求めは多岐にわたっている。そしてすべてを可視化していくために、高度なペーパーワークを要求している。確かに必要なことが多いのだが、新しい理事やスタッフたちがどれほどこなせるか不安であるとともに、地域に向き合う時間は確実に削られていく。しかし、行政はこのペーパーワークでサービスの質が向上すると思っている。おそらく、障害サービスの担い手を行政の都合で選んでいく傾向が強まるだろう(ある程度のバックラッシュが起きるとは思うが)。

事実、グループホームを母体とするレメロスILC のほうが南アフリカにはふさわしいと、一部の行政官が考えはじめている。行政側はこれを「南アフリカ型の自立生活センター」と呼びたいようだが、箱物がある方が安心、というのは南アフリカの文脈と言うより、実のところ行政の心理の問題である。ムジは、レメロスのようなグループホームを、それがたとえ入居者自身が運営するものであっても「施設」と呼び、地域の障害者の当事者性のある団体ではないと警鐘を鳴らしていた。

しかし、今は、事務に長けたレメロスILC の技術的支援がないと、ソウェトILC の事務能力ではこうした監査やモニタリングを通らないのも確かである。自立生活センター同士の連携が深まったとも言えるが、事務の安定した「施設」とスタッフを持つ、アウトリーチ型のセンターが優位に立つようになったとも言える。

ムジと筆者は常々、地域に根ざした活動と地域にアウトリーチする活動の違いや、自立生活センターを広げていくためのあるべき姿について議論していたが、新しいリーダーたちにはまだまだわからないかもしれない。ムジが生きていた頃のような「行政や施設相手に突っぱねる、原則にこだわる姿勢」と「たどたどしくも自主的な成長」は急速に難しくなっている。時代が変わってきているのを肌で感じる。

最後に

障害者の日である12月3 日、今年もハウテン州政府主催のイベントがナスレック国際展示場で開かれ、多くの障害者が集まった。歌と踊り、そして若干の報告。ムジは、生前、そうした最近の風潮に苦言を呈していた。もっと語り合え、中身のある議論をしろ、と。

最初は障害者団体側から、A 氏が「ハウテン州の障害者を代表して」アピールを行った。しかし、南アフリカフリカの障害者権利白書や障害者権利条約に触れるわけでもなく、持続可能な開発目標(SDGs)について語るわけでもない。障害者に勇気を与えるようなスピーチでもない。ただ、障害者をあらゆる場面に参加させろ、社会開発局以外もこのイベントに出てこい、と連呼するだけである。筆者の目にはお飾り化が進む当事者運動団体の姿が映り、同じDPI の仲間として寂しいかぎりであった。

政策通の障害者たちは、行政に入るか、個人コンサルタントとして行政や企業相手に商売をするかである。運動団体はそのためのキャリアパスの一つに過ぎなくなってきている。ムジは、常々「DPSA は死んでしまった」とこぼしていた。A 氏は「ムジは選挙に出るべきなのに、自分が入るべきところ(ソウェトILCやSHAP)に居座っている」と批判していた。ムジは「自分は育て方を間違えてしまった」と嘆いていた。行政で挫折したムジにとって、運動体はそんなものではなかったはずだ。

ソウェトILC の議長だった人物は、日本の研修から戻った後ムジの後継として新マネージャーになった。彼はまだ40代前半。そしてソウェトILC の新しい議長は30歳になったばかりである。ムジから25歳以上も一気に若返った。新議長が臨時総会で訴えたのは「自分たちのセンターを自分たちで作ろう」だった。もっともっと勉強しないといけないことだらけで、傍から見ていると不安の多い船出であるが、彼をはじめとする若い世代に、未来の南アフリカの当事者運動も期待したい。

最後に妻のシボンギレのことについて触れたい。シボンギレは、10歳以上年が離れている近所同士だったこともあり、幼い頃からムジのことを「近所のお兄さん」のように思っていた。近所のお兄さんが銃で打たれ、寝たきりになり、家族が苦労してきたのをずっと見てきた。SHAP やILC、大学に通うときも、運動団体で活躍するときも、ずっとともに歩んできた貴重なパートナーである。2001年にムジと結婚した後は、ムジのよき理解者として常に行動をともにしていた。

「重度障害を持っているのに結婚して、奥さんに世話をしてもらって、運転もしてもらっていいな」というイメージで、ムジを捉える若い障害者も残念ながら少なからずいたが、ムジは、仕事中には常にシボンギレを自由にし、役職に付けて優遇したりといったことはしなかった。そして陰ではとても気を使い、優しく接していた。筆者には、常々、「このプロジェクトで一番期待しているのはパーソナル・アシスタンスだよ。妻も疲れてきているし、もっと楽をさせてあげたい」と言っていた。しかし、「自分は制度化されたら使いたい」といって、試行事業の介助者を使おうとはしなかった。

ムジは、晩年、自立生活センターに割く時間を増やし、コンサルタント業はほとんど休業状態にしていた。その理由の一つに、50歳を過ぎ、妻との時間を大切にしながら活動を続けていきたい、そんな思いがあったのではなかろうか。

この原稿を書くにあたって、ご自宅でシボンギレにインタビューを行い、若い頃からのいろんな思い出話と同時に、ムジが家庭でしかこぼせない仕事の愚痴もその一端を聞かせていただいた。心より感謝申し上げる。


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