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アフリカ研究者が市民活動にかかわること

吉田 昌夫さんが語る アフリカ研究者が市民活動に関わること
A researcher on African affairs who commits himself to civic movements

『アフリカNOW』112号(2019年3月31日発行)掲載

今号の『アフリカNOW』では、2017年7月12日に開催された研究会(1)「アフリカ研究者が市民活動に関わること」における吉田昌夫さんへのインタビューをまとめて掲載する。
吉田昌夫さんは、1960年代からアジア経済研究所の研究員などを務め、日本のアフリカ研究の草創期から長年にわたり、東アフリカの農業・土地問題を中心にアフリカ研究に携わってきた。その一方で、南アフリカのアパルトヘイト政権によって投獄されていたネルソン・マンデラ(元南アフリカ大統領、当時はアフリカ民族会議(ANC)副議長)が釈放された1990年に初めて来日した際には、市民による歓迎委員会の事務局長を務め、1993年のアフリカ開発会議(TICAD)開催を機に設立されたNGO、アフリカ日本協議会(AJF)の初代代表を務めるなど、市民活動にも積極的に関わってきた。
このインタビューで吉田さんは、自らのアフリカとの出会いから、職業としての研究者であると同時に、アカデミズムの限られた枠組みだけにとどまらずに、反アパルトヘイト運動やAJF の活動、途上国への債務帳消しの運動、そしてモザンビークのプロサバンナ計画への問題提起などの市民活動にどのように関わってきたのかについて語っている。特に、
(1)1990年にネルソン・マンデラが初めて来日した際の市民の歓迎委員会の事務局長を担った、(2)1993年の第1回目のTICAD にあわせて開催されたアフリカシンポジウムで日本側からの基調講演を行い、その後にAJF の初代代表に就任した、という2つの出来事について、詳しく話してもらった。
 今回の吉田さんへのインタビューは、研究者がNGO や市民活動に関わることの意味や、研究と市民活動がどのような協働関係を築いてきたのか、今後はどのように築いていけるのかについて、理解を深めていく契機になるだろう。
(1)科研費基盤研究(C)「反アパルトヘイト国際連帯運動の研究:日本の事例を中心として」(研究代表者:牧野久美子、Kumiko_Makino@ide.go.jp)

吉田昌夫さんプロフィール
よしだ まさお:1934年生まれ。Ph.D (University of East Africa)。米国Hobart College 卒業(BA)、東京大学大学院社会科学研究科修士課程修了。1961年から1991年までアジア経済研究所にて研究員として勤務、地域研究部長などを歴任。アジア経済研究所名誉研究員。その後、中部大学教授(1991-2002年)、マケレレ大学客員教授(2002-2003年)、日本福祉大学教授(2004-10年)。1994年のAJF 発足から2002年までAJF 代表を務める。(9ページに主な著書・論文を掲載


アフリカとの出会い

— 吉田さんのアフリカとの出会いについて教えてください。

私が最初にアフリカに興味を持ったのは、1952年に高校を卒業したあと、米国に留学していたときのことです。そのとき社会学の先生から、アフリカは将来重要な地域になるよ、ということを聞きました。また、アフリカから以前に奴隷として連れられて来た人たちの現状、いわゆるアメリカの黒人たちの扱われ方を見て、この人たちは故郷のアフリカにいたらどうだったんだろう、きっと幸せな生活を送っていたんじゃないか、というようなことを痛切に感じたことがありました。それで、大学の卒業後に大学院に行ってアフリカの勉強をしたいと思ったのですが、米国で受けた一つの大学院の入学許可は出たけれど、スカラシップ(奨学金)が出なかった。仕方なく日本に帰ることになったのですが、大学の夏期講習でガーナから来ていた留学生たちと知り合いになっていたので、せっかくなので日本に帰国する際に、ガーナを通って帰ろうと思ったのです。1958年のことです。

その留学生の人たちに、ガーナに行きたいんだけど、と相談してみたら、そのうちの一人が、「じゃあ、私の父と会ってみなさい」と言って、お父さんの電話番号を教えてくれたんですね。それで私は、向こうへ行っても何となるだろうと思って、ガーナに着いたときにホテルから電話したら、そのお父さんという方が来てくれましたが、その方は何と国会副議長だったのです。それで私が、「国会をぜひ傍聴したい」と言ったら、「それでは、新聞記者という資格で入れるようにしてあげよう」と言ってくださって、ちょうど与党と野党が盛んに議論をやり合っているところを見ることができました。その副議長の方が、家に招いてくださったので行ってみると、おもしろいことがたくさんありました。家にたくさん子どもがいるんですが、奥さんに「あなたの子どもは何人いるんですか」と聞いたら、「アバウト・セブン(about seven)」と言ったんですね。

何で子どもの数にアバウトってつけるのかとちょっとびっくりして。そのときは別に理由をたださなかったのですが、アフリカの社会では、自分が生んだ子どもじゃなくても、自分の子どもと平等に扱って育てているんだな、というようなことを後から考えたりしました。また、連れて行ってもらった教会で、バイオリンやトランペット、コントラバスまで加わり、礼拝のなかですごい音楽が始まり、そのうちみんな立ち上がって踊り出した。そういうことも含めて、アフリカってなんて面白い社会なんだろうと思いました。米国では果たせなかったアフリカの勉強を日本の大学院でやろうという決心を固めて日本に帰り、「ガーナの民族主義」というーマの論文で修士号を取りました。その頃は、「日本ではアフリカを勉強しても、就職口はないよ」とみんなに言われていました。けれども、何となく楽観的に構えていたら、運良くアジア経済研究所が、それまではアジアの研究だけでしたが、ちょうど私の入るときにアフリカやラテンアメリカの研究もするようになった。そういうタイミングに恵まれて、ラッキーことに私が採用されて、その後30年間、アフリカ専門の研究員としてやってこられたわけです。
その間にアフリカに何回か長期滞在しました。最初に行ったのはウガンダに3年。その後、アジア経済研究所を休職して、現在の国際協力機構(JICA)の前身の海外技術協力事業団からタンザニアに2年間派遣され、その後、またタンザニアに1年間行き、次いで中部大学で11年間教えた後に退職したときに、ウガンダに1年行くチャンスがありました。アフリカには合計7年間住んだことになります。

反アパルトヘイト運動に関わる 

-反アパルトヘイト運動との関わりについてお聞きします。1990年10月にネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)が初めて訪日した際、吉田さんは市民による歓迎委員会の事務局長を務められましたが、それはどのような経緯だったのですか。 

私は東アフリカが専門でしたが、アジア経済研究所では同僚の林晃史さんと組んで、南アフリカにも関心を抱いていました。とくに反アパルトヘイト運動に取り組んでいたわけではないのですが、研究対象としていたタンザニアのモロゴロというところに、アフリカ民族会議(ANC)の若者の教育機関ソロモン・マシャング・フリーダム・カレッジ(SOMAFCO)があることは知っていました。そのころ日本では、日本反アパルトヘイト委員会が運動の先頭に立っていました。ただ、多くの日本のひとたちは、アフリカの問題は依然として非常に遠い世界の話みたいに受け取り、自分とは関係がないと考えていたと思います。しかし、日本は南アフリカのアパルトヘイト体制と経済的に強い関係があり、南アフリカの世界最大の貿易相手国になった。1980年代中頃になると、日本でも労働組合運動やキリスト教団体、人権運動団体などによる反アパルトヘイト運動が高まってきました。国会でも社会党(当時)の河上民雄議員が努力して、1989年に超党派の反アパルトヘイト議員連盟を結成。このように、少しずつ反アパルトヘイト運動の広がりが見えてきたけれども、一般の日本国民の関心はまだ低かったと言えると思います。アフリカに関心を持っていた学者たちの多くは、南アフリカのアパルトヘイト体制の問題点を指摘していただけにとどまっていました。

こういう状況のなかで、ネルソン・マンデラが1990年2月11 日に釈放され、非合法だったANC も活動を許可された。マンデラ以下、ANC 幹部の世界ツアーをやるということになって、アフリカ諸国、欧米諸国にまず行って、その後にアジア諸国を訪問するなかで、日本訪問も組まれたわけです。このときは、日本政府がマンデラを招待する形になったのですが、日本の市民グループは、それまでも反アパルトヘイトの活動家を日本に呼ぶ活動をいろいろしていたので、マンデラに対しても独自に招待状を送っていました。ですから、政府も招待したけれども、市民グループも招待していたという状態になったのです。

マンデラを招待した日本の市民グループについて言うと、まず、ネルソン・マンデラ歓迎委員会を最初につくったのは関西のグループなんですね。トレバー・ハドルストン(Trevor Huddleston)というイギリス国教会の主教の地位の方が、国際的なマンデラ歓迎委員会の代表を務めていて、日本でも歓迎委員会をつくってほしいという要請を出した。それを受けてできたのがマンデラ歓迎関西委員会です。関西委員会は1990年2月9日に結成集会を行っています。そのときはまだ東京では動きがなかったのですが、関西委員会や津山直子さんが勤めていたANC 東京事務所の働きかけで、東京でも1990年3月27日に総評会館で最初の準備集会が開かれ、日本委員会をつくることになりました。私もこの準備集会に出席しました。

準備集会を重ね、どういう組織にするか相談するなかで、日本聖公会の首座主教で、すでに関西のネルソン・マンデラ歓迎委員会の代表を務めていた木川田一郎主教が、日本委員会の代表としても推挙されました。当時、南アフリカから反アパルトヘイトのアピールをするために日本に来た人の多くはキリスト教会の牧師たちでした。個人名を出すと、アラン・ブーサック(Allan Boesak)、フランク・チカネ(Frank Chikane)、そして南部アフリカ聖公会の大主教となったデズモンド・ツツ(Desmond Mpilo Tutu)などの人たちです。ツツ主教は1986年8月の広島での平和サミットに参加するために来日し、その後、立教大学で反アパルトヘイトの活動を呼びかけられました。そのとき立教大学へ行ってツツ主教の話を聞いたことが、私自身にとっては非常に大きかった。反アパルトヘイトの活動にコミットするというか、とにかく何も行動しないのではなくて、何かしようと思ったのはそのときです。この立教大学でのツツ主教の講演会のときに木川田主教と知り合い、面識ができたので、1990年春の準備会合の連絡係を頼れ、結局、歓迎委員会の事務局長を引き受けることになったのです。呼びかけ人、世話人会の人選も決まり(5 ページに「マンデラ歓迎日本委員会の呼びかけ人・世話人・事務局」を掲載)、世話人のなかから神野明さん、高橋八一さん、勝俣誠さんが副事務局長になりました。事務局の場所として東京・御茶ノ水の総評会館の地下倉庫を借りて、そこに事務局員として日本反アパルトヘイト委員会の上林陽治さんと松島多恵子さん、森依子さんの3人が常駐し、そのほかにもピースボートに属するボランティアの若者などが強力にサポートしてくれました。こういう陣容でマンデラ歓迎の行事をやることになったのですが、歓迎行事を企画する上でもっとも苦労したのは、何か行事をやるのには早く場所を確保しなければならないのに、マンデラ一行がいつ来るのか、なかなか分からなかったことです

10月下旬の来日が確定したのは、ようやく9月6日のことでした。民間の会場の大きいところはまず予約がいっぱいでとれない。大学だったら取れるだろうというので、まず折衝したのが早稲田大学の大講堂で、最初はこの要請を早稲田大学も受けてくれたんですね。ところが、そのうちに早慶戦の祝賀会をそこでやるからと断られてしまった。その後も会場を懸命に探し、結局決まったのが日本大学文理学部の講堂です。しかし、収容人員がかなり少なくなってしまい、2,000人しか入らないんですね。ANC への支援基金を出すためにも、入場料をとってコンサートをしようということになって、有名なアーティストの人たちが無償で出演してくれることになったのですが、音響装置にものすごくお金がかかってしまって、結局、全然収益が上がらない計算になる。それでも、とにかくマンデラが来てスピーチをしてくれることが重要だったものですから、それでやるということになりました。できるだけ多くの国民がマンデラの肉声に接する場をつくるというのが一つの目標だったのです。幸い関西のほうでは、大阪の扇町プールという2万人以上入る大きなところを確保して、到着した次の日にまず関西へ行ってもらうことができたので、それはよかったのです。また、ANC も訴えていた南アフリカへの経済制裁をまだ解かないでくれということを、スピーチのなかでマンデラ自身に主張してもらいたいということも強くありました。

歓迎委員会の行事にどのくらい時間をもらえるかということを外務省と折衝しなければならず、これが結構大変でしたが、反アパルトヘイト議員連盟会長で社会党(当時)の川崎寛治議員と事務局長で自民党の大鷹淑子議員が協力してくれ、議員会館の部屋を使って外務省と交渉していいと言ってくださったので、外務省の課長の方と、歓迎委員会のほうから私と弁護士の林陽子さんの2人で折衝して、結局、マンデラ到着翌日の10月28日(日)は一日こちらが使えるということが決まりました。最初に関西に行ってもらい、大阪で大集会をやる。それが終わったら、新幹線で東京に戻り、コンサートでスピーチをしてもらうということが決まったわけです。

ANC は日本政府に対して2,500万ドル(当時の円ドル換算率では35億円)の支援を要請していました。ANC が非合法団体ではなくなったので、国外に亡命していた人たちや釈放された政治囚が大勢戻ってくる、その人たちの生活再建や教育を支援してほしいという要請でした。けれども日本政府は、当時は海部内閣でしたが、一政党に対しては一銭も出せませんということを言っていたわけです。南アフリカ国内で黒人支援をやっている教育関係の民間団体への支援や、日本に黒人研修生を送るといったことはやりましょう、だけどANC という一政党への援助はできないという一点張りでした。歓迎委員会の集会でのマンデラさんのスピーチでも、お金を支援してくださいという話が前面に出てきて、特に反アパルトヘイト運動を日本でやっている人たちのなかには、違和感を持った方たちもいました。経済制裁を続けるというところに強調点があったものですから、お金を出してくださいということに対して意外に思ったのは確かです。だけど、後から考えてみれば、当時のANC にとってそれが一番切迫した問題だったのですね。とにかく大勢の仲間が帰ってくるのに生活基盤もない。闘う同志としてそれを何とかし、民主化への交渉や対話を進めるというのがマンデラさんの頭を相当悩ませていたのだということが、後から分かったんです。歓迎委員会では、自分たちもお金を集めようということを考えて、カンパを集める努力をすると同時に、その前に労働組合を中心に反アパルトヘイトの署名運動をやったわけです。宗教団体も大口の寄付をしてくれ、そのほかにもいろいろカンパが集まった。ANC も「ネルソン・マンデラ基金」を募り、民放のニュース番組で、TBS のNEWS23の筑紫哲也さん、テレビ朝日のニュースステーションの久米宏さんの2人のニュースキャスターが、マンデラにインタビューし、アピールしてくれました。最後の東京集会で、歓迎委員会としての寄付の目録を私からマンデラに渡しました(1)。

マンデラの滞在予定が1日延びたので、10月31日にも東京の日比谷野外音楽堂で集会をやることができ、最後にマンデラが、「政府に要請した2,500万ドルのお
金よりも大勢の日本の市民の支持というより大きなものを私たちは得て帰ることができます」と言ってくださって、日本の人たちの反アパルトヘイトへの支援が非常に強いものであると理解してくださったことがわかりました。歓迎委員会をやって、結果として大変よかったなと思った次第です。それからもう一つよかったのが、国会でマンデラ自身のスピーチが実現したということです。このスピーチは、衆参両院合同の本会議場におけるNHK の実況放送として、日本全国に放映されました。外国の野党のリーダーは普通、国会でスピーチなんてできないんですね。これは本当に画期的なことで、このスピーチを実現させた反アパルトヘイト議員連盟の力が大きかったと思います。

アフリカ日本協議会の初代代表に就任

—1993年10月2〜3 日のアフリカシンポジウムと、その後のアフリカ日本協議会(AJF)の設立、代表就任に至った経緯をお話しください。

まず、アフリカシンポジウムの経緯から言います。アフリカ開発会議(TICAD)という、2016年までにすでに6回開催していますが、5年に1回(2013年からは3年に1回)、日本とアフリカの関係をどう政策的に高めるかということで外務省が考え出した仕組みがありますが、最初はこのTICAD にNGO は全然かかわっていなかった。これは政府対政府の会議であるということで始まったわけです。そのときに、これは政府間の問題だけじゃないのだ、アフリカの人たちと日本の人たちの関係をよくしていくための会議なのだということを、NGO の人たちはかなり意識していたわけですね。だから、1993年に開催された第1回のTICAD の開催の前日に、アフリカで活動しているNGO の人たちの話を聞こうと、日本国際ボランティアセンター(JVC)が働きかけて実行委員会を作り、10人の海外ゲスト(アフリカ各国から9人、タイから1人)を招しょうへい聘してアフリカシンポジウムが行われました。そのなかで「アフリカと日本の関係」について基調講演をやってくれと頼まれたものですから、自分の考えを語りました(2)。

そのときまず言ったのは、私はアフリカに行くとすごく元気になって帰ってくるということが、私がこのシンポジウムで基調講演をする資格になると思ったということでした。アフリカに行くと希望を持って帰ってくる。一つには、アフリカが好きだということがあるし、アフリカに行くといいところが見えてくる。しかし多くの人は、アフリカは問題ばかり抱えていて、どうしようもない大陸だみたいに考えてしまっているから、そういう理解をまずなくしたい、ということをポイントとして話しました。一般の日本人がアフリカをどのように見るか、ガーナ人のある学者が言った言葉、「日本人の眼の中にはアフリカという大きな盲点がある」といった言葉を引用して、それは一般の人だけには限らない、日本のアカデミックな分野の人たちにも同じことが言えるのが私には非常に残念だ、と述べました。最近は新聞やテレビなどでアフリカを取り上げることが多くなってきてはいるが、その内容もまだ野生王国や秘境といったことに偏っている。農村などに住む普通の人々がどんな生活をしているか、どんな考え方をしているか、その人たちが抱えている問題は何か、そういったことを取り上げるマスコミは大変少ないということを指摘しました。そもそもなぜアフリカが問題を抱えてしまっているかというと、外からの要因がかり大きく影響している。世界経済に一方的に従属させられているようなアフリカの現状を理解して解決の道を探していかなければいけない。それから、内戦や自然環境の劣化の問題、それと開発戦略の誤り、特に援助の問題ですね。日本も公的援助をアフリカに対して増加させている中で不適切な援助も増えている。援助の具体的な問題について、市民社会やNGO が検証する必要性が大きくなっているということを話しました。

この当時の大きな問題として飢餓問題がありました。エチオピアの飢餓のピークはすでに過ぎていましたが、ずっとその後もアフリカの飢餓の問題というのは大きな問題で、そういうときに受益者の声を聞くということを私は最初から意識していたので、受益者の声を聞くということを日本の民間の活動としてやるべきではないかと思っていました。もう一つ、マクロレベルの経済で当時非常に問題になっていたのが構造調整プログラムの問題です。構造調整プログラムというのは、いわば政府に緊縮財政を取らせ、同時に市場経済の急速な浸透を図るという政策です。アフリカの現地に住んでいる人は、構造調整プログラムで非常に苦しんだ時代ですから、アフリカの一般住民、すなわち生活している一般の人と対話することが必要ではないかと思ったということもあります。私は援助不必要論を取らないので、NGO あるいは市民運動として、いかに変な援助をしないようにするか、数値一辺倒の計画とか環境問題を無視した計画とか、そういうことに対して目を光らせるウォッチドッグ的な活動が必要であるということを、ここでは言ったつもりです。

シンポジウムでは、4つの分科会に出席者が分かれて、議論をしました。分科会のテーマは、「生存から開発へ」「立ち上がる女性たち」「環境保全と農業」「教育と文化」でした。この分科会の議論を中心にシンポジウム出席者がまとめた「市民報告書」には、アフリカから参加した9人の方も加わっていて、TICAD に対する提言書が作成されました。TICAD は政府間の会議だと主張していた外務省も、3人のNGO の代表の本会議への参加を許可し、提言書を議場で配布することができました。このときはまだ市民社会が本会議で何か話すというチャンスはもらえなかった時代なのですが、市民社会の発言が必要だということをアフリカのゲストが言ってくれた。今では市民社会もかなり発言することができるようになりました。このシンポジウムの提言書の元となった市民宣言には、日本に拠点を置くアフリカNGO 協同体(仮称)の設立がもりこまれていました。このときの議論に基づいて、日本にはアフリカを対象とするNGO が必要だということになり、1994年3月にアフリカ日本協議会(AJF)が立ち上がったわけです。

そういう経緯からして、私は、この組織をつくるという話になったときは、このシンポジウムの時活躍された岩崎駿介さん(当時、JVC 代表、筑波大学助教授)が代表になるのではないか、と思っていたのですが、アフリカシンポジウム実行委員会の事務局を担っていた尾関葉子さん(すでに新組織の事務局長に内定していた)から、私に代表になってくれと言われたのです。私はすでに名古屋近くの中部大学というところに勤めていたので、東京にそんなにしょっちゅう出てくることはできないので、代表はできませんと言ったら、「いや、この組織は東京だけの組織じゃなくて全国組織です。だから、東京在住の人じゃない人がなることに意味があるんです」と強い口調で言われ、それじゃやりましょうということにしたのですね。それで、1994年のAJF 創立から2002年まで結局8年間AJF の代表をやって、第2代目の林達雄さんに引き継いで、その後、津山直子さんが第3代目の代表になって今に至っています。アフリカシンポジウムの講演では、NGO として考えなければいけない問題として話をしたので、私もNGO が何かやろうとしているのに少しでも自分の行動も加えたいというふうに思って、研究や教育をやっているなかで、市民としての活動にも加わっていったということだと、自分では考えています。

市民としての活動の例をひとつ挙げると、私が中部大学にいたときに、貧困国の債務帳消しいう非常に大きな課題がありました。どうしてこの問題が起きたかというと、さっき言った構造調整計画を進めるために、世銀や国際通貨基金(IMF)が貧困国にじゃんじゃんお金をつぎ込んで、債務が積もってどうしようもなくなってしまったのです。私はそれを学問的にも突き詰めたいと思って研究して、「グローバリゼーションの影響としてのアフリカ債務問題」という論文を書きました(3)。日本では北沢洋子さんを中心に、ジュビリー2000 がこの問題に取り組んでいたのですが、私もこういう研究をするからには、どう関わるべきかと思って、まず勉強会をやることにしました。中部大学のサテライト施設で1カ月に1回ぐらい集まって、そこに、アパルトヘイトを考える市民の会・名古屋という反アパルトヘイトのグループのメンバーの3人が入ってきて一緒に勉強することにした。それから、経済問題に詳しい人として、日本福祉大の毛利良一先生に世銀の問題をいろいろ報告してもらった。毛利先生は、米国出身でフランスに在住している女性スーザン・ジョージ(Susan George)が書いた、世銀に対する批判的な分析の本を翻訳していた方です。

日本政府は債務帳消しを全然やろうとしなかったんですね。それで、勉強会をやっているからには、日本も債務帳消しをすべきだというのを政府に突きつけなきゃいけないと思いました。それで、「ジュビキュウ」と呼ばれた九州でジュビリー問題に取り組んでいるグループの人たちと一緒に、福岡市役所に行って、日本も債務帳消しをすべきだという声明を福岡の地方自治体として出してほしいと市長に申し入れたり、国レベルでは、当時の外務省のアフリカ担当課長のところに、国として債務帳消しに取り組んでほしいという要望を持っていったりした覚えがあります。結果として、債務帳消しの国際的な仕組みはつくられたのですけれども、そのやり方は非常に限られていて、債務が国の経済レベルから見て非常に大きい国、アフリカでは重債務貧困国と呼ばれた21カ国の債務は切り捨てられたのですが、条件があって、国としてIMF の指導のもとに緊縮財政をとるとか、援助は無償だけで有償の借款はしないなどという国際的な指導による枠がはめられました。これに対して私たちは、勉強会を中心にした市民活動として、債務帳消しはどうあるべきかということを考えていたということなのです。

モザンビーク・プロサバンナ計画への疑問

もうひとつの例として、これはまだ現在進行形の問題ですが、プロサバンナ開発問題というのがあります。これは、日本が支援したブラジルのセラード開発の方式をモザンビーク北部の農業開発に適用して、日本が援助してマスタープランをつくり、日本とブラジルとモザンビークの3カ国の共同開発の形でやるという発想です。私がこの話を最初に聞いたのは2012年だったと思いますが、TICAD Ⅴの準備会合であったか、たしかJICA 主催で行われた会合であったと記憶しています。とにかく私がその会合に行ってみたら、JICA の人が、「TICAD の目玉としてこういうのをやります」というような言い方をしたんですね。それで、私はびっくりしました。ブラジルのセラード開発をモデルするということは、大農方式の開発です。2012年10月にモザンビーク全国農民連合(UNAC)の農民たちが、「プロサバンナ」と呼ばれるこの開発計画に反対を表明したことを受けて、日本では当時、東京外国語大学の教員であった舩田クラーセンさやかさんを中心に関心を持つ人たちが、モザンビークの農民の代表を日本に招きました。外務省やJICA が、農民たちの意見をまったく聞かずに、このような大規模開発計画を決定してしまうので、農民自らが発言する機会をつくるためです。その後に、日本のNGO の共同活動としてプロサバンナ計画のマスタープランの内容を暴露し問題を明らかにして、農民を支援する活動を行う体制がつくりだされました。このNGO の動きに押されて、外務省とJICA は、「モザンビークでプロサバンナ計画を実施するのは小農のための開発である」と言い出したのですが、果たしてそういうことを実際に考えてプロサバンナ計画のマスタープランをつくっているかというと、それには大いに疑問があります。

私はケニアの研究を通じて、いわゆる大農方式の開発、大きな一つの農家が何百ヘクタールという敷地規模で農業をやるというのは、いかにアフリカの現状に合わないかという研究をしたものですから、これは大変だと思ったのです。また、1975年にアジア経済研究所を休職して、タンザニアの水資源審査会というところに行っていたときに、ルフィジ川というタンザニアで一番大きい川の開発計画に関わる農業調査を実施したことがあります。それは、水力発電を中心とする多目的ダム建設の計画だったのですが、ダムを建設すると川の様子が一変してしまう。そこにいた農村の人たち、特に小農と言われる人たちが行っている農業は壊滅的な打撃を受けるということを意識して、2年間の現況調査をやった経験があります。そのことから考えても、プロサバンナ計画というモザンビーク北部での開発計画は疑問が大きいし、やったとしても失敗するであろうと思いました。
このプロサバンナ計画について、モザンビーク開発を考える市民の会という少人数の会ができ、私も参加しました。同時に、JVC、AJF、Oxfam Japan, ATTAC Japan、No to Land Grab, Japan などが協力して、この問題に取り組んでいます。私がこのNGO グループの取り組みに加わったのは、今までの自分の研究から、このプロサバンナ計画には、受益者の視点というのがまったく入っていない、小農というものが視角に入っていないという現状に、とても大きな疑問を感じたからであると言ってもいいと思います。

2017年7月12日、東京外国語大学本郷サテライトにてインタビュー/聞き手:牧野 久美子(アジア経済研究所)
(1) マンデラ来日最終日までに4,300万円の寄付が集まった(『ポスト・アパルトヘイト』p241)。
(2) 吉田昌夫「アフリカと日本の関係」『アフリカシンポジウム報告書』pp.15-18
(3) 中部大学国際地域研究所『国際研究』17号、2001年


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