コートジボワール:10年ぶりの大統領選とバボ前大統領

原口武彦さんへのインタビューと論考を参照して
Who is Lauren Gbagbo, a brave fighter for democracy or a power-obsessed politician?

※ 本稿は、2011年12月27日に開催した原口武彦さんへの公開インタビュー「コートジボワール選挙後混乱の背景にあるもの」と原口さんの論考などを参照して、村田はるせさんが執筆しました。

出典『アフリカNOW』No.94(2012年3月31日発行)

執筆:村田はるせ
むらた はるせ:保育士として勤務した後、ニジェールに青年海外協力隊員として派遣される。帰国後、大学・大学院で学び、現在はアフリカ文学とくにコートジボワール作家やアフリカ児童文学の研究を続ける。東京外国語大学博士後期課程修了。富山市在住。2011年にアフリカ文学入門講座を富山で開催。2012年5月からアフリカ関係の図書や映画を取り上げる読書会を準備中。


2010年10月の大統領選挙後の混乱と私たちの疑問

コートジボワールでは2010年10月に10年ぶりの大統領選挙が行われた。2002年に内戦に陥り、国が南北に分断されたこの国は、この選挙を内戦終結の象徴にしようとしたが、選挙結果をめぐって大きな混乱が起き、事態がようやく沈静化したのは2011年4月のことであった。

2010年10月の大統領選挙第1回投票では過半数を得た候補がいなかったため、同年11月に上位2候補の決選投票が行われた。あい争ったのは、現職のローラン・バボ(ローラン・バグボとも表記される。Laurent Gbagbo)と、挑戦者のアラサンヌ・ワタラ(アラサン・ワタラとも表記される。Alassane Ouatara)であった。選挙管理委員会は内部対立もあって結果発表に手間取り、はてには選挙結果の公表の場で、メンバーの一人が結果の公表に反対して公表文を破棄するという前代未聞の出来事も起きた。こうした混乱の中で選管が発表した結果は、ワタラが54.1%の票を得て45.9%のバボを破り勝利したというものであった。ところが、バボ側はすでに投票妨害などを憲法裁判所に訴えており、憲法裁判所はこの訴えを認め、投票の一部を無効として集計をしなおし、選管とは逆にバボを当選者とした。選挙結果をめぐり両陣営は激しく対立し、多数の死傷者も出た。国連、ヨーロッパ連合(EU)、アフリカ連合(AU)、フランス、アメリカなどはワタラ勝利を支持したが、バボ側も譲らず、一つの国で2人の大統領が就任宣言をして組閣する事態となった。

選挙から約4ヵ月後の2011年3月末には、北部からワタラを支持する元反乱軍が南下、コートジボワール最大の都市アビジャン(Abidjan)に攻め入った。両陣営の武力衝突が拡大するなか、国連軍やフランス軍が介入してワタラ陣営を支援。大統領官邸に留まって強硬に抵抗していたバボが4月11日に拘束され、事態は沈静化した。5月にはワタラが正式に新大統領に就任したが、元反乱軍がアビジャンに攻め入った際には、ワタラ支持派とバボ支持派双方の武装勢力が民間人を殺害、強姦、略奪を行ったと報じられており、多大な犠牲を出して誕生したこの政権は、国内和解という大きな課題を抱え込むことになった。

大統領選挙後の事態の推移については日本でも報道され、2011年4月6日には在コートジボワール日本大使館に武装勢力が侵入し、大使がフランス軍によって救出されたこともニュースになった。しかし、日本での報道からは、言語の問題もあって、なぜこうした事態となったのかを理解することはなかなか難しい。両陣営の武力衝突にまで至った背景にはどんな経緯や事情があったのか。そもそもこの事態の中心にいるバボそしてワタラとは何者なのか。

今日、アフリカで起きている出来事について、インターネット上のニュースや外国メディアの放送を通して情報を得ることは難しくない(1)。だがもう少し踏み込んで、アフリカのとある国の政治家が何者なのかを知るのは簡単ではない。しかし彼・彼女らについて知ることができれば、もっと見えてくることもあるだろう。当事者ではない私たちが知ることはもちろん限られているが、それでもそこに目を向けることは無駄ではないはずだ。遠いアフリカで起こっていることを自分に引きつけて見れば、世界がどのように動いているのか、私たちとアフリカの関係はどのようなものかをもっとよく知ることができるだろう。

2011年12月27日、フランス語圏アフリカの政治・経済を長年研究し、「こんな政治家はいったいどんなところから出てきたのかと思って、バボの実家に行ってみたんだよ」と言う原口武彦さんに、ローラン・バボの人物像について聞いた。さまざまな逸話や興味深い視点からの観察もあり、多くのことを学ぶ機会になった。原口さんへのインタビューと原口さんの論考を参考にして、バボの人物像とワタラとの対立の背景について整理して紹介する。

1 ローラン・バボの政治活動

1-1 ローラン・バボの登場

2011年4月11日に大統領官邸で拘束されたローラン・バボ前大統領は、その後コートジボワール北部のコロゴ(Korhogo)で勾留されていたが、11月29日に突然オランダ・ハーグにある国際刑事裁判所(ICC)に移送された。バボはいつ、どのようにして政治の世界に入り、コートジボワールの政治にどんなインパクトをもたらしたのか。バボの軌跡をたどってみる。

コートジボワールはココア(カカオ)やコーヒーの輸出によって、独立から1970年代末までは、「ミラクル・イボワリアン(象牙の奇跡)」と言われるほどの高い経済成長を続けた国であった。初代大統領フェリックス・ウフエ・ボワニ(Felix Houphouet-Boigny)は、コートジボワールのフランスの植民地時代にココアやコーヒーを栽培していたアフリカ人農園主の組合を基盤にして政治家になった人物である。彼には、1946年のフランス国民議会に植民地での強制労働廃止法案を提出し、可決させたという華々しい功績があった(2)。政治活動を一切禁じられていたアフリカのフランス植民地住民は、第二次世界大戦後、フランス国民議会に代表を送る権利が認められ、コートジボワール植民地の代表として選出されたウフエ・ボワニは、独立前から有力な政治運動指導者になっていた。

コートジボワール独立の1960年に初代大統領に就任したウフエ・ボワニは、1993年に88歳で死去するまで7回の選挙を勝ち抜き、実に30年以上も大統領を務めた。また、彼が率いていたコートジボワール民主党(PDCI)は独立前の1959年、まだ自治共和国だったコートジボワールの選挙で他の政治勢力を統合して全議席を獲得。それ以来ウフエ・ボワニ政権は一党体制を維持した。

1985年に80歳でのぞんだ第6回目の大統領選挙でウフエ・ボワニは、なんと100%の票を獲得している。原口さんによると、そのような大統領は、後にも先にも世界でウフエ・ボワニただ一人。「(あれは)夢だったのかと、いまでもときどき思う」と語った。そんなときには、この結果を報じた政府系日刊紙『フランテルニテ・マタン』(Franternite Matin)1985年10月29日号を再読するのだという。この事実から、ウフエ・ボワニがどれほど絶大な権力を振るっていたかがうかがえる。しかし、このような選挙が行えたのも、この1985年の選挙までであった。

原口さんがアジア経済研究所の海外調査員として初めてコートジボワールに長期滞在したのは1982?84年。前述したように、コートジボワールは独立後の約20年間は経済成長を享受し、大きな社会的混乱もなかった。同時期の多くのアフリカ諸国は政変や内戦を経験しており、この国はその点でも奇跡的であった。ところが1980年代に入ると、主要輸出産品のコーヒーとココアの国際価格が下落、それに対外債務も重なり、経済状況は悪化の一途をたどっていった。このため政府は、公務員の人員整理や国営企業の統廃合といった財政緊縮化策(構造調整政策)を講じなければならなかった。原口さんが着任した時期のコートジボワールはまさに転換期にあった。

原口さんのコートジボワール着任の直前には、この国の政治のその後を予告するような騒動が、唯一の国立大学であるコートジボワール大学で起こっていた。原口さんの滞在記『アビジャン日誌』によると、この騒動で指導的な役割を果たしていたのが、当時すでに「学内でも反体制派として知られ」ていた歴史・地理学教授のローラン・バボであった(3)。1945年生まれの彼は、中西部のガニョア(Gagnoa)という都市近郊出身のベテ人で、このときすでに2回の獄中経験があった。大学在学中の1969年に15日間、その後、当時コートジボワールの首都であったアビジャンで高校教師を務め、1971年からは2年間、いずれも反政府政治活動の罪に問われて投獄されていた。

この騒動の発端になったのは、1982年1月に開催される予定だったシンポジウムで、それは「一党制のもとで民主主義はありうるか」という、強固な一党制を敷いていたこの国ではたいへん挑戦的なタイトルを掲げたものであった(4)。しかしこのシンポジウムは中止になり、すぐに別の講演会が企画される。そのときの講師がバボであった。ところが、大学当局は講演会を許可しなかったばかりか、警官隊出動を要請して会場を封鎖。抗議デモに集まった学生たちの間に流れた「バボ逮捕」という不正確な情報に学生たちは興奮し、学長を軟禁、警官隊が学長を救出し学生の一部を逮捕するという騒ぎになった。こうした中、それまで政府公認の組合であった高等教育教員・研究者組合(SYNARES)が「学内の自治、表現の自由」の侵害に抗議して、無期限スト突入を教育省に通告。これに対して政府は、アビジャンの大学とすべての高等教育機関の封鎖、奨学金の支払停止、学生寮の閉鎖、SYNARESの解散などの対抗策を打ち出し事態の収拾を図った。

原口さんは、政府のこの措置は、「この国の学生・教員がこの国の特恵者層であることを印象づけ国民各層から浮きあがらせよう」としてなされたものと分析している(5)。というのもこの当時、学生や大学教員、研究者たちはたいへん恵まれた環境にいたからだ。当時、労働者の法定最低賃金が月額で約3万CFA(セーファー)フランだったのに対し、大学生は全員、毎月4-9万CFAフランの奨学金を受け、配偶者手当や子ども扶養手当も支給されていた。そのうえ、ほぼ全員が入る学生寮も格安、電気・水道代は無料、大学食堂の食事代も低く抑えられ、学生寮とキャンパスを往復するバスは無料などの特恵待遇を与えられていたのだ。原口さんがコートジボワールで滞在した学生寮には、シャワーやガスを使える台所もあり、一般の人々生活から考えればたいへんぜいたくな施設だったそうだ。高等教育機関の教員はさらに優遇され、月額37万1000?74万2000CFAフランの給与に加え、家具つきの教員用住宅が無料で提供されていた(6)

現在もそうだが、コートジボワール社会では大学進学者や研究者は選び抜かれた人々であった。『アビジャン日誌』によれば、1982年ころに小学生数は100万人以上、就学率は65%以上に達していたのに、中等教育施設の数は進学希望者の増加に追いつかず、1979年度には約18万人の中学校進学希望者のうち、中学校に入学できたのは5万人余り(うち私立中学校が2万人)でしかなかった。さらに、どうにか中学校に進学した生徒たちも、4年後には合格率約13%という高校進学試験を受けねばならず、高校進学後も試験を経て大学生になれる確率は14%でしかなかった(7)

こうした状況のもとでまさにエリートである大学生・教員は、ブラック・アフリカ随一の特恵待遇を受けていた。ところがコートジボワール政府は、ひとたび学生・教員が反体制的な動きを示すと、これらの待遇を盾に押さえ込みにかかった。実際、民衆の感覚からかけ離れた特権的な恩恵を受けていた彼らの運動は一般大衆の共感を得ることはできなかった。一党制への批判は、学生・教員の生活の糧を断ち、さらに論点もすり替えるという方法で抑えつけられたのだ。

それにしてもこの時代は、まだ国家が丸抱えで学生の面倒をみたので、貧しい家の子どもでも優秀であれば社会的に上昇するチャンスがあった。しかしその後、コートジボワールを含めたアフリカ諸国はさらなる財政危機に苦しみ、教育も有償化されていく。

バボが講師として、一党支配に真っ向から挑もうとした講演会は行われなかった。この出来事に続く1985年の大統領選挙で、ウフエ・ボワニが100%の得票で6回目の当選を果たしたことはすでに述べたとおりである。挑戦者バボは、特権を享受する世間知らずの大学教員だったのだろうか。それとも彼は、どこまでも踏ん張りぬくと決意していたのだろうか。いずれにせよ、コートジボワールにこのような人物がいることを原口さんが初めて知ったのは、この騒動がきっかけであった。その後、彼が大統領にまでなるとは、そのころは予想もできなかったことだろう。

1-2 亡命、そして大統領選挙に立候補

バボは1982年の大学騒乱の後すぐにフランスに亡命し、1988年まで帰国しなかった。報道によれば、帰国するとバボはウフエ・ボワニを訪ねて謝罪したという。ウフエ・ボワニは、「小鳥は大樹と仲たがいすることはない。小鳥とはこの若者のことであり、大樹とはコートジボワールのことである」と答えて歓迎したと報じられている。しかし原口さんによれば、後にバボは著書の中で、会見は意に反したものだったと述べているとのことだ(8)

帰国したバボはさっそく、複数政党制への移行を要求する運動の中心に立った。1982年に彼が取り組んだのも一党制批判であったが、情勢は大きく変化し、1990年にはコートジボワールも複数政党制に移行した。そして、バボ自身も大統領選挙に立候補した。彼はコートジボワール史上初めてウフエ・ボワニへの挑戦者となったのだった。

1989年末のサハラ以南アフリカ47カ国(当時。1993年独立のエリトリアを除く)で複数政党制を実施していたのはわずかに7カ国のみであった。しかもその中には、当時アパルトヘイト体制を敷いていた南アフリカも含まれていた。他の40カ国は一党制ないしは軍事政権のもとにあった。しかし、1989年にソ連や東欧諸国が民主化の波にのまれると、サハラ以南アフリカにもその影響が現れ、民主化運動もますます盛んになった。国際的な圧力もあり、1990年1月から1994年末までに31カ国が複数政党制に移行した(9)

しかしコートジボワールの民主化がすんなりと進んだわけでない。1989年、ウフエ・ボワニは国民の民主化要求に対して、「複数政党制の前提となる同質的な民族がコートジボワールには未だ形成されるに至っていない」ので、複数政党制を導入すれば「部族的基盤に立つ部族主義政党の林立を招く」ことになり、政治抗争によってこの国は危機に陥るだろうと反論していた。ところが翌1990年に政府が公務員給与引き下げなどを含む国家財政再建案を発表すると、アビジャンを中心に激しい抗議行動が起こり、ウフエ・ボワニは事態収拾の手段として、複数政党制への移行を打ち出さざるをえなかった(10)。この再建案は、経済危機と多重債務にあえぐアフリカ諸国に、世界銀行や国際通貨基金(IMF)が1980年代ごろから融資の条件として課してきた構造調整政策の一環として出された。奇跡的な成長を誇っていたコートジボワールの経済状況も、この時期にはこのようなものになっていたのだ。

こうして1990年秋に行われた、コートジボワール独立以来7回目の総選挙は初めて複数政党制のもとで実施された。このとき候補者を擁立して選挙戦にのぞむことができたのは18政党で、そのなかにはバボの政党イボワール人民戦線(FPI)も含まれていた。

このときの大統領選は、85歳の高齢だった現職のウフエ・ボワニとバボの一騎打ちとなった。新聞発表された候補者に付いていた肩書きは「農園主」のウフエ・ボワニに対して、バボは「大学教授」というものだった。FPIの候補者も、研究・教育関係者がきわだって多いという傾向を示していた。

前述したようにウフエ・ボワニには、1946年のフランス国民議会にアフリカ植民地での強制労働廃止法案を提出したという功績があり、それが政権の正統性の拠り所となっていた。それに対してバボはこの功績も過去の遺物だとし、自身を新しいリーダーとして打ち出した。地域的なしがらみを基盤とせず、どこの地域からも支持されるナショナルな候補、若者の代表、近代化を推し進める候補として自己をアピールしたのだ。原口さんによると、バボは一貫してこの路線を取り、2010年の大統領選挙でも、支持基盤が北部に偏っていたワタラに対して、自分はそうではないナショナルな候補だと主張した。

この大統領選挙の結果は、バボの惨敗であった。ウフエ・ボワニは81.7%の支持を得て7選を果たした。ただし、このとき2回目の長期滞在中だった原口さんは、この選挙を詳しく分析して、「約55万票(得票率18.3%)の支持を得たバボ候補は予想以上の善戦であった」としている。このときには、野党候補を封じ込めるため、得票率が10%に届かなければ2000万CFAフラン(当時のレートで約1000万円)の供託金を没収するという制度が突然作られたが、バボはそれを免れることができた。またバボの率いる党FPIはこのとき、ウフエ・ボワニのPDCIが全議席を占めていた国民議会に9名の議員を送り込むこともできた(11)

いっぽう、PDCI以外の党が初めて参加したこの選挙により、重大なことが明らかになった。というのもこの選挙は、「部族的基盤に立つ部族主義政党の林立」の恐れがあるとして複数政党制への移行を拒否したウフエ・ボワニのPDCI自体、その支持には部族的な偏りがあると解釈できる結果であったのだ。PDCIが圧勝したのは、ウフエ・ボワニと出自を同じくするバウレ人が多く暮らす中部と、北部のセヌフォ人が多く暮らす地域だった。セヌフォとバウレは系統的にまったく異なる集団であり、またウフエ・ボワニがカトリックであるのに対しセヌフォにはイスラム教が浸透している。しかしウフエ・ボワニは、セヌフォの大首長と1940年代から親交があり、そのことがこの地域のPDCI支持につながっていた。この選挙の際、大首長の息子で前国会議員のランシネ・ゴン・クリバリ(Lancine Gon Culibqly)は、いったんはFPIに入党したが、家族や地域、PDCIの圧力により、選挙数日前に突然PDCIに復帰したという逸話があるという(12)

1990年の選挙は、こうした族的つながりがこの国でしっかりと存続していることを明らかにしたと、原口さんは見ている。そのことは、「象牙海岸」を意味するフランス語で国名がつけられている点にも表れているという。植民地化によってそれ以前にはなかった境界線で領域が分断された結果、独立後のコートジボワールには4?5の異なる系統に分類できる約60のエスニック・グループが暮らし、それぞれに国境の外の同じ出自の人々ともつながりを持ち続けている。それらのどのグループも国内では絶対的多数派にはなれないため、国内の言語や歴史上の王国から国名をつけることができなかったのだ。アフリカの国には珍しく、フランス語で名前がつけられたのも、誰からも不満が出ないようにという配慮があったからだというのだ。しかしながらこの国のジュラ語の話者たちは、自分の国を「コジワリ」と呼んでいる。「コートジボワール」ならぬ「コジワリ」。自分たちの言語にはない言葉、しかも自分ではうまく発音できない言葉を国名にせざるをえないのがこの国なのだ。

原口さんは、国名はアフリカ諸国の独立後の課題を考えるうえで重要だと指摘する。そのことに気づかせてくれたのがベナンの国名変更だったそうだ(13)。この国は1960年にダホメという名で独立した。ダホメは、かつてこの地域で栄えた王国の名称だ。しかし、1972年までの13年間にダホメでは最高権力者が10度も交代した。それは南西部のフォン人、北部のバリバ人、東南部のグン人という国内の多数派を代表する政治家間の抗争と捉えることができる。しかしこの争いの循環をようやく終わらせた後の1975年、当時のケレク政権は、奴隷貿易によって繁栄したフォン人にゆかりの深い王国名ダホメを廃し、隣国ナイジェリアの東南部にあった王国の名前を国名にした。国名の選択には、その国の歴史や住民意識が反映されている。小さなことのようだが、ここにはアフリカ諸国の今を考える一つの切り口があると言える。

1-3 ウフエ・ボワニの死去とバボの大統領就任

大統領選挙で圧勝し7選されたウフエ・ボワニだが、現職のまま1993年末に死去した。その後の政局は、臨時に後を継いだ元国民議会議長アンリ・コナン・ベディエ(Henri Konan Bedie)と、ウフエ・ボワニが1990年に新設した首相に抜擢されたアラサンヌ・ワタラの後継者争いを中心に展開してきた。しかしベディエは、ワタラを出自によって大統領選から排除するような選挙法改正を行い、1995年にコートジボワール2人目の大統領になった。このときにベディエが持ち出したのが、「コートジボワール人であること」を意味する「イヴォワリテ」という概念であった。彼はこれを使って、両親の出自がコートジボワールではない国民の選挙権を制限する選挙法改正を正当化した。ところが外国系であることを理由に市民の権利を制限するこの選挙法改正が、近隣諸国から労働力として大量の移民を受け入れてきたコートジボワールで外国人排斥を引き起こし、それが2002年以降の内戦の下地となったのだ。だが、コートジボワールの経済発展を下支えしてきたのはこれらの外国人だった。ベディエ政権は、1999年12月に独立後初のクーデターによって倒れ、ベディエはフランスに亡命した。

バボはこの後、民政移管のために2000年に行われた選挙で大統領の座についた。この選挙はクーデターの首謀者ロベール・ゲイ(Robert Guei)将軍とワタラの戦いとなるはずだったが、ワタラは法的な措置によって、またしても立候補資格を与えられず、結局はゲイとバボの対決となったのだった。この選挙でも結果をめぐって大混乱が起きた。投票後、ゲイが大統領官邸で一方的に勝利宣言をしてしまったのだ。これに対しバボも勝利を宣言、支持者にデモを呼びかけた。そして大規模なデモ活動と軍による弾圧の後、ようやくバボの当選が確定した。このときには公式発表で171名にのぼる死者が出たうえ、選挙の無効を訴えるワタラ支持者のデモもバボ支持者や軍と衝突し、さらなる犠牲者が出た。ワタラはこの騒乱を避けてパリに逃れた。一方バボは、有力候補ワタラをあらかじめ排除した選挙によって大統領になったため、その政権の正統性に弱みを抱えることになった。

バボ政権はすぐに波乱に見舞われた。2002年9月にクーデターが起き、それ自体は失敗したものの、反乱軍はコートジボワールの北部を支配下に置き、国は南北に分断された。このときゲイも殺害されてしまった。その後、政府と反乱軍で和平協定が積み重ねられたが、2005年に行われるはずだった大統領選挙は延期され続けた。2010年の大統領選挙は、内戦の果てにようやく実施された選挙だったのである。

ところで北部に拠点を置いた反乱軍のリーダーとして頭角を現したのが、今日(2012年4月現在)コートジボワール国民議会議長を務めるギヨーム・ソロ(Guillaume Soro)だ。彼は1990年代の学生運動を出発点に、みるみるうちに政界に食い込んできた。2010年の大統領選当時は、和平協定に基づきバボのもとで首相をしていたのに、選挙後はすばやくワタラ支持に回った。彼はいったいどのような人物なのだろうか。どんな政治家になっていくのだろうか。

2 バボの基盤と人脈?

これまで紹介してきたバボの政治活動にはどのような背景があり、また、どんな人々がバボを囲んできたのだろうか。いくつかの手がかりがある。カトリックのウフエ・ボワニに対して、バボはプロテスタントである。カトリック信仰の歴史があるフランスの植民地であったコートジボワールでは、このことは弱小グループに属していることを意味する。また、ウフエ・ボワニがアフリカ植民地の政治運動に深く関わったフランス共産党に助けられて頭角を現したのに対して、バボはフランス社会党と強いつながりをもってきた。バボが若者に向けて、新しい人間、近代的な人間として自分をアピールしたのは、この国では主流ではないところに拠っていたからこそといえるかもしれない。

もっともウフエ・ボワニは、フランス共産党の強い後押しを受けて1946年に結成されたアフリカ植民地全体を基盤にした政党アフリカ民主連合(RDA)の最高責任者まで務めたのに、RDAが1940年代末に大弾圧を受けるとまもなく共産党との関係を断ち切った。親フランス路線をとるようになった彼は、1956年からコートジボワール独立の日まで、すべてのフランス内閣に入閣。そしてコートジボワールは、他の多くの旧フランス植民地と同様、独立後もフランスの強い影響のもとにあり続けた。そのような国で大統領になったバボは、フランスとどんな関係にあるのだろうか。バボは2002年からの内戦を終結させるための和平協議を繰り返すなか、反乱軍との妥協を迫るフランスへの敵意をあらわにしていった。選挙で選ばれた大統領としては当然のことと言える。しかしそれもまた、反仏で支持者たちを結束させ、選挙を何度も延期して政権の座を守り続けるための方策だったのだろうか。

原口さんは、バボの出身地ウラガヒヨ(Ouragahio)の生家を1991年に訪ねたときの思い出も語った。バボの政党FPIの機関紙編集部を訪れた際にひょっこりバボが姿を現し、その出身地に興味を持ったという。バボの生まれた村は森の奥にあり、生家はトタン屋根と赤い日干し煉瓦の質素な家だったという。バボの父は退役軍人だったとはいえ、どこにでもあるような農村の、さして豊かでもない家庭で生まれたバボが当時の首都アビジャンの名門高校に進学し、やがては一党支配に挑む政治家になったことに深い感慨を覚えたと語った。ウフエ・ボワニの出身地ヤムスクロ(Yamoussoukro)は現在、コートジボワールの首都になっており、りっぱな道路が碁盤目状に整備され、夜も街灯で明るいというが、バボの出身地はその後どうなったのだろうか。

アフリカの政治家たちについては、その妻にも注意を向ける必要があると、原口さんは語る。バボは1969年にコートジボワールで学士号を取得すると、リヨン大学に留学、そこでフランス人の最初の妻と出会った。二人の間に子どもも生まれたが、すぐに離婚。現在の妻はSYNARES以来バボとともに活動し、FPIでも大きな役割を果たしてきたシモーヌというコートジボワール人女性だ。2011年4月にバボがアビジャンの大統領官邸に篭城して抵抗したときも一緒にいて、バボとともに拘束された。ただ報道によると、バボには第2夫人もいる。ナディ・バンバという北部出身のイスラム教徒の女性だ。元ジャーナリストで、広告会社を経営する裕福な人で、親バボの日刊紙も発行していた。彼女はアビジャンでの騒乱の直前に国外に脱出した。バボは結婚については「近代的」ではないスタイルをとっているわけだ。それともバボは北部出身の第2夫人を通して、1990年の大統領選ではウフエ・ボワニが圧勝した北部に食い込もうとしたのだろうか。

いっぽうバボの政敵のワタラは、フランス人と結婚している。またセネガルの初代大統領サンゴールや現大統領のワド(2012年3月の大統領選挙で敗北)の妻もフランス人だ。かつての支配者の国の女性を妻にする政治家たち。政治家をこうした観点から見ることで、彼らの内面の感覚を探ることができるかもしれない。原口さんは、妻の反対で遺体が故郷に帰れなかったサンゴールはかわいそうだと繰り返していた。

またコートジボワール大統領として得られる利権についても考える必要がある。選挙をめぐってあれだけの混乱があったのはなぜか。コートジボワールは地下資源に恵まれている国ではない。独立以来、経済の推進役はココアとコーヒーの生産と輸出であった。ココアの生産は世界第1位である。この国ではココアの実が一つずつ収穫され、豆を取り出し、乾燥などの作業を経て袋詰めにするまでの地味な手作業が、小規模な無数の農家の大人や子どもによって担われてきたことを原口さんは強調した。それこそがコートジボワールの強さだというのだ。この部門をどう守るかがこの国にとって重要であると、注意を促していた。かつてコートジボワールでは、農産物価格安定維持公庫(CAISTAB)という国家機関がココア・コーヒーの流通を一元的に管理していた。新しく誕生したワタラ政権は2011年11月にこれによく似た仕組みを復活させると発表した。それは国家が主要な輸出品の流通をよりよく監視するためだという。このことがなにを意味しているのか、さらなる注目が必要だろう。

それにしてもバボが選挙結果を受け入れなかったことから半年近く続いた混乱の果てに拘束されたバボは、写真では疲れきった表情であった。彼がこれほどに抵抗したのはなぜなのか。このような結果を予測していたのだろうか。彼を最後まで支えた友人たちがいたなら、それはどんな人々なのか。また、アンゴラの大統領は今回の選挙後の混乱でバボを最後まで支持したが、それはなぜだったのか。逆に、セネガルのワド大統領(当時)がワタラを支持したのはなぜか。

支持者に関しては、2011年12月下旬にバボ陣営の代表がガーナのコートジボワール難民キャンプを訪れたというニュースがあった。11.000人が暮らすキャンプにはバボからのプレゼント(米4トン、油、塩、砂糖)が届けられ、「あなた方のこと、コートジボワール全体のことを見守っています。涙を拭きなさい。ローラン・バボ大統領は間もなくあなた方のもとに戻ってきます」というバボの言葉が伝えられたと報じられている(14)。この物心両面のプレゼントを難民は喜びと涙で受けたという。隣国ガーナに逃げ、帰ることができない熱心な支持者がいるのだ。同時期、ワタラ現大統領の妻もみずから率いるNGOアフリカの子どもたち(Children of Africa)の活動の一環として、1.500人の子どもたちを大統領官邸に招いてクリスマスを祝い、全国8.000人の子どもたちにプレゼントを配ったと報じられた(15)

ではバボの支持者たちは、彼に何を見ているのだろうか。2010年の大統領選挙第2回目投票では、第1回投票の候補であったベディエ元大統領はワタラ支持に回った。ベディエとワタラの両陣営は、民主主義と平和のためのウフエ主義者連合(RHDP)という野党連合を結成して、選挙協力を約束した。ベディエといえば、ワタラを排除して1995年の大統領選を有利に運んだ人物である。そんな2人が協調しあえるというのはたいへん驚きだ。しかしこのことは、バボへの支持がそれほどに強力だったことの裏返しかもしれない。原口さんもバボにはどこか引かれてきたようだ。バボが当選した2000年の大統領選後にこう書いている。「ワタラかバボかと言われれば、私はバボに期待したい。有能な国際公務員として国際舞台で活躍し、世銀総裁の推薦状を片手にお里帰りしたワタラより、独立国コートジボワールの空気を良くも悪くも十分に呼吸してきたバボ氏に21世紀のコートジボワールを託したいと考えるのだが、これは一種の身びいきというものか」と(16)。確かにワタラは1990年代以来、大統領選立候補を妨げられ、ことあるごとにフランスに逃亡した。それはもちろん身を守るためだったのだが、こういった人物に国を任せることができるのだろうか。今回の選挙後の混乱の中で最後まで逃げずに抵抗したバボには粘り強さが感じられる。こうした見方に意味があるかどうかを知るためにも、これからのワタラ大統領の統治とハーグの国際刑事裁判所でのバボの戦いを見守っていきたい。

バボに注目して、コートジボワールの大統領選挙後の混乱の歴史的背景について見てきた。わからないことはまだまだ多く、コートジボワール情勢はどんどん変化していく。PDCIは一党制期には国内唯一の政党であったが、2011年12月の国民議会選挙で議席を減らし、ワタラ政権の与党である共和主義者連合(RDR)が議会の絶対過半数を制している。ウフエ・ボワニの後を継いだベディエのもとで、PDCIの求心力はどんどん失われていくようだ。2010年の大統領選での選挙協力において、ワタラ当選の際にはPDCIが首相のポストを得るという約束がなされ、PDCI出身のジャノ・アウス・クアジョ(Jeannot Ahoussou-Kouadio)が首相になった。一方で、ギヨーム・ソロは最高権力にさらに一歩近づいた。ワタラ政権は国内の和解や経済再建、軍隊再編などの大きな課題にどう取り組むのか。これからもコートジボワールを見守り、いくつもの疑問について考えていきたいと考えている。しかしまずは、多くの犠牲を出したこの国の人々にとって、物事がよりよい方向に進むことを心から願っている。

(1) 日本語でのアフリカ関連情報は、次のウェブサイトに詳しくまとめられている。 http://www.arsvi.com/i/2.htm
(2) 原口武彦 作成「ウフエ・ボワニ年譜」を参照 http://www.arsvi.com/i/2houphouet.htm
(3) 原口武彦『アビジャン日誌 西アフリカとの対話』アジア経済研究所、1992年(1985年初版)、pp.34
(4) 同pp.33-34
(5) 同p.37
(6) 同p.37
(7) 同pp.20-21
(8) 原口武彦『部族と国家?その意味とコートジボワールの現実』アジア経済研究所、1996年、pp.141-142。
(9) 同pp.120-121 表「アフリカ諸国の複数政党制移行」。
(10) 同p.123
(11) 同p.126
(12) 同p.138-140
(13) 原口武彦「アフリカ諸国の政変?その分類とベニンの事例」『アジア経済』第19巻第9号、1978年、pp.56-72。
(14) http://news.abidjan.net/h/420547.html
15) http://news.abidjan.net/h/420843.html
(16) 原口武彦「コートジボワールのバボ新大統領」『月刊アフリカ』2001年1月号、pp.2-3。


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