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20年ぶりのケニアで見た夢

20 years after, I dreamed in Kenya…

『アフリカNOW』90号(2011年1月31日発行)掲載

執筆:白岩 佳子
しらいわ よしこ:1963年大分県生まれ。3人の子ども(うち、ひとりは知的しょうがい児)の母。ひとり親歴16年。介護福祉士。1990年にケニアのナイロビで長女を出産したことからケニアとのつながりができ、現在に至る。

※ 本文では筆者の表現に即して「障害」を「しょうがい」と表記しました。


1990年8月に私は、長女の花子をケニアのナイロビで産んだ。
その後、日本に戻ってきてからは、子どもたちに今という時代に生きているすばらしさを感じてほしいと考え、 学校やPTA、生協、知り合いのグループなどで、ケニアの話やアフリカの音楽についてのイベントを企画するようになった。
2001年には「アフリカ祭り?なんたってアフリカ!なにはなくとも愛がある!」と題したイベントを、キャンプ場を借り切って泊まりがけで開催。このお祭りは3年続いたが、アフリカ音楽の話を聞いたり踊るだけでなく、太鼓を叩いてみる、さらには太鼓を作ってみることにも挑戦してみた。 しかも、山間部に放置された丸太をくりぬき、駆除された鹿の皮を張って太鼓を作るのだ。でなければ、アフリカの音楽はわからない。 アフリカ料理にしても、食べるだけなんてとんでもない。作るだけでも足りない。 鶏をさばくところからやってこそアフリカ料理だ、といった具合でイベントを実施した。
アフリカを深く理解したい、遠い日本からでもアフリカに心を寄せる人が増えてほしいと考え、その試みは成功していると思っていた。 ケニア人の新しい友人もできたし、彼らの文化や暮らしを紹介することのお手伝いできて、私はうれしかった。少しは役に立っているつもりになっていた。
その思いあがりが砕かれたのは、2007年のことだった。ケニア人の友人が2007年暮れのケニアの選挙時に帰国するというので、小さいながらもイベントを企画した。 参加してくれた人たちには、とても喜んでもらったし、少ないながらも精一杯のお礼をした。
このときその友人が、ケニアの選挙のことを教えてくれた。ケニア人は世界中にいるが、選挙のときには必ず帰国するということ。 選挙でしか、自分たちの意志を表現できないのだから、とても大切な選挙だということ。もう5年もこのときを持っていたこと。 そして、選挙に対してとても期待していること。でも…と、間をあけて、もしもこの選挙で不正が行われたら、自分たちはもう黙っていないだろうということも。 私は尋ねた。「黙っていないって、どういうこと」。彼は「あらゆる手段を使って、今の政権の不正を正す」と答えた。 「あらゆる手段って、何」「あらゆる手段だ。自分たちには、それしか残っていない」
私は、普段は物静かで穏やかで冷静な彼の並々ならぬ思いに触れていた。彼は「自分が死ぬこともあるだろう」とも言った。 自分が死ぬことなんて、どうでもいいことだ。問題は今こうしている間にも、お年寄りや子どもや弱い者から、毎日毎日、誰にも知られずにたくさんの人が死んでいる。 自分が死んでも、その人たちが助かるならいいのだ。このままたくさんの人が死んでゆくのを見続けていることにはもう耐えられないのだ、と。
私は、ケニアのことを日本の人にも知ってもらって、友だちをたくさん作って、ケニアの問題を一緒に考え、日本の責任も考えてもらい、 そうやって少しずつでもケニアの状況がよくなっていったらいいな、と考えていたものだから、そのことがなんの役にも立っていないことに思い当たって、 唖然としてしまった。さらに、彼は続けた。「私は日本人を楽しませることができる。でも、私にとってはなんの意味もないことだよ」
なんてことだろう。私たちは彼から一方的に楽しませてもらったり、学ばせてもらったりしておいて、彼になんのお返しもできずにいたのだ。 彼の好意でそのことを大目に見てもらっていたにもかかわらず、何かの役に立っていると思い上がっていたのだ。
それでも、「心配しなくていい」と彼は言ってくれた。私は2007年の選挙を見守り、暴動を祈るような思いで見守り、彼の言ったように彼のことは心配しなかった。 彼がもし死ぬようなことになっても、私には、悲しむ資格すらないと思った。こうなることを止める手立てをなにも持っていなかったのだから。 幸いにも彼は死ななかったが、1,000人もの人が死んだので、喜ぶこともできなかった。
そして、私はなにもできなくなった。なにもできないでいる間に、介護福祉士の資格を取った。 私の3人の子どものひとりが知的しょうがいを持っていることから、必要にかられて福祉に携わるようにもなった。 ケニアが遠くなったように思われるかもしれないが、貧困のために死と隣り合わせで生きているケニア人と、 病気のために死と隣り合わせで生きているしょうがい者はとても似ている。 生きることに真剣だという意味においても、苦しみの中にいるからこそ人の痛みがわかるという点においても。 日本の福祉の世界にいても、ケニアのことを思わない日はなかった。
そんな2010年の夏に、「しょうがい者目線で行くケニアツアー」に介助者として参加してくれないか、という話しが舞い込んだ。 なんの心配もないが、問題は知的しょうがいを持つ次男の次郎のことだ。次郎は16歳だが、話すこともできないし、食事にもトイレにも介助が必要だ。 健康だけが取柄。そして、人の話をよく聞くことと、状況を読むことはできる。 一緒に連れていってもよいかもしれない、いや、だめかもしれないと、最後の最後まで迷いに迷っていた。迷いながら、準備を進めた。
その迷いが吹き飛んだのは、関西空港で丹羽正吉さんに会った瞬間だ。 会った瞬間から、次郎は正吉さんのそばにぴったりとくっついていた。正吉さんは脳性まひで、身体にしょうがいを持っている。 誤解を恐れずにいうなら、次郎はしょうがいを持つ人が大好きだ。なぜなら、しょうがいを持つ人は次郎を傷つけない。 それに、しょうがいを持つ人のそばにいれば、自分がなにか役に立つことを見つけられるかもしれない。そのことは次郎の喜びなのだ。 関西空港で合流したTさん、ドバイで合流したYさんとOさん、ナイロビで合流したMちゃん、そして、正吉さん、次郎と私の合計7名のツアーが始まった。 現地を案内してくれたのは、ケニア在住22年の早川千晶さん。私がナイロビで出産して以来のママ友だ。
「自分は人の助けを必要とする。だからこそ、自分にもできるなにかを探したい」。 正吉さんのそんな思いに共感して集まったメンバーとの旅は、とても充実したものだった。 ナイロビのスラムから始まり、子どもたちの家、しょうがい児のための高等学校、そして、田舎の小学校。 ケニアでは、脳性まひの人が歩いている姿を見ることはたいへん珍しく、どこに行っても子どもたちがたくさん集まってきた。 子どもたちにとってだけでなく大人にとっても、正吉さんは注目の的になった。そして、正吉さんがメッセージを求められると、必ず言う言葉があった。 それは「夢は諦めなければ、必ずかなう」というものだ。
その説得力たるや、どよめきが起こるほどの感動だった。田舎の小学校に行ったときのことだ。教頭先生がとても興味深く、私たちのことを見ていた。 次郎のすることも、ひとつひとつをとてもよく見ていた。そして、正吉さんの仕事のことや、車を運転してどこにでも行けることを聞き出して、とても驚いていた。 その教頭先生は長年、しょうがい児の施設で働いた経験があり、ケニアでは、しょうがいを持って生まれた子どもは、教育を受けるチャンスがないだけでなく、 教育以前の訓練も受けられないので、できないことができないままに大きくなるのだ、と話してくれた。 だから、次郎が靴下を脱ぐ仕草ひとつでさえ、興味深く観察していたのだ。
その教頭先生は、正吉さんと次郎を、来年、受験を迎える8年生のクラスに案内して、受験生に正吉さんを紹介した。 「彼は、しょうがいを持って生まれてきたが、一生懸命に勉強をして、今ではパソコンを使って福祉関係の事務の仕事をしている。 車を持っていて、行きたいところにはどこにでも行ける」「君たちは、健康な体で生まれてきた。正吉さんにやれて、君たちにやれないはずはないよな」 「がんばれる人は手をあげて」。全員が「はい!」と手をあげて、まるで熱血先生の熱血授業のようになった。
それは感動的な場面だったが、クラスを離れると、教頭先生は私たちに言ったのだ。「彼らはがんばることができる。 成績を上げることもできるだろう。しかし、たとえ一番の成績を取っても、経済的な理由で高校に行けない生徒がいることが、私たちの悩みだ」と。 子どもたちは、小さいときにはまだ夢を持てるが、大きくなってくると、努力しても学校には行けないことや、思うような仕事に就けず、 ずっと貧乏な生活が待っているだろうということなどがわかってきて、夢を見ることができなくなるのだという。
私たちは黙って、その話を聞いていたが、みんなが同じことを考えていた。「せめてひとりだけでも、学費の援助ができないものか」と。 帰国してから、話はひとつひとつ進んでゆき、現地でも仲介してもらえることになり、私たちは、奨学金を出すために気持ちをまとめていった。 それは、わくわくする作業だった。奨学金の名称は「まさよし夢基金」に決まった。メンバーひとりひとりが話をして、参加者も少しずつ増えている。
私たちは、お金を集めているのではない。夢を語っているのだ。子どもたちが夢を見ることを忘れないように。 いや、子どもたちの夢をサポートすることが、私たち大人の夢なのだ。2007年の暴動以来、止まっていた私のケニア時計がまた動き出した。 微力かもしれないが、少なくとも夢に向かって一歩、踏み出したのだ。どんなことがあっても、この歩みは止めたくない。 「夢は諦めなければ、必ずかなう」のだから。


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