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被災者・被災地支援に取り組んで

Address the support of survivors of the Great Quake

アフリカNOW No.92(2011年10月31日発行)掲載

※本稿は、2011年6月19日にAJF主催で開催したシンポジウム「東日本大震災被災者支援とアフリカ支援をつなぐ」における発言をまとめたものです。

報告者:
岩井雪乃/いわい ゆきの :アフリック・アフリカ代表。早稲田大学教員として大学生の被災地ボランティア活動をコーディネート。
ジョー・オットー/Joe Otoo :在日ガーナ人。友人の紹介で石巻での被災地支援ボランティアに参加。
久我裕子/くが ゆうこ :アジア・アフリカと共に歩む会(TAAA)代表。南アフリカでの図書支援の経験をいかした被災地支援を実施。
小山えり子/こやま えりこ :ニバルレキレ事務局。精神保健福祉士。東京都内に避難した被災者の支援やケアに取り組んでいる。
田中雅子/たなか まさこ :東日本大震災女性支援ネットワーク。ジェンダーと多様性に配慮した被災者支援に取り組んでいる。
司会:津山直子/つやま なおこ


津山: 本日のシンポジウムの司会を担当します津山直子です。このシンポジウムの趣旨は、アフリカ支援に関わっている皆さんに、東日本大震災の被災者支援活動に参加した経験などについて聞くというものです。現在、震災に対する人びとの関心が深まる一方で、アフリカ支援や国際協力に当てられていた資金が震災対策や被災者支援にまわってしまうのではないかということが懸念されています。このシンポジウムでは、このふたつの活動をいかにつなぎ合わせ、双方ともによりよい方向にもっていくのかについて考えていくための機会となればと思っております。それではまず、岩井雪乃さんから話していただきます。

早稲田大学ボランティアセンターによる被災地ボランティアの取り組み

岩井: ご紹介いただきました岩井雪乃です。早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)の教員で、AJFの理事やアフリック・アフリカ(AFRIC Africa)の代表も務めています。私は大学卒業後に青年海外協力隊に応募し、タンザニアに理数科教師として2年間滞在していました。それがきっかけで、もっとアフリカについて学び関わりたいと思い、学部で動物生態学を学んでいたこともあって、アフリカでの動物と人間の共存について研究するために大学院に進学。その後大学院の仲間とアフリック・アフリカというNPOを立ち上げ、人材育成に関わってきました。私たちはタンザニアのセレンゲティ(Serengeti)国立公園に隣接する村をフィールドにしています。その村で、動物とどのように共存していくのかを自ら考え、行動していける人材を育てることを目的に、奨学金の支援を通じた人材育成を行ってきました。またアフリック・アフリカと連動しながら、WAVOCとしてセレンゲティ国立公園近辺の村に大学生を連れて行き、地域支援に従事する活動もしています。国立公園のすぐ隣の村ではいま、野生のアフリカゾウが農作物を荒らす事態が起きています。この農村の人びとは6ヵ月間かけて育てた農作物からの収入で生計を立てています。その作物が一晩でゾウに荒らされてしまうことは、とても深刻な問題です。この現状を改善するために、WAVOCを通してゾウを国立公園へ追い払うパトロールカーを提供し、現地に行ってそのパトロールがきちんと行われているのかを定期的にモニタリングする活動を、ここ5年ほど続けています。
私の被災地ボランティア活動は、現時点ではまだこれまでのアフリカ支援に直接結び付けることができていません。アフリカでは基本的に人間と動物の生存をテーマにして活動してきたので、それと比べると今回の被災地ボランティアはまったく異なったものになります。WAVOCを通じて行ってきた被災地ボランティアの作業は、テレビの特集などでもよく報道される泥かきやガレキの片付けが主なものです。WAVOCでは毎週末に被災地ボランティアを派遣しています。金曜日の夜に東京を出発し、土曜日早朝から日曜日昼まで現地で働き、昼過ぎに現地を出発して東京に戻る。毎週、学生を60-70人くらい送り出しています。
東日本大震災が起きたときに、誰もがなにかしなければならない、なにかできることをしたい、という気持ちになったのではないでしょうか。私も同じ気持ちがあり、そのときにアフリカで行ってきた活動やWAVOCでの活動がなにか活かせないかと考えました。しかし、具体的にどうのようにしてこれらの経験を活かせるのかがわからず、被災地のボランティアセンターにボランティアの経験や知識のない学生でもできることはないかと問い合わせました。そこで言われたのが、泥かきやガレキの撤去などの作業をする人手が不足しているから、ボランティアを募ってきてほしいということでした。週末のわずか一日半だけの学生ボランティアになにができるのかという疑問はありましたが、実際に現地にいってみると確かに人手が足りない。被災地でわかったのは、とにかく頭数があれば、ある程度は作業が進んでいくということです。それも、知識も経験もなく、体力の有無にかかわらず、男女に限らず、被災地でなにかしらの手助けになれるということに気付いたことは大きな発見でした。現在WAVOCが行っているのは、このような応急処置的な活動でしかありませんが、これからは子どもに勉強を教えたり、一緒に遊んだりする、などの活動にも取り組むことができたらと思っています。
これまでの被災地ボランティアを通じて私が強く感じたことは、「人と土地の結びつき」です。これはアフリカ支援と共通する点でした。最初に宮城県石巻市に行ったとき、ボランティアセンターから「WAVOCさんは明神社(みょうじんじゃ)に行くように」と指示を受けました。その神社の境内はぼろぼろに崩れていて、周囲の家はすべて津波で流されたか、あるいは流れてきたもので埋まっているような状態でした。その神社は5メートルほど小高い場所にあり、震災時には100人以上の人が避難してきたそうです。私たちは5月のゴールデンウィーク直前に明神社に行きました。宮司さんは、「5月5日のお祭りまでになんとか境内だけでもきれいにしたい」「こんな時期だからこそ、例年どおりに毎年やっているお祭りを開きたい」と言われていました。60人ほどの学生で土日の2日間かけて清掃して、境内はお祭りができる程度に片付きました。そのとき宮司さんは「私は今後もこの土地を守っていきます。私たちは代々この土地を守ってきたし、そしてこれからも守り続けていきます」と言われました。宮司さんの娘さんとその息子さんも一緒にいて、その言葉にうなずいていました。神社が津波でどんなにぼろぼろになっても、地域一帯がガレキでおおいつくされてしまっても、宮司さんも、そして地域の人びとも、その土地で暮らし続けたいと願っている。そうした意志を強く感じました。
もうひとつ印象的だったことは、2週間前に私たちが行ってきた宮城県気仙沼市での出来事です。気仙沼は地盤沈下が激しく、地盤が70センチくらい沈下している土地もありました。私たちが行った現場はガソリンスタンドでしたが、満ち潮になると毎日、潮が流れてくるような状態でした。「こんな状態でも、ここでまた商売をしていきたいんです」と言いながら、学生と一緒に一生懸命にガレキの撤去をしているガソリンスタンドのオーナーを見て、改めて彼にとってここが大切な場所なんだと実感しました。
この二つの経験から私は、被災地における土地と人の結びつきの強さを実感しました。被災後の土地は、われわれ部外者から見るとただのガレキの山にしか見えませんし、すぐにでも引っ越したほうがいいのではないかと思ってしまいがちです。しかし、当事者の側からすると、そう簡単に離れられることができない、かけがえのない場所で、多くの人はもう一度ここでやり直したいと考えているのです。
このような経験から私が思い出したのは、アフリカ、タンザニアで付き合ってきた村の人たちのことでした。私が関わってきた村の人たちは、セレンゲティ国立公園の隣に住んでいるので、常に動物自然保護区を拡大したいという政府の圧力にさらされています。実際、1959年にセレンゲティ国立公園が設立されたときは、村の半分くらいの面積が国立公園として没収され、その土地に住んでいた人びとは強制移住させられるという事態が起きました。1970年頃にも政府からのかなり強い移住の圧力がありました。そのときは長老グループが集まって大統領府に陳情に行き、強制移住はなんとかまぬがれました。2005年には米国の外資系ホテルが移住の補償を出すから村の土地を買収したいとの話もありました。はじめの強制移住のときには、政府による放火や逮捕などがあって、土地を守れませんでしたが、2005年のアメリカのホテルによる土地買収に対しては、裁判で争いながら、人びとは必死で土地を守ってきました。
そのときに村の人たちが言ったのは、「この土地を捨てることは、コミュニティを捨てることだ」ということです。村の人たちにとってその土地の価値というのは、財産として金銭的価値で計れるものではなく、そこに培われるコミュニティ、そこに育まれる人間関係に起因する価値なのです。だから、土地を捨てることもお金で売ることも簡単にはできないことなのです。そのことを私は、タンザニアでの経験からわかっていたつもりでした。しかし今回、被災地で地元の人びとと触れ合ってみて、改めて気づかされました。慣れ親しんだ土地を離れていくことは、地元の人にとって受け入れがたいことなのです。被災地ボランティアを通じて、人と土地の深い関わり、そして土地というものの上に存在するコミュニティというつながりを大切にしたい、尊重したいという思いが、私のなかで深まりました。この経験を生かして、自然と人間のつながりに焦点を当てながら、タンザニアでの支援を続けていきたいと思います。

津山: 岩井さん、ありがとうございました。それでは次に、ジョー・オットーさんから話をしていただきます。ジョーさんは英語で話される予定でしたが、日本語で報告してくれるそうです。

私の故郷の病院の現状と石巻での経験

ジョー: こんなにも多くの日本人の前で日本語でスピーチしたことがないので、かなり緊張しています。なにか間違いがあったら許してください。
日本人と日本語で会話をするとよく、「なぜ日本にきたのか。どうして日本なんだ」と聞かれます。正直に言って、自分自身でも理由がわからない。日本にきたのは15年前です。当時は日本のこともよく知らなかったし、日本語もまったくしゃべれない、「あいうえお」もわからずに日本にやって来ました。来日した当初はどれくらい日本にいるのかもまったくわからなかったので、少しくらい日本語ができればいいなという軽い気持ちで、半年間だけ日本語学校に通いました。日本語を少し覚えから、日本で仕事を探し始め、神奈川県の塾で英会話教師の仕事を見つけました。結局その塾で13年間、仕事をし続けました。その間はなかなかガーナに帰れず、5年に一度くらいしか帰国できません。最後に行ったのは今年の1月です。親戚が死んだとかいうと帰国するための休暇がとれるので、ときどき家族に会いたくて、嘘をついてガーナに戻っていました。それでも、帰国のための休暇がとれるのはせいぜい2週間で、5年に一度の帰国なので、会わないといけない人もたくさんいて、自分の時間はほとんどない。しかも日本とガーナの往復だけで4日間かかるので、滞在期間は実際は10日間しかありません。
今年1月にガーナに帰ったときに、ふと思い立ってひさしぶりに実家の近くの病院に行きましたが、病院の環境があまりにもひどくてショックを受けました。もう言葉にならない。まず、車いすがあまりない。患者さんたちがあちこちに座っている。私が特にショックを受けたのは、妊娠している女性が痛みのあまり外の芝生の上で寝ころがっていたことでした。彼女の様子があまりにつらそうなので、私は隣の人に頼んで車いすをもってきてもらい、一緒に病院のなかに入りました。その後に聞いた話では、彼女は妊娠してから半年の間、一度も病院に行ったことがないそうです。ガーナの法律では妊娠中の医療費は無料になりますが、残念ながら田舎に住んでいる人は実質上、医療へのアクセスがないに等しい。住んでいる村から遠くにしか病院がないし、車というアクセス手段もない。さらに、自分の名前を書けず、文字を読めない人も少なくない。私が見たような光景を見ることは、ガーナでは珍しくないのです。
この病院のあまりにもひどい現状に、日本のNGOに援助協力を依頼してみてはどうかと、その病院の院長と地元の行政に掛け合ってみました。しかしあまり話を聞いてはもらえず、逆に「じゃあここになにを持ってくるのですか」と聞かれました。私自身は医者でも看護師でもありませんが、ガーナの医療現場の実態があまりにもよくないと感じたからこうした話をしただけです。結局、私が日本に戻ったときに日本のNGOに援助を要請するということを院長と約束し、なんとか話を聞き入れてもらいました。
また、この病院でもうひとつ気づいたことがあります。それは、衛生面に配慮した患者用の日用品と普段の日用品が分別されていないということです。病気だろうがなんだろうが、誰もが普段使っているものを使っています。その点について院長に聞いてみたところ、政府は病院の公的な施設や備品に投資することに関心がない、だから自分たちでできることがないのかを模索しているとのことでした。
アフリカではどの国に行っても、このような現状はあまり変わらない。学校に行けない子ども、病気でも病院に行けない人、一日中食べ物にありつけないような子どもも大勢います。いろんな辛い経験をしながら生きている人がたくさんいる。ほとんどの国で大多数の市民は、医療や教育へのアクセスを実質的に絶たれています。それは、アフリカが貧しい土地だからではない。アフリカ大陸はさまざまな資源に恵まれた豊かな大陸で、ガーナにはカカオも金もダイヤモンドもある。しかし現状のままでは、ガーナの一般市民がこの恩恵を享受することは、残念ながらないでしょう。アフリカの国々は政府の腐敗が著しく、すべて政府関係者は集まったお金を自らの懐にしまってしまい、国民の元へは届かない。岩井さんが滞在されていたタンザニアでもいろんな経験談を聞きましたが、政府の実情はガーナとなんら変わらない。残念ながらアフリカではどこの国でも、政府は自分の利益のためだけにお金を使うので、いくら資源が豊かであっても、国の政治が変わらない限り国民がその恩恵を受けることはないのです。
先ほど私が働いていた塾の話を少ししました。日本の会社は本当になかなか休暇を取らせてくれません。私が「具合が悪いので休ませてもらえませんか」と電話しているのに、「もうちょっとがんばってくれませんか」という返事が返ってくる。死んでも仕事に来なさいとでも言わんばかりの調子です。13年間、無理をして働いてきましたたが、あまりにも辛いので、塾を辞めました。
東日本大震災の直後は、ちょうど仕事を辞めたころだったので、時間の余裕がありました。そこで、被災者のために自分で何かできることはないかと思い、AJFの事務所に連絡したところ、ピースボートが主催している被災地ボランティアのことを教えてもらいました。しかし、被災地ボランティアは、日本人参加者と外国人参加者の人数調整も必要で、被災地に行きたいという一心だけではなかなかすぐに行けるものではなかった。それでもボランティアとして、寄付で集まった石けんや洋服などを被災地に送るために整理して梱包する作業に参加することができました。この作業に参加してよかったことは、日本人がこういうときにみんなが力を合わせて協力する姿勢があるということを肌で感じたことです。
しかしこのときは被災地に行くことができず、後になって友人から被災地にボランティアに行くから一緒に行かないかという話があり、私も参加しました。実際に見た被災の現場は、テレビで見る光景とはまったく違っていた。消防団と警察、自衛隊が必死で行方不明者の捜索活動をしていました。車がマンションの上に乗っかってしまっている光景も見ました。その一方で、この時点ではすでに道路上のガレキは撤去されていました。
私たちはボランティアとして、半壊した家からタンスなどの重い家具を動かしたり、津波で運ばれてきたヘドロのかき出しなどを行いました。重労働ですごく大変な作業でしたが、神が自分に力を与えてくれていたようで、不思議と疲れを感じませんでした。
そして私にとって印象的だったのは、作業をしたあるお宅のお母さんがとても明るくて元気だったことです。作業の後で、家のなかで一緒に写真をとりました。私は「写真を一緒にとってもいいですか。俺は黒人なのに怖くないですか」と聞きました(笑)。そのお母さんはにこにこ笑って、一緒に写真を撮ってくれた。その後、自衛隊が来て、彼らに作業引き継ぎ、私たちは違うお宅の作業に入りました。次の現場は幼稚園で、そこの子どもたちは私を見ても、黒人だということにびくともしなかった。東京だとちょっと道をすれ違っただけで子どもたちに驚かれたりするのに(笑)。しかし被災地では、子どもたちは喜んで私たちのところに寄ってきて、一緒にいろんな遊びをしました。被災地には本当にまた行きたいのですが、いまはなかなかそのための時間をつくることができません。
今回の大震災への対応をみて私が思ったことは、お金を集めるにしてもモノを集めるにしても、他の国や地域の人たちと比べて、日本人はとにかく力を合わせて一致団結することが上手だということです。

津山: ジョーさん、すばらしいスピーチをどうもありがとうございました。それではアジア・アフリカと共に歩む会(TAAA)の久我祐子さんに話していただきます。

「本と友だち」キャンペーン

久我: TAAAの久我です。私たちの団体は、インターナショナルスクールや個人などから英語の本を集めて南アフリカに送る活動を通じて、南アフリカの教育支援を行ってきました。この度、被災地支援活動として「本と友だちキャンペーン」を立ち上げ、日本語の児童書・絵本、図書カード、文具、おもちゃなどを集めて被災地に送りました。
私たちは月一回の定例作業日を設定して、集まった本のなかから南アフリカに送る本を選ぶ作業を行ってきましたが、3月の定例作業日はちょうど東日本大震災が起きてから2日目でした。このときに被災者・被災地の支援のためになにかしなければならないという話になり、気持ちが先立っていたのかもしれませんが、被災地支援のための緊急募金活動を始めました。私たちは埼玉県を拠点としているので、埼玉を拠点とする市民キャビネットというNGO、そして全国ホームレス支援ネットワークという、支援を必要とする人びとのなかでも特に弱者を助けるための支援に従事している団体を支援先に決め、募金活動を行いました。全国ホームレス支援ネットワークは、TAAAと同様に反貧困ネットワークに参加しています。
東日本大震災が起きてから1ヵ月が経ち、人命救助などの生命に関わる緊急支援の必要性は徐々に減り、ニーズの多様化がはっきりしてきました。そのときに改めて、TAAAらしい支援とはなにか、いま私たちにできることはなにか、ということを議論してきました。そこで私たちがすべきことは、団体の特性を活かして、児童書などを集めて被災地に送る子ども支援ではないかという結論に至りました。児童書や絵本を送るという支援活動はすでに、ユニセフ(UNICEF)などのさまざまな大きな団体が取り組んでいます。そこでTAAAのような小規模の団体ができることとして、行政の支援が届きにくい地域を対象にして、それも特に子どもたちと日々接している団体・個人に限定して、直接に支援していくことを決めました。
被災地に届ける本は、基本的にはTAAAのホームページとボランティアプラットフォームという支援物資を集めるサイトを通じて集め、それ以外にもTAAAの会員が口コミで収集しました。4月10日から5月20日までに2,500冊以上の絵本・児童書と多数のおもちゃを集めることができました。4月17日から5月3日までに3回、宮城県石巻市の私たちの活動の協力者に宛てて支援物資を発送し、5月28-29日には、大きなバン一杯に支援物資を積んで、石巻市と仙台市を訪問しました。そのときは、1,499冊の児童書・絵本と文具やおもちゃ、サッカーボールなど70箱分を計7カ所に届けることができたので、そのときの様子について報告します。
支援物資は、石巻の自宅避難所の子どもたちにも届けました。やはり本よりおもちゃのほうが喜ばれましたね(笑)。石巻でも津波による被害の程度は地域によってかなり差があり、被害がひどかった地域の住民の多くは、あまり被害を受けなかった地域に住む親戚の家や学校などに避難されていました。しかし、4月から新学期が始まり、避難所として学校を使えなくなったために、行き場のなくなった人びとがさらに友人や親戚を頼って、友人や親戚の自宅に集まっていました。
発達障害児の通うデイケアセンターにも行ってきました。ここは、津波の被害自体は直接受けなかったようですが、別の地域にあった旧センターが津波被害を受けて、新しいセンターに引き継ぐはずの物資の多くが流されてしまい、絵本やおもちゃがなくなったそうです。児童書はUNICEFから送られてきますが、おもちゃはなかったので、プレゼントしたおもちゃはとても喜ばれました。また、保育園も訪れ、絵本や文具、おもちゃなどを届けました。石巻市には30の公立保育園があると聞きましたが、その半分が今回の津波で壊滅してしまったそうです。ですから、保育士さんたちも保育園を移動して勤務されています。
今回の被災地支援活動の広報は、インターネット上と口コミのみで行いましたが、短期間でとても多くの支援物資が集まりました。また、この活動にかかった費用は合計10万円弱で、そのなかの4万円は、石巻・仙台を訪れた際のガソリン代と高速料金でした。全体で約10万円というかなり低コストで、TAAAのような小さなNGOでもある程度の成果をあげることができました。1995年の阪神・淡路大震災のときと比べ、インターネットが広範に普及していること、それから現地で地域に密着して日常的に子ども支援を行っている団体・個人が数多く存在していることが、より大きな成果を生んだのではないかと分析しています。

津山: 久我さん、どうもありがとうございました。TAAAの被災地支援活動の詳細はTAAAのホームページに、従来からの南アフリカでの活動と合わせて掲載されています。それでは次のスピーカーの小山えり子さん、よろしくお願いします。

東京で避難者・被災者を支える

小山: ニバルレキレ(ngibalulekile)の小山えり子です。この団体名は南アフリカのズールー語で「あなたはあなたであるだけで素晴らしい」という意味で、活動を始めてから今年で9年目になります。今回は、東京都内における東日本大震災の被災地からの避難者の支援活動と南アフリカにおける活動がどのようにつながるのかについて話したいと思います。
東京都内だけでも現在、都営住宅に避難している避難者が3,200人、その他に旧グランドプリンス赤坂(赤プリ)に800人の避難者が入居していると言われています。赤プリは6月末が退去期限となっているので、都は都内900戸の都営住宅と都内の旅館2,000人分を用意して、避難者にいずれかへの移動の選択を迫っています。またそれとは別に、区市町村で約900人の避難者の受け入れが行われていると言われています。
しかし、都の避難者への受け入れ対応が劣悪であるという指摘がなされ、避難者と被災者を支援し人権を守るために、東京災害支援ネット(TOSSNET/とすねっと)という団体が立ち上がりました。この団体は、弁護士や司法書士、各種専門職、大学教員などが中心になって、各メンバーが自分の専門分野から避難者・被災者の状況を改善し、人権を擁護するための活動を行っています。「とすねっと」のなかから生活支援に特化した「とすらいふ」という活動が始まり、東京精神保健福祉士協会と連携して、避難生活が長くなっている被災者の精神的ケアをしています。これらの活動と連携しながら、ニバルレキレとして行っている活動について話をします。
南アフリカで行ってきたこれまでのニバルレキレの活動は、主にジョハネスバーグのタウンシップで行ってきましたが、そこには三つの大きな活動の柱があります。一つ目はHIV陽性者のサポートグループの運営の支援。二つ目は、HIV陽性者本人だけでなくHIV陽性者からなんらかの影響を受けた家族・遺族・孤児などへの個別支援で、いろいろなタウンシップにまたがって訪問活動を続けています。三つ目は、特に社会資源の乏しいコミュニティにおいて、コミュニティワークというソーシャルワークの技法を活用して、現地の住民によるエイズ孤児プロジェクトをつくり出すことです。ニバルレキレの活動は、HIVの予防・啓発に特化するのではなく、むしろ出会った人たちのメンタルケアやライフスキルの向上をめざして、ひたすらソーシャルワークを行ってきました。自分たちが社会資源になるのではなく、南アフリカにすでにある社会資源につなげていくことを徹底して行ってきたことに、活動の特徴があるのではないかと考えています。
ジョハネスバーグでのこの3つの活動は、東京での避難者・被災者支援の活動にも対応しています。「わかちあいグループ@東京」はジョハネスバーグでのHIVの自助グループに相当します。日本ではアルコール依存症の人たちの自助グループが有名で、グループで集まり、言いっぱなし、聞きっぱなしの会を開き、依存から脱却するためのステップに即してお互いを支えあいながら回復をめざす、という活動が一般的に知られています。一方で南アフリカでは、HIVの当事者グループがよく知られていて、感染を告知されたショックに対する精神的ケア、日常生活を行ううえでの自己管理、社会資源や治療へのアクセスなどに関する有益な情報を提供し、メンタル面でのヘルプを通してHIV陽性者のエンパワーメントを図っています。
避難者・被災者支援の活動についても、これまでニバルレキレがジョハネスバーグで行っている活動に沿った活動をしていこうと決めました。ですから、「わかちあい」の活動も、当初は対象を特定せずに行っていました。しかし、あらゆる立場の人があらゆる感情を抱えて参加してきたために、この活動を継続して行っていくための方向性がつかめなくなってしまいました。そこで支援する立場にある医療・福祉関係者が主催者になって、避難者・被災者のための「わかちあい」を行うという方向性に転換しました。知人同士で声をかけ合っていますが、それ以外にもネットやツイッターで知って参加する人もいます。6月17日までの6回の「わかちあい」にのべ91人が参加しました。
それでは、この「わかちあい」の場でいったいなにを「わかちあう」のかというと、東日本大震災で感じた、そして震災後のいま感じているあらゆる感情と、そしてこれからなにができるのかということです。「わかち合い」の場では、秘密を保持され、他者の発言を非難したり反駁しないこと、一人で演説をしない、などのルールを守ることによって、お互いに居心地のいい空間をつくり、自己開示して安心できるという効果があります。こうした効果は、ジョハネスバーグにおけるHIV陽性者の当事者グループの活動においても実感してきたことなので、東京でもこの効果を維持できるようにしていきたいと考えています。
ジョハネスバーグにおける二つ目の活動の柱に相当する避難者・被災者の個別支援は、現在、週に1?2回行っています。この活動は6月に始めたばかりなのですが、しばらく続けていきます。
三つ目の活動の柱に相当するコミュニティでの活動としては、避難されている被災者に「わかちあい」グループから声をかけていくという活動を行っています。この活動を開始するさいに、避難者・被災者も含めた「わかちあい」を行う場所を確保するために地元商店街を巻き込んでいき、地元ボランティアも誕生しました。また、ケアされる側にいた自助グループの人が、今度は支援する側になって避難してきた被災者を訪問したり、避難者・被災者の「わかち合い」を組織するなど、ジョハネスバーグでの活動と同じ傾向や動きが生まれています。
こうした活動から私が感じていることは、南アフリカでの活動から学んだことは震災における私たちの活動にも活かせるということです。エイズ禍という非常事態のなかで、南アフリカの人たちがどのように工夫してお互いに支え合ってきたのかということを考えることが、一番のヒントになるのではないでしょうか。震災による被害は、他の人は忘れることができても、被災者は生き続けるかぎり簡単に忘れ去ることはできない。住む家が一時的に与えられても、心の傷はなかなか癒えません。むしろここまできて、やっと本格的な支援が始まるのではないでしょうか。そのことについて考えることが、アフリカ支援にもつがっていくことではないかと考えています。

津山: 小山さんありがとうございました。最後の報告になりますが、田中雅子さんよろしくお願いいたします。

被災者支援にジェンダーや多様性への配慮を組み込む

田中: 私は、ガーナで2年間の滞在経験があり、その間に寡婦の女性が夫を亡くした後に兄弟の男性に相続されてしまうという問題など、いくつかタブーとされることに関わっていました。滞在期間が長かった南アジアでも、ダリッドや人身売買などのタブーとされている問題に対して、外国人であるから話してもらえるという強みを生かして、国際協力の仕事をしてきました。
今回は、震災支援にジェンダーや多様性への配慮を組み込むための中間支援組織として結成した東日本大震災女性支援ネットワーク(Rise Together for Women in East Japan Disaster)の活動について話します。今回の被災者支援にあたりオックスファム・ジャパン(Oxfam Japan)から横断的な女性支援のネットワークをつくらないかという提案がありました。最初は阪神・淡路大震災のときに女性への暴力に対する活動をしていた人に連絡があり、その人から私にも参加を求める連絡がありました。
オックスファム・ジャパンがめざしていたのは、被災者の直接的な支援を行うというよりも、日本の復興支援や防災などの課題にジェンダーの視点が組み込まれることを「主流化」していくということでした。日本で女性支援の活動を行っている団体の多くは、直接支援の活動に労力を費やしている一方で、おそらく「主流化」ということはあまり知られていないのではかと思います。また、実際にどうしたらいいのかというノウハウもあまりありません。私自身は現在、大学で教員をしていますが、直接支援には関わりきれないけれども、今まで開発援助の経験を活かしてできることはないかということで、東日本大震災女性支援ネットワークの活動に参加しています。
私は4月半ばに、宮城県気仙沼市と南三陸町を4日間訪れました。そのときにパワフルダイアルという被災した女性の支援のホットラインのチラシを持って行ったのですが、行く先々でそのチラシを見せても、まったくと言っていいほどに受け取ってもらえませんでした。どこのコミュニティに行っても「うちの部落にはそんな女はいない」と言われ、被災者の支援団体に行っても「うちは女性支援を行っていないので」と言われてチラシを受け取ってもらえないなど、じゃま者扱いされてしまう。海外でHIVなどに関わる活動をしていたときも、外国人である私が持ち込んだものが地元の人びとにとって必ずしも受け入れやすいものではなかったと思います。それでも、外国人だから地元の事情をよく知らないのだろうと思われたのか、さすがに「いらないから持って帰ってくれ」と露骨に言われたことはほとんどありません。ここまで断固として受け取ってもらえない、「いらない」とはっきりいわれたのは初めてです。これでは、実際にこのチラシをほしいと思っている人がいても、とても受け取れるような環境ではないということを強く実感しました。
私はなるべく自分と同年代の女性と話がしたいと思って、こっそりと避難所の洗い場などに行って、話を聞いてきました。話を聞くと、たとえば避難所のなかに間仕切りがないという問題も、年配の女性たちが自分たちの安心のために間仕切りはいらないと言っているので、話してくれた女性からは「年配の女性には私が言ったといわないでくださいね」と念を押されました。また、直接に話を聞きたいと思っても、「先に婦人会長さんに会ってください」と言われました。私はバングラディシュやネパールなどでも活動してきましたが、ここまで話が聞きにくかったことはありません。逆にこの経験で、今まで海外で活動していたときは、本当は受け入れたくないと思っていたとしても、地元の人たちは私を受け入れてくれていたんだなということを、身にしみて感じました。
今回の件以外にも、企業などから女性支援を手伝いたいという要望を受けることがあります。そのなかで感じたことは、ドメスティックバイオレンスなど直接の暴力を受けている女性の支援やシェルターの確保に対してはお金が集まりやすいのですが、たとえばシングルの女性で、相談相手もいない、仕事の当てもない、そして独り身だという理由で仮説住宅の入居の優先順位が低いといった境遇の女性たちについては当事者グループもなく、支援活動も後回しにされてしまいます。女性支援の団体といっても、どのような立場の女性を支援するかは異なっているので、横断的な女性支援のネットワークが必要になると考えています。
避難所に行って私がチラシ一枚すら受け取ってもらえない一方で、行く先々で南アジアや中東出身のムスリムの男性たちが炊き出しをしている姿を何度も見かけました。彼らは、婦人会など地元の人たちからの受けもとてもよい。私は、次に被災地にいくときは、ムスリムの男性の友人を連れて行こうと本気で思っています。日本人だけで、受け取ってもらえないものを持っていくよりも、誰か海外出身者を連れて行くべきではないかと。国際協力のずるい手でありますが(笑)。
また、海外での緊急支援・救援の経験がどれくらい役立ちますか、そうした経験を活かすことができませんか、という質問をよく受けます。私はバングラディシュで赤十字の仕事をしていたので救援の現場経験はありますが、それが今回の被災地支援に役立つのかと、イエスかノーかで聞かれたらノーと答えます。というのも、状況があまりにも違いすぎるからです。そして問題解決のスピードは、日本のほうが遅いと思います。バングラディシュでは、たとえば前述した間仕切りの問題でも、必要とする人が自分で間仕切りを設置して、その場で解決してしまう。それが日本では、地方自治体が対処すべき問題として何ヵ月も議論されることに、本当にショックを受けています。とはいえ、今回の被災地での支援の経験からなにも学ぶことがなかったというわけではなく、新しい現場事情、新しい地域事情を学ぶことはできました。
東日本大震災女性支援ネットワークを立ち上げましたが、一緒に活動してくれるコアな団体がなかなか見つかっていません。いまのところシングルマザーズフォーラムなどいくつかの直接支援をしている女性団体とはつながっていますが、それ以外の活動をしている団体とも、私たちはつながっていきたいと考えています。私が働きかけた団体のなかで「私たちはハード面での支援しかしていない」という理由で、一緒に活動することを断られたケースがあります。そのときに私は、その団体の活動内容に合わせて、たとえば女性のトイレに夜間照明を多くつけるといった活動を一緒にすることができるのではないかという提案をしました。また、私が被災地で見たケースでは、被災地で炊き出しを行っている団体のなかでも、避難所で食事の世話をしている女性の代わりに炊き出しを行うことで、その女性に休暇を取ってもらうという目的の活動もあれば、炊き出しを行って被災者に配布していても、料理の下ごしらえなどの段階では地元の婦人会などに負担をかけているという活動もありました。同じ炊き出しを行っていても、実際に被災者とどのように関わっているか、誰のために炊き出しを行っているのかという点では、大きな違いが見えてくるのではないかと思います。
現在ではどの団体も、「ジェンダーの多様性に配慮する」などのせりふは、助成金を申請する際の決まり文句のようになっていると思いますが、現実に案件を形成するのは難しいでしょう。私たちは、そのためのノウハウを提供したり考えたりしていきたいと考えています。被災地で活動している団体・個人は、いまはまだジェンダーに配慮するという活動をしていなくても、これからそうした活動に挑戦することもあると思います。ぜひとも私たちと一緒に、ジェンダーと多様性に関わる課題に踏み込んでいくことをお願いします。ネットワークは、そこに参加している団体が少なすぎるとネットワークになりません。皆さんのご協力をお願いします。

津山: 田中さんどうもありがとうございました。田中さんは、東日本大震災女性支援ネットワークのパンフレットも持ってこられましたので、ご覧になってください。

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