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孤児院建設の取り組み

『アフリカNOW 』No.9(1995年発行)掲載

執筆:荒川勝巳(サイディア・フラハの会 コーディネーター)

私が孤児院をケニアの人々と一緒に建てようと思いたったのは、ケニアで数年間に及ぶ楽しいボランティア生活にピリオドを打ち、もう二度とアフリカへ足を運ぶこともないだろうと、日本で一般の職に就いた後である。
私は日本に戻ってからも、ケニア人の友人と文通していた。その彼から「ケニアの社会・経済の悪化でストリートチルドレンが増え、それにも関わらず孤児院やディケアセンターはあまり増設されていない」との知らせを受け取り、自分でも何とかできないものかと思った。ケニア人の友人たちと協力してプロジェクトを運営すれば、現地のニーズに応えられる孤児院が作れると考え、資金繰りなどあまり気にせず、日本を飛び出してしまった。

私が再びケニアに戻ったのは、1992年4月のことだった。ケニアの首都ナイロビ市の街を久しぶりに歩いて気づいたことは、前回私がここにいた1990年当時と比べ、ストリートチルドレンの姿が目立ち、どこの街角でも彼らを見かけたことだった。
歩く人の表情は一様に厳しく、何かを考え込んでいるようだった。この頃はケニアの独立以来人々が最も苦悩した時期ではなかったろうか。

1989年のソ連邦崩壊後、アフリカでは民族主義的な考え方が台頭し、ケニアでもテロや民族闘争が相次ぎ、多くの死傷者・避難民を出すに至る。
私が戻ったのはそのピークの時で、人々は「今しも国を分裂させるような民族闘争が起こり、隣国ソマリアのような亡国状態に陥るのではないか」との危機感を持っていたようである。

このような時期に私がケニア人の友人たちとまず始めたことは、孤児院運営のためのNGO組織をケニア政府から認可してもらう仕事だった。しかし、この仕事は政治行政の混乱のために、こちらの思うようには進まない。この法律上の手続きと並行して進めたのが、他のNGOプロジェクト巡りと孤児院の土地探しだった。
プロジェクト巡りは孤児院だけに限らず、スラム対策・心身障害・職業訓練・老人ホームと多岐に及ぶ。これによって我々はプロジェクトの対象を孤児院だけに絞らず、ケニア人が必要としているものを広範囲に検討することでした。
そこでプロジェクトの土地探しの条件は、ナイロビ市近辺でまだ同じようなプロジェクトが入っていない低額所得者層の多く住むところとなった。この条件を満たしたのがキテンゲラ村である。
キテンゲラ村は、ナイロビ市の南東30キロに位置するサバンナにあるマサイ人の村。それが近年、ケニア政府が世界銀行との共同融資により、手狭になったナイロビ市の工場地帯に変わる工場地帯をここに誘致した。
この村に建設ラッシュが始まり、作業員・行員などの職を求め、ケニア各地から貧しい人たちがここへ集まってくるようになった。この工場地帯の横にスラムが形成され、日増しにそれは大きくなってきている。

最初、我々はこの村に広い土地を買い、日本人の援助により、きちんとした孤児院を建てようと考えていた。しかし、資金源は私が日本から持ってきたお金だけだったので、数ヶ月のプロジェクト運営で目減りし、広い土地など買えるお金などなくなってしまった。 ちょうどその頃、私はタンザニアでプロジェクトを見る機会に恵まれる。
タンザニアではその前から、政府の方針が社会主義的経済から資本主義経済へと移行しだしていて、ストリートチルドレンが増えだしていた。私はこの市で一つの孤児院を見ることになった。
孤児院といっても、壁から屋根までトタン板でできた小屋である。園長であるタンザニア人女性の話によると「2ヘクタールの土地を政府から譲り受け、タンザニア人の融資から日本円に換算すると数十万円の援助を受け、今小屋を建て備品を揃えた。それ以降も多少の額の援助を受けているが、それだけでは子どもたちを養ってはいけない。そこで子どもたちは自分たちで畑を作り、食物をある程度自給する。余剰分は売りに行き、また近所の農家の手伝いをするなどでお金を得て、それらを生活費の一部とする。その生活費が余れば、これまた自分たちできちんとした孤児院を建てるための材料を買う。教育や医療はボランティアの先生に来てもらう」との話。建設途中の建物も見せてもらった。
この孤児院から「お金を費やすことだけが援助の方法ではない」ということを教えられたようで、経済的に追いつめられていた私としては気が楽になった。

ちょうど同じ頃、日本の支援者の一人から「何か具体的な支援活動を始めて見ては」との提案もあり、これらのことを我々は検討してみた。そして、それほどお金のかからない、我々のできる範囲での支援活動を始めることにした。それが貧しい子どもたちのための保育所である。
キテンゲラ村に0.2ヘクタールの土地を購入。ここへトタン造りの教室と事務室を建て、1993年7月に保健所を開園した。開園当初は、少しでも子どもの親から養育量を請求して運営費の足しにしようとしたが、今では親の経済的事情を考え、ほとんどの子どもが無料である。 1993年末、保育所は7名の子どもを修了させた(ケニアでは学年末は12月)。しかし、修了園児7名のその後の状況を追うと、3名が小学校へ通っているだけで、4名の子どもが入学費用を払えず、家でぶらぶらしていたり、村の中心地へ出てストリートチルドレンになっていることが判明した。
そこで、1994年修了の子どもたちからは、入学費用の必要な子どもがあれば、その子どもの親の費用を貸し与えることにした。そして修了園児は保育所のない土曜日に保育所の教室へ通い、小学校での学習成果を先生に見せ、補習授業を受けられるようにもした。現在、保育場の子どもは18名、小学生は9名である。
この保育所の子どもたちは母子家庭が圧倒的に多いので、今後は地域社会と連携して、彼らの生活向上の道を支援していきたい。

我々のプロジェクトは昨年ようやくケニア政府からNGOとして認可された。それ以後、支援者は日本人だけでなく、ケニア人からも出始めている。そして、依然ストリートチルドレンは増え続けているので、これらの支援者から、このプロジェクトに対し、孤児院開設の要望が強まってきている。
孤児院用の建物は保育所と同じ敷地に、仮説の子ども部屋・寮母室・台所と設置し、仮説ではない事務室・台所の建設も外装を整える(内装はまだ)ところまで進んできている。
これらのことから、我々は今年こそ孤児院を開設しようと決し、日本とケニアでキャンペーンをして孤児院運営資金を捻出することにした。
開設といっても、仮設の子ども部屋で養育できる人数は10名程度。それに始めは少人数の養育により、こちらの受入れ体制を整えたいので、4名の受入れから始めることにした。里親制度を採用し、常に3年間以上は子どもを養育できる財源を確保し、その財源が増えた場合に子どもを増やすかどうか決める。将来的には広い土地を手に入れ、仮でない建物を建て、もっと多くの子どもを養育したい。
孤児院入園条件は、引き取り手のいない完全な孤児。ストリートチルドレンといっても親がいるか、あるいは親戚など引き取り手がいる場合は、一時的に保護する場合があっても、養育の対象とはならない。
いったん孤児院が確立したならば、施設の有効性にもよるが、心身障害の孤児の受入れも検討する。民族・肌の色・宗教・文化の差を問わない。孤児院の場合、保健所と違い地域性はあまり関係ないので、キテンゲラ村近辺の子どもが優先的ではあるが、全国から受け入れる。養育期限は18歳までだが、個人差があるので、その子どもが自立する技術を身に付けるまで延長することができる。


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