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「アフリカ子ども学」の構想

A new concept in the Studies on African Childhood

『アフリカNOW』90号(2011年1月31日発行)掲載

執筆:亀井伸孝
かめい のぶたか :大阪国際大学准教授。理学博士。手話通訳士。専門は文化人類学、アフリカ地域研究。1996年からカメルーンにおける狩猟採集民バカの子どもの研究を始め、あわせてアフリカの手話とろう者に関する研究に携わる。著書に『手話でいこう-ろう者の言い分 聴者のホンネ』(ミネルヴァ書房、2004年)、『アフリカのろう者と手話の歴史-A・J・フォスターの「王国」を訪ねて』(明石書店、2006年)、『手話の世界を訪ねよう』(岩波ジュニア新書、2009年)、『森の小さな〈ハンター〉たち-狩猟採集民の子どもの民族誌』(京都大学学術出版会、2010年)など。


「アフリカ子ども学」ということを考えている。

「アフリカの子ども」というと、何を連想されるだろうか。「飢餓でやせ細った子ども」という代表的な印象のほかにも、「子ども兵」「児童労働」「誘拐」「性暴力/性労働」「高い死亡率」「HIV 孤児」「女子割礼(性器切除)」「ストリートチルドレン」「就学率の低さ」などなど、ネガティブな言葉をいくつも思いついくことができるだろう。
しかし、それは本当にアフリカで生まれ育つ子どもたちの全体像を示しているのだろうか。私は、現地に行って子どもたちと出会うたびに、そんなことを感じていた。
疑問点は、いくつかある。まず、いま列記した問題は、確かに現実の一部を言い当てており、どれも避けてはならない重要な問題である。しかし、それだけで「アフリカの子ども」のイメージがおおい尽くされてしまったら、何かが足りないと感じるのである。
また、ここにあげた課題とは、みなアフリカ内外の大人たちが引き起こした問題に関わることが多い。大人が原因を作った問題に巻き込まれた子どもたちの姿だけを取り上げて描き、「アフリカの子どもはこういうものだ」と再び大人たちが勝手に納得している、そんな図式が思い浮かぶ。
さらに、これらの問題が、先進諸国の数値との比較で語られがちなことも、気になっている。比べてみて差があったら、いつもアフリカは「教え導かれる役割」を負わなければならないのだろうか。
アフリカの子どものイメージについて「何かが足りない」と思ったとき、つい、ポジティブなイメージを付け加えようと、「かがやく瞳」「素朴な笑顔」「伝統を受け継ぐ従順さや器用さ」などが強調されがちだ。しかし、それらも本当の意味で、アフリカの子どもたちの姿を伝えているようには見えない。やはり、先進諸国との比較でしか、アフリカの子どもたちを描けていないからである。
アフリカは、人口の過半数が15 歳以下という「子どもたちの大陸」である(決して「アフリカが子どもっぽい」という揶揄を込めているのではない)。アフリカを理解するためには、子どもたちの姿を学ぶことが必要である。それをしなければ、まるで主役を欠いた芝居のようではないか。
事件性の高い不幸な問題だけをつづりあわせるのではなく、まず、「アフリカに多くの、実に多くの子どもたちが暮らしている」という事実から出発するのはどうだろうか。そして、先進諸国との落差で理解するのではなく、アフリカの子どもたちをじかに理解しようとする試みがあってもよいのではないか。
子どもたちは日々何を食べて、どんな交友関係をもっていて、学校や仕事やお金のことをどう思っていて、周りの大人たちとどう付き合っているのだろう。ラクダを追いかけている子どももいれば、ツイッターで世界中に友だちを作っている子どももいるだろう。携帯も欲しいけれど、翌月の村のお祭りも楽しみにしているかもしれない。私たちは、子どものことを何も知らないのである。
冒頭にあげた子どもをめぐるさまざまな問題は、もちろん解決しなければならない。そういう意味で、アフリカの子どもたちへの支援は必要であるに違いない。しかし、相手のことをよく知らなければ、スムーズな支援などできないのである。アフリカの子どもたちを「教え導くべき対象」としてではなく、その地で生まれ育ち、その環境の中で生きている「対等なパートナー」として、理解と対話を進めていくのはどうだろうか。
このような視点で思いついた「アフリカ子ども学」。それは、アフリカの子どもたちに暮らしぶりを教えてもらいながら、よりよい理解と支援を考えていこうとする、アフリカ研究・実践の大きな柱のひとつであるに違いないと確信している。