公開研究会「反アパルトヘイト運動の経験を振り返る」に参加

Report of the open workshop:‘Looking back the experiences of anti-apartheid movements in Japan’

『アフリカNOW』102号(2015年12月31日発行)掲載

執筆:宮森万由子
みやもり まゆこ:2011年学習院女子大学入学。「答えは一つではない」おもしろさから国際協力にのめり込む。大学2年次に研修でラオスを訪問し、現地の人々の温かさに触れ、本当の豊かさとは何かを考えさせられる。大学3年次には、もっといろいろな考えを知りたいと1年間のアメリカ留学を経験。現在は社会人1年目。大学時代を通して得た多くの出会いに感謝し、自分なりの国際協力との関わり方を模索している。趣味はクラリネット。


私は2014年10月11日、公開研究会「反アパルトヘイト運動の経験を振り返る」に参加した。参加のきっかけは、大学での「アフリカ文化論」の授業で学外のセミナーや講演会に参加し報告・考察するという課題があり、担当の津山先生が紹介された中にこの公開研究会があったからである。反アパルトヘイト運動に関わった方々から直接に話を聞くことができ、当時のことについて学んだだけでなく、人としての生き方について考える機会となった。その時に提出した課題レポートをもとに、公開研究会を振り返りたい。

「反アパルトヘイト運動の経験を振り返る」参加レポート

この研究会の冒頭で司会の牧野久美子氏は、このテーマを選ぶに至った経緯を3つの理由と共に説明した。第一に、今年は南アフリカにおけるアパルトヘイト廃止20年目を迎える節目の年であること。反アパルトヘイト運動は、”Global Justice” を求めて地球規模で展開されるさまざまな運動の先駆的な存在として、さらに南アフリカの現代史に重要な意味をもたらしたものとして注目を浴びている。第二に、南アフリカ以外の国々で行われた反アパルトヘイト運動については現在、2巻の分厚い本にまとめられているにもかかわらず(1)、その中で日本の反アパルトヘイト運動について取り上げられていないことに疑問を抱いたこと。第三に、南アフリカに関する情報、当時の南アフリカ、また反アパルトヘイト運動に関する情報を日本語でアクセスできるようにすることの意義を感じたこと。牧野氏自身、南アフリカについて興味を持った際に、日本語の資料が図書館などに置かれていたということが大いに役立ったと述べていた。そこから、多くの人が情報にアクセス出来るよう資料を保存・整理することの重要性を実感したという。これらの理由により、反アパルトヘイトの運動の経緯をまとめ、記録・整理して残すプロジェクトは始められたのである。

この研究会では時系列に沿って多くの方が、当時の様子を、なぜ南アフリカに関心を持ち反アパルトヘイト運動に参加したか、反アパルトヘイトはその後の人生にどう影響したかを含めて話した。時系列に沿って区分されたそれぞれのセッションについて、印象深い発言を中心にまとめていく。

第一セッションでは、日本における反アパルトヘイト運動の先駆者である楠原彰氏により、アフリカ行動委員会の約30年の活動が振り返られた。楠原氏は冒頭に、特に名乗らずに反アパルトヘイト運動を行っていた人も多数いたこと、日本のいくつもの都市において広範囲に渡って運動が行われていたことに言及した上で、アフリカ行動委員会(JAAC-Tokyo) を中心に運動の経験を振り返った。楠原氏自身に多大な影響を与えた上原專祿氏の「南アフリカの人々の解放は日本人の解放である」という言葉を紹介し、日本における反アパルトヘイト運動は、日本国内における差別問題などと常にセットで行われていたと説明。この点は、反アパルトヘイト運動のプライオリティは何かを問うイギリスなどの運動体には理解されなかったが、それぞれの抱えている問題を扱うという流儀で活動していた点が特徴的だったと話した。

第二セッションは、1963年から反アパルトヘイト運動を始めた「初期」のメンバーによる活動報告。渡辺一夫氏は、1962年に結成された団体「アジア・アフリカの仲間」について振り返った。この団体は、アジア・アフリカに関心を抱いていた学生や社会人など50〜60人で結成されたもので、アジア・アフリカについて知るための「学校」という役割が強かったと、渡辺氏は述べていた。反アパルトヘイト運動のために南アフリカの歴史を紹介したスライドを作成し、各地を巡回。さらに、自衛隊の百里基地(茨城県)反対デモに参加するなど、日本の問題も同時に取り上げていた。久保利英明氏は、「アフリカを暗黒大陸として放置していないか」という問題意識を持っていた友人に感化され、東京大学において「インクルレコ」(INKULULEKO)を結成。1968年には、支援物資の短波ラジオを届けるためにアフリカを訪れた。このセクションでは計5人の方が話したが、共通していたのは「市民自治」「行動し続けることによって社会づくりに参加する」「市民意識」といったキーワードであった。彼らは、行政に一任せず、自らが意見をまとめ、ものを言う姿勢を保つことによって、自ら社会を築いていくというスタンスを取っており、その精神が反アパルトヘイト運動にもつながっていたのである。

第三セッションは、日本の反アパルトヘイト運動の「最盛期」のメンバーによる活動報告であった。上林陽治氏は、アパルトヘイトと日本における非正規雇用の現状を比較して述べ、黒人差別に気づかないアパルトヘイトと、非正規従業員への差別に気づかない日本の現状には共通点があると言及した。さらに、当時’Anti-Apartheid’ のT シャツが、かっこよさを求める若者に大人気であったと明らかにした。アフリカ行動委員会のニュースレター作成に関わった須関知昭氏は、「当時は紙媒体のニュースレターのみを発行していたが、これにはお金の制約があった。今は無料で発信できるインターネットがあるが、インターネットは情報の確実な記録という面で制約があるだろう」と発言。文学や文化の側面から反アパルトヘイト運動に関わったくぼたのぞみ氏は、自分自身が運動に関わった経緯について、「アパルトヘイトは、北海道出身であるがアイヌの存在が見えないという自分自身の足場を考え直すための伏線だったのではないか」と振り返っていた。1976年からアフリカ行動委員会に参加した笹生博夫氏は、日本の日雇労働者に南アフリカの現状を伝えたところ、少ない所持金の中からも寄付をしてくれたというエピソードに触れ、日雇労働者の人々は、南アフリカとのつながりを感じたのではないかと述べていた。このセッションでは、計8人の方が話し、すべての方が反アパルトヘイト運動だけを単独で行っていたのではなく、日本の中における問題にも目を向けていたことがうかがえた。

第四セッションは、「地域の反アパルトヘイト」と題し、静岡市や千葉県松戸市を拠点とした反アパルトヘイト運動に携わった方々の話を聞いた。静岡では、「アフリカがわかれば世界がわかる」と題してアフリカについて学ぶ会が開かれ、地域でのビラ配りや、「南アフリカで『名誉白人』として待遇されている日本人は優秀だ」と主張する新聞のコラムに対して抗議をするなどの活動を行った。内山緑氏は、「当時『名誉白人』として南アフリカに住んでいた人々の気持ちも複雑だっただろう」と発言。千葉県松戸市で活動していた利光朝子氏は、現在は千葉県で在日外国人の支援活動を行っていると報告。アパルトヘイトと日本の問題は常に同列にあり、自分に何ができるのかを考えていたと述べた。

これらの各セッションを経て、ディスカッションの時間が設けられた。ディスカッションの中核を担っていたのは、「南アフリカと日本」という視点である。「南アフリカにはアパルトヘイトという差別問題があったが、それでは日本にある差別構造はどうなのかという問い返しがなかったのではないか」という意見に対して、「反アパルトヘイト運動に関わることで、日本の部落差別やアイヌの問題に向き合う機会が増えた」「大阪では反アパルトヘイト運動は民族差別や部落差別の問題と共に動き出していた」という意見が出された。

さらに自分自身の問題として、「南アフリカを通して権力に対してNO と言える社会を創ること、子どもが平和で人間らしく生きていける社会を築くことの重要性を感じた」「反アパルトヘイト運動を土台として、人間に対する考え方や社会に対する考え方を捉え直した」「アパルトヘイトと関わることは、人間としての関わりであり人間としての共感でもあった」と振り返る意見も出た。

最後に楠原氏から、「自分がやっている一番大事なことを伝える際、聞いている側にはまた別の問題がトッププライオリティにある。自分の関心を中心に地球が回っていると捉えることをやめ、伝える際には、聞いている側の問題に寄り添う姿勢が必要なのでは」という問いかけがなされた。

私自身が考えたこと

私が初めてアパルトヘイトについて知ったのは、小学校の国語の教科書に載っていたアパルトヘイトに関わる物語だった。はっきりとは覚えていないのだが、黒人はあらゆる差別を受けており、この白いベンチに座ることも許されていない、といった内容だったと思う。それから私は、「アパルトヘイト=白人による黒人差別」という単純な構造で把握するようになっていた。しかし実際には、さまざまな要素が複雑に絡み合い、もちろん、白人と黒人という2つの人種だけが関わったものでも決してないことを、大学の授業を通して知ることができた。今回の公開研究会では、日本における反アパルトヘイト運動について話し合われることを聞き、その時代に日本人がどのように運動に関わったのかを知りたいという思いで参加を決めた。

しかしすべての方の話は、私が想像していたものとまったく違っていた。というのも、運動に関わった人々の根底には、「南アフリカで起こったアパルトヘイト」とだけ捉えるのではなく、日本における差別やさまざまな問題への意識が常に並行しており、その中で反アパルトヘイト運動が行われていたからだ。つまり、遠い南アフリカで起こったことという意識はまったくなく、自らと関連付けて運動を行っていた。楠原氏に影響を与えた言葉として、「アパルトヘイトと『名誉白人』がなくならないかぎり、日本人は真に自由になれない」「南アフリカの黒人たちの自由と解放は、私たち日本人の自由と解放の問題でもあるのです」という言葉があり、楠原氏の著書『アパルトヘイトと日本』でも引用されている(2)。そして、この著書の「まえがき」では、日本の子どもたちが置かれている偏差値に縛られる現状、「家庭と学校と国家がつくりだしている巨大な産業社会の目に見えない暴力」(3)と南アフリカの子どもとの間にどのようにしてどのような希望の橋を架けるのかという思いが記されている。こうした、日本に目を向ける姿勢は、大学で国際協力を専攻としているものの、私にとって大いに足りない面だと反省した。

加えて、「おかしいことに対して声を上げること」「自分に何ができるのかを考えること」という姿勢や意識は、すべての方の意見に共通しており、その姿勢は今なお色あせていないことを強く感じた。「過去」にあった反アパルトヘイト運動を振り返るというよりも、これからの未来を担う私たち若者が、この姿勢を見習うために日本における反アパルトヘイト運動を振り返るということがいま注目されるべきなのではないかと感じた。私自身、与えられてきたことをこなすというだけの自分の人生そのものを考えさせられる機会になった。

(1)The Road to Democracy – Volume 3 ‘International Solidarity’(2008) and Volume 5 ‘African Solidarity’ (2013), South African Democracy Education Trust: SADET
(2)楠原彰『アパルトヘイトと日本』亜紀書房、1988年、p.191
(3)ibid.「まえがき」p.vi


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