難民が帰還したくない国、ルワンダ

Rwanda – a country where refugees don’t want to return

米川正子『あやつられる難民~政府、国連、NGO のはざまで』を手がかりに

『アフリカNOW』111号(2018年8月31日発行)掲載

執筆:斉藤 龍一郎
さいとう りょういちろう:AJF 理事。2000年4月から2016年10月までAJF 事務局長。立命館大学生存学研究センターで、生存学ウェブサイトのアフリカ関連情報データベース作成・更新を担当。

本『あやつられる難民』

読んだ本 米川正子著『あやつられる難民~政府、国連、NGO のはざまで』
筑摩書房 ちくま新書、縦組み、本文318ページ
定価:940円+税、初版:2017年2月10日
ISBM:978-4-480-06974-4


2017年2月に出版された米川正子著『あやつられる難民〜政府、国連、NGO のはざまで』は驚きに満ちた本だ。えーそうだったのか、とビックリすることがたくさん書かれているので、なかなか読み進められなかった。

著者は、かつて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に勤務し、1990年代後半にはルワンダにおいて同国難民の本国帰還業務に関わり、2007〜08年にはコンゴ民主共和国ゴマ事務所所長を勤めた。この経歴というか、UNHCR の業務に携わっていたときの自身のあり方を振り返って著者は、「私は本書を自省のため、そして難民、避難民と帰還民へのお詫びのためにも書いた」(p.19)と述べている。そして、ルワンダ難民の発生の歴史と帰還をめぐる問題をたどりながら、難民がいかに「あやつられて」きたのかを描き出している。その記述をもとに、ルワンダ難民の現在とルワンダという国家が解決すべき課題について、整理してみたい。

帰還を拒む多くのルワンダ難民

本書の第4章「難民と安全保障-ルワンダの事例から」では、ルワンダ難民の大量移動を3つのカテゴリーに大別して紹介している(pp.174-177)。この3つのカテゴリーは、難民発生の時期と原因となった事態に対応している。

最初の大量移動は、ルワンダ独立に先立つ1959年の「社会革命」によって、ベルギーの植民地支配の一端を担っていたツチが難民となって国外に脱出したときで、ブルンジ、ウガンダなどの周辺国に12万人が逃れたという。次の大量移動は、1994年4月の内戦激化を契機に始まった虐殺の最中と直後にフツを中心に約200万人(内戦前のルワンダの推定人口のピークは1989年で約722万人(1)が旧ザイールをはじめとする近隣諸国へ脱出して難民となったもの。そして、1950年代末と1994年に大量に発生したルワンダ難民が、1990年代半ばから終わりにかけて帰還した後もたくさんの難民が発生している。「ルワンダ政府によると、2016年7月現在、難民は約28万人いるという」(p.177)。現ルワンダ大統領のポール・カガメ(Paul Kagam)氏を始め、現在のルワンダ政府を主導する人々の多くは、まだ子どもの頃の1950年代末にルワンダから逃れ、国外の難民キャンプほかで生まれ育った人たちである。一方で、1994年に難民となった人たちの多くは、帰還後に虐殺を始めとする「犯罪」に関わった罪で、刑事裁判やガチャチャ裁判の被告になった。このように難民帰還の後に始まり、現在も発生している難民には、「カガメ大統領・RPF(ルワンダ愛国戦線)の反体制派(dissidents)」、「帰還したものの再度難民となった難民」「1994年以降、帰還を拒む難民」が含まれている。2016年の人口が1191万人(2) の国から逃れ、あるいは帰還を拒む難民が28万人を数えることは注目すべきことであろう。

カガメ大統領・RPF への反対派

「カガメ大統領・RPF の反体制派」には、過去に一、二回以上難民になった人や、RPF に批判的であるジャーナリストと人権活動家だけでなく、カガメ大統領の元戦友という離反者-政治家、軍人、司法関係者、駐米ルワンダ大使、私設秘書、運転手、ボディガードなど-が含まれている。(中略)/その難民の中に、映画『ホテル・ルワンダ』の主人公のホテルマン、ポール・ルセサバギナ(Paul Rusesabagina)氏もいる。フツである氏は虐殺された側と言われるツチを保護したため、本来ならツチ主導のRPF から感謝されるべきだ。しかし氏は、RPF が虐殺などの責任をとっていないと非難しているために、ベルギーにある氏のマンションが荒らされ、氏自身も繰り返し脅迫されている(pp.177-178)。

本書では、脅迫にとどまらず、何人もの元軍人や政治家たち、カガメ大統領の元側近らが襲撃され、暗殺されてきたことが、詳しく報告されている。

また本書では、「一般的に言われている難民の解決策」について、次のように説明されている。一つ目が自主帰還(難民が安全に、そして尊厳をもって自らの出身国に戻り、国からの保護を再び享受する)、二つ目が近隣国などの受入国における社会統合(難民が受入国社会に法的・経済的・社会的に統難民が帰還したくない国、ルワンダ合して、受入国政府からの保護を享受する)、そして三つ目が第三国定住(本国への帰還と受入国での社会統合が不可能である場合に実施し、特別にニーズのある難民がアメリカやヨーロッパ諸国などへ定住する)である(p.112)。

一方でそれ以外に、3つの「非公式な対処法」があることも指摘されている。一つ目が難民出身国への強制送還、二つ目が行く先々で滞在を拒否されながら、世界各地で漂流すること、そして三つ目が、「難民キャンプでの生活援護(あるいは生存)」、あるいはもっと挑発的な言い方をすると、「難民を倉庫に管理すること(warehousing)」である(p.112)。

そして、1998年12月末までに難民となったルワンダ難民の場合、2013年6月30日付けで難民地位の終了条項が適用されたため、「出身国の人権状況がよくなったため、難民でいる必要性がなくなった、よって国際的な保護はもう不要なので、これまでの支援はもう提供せず、母国に帰還するか、あるいは帰化するか選択するように」(p.238)という決断を迫られている。

ルワンダ難民がなぜ帰還を恐れるのかを理解するには、以下の記述が参考になるだろう。実際に2007年、アフリカ某国の難民キャンプからUNHCR 主導の帰還—つまり、UNHCR が帰還者の登録をし、帰還用のトラックを用意し、UNHCR 職員がルワンダ側で出迎える——でルワンダへ戻った難民の話を聞いた。その難民は弟と一緒に帰ったのだが、ルワンダに着いたとたんに旧ハビャリマナ政権時代の元知事の運転手をしていた弟が行方不明になり、多くの帰還民は投獄された。そのため、その2カ月後に、その難民は他の難民と一緒に再びウガンダに戻った。難民によると、このような帰還民の失踪は頻繁にあるそうだ(p.246)。

こうした事例を知る難民にとって、帰還の手はずを整えたUNHCR に対しても不信の念が募っていくのは、当然であろう。また、難民キャンプが設置されている難民受入国の対応も、「帰還」というプロセス自体への疑念を呼び起こすものになる。2009年以前ですら、在ウガンダのルワンダ難民は、地元政府、ルワンダ政府とUNHCR によって帰還するように、圧力をかけられていた。その圧力は、終了条項が発表された2009年以降より高まり、ウガンダ政府は2010年、難民定住地で食糧配給をすると見せかけて、集まったルワンダ難民1,700人を強制的にトラックに押し込んで母国に帰還させたことがある(p.257)。

さらに国連への不信も募っていく。在ウガンダと在ザンビアのルワンダ難民はそれぞれ、グテレス難民高等弁務官と潘国連事務総長に申立書と手紙を提出した。その内容は、難民がルワンダ諜報(部)によって暗殺・誘拐され、失踪している中、難民の地位を無効にすることを批判し、そしてツチとフツの双方による罪が認識され、賠償が支払われるまで、意味のある平和が実施されず、また難民地位が除去される条件も現時点で存在しないことを説明した。しかしそれに対して、国連から何の反応もない(258p)。

今もなおルワンダ難民の中には、難民に対する保護を担うべき本国・受入国・第三国の政府と、それをサポートすべき国連・国連機関への不信だけが募っていく状況が続いているようだ。

元難民が抱く「難民への恐怖」?

前述したように、カガメ大統領を含めRPF の幹部の多くは元難民で、ウガンダなどの難民キャンプで育った。

1960年代は、ウガンダやブルンジにいたルワンダ難民が武力行使でルワンダに帰還しようと試したが失敗した。当時、中国がルワンダ難民の反政府組織を支援し、東アフリカの港町であるモンバサ(ケニア)やダルエスサラームとザンジバル島(タンザニア)を通じて、武器と弾薬を輸送した。そして30年後の1990年に、第二世代のルワンダ難民がウガンダから母国に侵攻する前、ウガンダの難民定住地で軍事訓練が行われた(p.147)。

当時の難民受入国のうち、ルワンダ難民が政治的にも軍事的にも最も活動的であったウガンダに注目したい。同国は1970〜80年代に、三回のクーデターや内戦によって政権が替わり、その度に難民が政府軍と反政府勢力に動員されたり政治的な道具として悪用された(p.175)。

1987年、難民は帰還を目的にRPF を創設したが、その帰還とはあらゆる可能な手段を使ってというものだった。1988年にワシントンDC でルワンダ難民の世界会議が開催され、「(武装した)帰還の権利」が決議された。そして1990年、在ウガンダのRPFが武力行使でルワンダに侵攻し、1994年までルワンダ政府とRPF の間で内戦が続き虐殺が起きたのだ(p.176)。

ルワンダの現在と今後を考え、ルワンダ政府との協力関係を作っていくためには、内戦と虐殺時の戦争責任、内戦後の新政権による人権抑圧、そしてルワンダ難民が国外でいくつかもの難民組織を作っていることに目を向け、多数の難民が帰還できる条件を整備していく必要があるだろう。これらの現状は、本書で述べられているように、カガメ大統領のかつての戦友たちがカガメ大統領と袂を分かつに至った原因にもなっている。

(1)国連 World Population Prospects: The 2012 Revision
http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-7500.html

(2) 外務省 「国・地域」ルワンダ共和国
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/rwanda/index.html


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