障害者視点のケニアスタディーツアーに参加して

A Kenya tour with a friend with disabilities

アフリカNOW No.93(2012年1月31日発行)掲載

執筆:山下直子
やました なおこ:知的障害の特別支援学校教員を20年勤め、退職後の2009年にケニアの村の小学校でワークキャンプに参加。2010年に障害者の丹羽正吉さん呼びかけのケニアスタディーツアーに参加。旅仲間とケニアの貧しい子どもの学費支援の基金「まさよし夢基金」を立ち上げる。JVCのアフリカ・ボランティアチームにも所属している。


2011年10月下旬の2週間、障害を持った丹羽正吉さん(以下、正吉さん)が呼びかけたケニアスタディーツアーに参加しました。正吉さんは脳性マヒにより体幹機能障害と言語障害を持つ39歳の男性です。自立歩行はできますが、段差や勾配のある所を歩行することや発音は苦手です。名古屋在住で、肢体不自由養護学校(現、特別支援学校)の高等部を卒業し、家業の手伝いをした後、現在は地元の福祉施設で経理部門のパソコン入力の仕事をしています。2005年のピースボートで、ナイロビ(Nairobi)のキベラ(Kibera)スラムで学校運営に携わっている早川千晶さんと知り合い、2009年にキベラスラムの学校を訪れました。
ちょうど人生に行き詰まっていた正吉さんは、スラムの子どもたちと出会い、その姿を見て自分の新たな生き方を見いだしたと言います。日本の中で悩んで行き詰まっている人たちがキベラスラムに来ることによって、新たな生き方をきっと見いだせるのではないかと考え、2010年から自らが呼びかけ人になり「障害者視点の旅 まさよしケニアスタディーツアー」を実施しています。元養護学校教員だった私は、障害を持った正吉さんが呼びかけ人であることと「障害者視点」にひかれて、2010年のツアーに参加しました。このツアーでは正吉さんと旅仲間6人で、貧しい子どもたちの進学を支援しようと「まさよし夢基金」を立ち上げました。私はその支援状況を見るために2011年のツアーにも参加しましたが、その目的以外からも得たことがたくさんありました。

ケニヤッタ空港のバリアフリーロード

2011年10月17日、ナイロビのケニヤッタ空港に降り立ちました。前もって空港に連絡しておいたので、タラップの下には車いすが用意されていましたが、タラップが急な階段なので、若い男性職員が数名すぐにでも抱えて下ろしますよという感じで構えていました。正吉さんは手すりがあるので一人で降りました。タラップの下で車いすに乗せられ、男性職員が押してしばらく滑走路脇を移動しましたが、途中でまた車いすを降りて階段を上り下りする所がありました。この空港のバリアフリーロードは、人力で介助してもらわなければ進めないようになっているようです。一方で、車いすの正吉さんの入国審査は簡単に済ますことができました。前回の2010年のツアーでは、私たちは正吉さんと別に税関を通ったところ、荷物を開けられ、支援物資の説明で苦労しました。今回は正吉さんに一緒に付いていくとあまり並ばず、荷物を開けられるもことなく入国ゲートを通過できました。
到着ゲートを出ると、ナイロビ在住20年の早川千晶さんが迎えてくれました。早川さんはこのツアーのガイドをつとめてくれました。車でナイロビのホテルに向かう途中の路上では、車が止まると物売りの人々が寄って来ます。全盲のおばあさんが孫らしき少年に物乞いのための箱を持たせ、車の列の間をぬうように回っていたのが印象的でした。ホテルは、ナイロビで宿泊するときはいつものンゴングヒルホテルですが、エレベーターがないので、正吉さんには1階に部屋をとってもらっていました。正吉さんは、身の回りのことは一人でできるので前回は一人部屋でしたが、今回は一緒にこられたお母さんと同室になりました。夕食はホテルの貸し切りの部屋でバイキング。正吉さんは、自宅では自分専用の食器で、一人で時間をかけて食べているそうですが、外食のときはすべて介助者による全介助になります。今回は、ヘルパーをしている女性が中心になり介助をしました。飲み物を飲むときに必要なストローも日本からたくさん持参しました。

スラムの学校の子どもたちとの交流

10月18日、早川さんが運営に関わっているキベラのマゴソスクールを訪問しました。キベラはトタンの掘っ立て小屋がひしめき合って建っていて、汚水の流れやゴミの山がいたる所にあり、道路はでこぼこになっています。この道路を正吉さんが長い距離を歩くのは無理なので、マゴソスクールに一番近い地点まで車で移動して、最短距離を歩きました。私たちは別行動で、スラムの入り口から銃をもった警官を雇って護衛してもらい、早川さんとキベラスラムの街並みを見学しながら歩いていきました。カフェに入り、ケニア人のオーソドックスな朝ご飯であるチャイとマンダジ(揚げパン)を15ケニアシリング(約15円)で食べました。この店は7、8人も入れば満員という広さですが、テレビがあります。キベラスラムには水屋、八百屋、肉屋(生肉を常温で売れるまでつるしておくそうです)、炭屋、理髪店、クリニック、写真スタジオ、衣料品店、靴屋(古タイヤから作ったサンダルも売っていました)携帯電話屋など何でもあり、この中だけでも暮らしていけます。その日暮らしの人々のために燃料、調味料なども小分けにして売られています。
マゴソスクールに着くと、授業や校内施設を見学させてもらい、午前中の授業が終わると、子どもたちが歓迎の歌や踊りを披露してくれました。正吉さんは今回が3回目の訪問になるので、すっかり覚えられていて、歓迎の拍手で迎えられました。その後、昼食をごちそうになりました。マゴソスクールでは子どもたちに給食を提供していて、この日は煮豆でした。一人一食10ケニアシリング(約10円)だそうです。給食費を払える家庭は少なく、ほとんど寄付金でまかなっているとのことでした。
マゴソスクールを出た後、早川さんの友人の助産師フリーダーさんが開いているキベラスラム内の助産院を訪問しました。前回のツアーで訪問したときに古着の新生児服を寄付したところとても喜ばれたので、今回は助産師さんの着る白衣も持って行くと、助産師さんたちがファッションショーを始め、大喜びしてくれました。2階には出産が終わったお母さんと赤ちゃんが入院していて、数時間後に退院していきます。私たちと一緒に正吉さんも急な階段を上って、お母さんたちに直接に会って新生児服をプレゼントしました。ここでは新生児服を持ってくるお母さんはおらず、赤ちゃんはただ布にくるまれているだけでした。また、仮死状態で生まれてくる赤ちゃんを蘇生させる技術のある助産師もいますが、手術が必要な特別な場合にはやはり医師にいてもらいたいとのことでした。手術用の機械類はある企業から寄付してもらったそうですが、常駐の医師がいないことが悩みだそうです。
夕方ホテルに帰ると、早川さんの友人で全盲の女性フィリーさんが、介助者なしの一人でタクシーでやってきました。みんなで一緒に食事をした後、希望者はマッサージ師であるフィリーさんにマッサージをしてもらい、私も頼みました。フィリーさんは9歳のときに事故で失明。ティカ(Thica)の盲学校で小学校とセカンダリースクールを卒業し、その後、縁あって日本に留学。専門学校に通い、針灸指圧の国家資格を取得した後に帰国して、ナイロビで出張マッサージを行っています。早川さんのツアーでもマッサージの依頼を請け負っています。フィリーさんは日本語が話せるので、日本人は安心して頼めます。ただケニアでも、晴眼者のマッサージ師の方が有利で、視覚障害者が優遇されているわけではないと聞きました。

ルオの人々の村で

10月19日からは、長屋の寺子屋からマゴソスクールを始めた、創始者のリリアンさんの故郷の村を訪ねる旅になりました。リリアンさんとマゴソスクールの教頭先生オギラさんもこの旅に参加しました。力持ちのオギラさんは前回のツアーでも同行し、正吉さんを介助していました。リリアンさんの故郷はビクトリア湖に面したコクロ村です。この日の午後に車でキスム(Kisumu)に着き、買い物をした後で宿泊先のサンセットホテルに向かいました。
10月20日、車でビクトリア湖岸まで行き、湖畔を散策しました。漁をした船から魚があげられ、女性たちがその場で魚をさばいている様子を見学しました。湖岸がぬかるんでいるので、オギラさんが正吉さんについて歩いていました。車で2時間くらい行くとリリアンさんのおばさんのいるコチア村があります。ルオの伝統舞踊を見せてもらい、昼食をごちそうになりました。その後、リリアンさんのおばあさんのいるコクロ村に向かいました。コクロ村ではリリアンさんが帰省するというので、遠くにいる親戚までやってきてにぎやかな夕食になりました。親戚の女性たちがお客さん用のごちそうをたくさん作ってくれ、家の中には、食事中も猫や犬や鶏の親子が入ってきます。食後に、周囲に集まって建っている親戚の家を見せてもらいましたが、豪雨の後でぬかるんでいるので、親戚の男性が正吉さんを抱え上げてくれました。
その夜に泊まったのは、空き家になっている、リリアンさんの小学校の元校長先生の女性の息子さん宅でした。屋内にトイレがあり、水シャワーもありました。リリアンさんは今までたくさん亡くなった身内を看取ってきたので、介護が上手で、水シャワーが使いづらい正吉さんの洗髪や体ふきなど、彼女が同行している間は正吉さんの介助をすべてやってくれました。
翌朝もリリアンさんのおばあさんの家で朝食をいただき、頭に布を被り顔だけ出している親戚の少年に会いました。小さい頃に大やけどを負って半身に障害が残り、体調も優れず朝だけ姿を見せたようです。この少年も、適切な施設や病院に入ることができるならばもっと活動できるようになるのではと思われました。
この日は、コクロ村の小学校とセカンダリースクールを訪問しました。この辺りの一帯はエイズが猛威をふるい、ちょうど働き盛りの30-40歳代の人が多く亡くなったと聞いていました。小学校で支援物資を渡したときに、親がいない子どもを優先しようと声をかけると、1/4くらいの子どもが手をあげたので驚きました。セカンダリースクールは、ケニアでは通常の全寮制の州立セカンダリースクールと違い、通学制のデイスクールです。寄宿舎がないので、学費は安くなっています。生徒の8割が片親家庭で、4割が両親ともいない家庭とのことでした。多くの生徒が親戚や祖父母宅から通っているという事実に衝撃を受けました。このような村の学校で、見た目にも障害の重いとわかる正吉さんが、パソコンの仕事をして給料をもらい、ツアーリーダーとして日本からやってきたと紹介をすると、子どもたちは賞賛の声をあげます。「あきらめずにがんばれば夢はかなう」と正吉さんが出しにくい声で振り絞るように言うと、本当に説得力がありました。セカンダリースクールでは合唱部の生徒たちがとても上手なゴスペルを聴かせてくれ、最後は生徒会長がお祈りをしてくれました。
10月22日はナクル(Nakuru)国立公園に移動し、午後はナクル湖の周りをドライブしました。フラミンゴの大群を期待して行ったのですが、フラミンゴは湖の水位の関係でえさがなく、隣の湖に移動してしまったようです。ペリカンなど他の水鳥はたくさんいました。間近でライオンを見たり、シロサイやキリンの親子バッファローの群も見ることができました。私たちが宿泊した公園内のロッジは段差が多いので、正吉さんにはスロープで少し登ったコテージに部屋をとってもらっていました。

障害者が指導する職業訓練所

10月23日、車でナイロビの近くのティカまで移動、翌日はティカで活動するNGOを訪問しました。ティカには日本のNGOアマニ・ヤ・アフリカのケニア事務所があり、ここでは代表の石原輝さんが同行してくれました。また、ストリートチルドレンのリハビリをするモヨ・チルドレンセンターの松下照美さんに会い、活動を見学させてもらいました。朝になるとタジアムの脇の建物にストリートの子どもたちが集まってきます。勉強をしばらくした後、空き地でサッカーをして、空き地のゴミを拾って清掃し、給食を食べて解散という毎日をすごしています。毎日みんなが来るわけではないとのことでしたが、とても楽しそう見えました。
その後、アマニ・ヤ・アフリカの縫製の職業訓練所を訪問。ここは一昨年の秋に開所し、昨年、第1期生の訓練生が卒業したばかりです。特筆すべきは、この職業訓練所のスタッフとして、障害を持つ二人のケニア人が働いているということです。一人はマネージャーとして働いている男性マイナさんで、足に障害があり、つえを使って歩いています。彼は、ここのスタッフの仕事の他にバナナリーフを使った工芸品を作って販売しています。主にアマニ・ヤ・アフリカを通じて、日本でも販売しています。もう一人はやはり足に障害があり、つえを使っている女性エディスさんで、縫製の指導をしています。ミシンが上手で、自らデザインして布製バックなどを作っています。
夕方までティカの街を散策しました。正吉さんは、雑踏の中は歩きづらいので、オープンカフェで休んでいてもらいました。そのカフェの隅に、ハンドルに手こぎのペダルの付いた三輪車いすが置いてありましたが、持ち主は見当たりませんでした。ティカにはケニアに3校しかない州立肢体不自由の障害者セカンダリースクールがあり、障害者も多いようです。「いつもはこの道沿いにたくさん障害者がいるのだけれども」。石原さんが案内してくれた道路には、障害者が座り込んだり寝転がって、箱を置いて物乞いをしていました。その日は2、3人しか見かけませんでしたが、ちょっと複雑な気分になりました。物乞いでも他の街よりは生きていきやすいのでしょうか。障害者同士の連携があるのでしょうか。
夕方からモヨ・チルドレンセンターの子どもの家を訪問しました。この家には、ストリートチルドレンだった子どもたちが住んでいます。ナイロビ在住の日本人ミュージシャンの大西匡哉さんが来てくれ、3月までこの家の警備員をしていた全盲のデビットさんも招かれていました。大西さんのギターとデビットさんのアコーディオンの合奏に合わせてタイコの得意な子どもの演奏も加わり、楽しいひとときをすごしました。歌や演奏の後は夕食をともにしました。全盲のデビットさんは、この家が強盗団に襲われたとき、目が見えないと警備員の仕事はできないという判断をして辞めましたが、いまは違う仕事を頼まれています。デビットさんは近くに住んでいて、この日は自分の子どもと後からきた晴眼者の奥さんと一緒に、ファミリーで楽しんでいました。
10月25日はツァボ(Tsavo)国立公園へ移動し、早川さんおすすめのムダンダロックに寄りました。ムダンダロックは、原始時代に原人が狩りをした肉を干したという1.5kmほどの細長く小高い平らな岩場で、国立公園内を広く見渡すことのできるとても気持ちの良い所でした。岩場を登らなければならないので、正吉さんにとっては大変でしたが、今回ずっと同行してくれた車の運転手さんのカリユキさんが活躍し、正吉さんを抱えながら支えて登り降りしていました。宿泊は公園内のボイサファリロッジ。岩場の上に建っていて、真下に水場があり、ゾウをはじめ動物たちがたくさん水を飲みにくるので、居ながらにして動物たちを眺められるすばらしいロッジでした。動物たちをもっと間近で見るために、急な階段をかなり降りた所に半地下室があり、のぞき窓から目の前の水場が見られるようになっていました。私たちは楽しませてもらいましたが、正吉さんにはちょっと無理でした。

ミリティーニ村の儀式に参加

10月26日には、モンバサ(Mombasa)に近いミリティーニ(Miritini)村に行きました。ここにはキベラのマゴソスクールから事情があって移ってきた子どもたちが住む「こどもの家ジュンバラワトト」があり、村の人たちが面倒をみています。子どもたちが通っているマムドゥドゥ小学校を訪問しました。マムドゥドゥ小学校は丘の上にあり、子どもたちの通学路で行くと崖を登らなければなりません。私たちはその道で行きましたが、正吉さんは車で違う道から行きました。ちょうど試験中で、あまり見学することはできませんでしたが、正吉さんが紹介され、子どもたちみんなから注目を浴びていました。外で記念写真をとって、「こどもの家ジュンバラワトト」に戻りました。子どもたちが学校から帰ってくると自己紹介をしたり、家の中を案内してくれました。その後は歓迎会になり、子どもたちの踊りや歌、村の青年団のアクロバット芸などを見ることができました。
翌日は午前中に「まさよし夢基金」が支援している生徒シェバニの家に行きました。シェバニはセカンダリースクールの寄宿舎に入っていて、試験中なので会えませんでしたが、母親と叔父、祖父と会うことができました。事前に来訪することを伝えていたので、チャイとパンを用意して歓迎してくれました。シェバニが帰って来たときの様子やお姉さんのことなどの話を聞くことができました。家の壁には、彼の好きなテレビ番組(マゴソスクールでしか見ることができません)の落書きがありました。
昼から村のマテラ長老の家を訪問しました。マテラ長老はタイコの名手で、有名な呪術者でもあり、遠い街から呼ばれることもあるそうです。複数の奥さん方の手作りのお料理をいただき、伝統音楽のセンゲーニャを体験させてもらいました。マテラ長老がセンゲーニャを始める前に行った儀式にも参加させてもらいました。その儀式は、マテラ長老が指示した自宅の家の四方の草を刈って掃いて清め、灰を練って作ったおまんじゅう状のものを3、4個置いてお祈りをするというものでした。正吉さんも介助されながら灰のおまんじゅうを置きました。マテラ長老は日本の大震災の被害のことに心を痛め、いま大切なことが何なのか、私たちはどうあるべきなのかについて話してくれたことがとても印象的でした。

ボンボルル障害者センターを訪問

10月27日の夕方から、モンバサのボンボルル障害者センターを見学しました。このセンターは、身体障害者のリハビリセンターとして1969年に設立され、現在は障害を持つ従業員約150人が仕事やトレーニングの機会を得て、車いすの製造、アクセサリーや木彫り製品、革製品づくり、縫製などの仕事をしています。世界各地からの注文があり、適正な賃金をもらっているそうです。従業員の家や子どもの保育園・学校も敷地内にありました。重度重複障害の子どものデイケア施設もありましたが、専門教員や看護師がいないので資格のない職員が日課に合わせて面倒を見ているので、現状では親が持ってこないとおむつ交換をしてもらえないようでした。ただ、ケニアにこのような就労・生活一体型の包括的大きな施設があることには驚きました。従業員の子どもの幼稚園や学校まであるのはすばらしいと、正吉さんも言っていました。
今回のツアーはケニアの東西におよび、かなりの長距離を移動したので、正吉さんには厳しい旅になったと思います。バリアフリーなどの設備がほとんどないところばかりを、屈強なケニア人の介助者の人力により乗り切ったという感じでした。ただし正吉さんによると、ケニア人の介助者は、がたがた道のいろいろな勾配によって不安定になるにもかかわらず強弱絶妙にサポートしてくれるので、すばらしいとのことでした。それでも正吉さんのような重度の障害者をケニアの街中で見かけないせいか、どこでも興味津々の目で見られました。日本の外出支援ヘルパーのように、家族以外の介助者がついて外出している障害者は見かけませんでした。車いすでどこでも行けるほど道も整備されていません。ケニアの重度の障害者にとって、外出はかなり困難だろうと思われました。


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