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反アパルトヘイト運動の経験を振り返る

アフリカ行動委員会の運動を中心に

Looking back the experiences of anti-apartheid movements in Japan

『アフリカNOW』102号(2015年4月30日発行)掲載

報告:楠原 彰
くすはら あきら:1938年新潟県生。20代初めに上京。どうやって生きぬくかを思案していた時に、アフリカと反アパルトヘイト運動に出会う。私立大学の教員(教育学)をしながら、「教育からの自由」についての学びと実践をもとめて、若者たちとアジアやアフリカの人々の暮らしの現場を歩く。著書に『自立と共存』(1976)、『アパルトヘイトと日本』(1988)、『南と北の子どもたち』(1991)、『学ぶ・向き合う・生きる』(2013)などがある。ブラジルのパウロ・フレイレと出会い、『被抑圧者の教育学』(1979)、『伝達か対話か』(1982)などを友人と翻訳。

※本稿は、2014年10月11日に行われた公開研究会「反アパルトヘイト運動の経験を振り返る」における楠原彰さんの基調報告をまとめたものです。


皆さん、こんにちは。この話を頼まれたとき、アフリカ行動委員会(Japan Anti-Apartheid Committee-Tokyo: JAAC-Tokyo、以下、行動委員会)の約30年にわたる活動について私だけインタヴューを受けるのはフェアーじゃないと思ったものですから、一緒にやった仲間にも参加を呼びかけました。たくさんの人数なので、現在私が住所を知っていて、年賀状を交換している東京近郊の25人ほどの方々に声をかけてみました。
7〜8人は来てくれるかなと予想していたのですが、意外や意外、私が住所を知らないでいた方々も含めて、20名を越える人たちが駆けつけてくれました。(公開研究会の司会者の)牧野さんも含めて、最近若い方々が昔の資料を借りにきたり、運動の歴史などについて問い合わせてきたりする人たちが現われてきました。
行動委員会は運動の過程で、たくさんの定期・不定期の刊行物や資料・ビラなどを作ってきましたが、会を閉じた後、欧米諸国の反アパルトヘイト団体のように、記録を書き残すとか、資料を一ヵ所に集めて公開することはあまりしてきませんでした。もちろん、英語に翻訳して南アフリカや欧米のアンチ・アパルトヘイト・アーカイヴズに送るなどということもしてきませんでした。
行動委員会の国際的・歴史的な運動責任のようなものの欠如の一端があらわれているのかもしれません。行動委員会は1969年5月に旗揚げして、1995年11月に『あんちアパルトヘイトニュースレター』の最終号が出て自然解散のような形で閉会します。運動後期に登場する、この『あんちアパルトヘイトニュースレター』だけは、1987年10月の創刊号(No.1)から1995年11月の最終号(No.85)まで、本日お見えの須関昭一さんの尽力でウェブサイトに公開されています。
さて、これから行動委員会の約30年の活動の全体像を話してみるわけですが、時間がとても足りませんので、資料(「日本の反アパルトヘイト運動年表」)を用意しました。この資料は、以前、日本平和学会での報告用に作ったものを、アフリカ日本協議会(AJF)の斉藤龍一郎さんが立命館大学の生存学研究センターのホームページに載せてくださいましたが、今回それを新たに修正しました。
日本で反アパルトヘイト運動に取り組んだのは東京のアフリカ行動委員会だけではありませんでしたので「アフリカ行動委員会(JAAC-Tokyo)の運動を中心に」とサブタイトルを入れておきました。
私が知るだけでも、日本アジア・アフリカ連帯委員会(AA 連帯委)、南ア黒人の教育を支える会、アジア・アフリカと共に歩む会(TAAA)、日本国際ボランティアセンター(JVC)、アムネスティ・インターナショナル日本、反差別国際運動日本委員会(IMADR-JC)や宗教団体や労組など、また特別に名乗らないで運動をしていた人たちが他にもいたはずです。運動史を書くときには作為が起こりやすいので、日本の反アパルトヘイト運動は行動委員会が担った、みたいなことにならないように気をつけなければならないと思っています。
それから日本反アパルトヘイト委員会(JAAC)は、東京のアフリカ行動委員会(JAAC-Tokyo)、大阪のこむらどアフリカ委員会(JAAC-Osaka)、静岡アフリカに学ぶ会(JAAC-Shizuoka)など、札幌から熊本までの全国十数都市に生まれた反アパルトヘイト市民活動の連合体で、常時連絡し合い、時々共同行動をとっていましたが、それぞれが独立した市民組織で、ニュースレターなども独自に作って独自の活動を行っていました。JAAC の記録を残す場合、これらの団体の記録や資料も集める必要があるでしょう。
資料の最後に物故者のお名前を書いておきました。私が知る限りの方々です。東京の安木宏明さん( 後にIT 技術者となる)、白石顕二さん( アフリカ映画・絵画の紹介者)、芝生瑞和さん( 国際ジャーナリスト)、弘中敦子さん( 当時は学生、後に岩手で農業に従事)、静岡の山口三夫さん(フランス文学者。本日お見えの渡辺房男さん、内山緑さんなどと「静岡アフリカに学ぶ会」で活動)、ナイジェリアの医師として赴任直後に亡くなった同じく静岡の冨元一彦さん、阪神淡路の震災で亡くなった大阪の原田龍心さん(僧侶)、仙台の安達博子さん(アムネスティの活動家)たちです。
そうした私たちの仲間の死者たちも今日の集いに見えているはずです。また、その何千、何万、何十万倍もの南アフリカの人たちが反アパルトヘイト闘争の中で死者となったわけですが、その人たちの霊とも一緒に、今日の集まりを成功させたいと願っています。

第1期 モシ会議(1963.2)からアフリカ行動委員会誕生(1969.5)まで

資料に書いてありますように運動の第1期は、1963年2月のモシ会議からアフリカ行動委員会誕生(1969年5月) までです。英国や米国では1950年代末から反アパルトヘイト市民運動が始まっています。日本ではタンガニイカ( 当時、現タンザニア) のモシで開かれた「アジア・アフリカ人民連帯会議」(Afro-Asian Peoples’ Solidarity Conference)に出席していたアフリカ研究者の野間寛二郎さん、社会党衆議院議員の田中稔男さん、田中寿美子さん(後に社会党参議院議員になる)らが、同席していたアフリカ民族会議(ANC)のオリバー・タンボ団長らによって、日本での反アパルトヘイト運動を要請されたことから始まります。
1960年3月、南アフリカのシャープヴィルの虐殺事件後、この事件に抗議して欧米系の企業が撤収しますが、その空白を埋める形で、その後の経済成長を担っていく日本の企業がどっと進出して行きます。白人政権は同年4月、日本人に「名誉白人待遇を与え保護します。
南アフリカから亡命していたANC のタンボ団長たちは、このアパルトヘイト政策への日本の荷担をどうする気か、と日本の代表団に突き付けたわけです。野間寛二郎さんたちはこの問いを誠実に引き受け、帰国後の1963年5月に分裂前のAA 連帯委の内に、南ア人種差別反対実行委員会準備会を結成して活動を開始します。
準備会が正式に南ア人種差別反対実行委員会(英語名はJAAC)として発足するのは1964年5月からです。労組・政党・学生・市民グループらが構成メンバーになります。すでにその頃は野間さんたちの呼びかけで、末川博さん、上原専禄さん、勝田守一さんらの学者・文化人らの10人アピール「南ア政治犯を救え!」などが出され、野間さんたちは精力的に南アフリカ国内の情報を伝え始めます。
私自身は当時大学院生でしたが、今日報告される渡辺一夫さんらと一緒にアジア・アフリカの仲間(AAの仲間)という若者中心の市民団体に属しながらこの実行委員会にかかわり、野間さんたちと一緒に南アフリカの商品ボイコット運動、政治犯救援活動、労組を回ってのアピール、集会やイベントでのビラ配り、スライド・資料作り…などさまざまな活動に関わるようになります。
ちょうどその頃、中ソ対立が激化し、その影響が日本国内の民主勢力( 政党・労組など) の対立をひきおこし、生まれたばかりの反アパルトヘイト運動も機能停止状態に陥ります。当時はそれほど政党や労組の力が強かったのです。
私たちAA の仲間は困惑してしまい、尊敬していた歴史学者の上原専禄さんの御宅にうかがい、何をどう考えたらいいかを尋ねました。上原専禄さんはこう言われました。
「南アフリカのアフリカ人の解放は、私たち日本人一人ひとりの解放です。そのことを考えてみたらいいでしょう」。
つまり、南アフリカの人たちの自由は私たち一人ひとりの自由の問題なのだというわけです。私たちはずっとこの上原専禄さんの言葉を考え続けてきたといってもいいでしょう。
野間さんは政党につながるAA 連帯委中心の実行委員会から離れて、1964年6月に南ア問題懇話会( 後にアフリカ問題懇話会) を立ち上げ、JAAC を実質的に引き継いで行きます。
それを支えたのが、作家の五味川純平さん、理論社の小宮山量平さん、東洋史学者の上原淳道さん、当時は五味川さんの助手のような仕事をされていた作家の澤地久枝さんたちでした。この野間さんの懇話会が定期的に開く南アの勉強会・情報交換会に私たちAA の仲間のような市民グループや、上原淳道さんのもとで南アの勉強会をやっていた東大のインクルレコ(INKULULEKO。ズールー語で「自由」)の学生たち( 大岡俊明さんが中心)、また明治大や日本女子大などの学生たち、さらには既存の組織には属さない市民たちが集まりますが、これが1969年5月に発足したアフリカ行動委員会(最初はJAAC-Youth Section。後にJAAC-Tokyo)の母体となっていきます。当時は第三世界の闘い(とくにベトナムの民族解放闘争など)、全世界の大学闘争(若者の叛乱)、反公害闘争などでの影響で日本の若者たちが燃え上がっていた時代です。行動委員会に多くの若者たちが入ってきて、反アパルトヘイト運動を担うようになります。
チェ・ゲバラのシャツを着たり、フランツ・ファノンの本を抱えたり、キャンパスからヘルメットをつけたまま駆けつけたり、宗教者がいたり、若いアフリカ研究者がいたり…そんな雰囲気の中で行動委員会の集まりはスタートします。
行動委員会は日本最初の市民運動といわれた1965年5月に始まるベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)運動の影響を強く受けていたと思います。会則も会費も何もなく、言いだしっぺが思い思いに運動をつくりだしていく…といったスタイルや、政党・労組などとは常にインデペンデントな立場に立とうとするやり方などは、まさしくベ平連スタイルでした。この一期の運動をまとめるとこうなります。

日本企業のアパルトヘイト政権への荷担の現実とANC の要請を受けて始まった運動は、政党・労組・市民グループ・学者文化人など幅広い運動として出発したが、中ソ対立や社共分裂などで瞬く間にマヒ状態。AA 連帯中心の運動から離れた野間寛二郎の独立した「懇話会」活動を知識人・市民・学生が支える形で再出発。世界各地の若者の叛乱、第三世界(とりわけベトナム)の反植民地運動の盛り上がりの中で、野間寛二郎の周りに集まってきた学生や市民の中からアフリカ行動委員会(JAAC-Tokyo)が生まれる。

第2期 アフリカ行動委員会誕生からソウェト蜂起(1976.6) まで

1970年3月、ロンドンに亡命していたANC のマジシ・クネーネ(詩人)が資金援助を求めて来日します。宿舎を提供したのが竹内泰宏さん(作家)と高良留美子(詩人)のご夫妻でした。生まれたばかりの行動委員会のメンバーが政党や大きな労働組合を案内して回ったのですが、どこも彼の話を聞くだけで、あまり関心を示さず、資金もほとんど集まりませんでした。
彼は疲れ果て、’Talk talk, too much talk. We need guns!’ とか言って私たちに当たり散らしました。彼が離日前に残した言葉は強烈なものでした。’Japan is killing us. Japanese prosperity depends upon our blood.’(日本の繁栄は俺たち〈南ア黒人〉の血によってあながわれたものだ)。私たちはみんな若くウブでした。初めて出会う解放戦線の人とどう付き合っていいか分からないのです。でも、”killing us” なんて言われると、そうかもなあ、名誉白人だしなあ…なんと思ったりしていました。
これを私たちは「クネーネ・ショック」と呼んだりしました。1970年6月26日の南アフリカの「フリーダムデー」に合わせてJAAC が最初のデモを挙行するのは、クネーネ・ショックの影響が大でした。120人ほどの人たちが清水谷公園(ベ平連がよく使った千代田区の公園)に集まり、南アフリカ総領事館前を通って外務省から日比谷公園まで歩きました。これが行動委員会の定番デモコースになります。
野間さんもまだ元気で、力強いスピーチをされました。このデモに大阪から下垣桂二さんと伊藤寿子さんの二人が参加しましたが、この方たちが大阪へ帰って、こむらどアフリカ委員会を立ち上げます。やがて数年後に静岡・京都・名古屋・松戸などの各地に反アパルトヘイト市民グループが生まれてきます。
1970年8月、JAAC の最初の牽引者だった大岡俊明さんがヨーロッパ・アフリカに旅して、解放組織や反アパルトヘイト団体に会って、いろいろな情報を持って帰ってきて、少しずつ国際的な動きとも直接向き合うようになって行きます。アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウなどの解放戦線の要請に応えてポルトガル大使館にデモをかけたり、大使が出席するポルトガル語コンクール(1971年)に抗議して朝日新聞社の講堂に押し掛けたりもしました。
これは捕まるんじゃないかというんで、今日見えている創設メンバーの一人で、当時まだ駆け出しの久保利英明弁護士に相談したら、「そういうデモ、講堂内はやばいんじゃない」など言われたことを覚えています。
それから1972年6月には、今日来られていますがカメラマンの小川忠博さんがポルトガル領のギニアビサウの解放区に入り、写真集”NÔ PINTCHA”(「さあ行こう」の意)』(たいまつ社)を、1973年8月にはモザンビークの解放区に入って『モザンビーク解放戦線』(雑誌『太陽』臨時増刊号)を刊行して、それぞれの解放区や世界各地の反アパルトヘイト運動に届けるようになります。解放区内の学校のテキストになったという手紙を受け取ったこともあります。
1972年8月に原水禁世界大会で来日中のギニア=カーボヴェルデ・アフリカ独立党(PAIGC)のアミルカル・カブラル議長を招いて、お茶の水で野間さんたちと一緒に集会を開いたことがありましたが、その翌年の1月に彼はギニアのコナクリで暗殺されてしまいます。資料でこの時期の総括をこう記しておきました。

ーこの期の運動の特徴は、大阪に、こむらどアフリカ委員会が生まれたこと、反アパルトヘイト・スポーツ問題への取り組みが始まったこと、ナミビアからのウラン密輸に関連して反原発組織や野党議員と提携して電力会社や通産省への抗議行動が行われるようになったこと。
また、国連の反アパルトヘイト国際会議に代表を送るようになったこと。WCC( 世界教会協議会) などの援助を得て、小川忠博の新しい写真集”Camaradas, Independência!”(ポルトガル語版。日本語版『森と精霊と戦士たち〜ギニアビサウ、モザンビーク、アンゴラ解放闘争写真記録』)を大量にアンゴラ・モザンビーク・ギニアビサウの解放区と世界の反アパルトヘイト団体に送ったこと。そして1975年2月5日、日本の反アパルトヘイト運動の父・野間寛二郎が63歳で逝った。行動委員会は創設メンバーの多くが退き、新しいメンバーが登場する。
アフリカ行動委員会は最初、野間の南ア問題懇話会(JAAC)の青年部のような形でJAAC Youth Section を名乗っていたが、野間が病死する前後からJAAC-Tokyo と国際的には表記するようになる。
欧米の企業は1970 年代後半から南ア進出企業が連合して、自社系の企業の黒人労働者の人権を擁護するために「行動原則」(Code of Conduct)作成するようになるが、日系企業はほとんど関心を示さなかった。行動委の企業調査が始まる。北沢洋子が南アでの日本企業の実態調査を行い、結果を国連で発表し内外で大きな反響が起こる(1974年6月)。ー

第3期 ソウェト蜂起からSOMAFCO 支援(1984.12) まで

時間がなくなりそうですので、この期の総括をまとめて書いておいた文章を読み上げます。

ー1976年6月のソウェト蜂起は南ア国内の声を初めて国際社会に伝えるものだった。南アの子ども・若者の果敢な闘い、その背景となったスティーヴ・ビコなどの黒人意識運動(Black Consciousness Movement:BCM)の思想は、日本の若者たちの内面にも強く響くものだった。蜂起以後青年・学生たちは国境線をかいくぐって続々と亡命し、多くはANC に拠り所を求めた。かくしてANC は甦よみがえった。彼らの思想に近かったはずのパン・アフリカニスト会議(PAC) は内紛が絶えず、BCM の受け皿たりえなかった。1980年代に入ると南ア国内から統一民主戦線(UDF) などの統一的で民主的な闘いが伝えられ、欧米の反アパルトヘイト運動も盛り上がり、日本でも若い世代がこれまでになく集まってるようになった。
こうした若者たちによって、タンザニア内に置かれていたANC の亡命者の子どもらの学校、ソロモン・マシャング解放学校(SOMAFCO)を応援する会(ナプモ) が行動委員会内に1984年12月に結成され、支援活動や交流が始まる。同じ年の6月に、与党議員を中心に日本・南ア友好議員連盟( 石原慎太郎幹事長) が生まれている。
1983年暮れに初めて事務所を開設し南ア問題研究所を併設した行動委員会は、この議員連盟や、1984年に設立される南ア進出企業集団の南部アフリカ貿易懇談会(SATA)への監視・批判活動に多くの時間と労力を費やすことになる。ー

第4期 SOMAFCO 支援から日本が世界最大の対南ア貿易パートナーになる(1987.12)まで

この時期には、アパルトヘイトを考える市民の会(名古屋、1985年)、日本反アパルトヘイト女性委員会( 大阪、1985年)、広島アフリカ講座実行委員会(1986年)、松戸アフリカから学ぶ会(1986年)、反アパルトヘイト委員会・熊本(1986年)、さらにこの時期の後になりますが札幌・反アパルトヘイト委員会(1988年)、ごめんだアパルトヘイト神戸の会(1988年)、反アパルトヘイト下関、千葉アフリカから学ぶ会(1989年)…など、多くの反アパルトヘイト市民団体が生まれ、協同して国外からゲストを招いたり、政府や南アフリカ進出企業に圧力をかけたり、南アフリカの新聞に反アパルトヘイトの意見広告を出したりするようになります。この時期の総括は次のようになります。

この期に欧米では市民運動や政府の圧力によって南ア進出企業の撤退が始まる。特に米国では「包括的(反)アパルトヘイト法」が成立。日本政府と企業の動向は鈍く、ついに1987年には、日本の対南ア貿易額が世界一位となり「アパルトヘイトのパートナー」と呼ばれ国際世論の矢面に立たされる。JAACも毎年国際会議に代表を送り、日本の荷担の状況を報告せざるを得なくなる。国内にもようやく南ア商品ボイコット、南ア各紙への意見広告掲載、進出企業批判の全国ネットワークが生まれる。

第5期 アパルトヘイトの最大のパートナーからマンデラの釈放(1990.2) まで

この時期は日本の反アパルトヘイト運動の最盛期です。もちろん国際的にもそうです。長く紹介する時間はありませんので、総括的な報告を読みます。

ー日本でも著名なミュージシャンや芸術家たちが反アパルトヘイト運動に参加してくる。国内の反差別団体や労組などが参加してきて、南ア商品ボイコット運動も大きな成果を上げた。熊本県球磨川上流の坂本村の中学生たちは「アパルトヘイトを考える会」を作り、「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」の村内開催に尽力した。人口5,000 に満たない村民の2,000人が反アパルトヘイト美術展に足を運んだ。
行動委員会内部にも中・高校生の活動グループ(SAFE セクション)が誕生して反アパルトヘイト運動を担った。この時期に生まれた行動委員会のグループやセクションは、女性グループ、商品ボイコット・グループ、インターナショナル・グループ、南アの人たちに手紙を書くセクション、ナミビア支援グループ、ニュースレター編集グループ、意見広告グルー…などである。沢山のブックレットやパンフレットが生まれ運動の広がりに貢献した。外国人、主婦のメンバーも増え活動を支えた。
版画家の降矢洋子の毎年の「反アパルトヘイト・カレンダー」は、国内外の反アパルトヘイト運動を盛り上げた。社会党の議員を中心に反アパルトヘイト議員連盟が誕生するのもこの時期である。ANC の東京事務所が1988年5月に開設され、ジェリー・マツィーラの活動が始まる。
国家権力の掌握を間近に控えたANC と、常に権力批判の立場をとって来た市民グループの私たちJAAC の間に様々な摩擦が生じてくるのは必然だったかもしれない。
1988年8月にJAAC は、国連アパルトヘイト特別委員会の支援を得て、東京で初めての国際集会「反アパルトヘイト・アジア・オセアニア地域ワークショップ」を早稲田奉仕園で開催した。私たちはアジアや日本国内のさまざまな反差別運動の活動家たちを招いて報告してもらい、その中で南アの反アパルトヘイト運動について考え合おうとした。
実際、独立した反アパルトヘイト運動組織があるのはアジアでは日本とインドくらいのものだった。アジアからの参加者の中には自国で弾圧された経験を持つ人もいた。
ANC はこの会議は反アパルトヘイトがトップ・プライオリティー(最優先事項)であって、それ以外の差別の問題に時間を割くことに難色を示した。また、ANC との関係がよくなかったPAC をも南ア代表として私たちが招待したことにも不満を持っていた。
こうしたANC との摩擦は、1990年10月にマンデラが来日した折にも顕在化した。ANC はマンデラと日本の財界や宗教界との会見には時間を割いたが、反アパルトヘイト運動団体のAA 連帯委やJAAC は最後に回された。それも会見でなく「表敬訪問」とされた。だが、結局それもドクターストップということで、私たちはマンデラに会うことはかなわなかった。-

第6期 マンデラの離日からマンデラ大統領のもとでの新生南ア国家成立(1994.5) まで

この時期についても、説明抜きで総括文を読ませていただきます。

―アフリカ行動委員会(JAAC-Tokyo)の最終章であるこの5年間は、反権力闘争の闘士であったネルソン・マンデラがANC 政権のもとでの新生南ア国家の最高権力者にかわる時期である。そのことの意識の切り替えに私たちは戸惑った。「権力闘争と反権力闘争を見間違うな」とある新聞記者にやんわりと諭されたが、私たちはそれほどに世間知らずだったのかもしれない。
この期の運動の前半は、まだアパルトヘイト根幹諸法も廃絶されておらず、アパルトヘイト体制が続いているにもかかわらず、南アに対する経済制裁を解き、南アとの経済・政治関係を再開しようとする「歴史健忘症」の日本の政財界に対しての「制裁解除時期尚早!」のキャンペーンに終始した。
自社・自国の利益のためにアパルトヘイトに、公然とあるいは密かに荷担し、アフリカ人の人権を踏みにじることに手を貸してきたことも反省せず、その責任をとろうともせず、新生マンデラ政権にすり寄っていく企業人や政治家、役人たちを目の当たりにして、私たちは重い疲労感にさいなまれた。
また、激化しつつあった凄惨なアフリカ人同士の権力闘争を、相変わらず「部族抗争」などと表記してはばからない日本のジャーナリズムにも辟易させられることが多かった。
1990年代半ばから短い期間だが、私たちは南アの草の根組織と出会い、日本で資金を募り、現地のスクォッター・キャンプ内の学校建設に協力する援助活動にかかわった。
が、これはそれまでの反アパルトヘイト運動とは別の哲学と技術を必要とするもので、何の経験もない私たちには荷が重すぎ、活動は空中分解してしまった。この総括はまだ終わっていない。かくして1960年代に始まったアフリカ行動委員会(Japan Anti-Apartheid Committee-Tokyo) の運動は、アパルトヘイト体制の崩壊と新生南ア国家の誕生を見届けて幕を閉じた。―

最後になりますが、資料の末尾に付しておきました、私のまったく個人的な総括(「個人的な感想」)を読み上げて、報告を終わりたいと思います。

―皮膚の色や人種・民族の違いといったひじょうに曖昧な概念にもとづいて、人が人を差別し、そしてシステム〈国家〉がある種の人たちを抑圧し搾取する南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)への、一人ひとりの人間的な怒りから、アフリカ行動委員会は出発した。そうした非人間的な隔離・差別政策に日本の企業や国家が荷担しているという事実に直面して、私たちの怒りは外と内に同時に向かうこととなった。
「私はアパルトヘイトを許さない!」「『名誉白人』なんてごめんだ(他者への抑圧に荷担したくない)!」、この2つのスローガンを核にして、市民運動としてのアフリカ行動委員会の運動は始まった。爾来30年、年齢・性別・国籍・職業・出自…も異なる数限りない人たち(市民)が、それぞれにまた違った固有の思いや願いや怒りをもって、反アパルトヘイト運動にかかわってきた。
その一人ひとりの固有の思いや願いや怒りが、アフリカ行動委員会の運動に人間的な厚み・深さ・広がり・豊かさをもたらしたと同時に、それらがまた、私たちの運動に社会的・国際的な狭量さ・閉鎖性・不寛容をもたらしもした。ともあれ私たちの運動は、曲がりなりにもアパルトヘイト体制の崩壊を見る日まで続けることができた。
人口登録法などのアパルトヘイト根幹法の廃絶と新生民主国家(マンデラ政権)の誕生とともに、南アにおける日本人の「名誉白人」処遇も意味を失い消滅した。南アフリカの民衆・市民が文字通りいのちをかけて闘いとった民主国家であるとしても、非人間的で苛酷な差別や抑圧がすべて消えたわけではない。アフリカ人の間の経済的・文化的格差などはアパルトヘイト体制以前よりも増した部分もある。民衆の権力への闘いは続くのである。
日本で反アパルトヘイト運動に関わって来た人たちの中には、新生南アの草の根の民衆の闘いに手を伸べるべく新たな連帯・支援の運動を始めた人たちもいる。私たちはそれに対して敬意を表する。私たちは新生南アの民主国家の誕生を見届けて、1995年に解散することにした。規約もメンバー制も何もないアフリカ行動委員会ゆえに、「解散」というのは正確ではない。
事務所を閉鎖せざるをえなくなり(1993年10月)、『あんちアパルトヘイトニュースレター』も廃刊となって(1995年11月)、自然と消えてしまったと言ったほうがよいだろう。
一人ひとりまた、様々な思いを胸に、それぞれの暮らしの現場にもどっていった。その選択が早かった人もいれば、遅かった人もいる。その違いは、一人ひとりの固有の事情によるものであって、早い遅いはあまり意味がない。それが市民運動の面白いところであり、誰にでも開かれているところだろう。
松本仁一さんが『あんちアパルトヘイトニュースレター』最終号に、市民運動は権力に反対する運動であり、「反権力闘争にはゴールはありません。権力が存在するかぎり、永遠に続く闘いなのです。しんどいけれど、粘っこく続けていかなければならないものです」と書いてくれた。
南アフリカの市民がANC 政権下の新生民主国家のさまざまな権力に対して、自力で様々な草の根の市民運動を始めているように、私たちも自らの暮らしの場に戻って、私たち自身が権力にならないためにも、またそれぞれの市民運動を「粘っこく」続けていきたいと思う。またいつか、南アフリカの市民たちと手を組まなければならないときが来るかもしれない。あるいは、南アフリカの市民の手を借りなくてはならない時がくるかもしれない。-

2014年10月


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