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『タンザニアに生きる』著者 根本利通を語る

Talk about NEMOTO Toshimichi, author of “Living in Tanzania”

アフリカNOW No.92(2011年10月31日発行)掲載

 

タンザニアに生きる 内側から照らす国家と民衆の記録
根本利通 著
辻村英之 編集・解説
昭和堂 2011年5月30日 初版第1刷発行
縦組、本文239ページ
定価:2,500円+税
ISBN:978-4-8122-1127-4

執筆:下垣桂二/SHIMOGAKI Keiji
しもがき けいじ:1970年から、こむらどアフリカ委員会、反アパルトヘイト関西連絡会でアパルトヘイト反対などの市民運動に参加。1990年のネルソン・マンデラ来日時は大阪集会の事務局長。現在は関西・南部アフリカネットワーク世話人。


アホなヤツがいて日本とアフリカの距離は縮まる

「古い記憶をたどっての話になる。私が一番初めにアフリカに来た1975年夏のことである。私と友人二人という反アパルトヘイト運動仲間三人での旅行だったが、航空会社の事情で出発が遅れたため、仕事を持っていたSさんが断念し、学生だった私ともう一人Oさんとの二人旅になった。」(『タンザニアに生きる』第2章「社会主義の夢と現実」第10話より、p.66)
この話のなかに出てくるSとは、実は私のことである。今でも著者の根本さんと付きあいが続いていることから、本書の紹介を引き受けることになった。本書を読みながら、予約していたパキスタン航空が予定通りに飛んでいたら私の人生が違ったものになっていたかもしれないという感傷のなかで、ふと気づいたことがある。それは、根本さんの生き方に対する、ある種の「うらやましさ」の感情だった。このような感情をベースにして書こうとしているので、本の紹介としてはふさわしくないかもしれない。しかし私が知っている根本さんの一面を紹介することで、そんな人が書いた本ならいちど読んでみようかという人が出てきたら幸いである。
私たちが初めて会ったのは、1972年のことだったと記憶している。大阪では1970年に「こむらどアフリカ委員会」という反アパルトヘイト運動などに取り組む小さな市民グループがスタートしていて、先輩格の東京のグループと連絡を取り合っていた。その東京のグループから「今年、京都の大学に入学した人がいるので会ってみてほしい」との連絡があった。東京のメンバーの一人が予備校で世界史の講師をしていて、そこでアフリカの歴史を勉強してみないかと話したら強い関心を示す生徒がいた、とのことであった。
根本さんが「こむらど」の集まりに参加するようになって、最初にどのような会話を交わしたか、鮮明にはおぼえていない。たぶん、アフリカのこと、とくにポルトガル領植民地の解放闘争やアパルトヘイト問題などを一緒に勉強して運動を広げましょう、などと話したと思う。根本さんの第一印象は、物静かな学生という感じだった。当時は大学闘争の余韻が残っていて、なかには自分も銃をとってアフリカで解放闘争に参加するぞ、と言わんばかりの人もいたように思う。しかし、根本さんはそのようなタイプではなかった。そして大阪のグループも、そのようなことは志向していなかった。
1973年1月、ポルトガル領植民地のギニア・ビサウで解放闘争を指導していたアミルカール・カブラル(Amilcar Cabral)が暗殺された。前年の8月、原水禁世界大会で来日中のカブラルを招いた東京での小さな集会に、根本さんも私も参加していたことから大きなショックを受け、大阪で追悼の集まりを持つことになった。そして内容の一つとして、京都の大学で僧侶になる勉強をしていたメンバーのHさんに読経をお願いした。アイデアは本当によかったと思うのだが、経験不足というか、何とも彼の読経はヘタで、参加者からクスクス笑いが聞こえた。後の反省会で、これに根本さんがかみついた。大学は別でも同じ京都で親交(飲み友だち?)を深めつつあったHさんを擁護する気持ちからだけではなく、もっと真剣な気持ちで取り組みをしようということだったと思う。この根本さんのきまじめさはいまも続いていると、私には見える。そうでないと、本書はできなかっただろう。
根本さんのきまじめさが物議をかもしかけたこともあった。タンザニアに住み始めてからも「こむらど」のミニコミに原稿を書いたり、日本の反アパルトヘイト運動に協力・提言したり、とにかく日本の運動とのつながりを持ち続けていた。具体的な内容は忘れてしまったが、あるとき根本さんが伝えてきたことに対して東京のメンバーから「アフリカぼけ」発言が出た。「日本の状況は大きく変わった。日本にいた昔の感覚で何かを言われても対応できるはずがない。アフリカぼけになっているのではないか」というものであった。これを知った根本さんは、もちろん怒り心頭だった。この話が私たちの運動のなかで大問題になることはなかったが、今になって考えてみると、それは彼を無視したのではなく、日本で運動を続けている私たちに余裕がなかったということになるだろう。日本に住んでアフリカを考える、アフリカに住んで日本を考える、ことばで書くと簡単だが、たいへんな根気とエネルギーを要することである。本書の内容はタンザニアの話が大部分だが、その裏にはタンザニアに住んで日本を考え続けている根本さんの気持ちが隠されている。
本書の第5章「人びとと暮らし」第27話で、オルタナティブツアー(AT)・タンザニアの原点について書かれている。このATは1986年から現在まで続いていて(途中2年ほど中断)、参加を呼びかける側の目的や旅の内容はほとんど変わっていない。よくもこれだけ長く続いたものだと思う。そしてそこには、これまた根本さんのきまじめさがあってのことである。彼の存在を抜きにして、このATについては語れない。これだけで一冊の本になるだろう。
私は、1987年の第2回のATにツアーリーダーとして参加した。妻と娘二人も一緒で、訪問したキリマンジャロ山麓のルカニ村では、当時健在だったアレックスさんの両親などに歓迎された(写真左)。村で安易に日本からのプレゼントを渡すのはやめようと、出発前の、説明会でしつこく話したり、その一方で、持てるだけのインスタントラーメンなどをトランクに詰めこんで根本さんに「売った」ことを思い出す。当時のタンザニアは物不足で、根本さんから受け取ったタンザニアシリングは現地での小づかいに使うという、両者に利益のある「密貿易」も陰で行っていた。根本さんの理屈からいうと、村の人たちと同じくタダで物を受け取ると堕落につながるということだったのだろう。
「豊かな国」からの一方通行にならないようにしようというのは、日本で参加を呼びかける私たちと根本さんとの最初からの合意事項だった。そして1989年、グビさんとアレックスさんが来日した。二人とも根本さんの大切な友人で、その関わりは本書に書かれている。兵庫県のAT参加者のYさん宅を訪問したときの写真が残っていた(写真右)。
ところで根本さんの最大の関心は歴史、日本で世界史と言われるものから欠落しているアフリカの歴史、さらに絞り込むと東アフリカを含むインド洋沿岸のダイナミックな歴史にあると、私は理解している。AT参加者を海岸に残る古い遺跡に案内して歴史を説明しても誰も関心を示さないとぼやきながら、それでもツアーのコースから遺跡をはずそうとしないのは彼の強いこだわりである。この歴史については、いずれそのうちに彼が書く日がくるのではないかと期待している。
「きまじめ」「こだわり」、根本さんを紹介することばに迷ったが、いずれであっても初めて会ったときから変わらない彼の姿に、私は「うらやましさ」を感じている。40年ほどつきあってきて、大阪弁では「アホなヤツ」がピッタリかもしれない。こんなアホなヤツがいてこそ、日本とアフリカとの距離が縮まるのではないかと思う。ここまで読んで、本書を手にしてみる気分になられましたか? そうであれば、アサンテサーナ。


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