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TICADⅢからTICADⅣへ 奔走した一参加者のつぶやき

日本とアフリカの市民社会のパートナーシップの発展

From TICAD3 to TICAD4

Development of the partnership of Japanese & African NGOs/CSOs

 

『アフリカNOW』82号(2008年10月31日発行)掲載

執筆:舩田 クラーセン さやか
ふなだ くらーせん さやか:TNnet運営委員。TICAD市民社会フォーラム(TCSF)副代表。東京外国語大学外国語学部准教授。専門はアフリカにおける紛争と平和の学際的研究。モザンビークをはじめとする南東部アフリカの調査・研究に従事。大学では、ポルトガル語・アフリカ地域研究・紛争と平和を教える。1993年よりNGO活動に積極的に関わり、援助改革やアフリカと日本をつなぐ市民活動に奔走。著書『モザンビーク解放闘争史』(御茶ノ水書房 、2007年)


この原稿依頼が来たとき、正直とても悩んだ。悩んだ理由は、私はどこに立ってこれについて語るべきか……、と考え込んだからだ。最初はTICADIV・NGOネットワーク (TNnet)の運営委員として書こうと考えたが、依頼された内容はTNnet結成以前のTICAD市民社会フォーラム(TCSF)発足の経緯も含めたものであった。TCSFといっても、最初からあった団体ではなく、これまたプロセスの中で誕生し、プロセスの中で活動を形成していったもので、それを短い原稿で総括することなど出来そうになかった。
そうこうしている間に、原稿締め切り日もとっくに過ぎてしまった。編集長の困った顔がチラホラし始めた。結局、あくまでも2003年のTICADⅢから今年のTICADⅣまでの5年間のプロセスに関わった一個人として、この原稿を書くことに心を決めた。従って、この原稿の内容は、かなり私個人の見方や経験に基づいたものとなってしまった。書きはじめたら、これまで一NGOの副代表という責任ある立場を背負ってきた者として書けなかったことも、活動が終了するにあたって書きたい気持ちが湧いてきた。ということで、なるべく標題の中身について全体的な流れを追う努力はしているが、この5年間を「アフリカ市民社会がアフリカ開発やTICADプロセスの主役となる」ために捧げた一日本市民としての経験を皆さんと共有できればと思う。
それは、2003年9月、TICADⅢの直前に開催されたシンポジウム会場で、アフリカのNGOから突きつけられた問いから始まった。
「TICADや日本政府が問題だ、問題だというけれど、こんなTICADを許してきたのは主催国の日本の市民社会の責任ではないのか? 私たちは、毎回会議が近づくと急に呼び出され、会議が終わるとその後何の音沙汰もないままに何年も過ぎ、また呼び出されることの繰り返しである。これでは、本当にアフリカの市民社会の声を日本に届けようとしているとは思えない。日本の市民社会は、アフリカに来て活動をすることよりも、自分の国の政府・社会を変えることからやってほしい」。
このような発言が、アフリカから来日していたゲストによって次々と口にされていた。だが、日本の市民社会が何もしていなかったわけではなかった。最初のTICADからTICADⅢまで、日本のNGOやその関係者がこの機会を活用しよう、せめてアフリカのNGOが発言する場を確保しようとどれほど努力してきたかは、私自身もよく知っていた。
しかし、日本のアフリカ関係NGOの多くは、1~2名の有給スタッフが、資金集めから現場までをこなしており、 NGO連合に割ける物理的な時間も労力もほとんどない状態であった。そもそも、TICADのような国際会議に対して5年間フォローアップすることの意義に懐疑的なNGOも多く、結果として、TICADが近づいてくるたびにあわただしくNGO連合が立ち上がるという状態が繰り返されてきたのである。
ようやくNGO連合を立ち上げても、このような活動のための資金を集めることは容易ではなく、関係者の皆が、どれほど苦労して資金を集め、その結果どれほど疲弊していたか、なかなかアフリカから来たNGOに理解してもらうことができなかった。彼らにしてみれば、日本は「金持ち先進国」であり、その市民社会も潤沢な資金を有しているに違いなかった。実際は違うということを何度説明しても、そこは一同、世界第二の経済規模を有する日本の首都・東京の発展ぶりを目の当たりにした後である。
結果として、アフリカ市民社会の訴えに対して、日本の市民社会側は返す言葉を持っていなかった。当然だろう。あれほどまでの疲弊。国際会議の前夜にあって、すらすらと「次」を話せる人などいるわけがなかった。見かねてシンポジウムの司会者は会場に呼び掛けた。「アフリカ市民社会の声に応えたいという団体・個人はいらっしゃいますか?」しかし、手をあげる人は誰もいなかった。私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。子どもも小さく、関西に住んでいたこともあったが、TICADⅢに向けた市民行動(ACT2003)の活動をほとんど手伝うことができないまま、口ばかり出してきたという自戒の念にさいなまれていたからである。だったら、手をあげるべきであったが、自分の抱えている状況をふり返り、こんな重責を引き受けられるはずがなかった。しかし、正直悔しかった。アフリカに関わってきた日本の一市民として。あるいは、アフリカで行われてきた日本の援助の問題にアフリカ市民社会とともに取り組んできた者として。日本の援助の問題も、TICADの問題も、われわれの国・政府・社会に責任があるというのに、アフリカからわざわざ来たNGOにこう言われて、何も応えないのでは責任を放棄しているように思えた。私は後ろめたさと、悔しい気持ちで、周りを見渡した。誰も手をあげていなかった。溜息とともに、気づいたら手をあげている自分がいた……。
このとき、なぜかモザンビークから市民社会組織(CSO)が3団体も来日していたことが、私の背中を押した一大要因となったことは事実であった。ACT2003が推薦したモザンビークの団体は1団体であったが、当時の駐モザンーク日本大使が追加で2団体を送ってくれていたのである。私は、2000年来、戦時下のモザンビークに日本が供与して放置されたまま環境汚染を引き起こしていた農薬の問題に取り組んでいた。そもそも、この問題が明らかになったのは、現地環境団体による調査と告発によってであった。その時も、日本の市民としての責任が問われたのであるが、この責任を全うするために、仲間たちとともに、2002年には食糧増産援助を問うネットワーク(通称、2KRネット)を設置して、調査・対話・政策提言・情報提供を行ってきた。その際私たちは、すべての活動について、アフリカのNGOとの連携を基本とし、実態調査を協働し、日本政府や国連機関、モザンビーク政府に働きかけを行い、2002年9月に開催されたジョハネスバーグ・サミット(持続可能な開発に関する世界首脳会議)で共同セミナーを実施するなどしてきた。その甲斐あって、ついに日本政府は、農薬援助を断念し、援助する側の責任を認め、モザンビークの放置農薬の処理の費用を負担することになった。援助の失敗を「要請主義」「一義的責任は現地政府にあり」という立場を崩さなかった日本政府が、初めて自らの責任を認めた例であった。さらには、「食糧増産援助」という名称が「貧困農民支援」に改称され、中身が大きく変わっていないことは問題であるものの、支援の目的が明示されるようになったのである(詳細は、2KRネットのウェブサイト)。 http://www.paw.hi-ho.ne.jp/kr2-net/
このような改善が実現したのも、援助する側と援助を受ける側の両方の市民社会がリアルタイムで協働したからであった。他方、私は彼らに対して申し訳ないものを感じていた。というのも、そもそも資金も人材も限界を有する戦争後復興の段階にあるモザンビーク市民社会にあって、彼らが、日本の「失敗援助」に対してこれほどまでのエネルギーを使わねばならなかった点に、われわれの側の不甲斐なさを感じずにはいられなかったからである。そもそもは、われわれが何十年もこのような援助の実態を知ろうともせず、放置していたからこそこのような事態に陥ったのであって、その責任は日本サイドにある。なのに、なぜたくさんの課題を抱えたアフリカの市民社会がそれに付き合わなければならないか……。私は腑に落ちないものを感じずにはいられなかった。彼らの専門性や資金・人材を、「マイナスの影響を止める」ために使うのではなく、何か社会にとって「プラスのものを生み出す」ために使ってもらいたい……、切実にそう感じていた。
つまり、援助する側の責任は、まずは援助側市民社会が負うべき、ただし被援助国市民社会も一緒にこの問題に取り組み、政策や支援をあるべきアフリカ発展の道筋を実現するために、援助側市民社会も一緒に協力していくべき……、という結論に私なりに達していた。これは、モザンビークのNGOとの対話の積み重ねから出てきた結論であり、これまでパートナーシップを組んできた彼らを前にして、当の私が手をあげないわけにはいかなかった。
しかし、手をあげた瞬間に目の前をチラチラし始めたのは、関西に置いてきたまだ3歳になったばかりの我が子の泣き顔だった。こんなに長い期間、離れ離れになるのは初めてなのに(TICADⅢのために3日間家を空けてきていた)、もう大変な約束をしてしまっている事実。しかもまだ稼ぎもない無給の研究員であり、本来やるべきことは博士論文を書き終えることだった(そのため金銭的にも家族に協力をしてもらっていた)。そのうえ、関西の山奥(兵庫県川辺郡!)という政策提言をしていくにはかなり無理がある所に住んでいた。こんな悪条件が頭をよぎっていった。「しまった」と思った瞬間に、「はい。僕も」と手をあげてくれた人がいて、もう後ろに引けなくなった。それが、後にTCSFの代表となる大林稔さん(龍谷大学教授)であった。このとき手をあげてしまった事実を、夫に話せるようになったのは随分後のことだった上に、彼に相談しないまま勝手に一大決心をしたと、詰られ続けた5年間であった。

 そして、TICADⅢの最終日、アフリカと日本の市民社会は、TICADⅣのフォローアップとTICADⅣの抜本的変革を促す組織として「TICAD市民社会フォーラム(TCSF)」の設立を宣言したのである。TICADⅢの昼食時に皆で集まって、このフォーラムの骨子や概要を決めていったのだが、何よりも重要な視点として、「アフリカの市民社会こそがアフリカ開発の当事者であり、政府だけでなく、NGOもまた、それを徹底して追求すること」が確認され、合意された。その結果、「活動の中心は、アフリカの市民社会とのネットワーク構築と維持。日本のNGOは自分たちの提言をつくってそれをアフリカの市民社会に承認させるのではなく、アフリカ市民社会が提言をつくれるように支援し、その提言こそを日本の市民社会は支援すること」が、TCSFの基本理念として確立された。
重要な点は、この目的・手法が、アフリカNGOたちとの議論を経て、アフリカNGO主導で生まれた点である。これは、日本市民社会の歴史でも稀な展開だったのではないかと思う。「アフリカ市民社会こそが主体」という根幹は、このとき出来上がり、その後の5年間、TCSFや後のTNnetの活動を決定づけることとなった。

 そのことが顕著に表れているのがフォーラムの名称である。当初、TICADというそれ自体が何か知られていない名称を団体名に付けることには、多くの日本関係者が反対した。しかし、アフリカNGOは譲らなかった。今思えば、彼らの意見は至極まっとうだった。TICADに際して作られた日本の団体が、TICADに嫌気がさして、TICADを関係業務から外してきた事実を見抜いていたからである。アフリカNGOは一枚上手だった。というのも、私ですら、何度もこの名称・この国際会議から逃げ出したくなる時期があったが、団体名称にTICADがあったために逃げようがなかったからだ。
それからTCSFのNGOとしての設置、NPO法人としての発足までの長い、苦しい10ヵ月が続いた。TICADⅢに集まった日本のNGO関係者は、もうTICADはまっぴらごめんという様相であった。あのとき手をあげた私と大林さんも含めた10人ほどの有志(大半がAJFの会員)が、何度も会議を開いたが、具体的に「アフリカの市民社会とのネットワーク構築と彼らの提言づくりの支援」をどのように進めていくのか、なかなかイメージが湧かなかった。そもそも、3回目のTICADがあまりにもひどく、こんな会議に関わることそのものへの嫌悪感が皆の間に漂っていた。私自身、子どもと博士論文がより手のかかる段階にきていた。本当はモザンビークの自分の調査でお世話になっている地域社会にこそ恩返しがしたいのに、わけのわからない国際会議に対する政策提言という上位レベルの話に首を突っ込んでしまったことに後悔の念を感じ始めていた。もう時効なので書いてしまうが、実はこんな辛い気持ちを抱えてTCSFをスタートさせたことを、今の今まで誰にも打ち明けたことはなかった。アフリカ市民社会と約束はしたが、日本政府を、TICADを本当に変えることができるのか、という不安を感じてこなかったというと嘘になる。あの時手をあげてしまったことを何度後悔したことか……。
そんな私が気持ちを一新することができたのは、何よりアフリカの市民社会の励ましと、日本のアフリカ関係者の熱意のおかげであった。2004年のTCSF設立総会に集まった多様な層の人びとが、懇親会の場で期待と抱負、自分たちも参加したいという意志を次々に表明してくれたからである。そのほとんどが、NGO活動など関わったことがないという人たちであった。アフリカのNGOと何かしたことすらない人たちであった。しかし、彼らの実に晴れ晴れとした顔を見て、「日本市民社会の発展」の可能性を強く感じたのであった。「専門家も一市民として政策提言に関与できるし、するべき」という新しい流れを生み出せれば、彼らの業務にも良い影響を及ぼし、「市民対政府」という構図ではなく、政策を中から変える機運につながるのではないか、と考えたのである。また、若い人たちの中から、アフリカ人自身の主体性の発露の一環であるアフリカ市民社会の活動に関わってみたい、という強い関心と期待をビシビシ感じることもできた。一緒に、新しいことをやってみよう。やれるかもしれない。私は心の中からアツいものがこみ上げてくるのを感じた。そうか、楽しみながらやったらいいのだ。あと5年ある。5年を辛く感じるのではなく、これから5年かけて、新しい人たちに加わってもらい、新しいことを、新しい手法ですることを、皆で挑戦すれば良いのだ……、そう割り切った。
振り返ってみれば、理事になってくれた人たち、代表の大林さん、副代表の石田さん、事務局の長島さんの個性が、なんだかこの団体を型破りなものとして楽しませてくれる予感があった。そして、結果としてその通りになった。あれほど悩んだアフリカ市民社会と一緒にやっていく手法としては、「アラート」「白書」「パートナーシップセミナー」などが考案され、アフリカ市民社会と私たちを結びつけるツールとなって機能していった。学生ボランティアやインターンの協力を得て、1,500のアフリカNGOにアンケートを送り、アンケートに答えてくれた熱心なNGOと英語のメーリングリストを通して、具体的な協働を実践していった。
アフリカの市民社会からは、続々と叱咤激励が舞い込んできた。特に、TICADⅣ開催までの最後の2年半ほどは、アフリカ市民社会自身が大きく変貌を遂げていく時期にあたり、私自身が彼らから大きな勇気と希望を授けてもらったように思う。不可能が可能になるような、そんな錯覚すら覚えるようになった。何足もの草鞋が辛くてくじけそうになることは毎日のようにあったが、そんなときに決まってアフリカからのメールに励まされた。夜が明ける前の午前4時。寝ている間にアフリカから送れてきたメールの太陽のような明るさや優しさに、どんなに支えられたことか。今日も無事すべてのことをやり切って結果を出そう、そう自分に約束してこの5年を駆け抜けた。まあ、パフォーマンスについて、常にアフリカNGOに見張られていたという意味でアカウンタビリティを常に試された日々でもあった。
アフリカ市民委員会(C-CfA: Civic Commission for Africa)の構想は、そんな彼らとの対話の中で生まれ、アフリカ市民団体200団体近くとの、行ったり来たりの議論の往復によって完成した。アフリカ側とのコミュニケーションを重視してしまった結果、日本のNGOとの相談が不十分となり、TNnet設立時に問題視されたこともあった。相談が足りなかった点について関わった者として大いに反省している。しかしながら、アフリカのこんな多くの数のNGOが、ファンドレージングにもつながらないTICADⅣに向けたアドボカシー活動に、これほど熱意をもって関わってくれる日がくるなど、誰が想像したであろうか? 「失敗から謙虚に学びつつ、大きな成功につなげる」。このポジティブシンキングもまた、アフリカで学んだことであった。
日本や国連主導のTICDプロセスに対して、このようにアフリカのNGO連合が結成されたことは、世界的に見ても大きな意味を持った。アフリカ開発の国際会議に向けて、アフリカ市民社会自身が、各国で自分たちの言葉で自分たちの提言を作り、国際協力機構(JICA)の受託事業「アフリカ・アジアNGOネットワーク・セミナー」でナイロビに集結して話し合い、「アフリカ市民社会の声」を提言として昇華させ、早い段階でTICADⅣのプロセスに影響を与えることができたことは、大きな前進であった。結果、当初議題になかった国連ミレニアム開発目標(MDGs)が復活したり、「人びとのためのインフラ」というように、議題や政策文書に影響を及ぼすことができた。
ただし、日本のNGOのネットワーク化については、それほど容易だったわけではなかった。複数のNGO関係者が結成したTCSFであったが、新しい層のアフリカ関係者が参加したこと、NPO法人化して連合体というよりも一団体として機能してきたこともあり、「TICADに関わる市民社会の代表」として名乗ることは相応しくなかった。何より、TICADⅢで「もうコリゴリ」という日本のNGOにとって、「TICAD」という言葉を聞くだけで鳥肌が立つ人までいる状態は、数年経っても解消のきざしはなかった。しかし、TICADⅣが開催される2008年まで1年という2007年になって、北海道洞爺湖G8サミット(以下、G8サミット)とTICADⅣが関連付けられたこともあり、TICADⅣに向けて日本のNGOを組織化することは不可欠な状態に突入していた。政府関係者、国際機関関係者、アフリカ外交団と対話の機会も増え、われわれTCSFだけが彼らに会っていて良いはずはなかった。しかし、TCSFの役割は、あくまでもアフリカ市民社会が中心的な役割を果たすお手伝いをすることにあった。日本のNGOの調整機能をすることは、当初の活動計画になく、そのためのスタッフもいなかった。しかし、時は迫り決断のときがきた。
2007年3月9日に、日本のNGOに呼びかけを行って、TICADⅣ開催まで1年というタイミングで、日本の市民社会としてどうするか話し合いの機会を設けた。その際に集まったNGOで結成することになったのが、TNnetであった。このネットワークの事務局が、TCSFのもとに落ちてきた。他のどの団体もこれには興味を示さなかった。そりゃそうだろう。手間も暇も金も人もかかる業務である。われわれだって、アフリカサイドとの調整で手一杯であった。しかしながら、TICADという名前から逃れることができなかったTCSFである。「TICAD市民社会フォーラム」という団体名、TICADⅣで結果を出すことを団体の宿命に背負いながら、事務局を務めないわけにもいかなかった。自然な流れとはいえ、慣れないNGO連合の事務局業務はなかなか円滑にはいかなかった。
NGOのネットワークの事務局は、当然ながら出しゃばってはいけない。しかし、TICADⅢからTICADプロセスをフォローアップしてきた団体として、2003年から5カ年計画に基づいて着々と準備を進めてきたTCSFである。2007年といえば、すでに総仕上げの時期にきていた。あまりに突出した情報・ネットワークを蓄積していたことも事実であった。そのことが、ネットワーク内にいらぬ(TCSFは自分たちの都合にあわせてネットワークを使っているというような)誤解を生みだしてしまった。過去のTICADを経験すれば、もう1年を切ろうという段階である。外務省の準備が遅れているからこそ、先手を打てば変えられる、他方どんどん進めないと間に合わない……、という焦りによるものだったが、よく考えれば、TICADとは何か、問題はどこにあるのか、という理解すら加盟団体に共有されていなかった。多くのNGOでTICADⅢのときと担当者が変わっていたからである。当初は日本のNGOの関心も高くなく、情報共有・アフリカ市民社会の支援をメインとして、非常に緩やかに連携する程度で動いていたが、ネットワークとしての責任を明確にするため、運営委員会設置、意志決定方法の確立などが行われた。
TCSFも、NGOネットワークの事務局として、全体バランスを取ることを優先し、黒子に徹することにした(徹しきれなかった時も多々ありました。すみません!)。これによって、ネットワークは劇的に発展を遂げ、最終的な成果につながった。しかしこのことが、TCSFのこれまでの蓄積や強みが必ずしも活かせないという場面を増やしていったことは課題となった。
とはいえ、アフリカから13のNGOが集まった東京ワークショップ(先述のJICA受託事業)、そして、TNnetが主催した、2007年10月27日の国連ハウスでの国際会議の段階になったころには、アフリカ・日本のNGOネットワーク同士の連携が具体的な形で目に見えるようになり、顔と顔がつながり、言葉と言葉がつながっていく契機となった。みな、アフリカの市民社会の力強い言葉、現実に根ざした観察、自分たちの役割の重要性の自覚に直接触れる機会を得て、「彼らこそが主体であり、私たちは彼らのお手伝いをすべきなのだ」という実感が広く共有できたように思う。それから先は、ネットワーク事務についても、団体内部においても、ほとんど迷いはなかった。いずれは消えてなくなるTCSFから、あらゆるネットワークや知見を日本のNGOに手渡していくことこそが、アフリカ市民社会のためにも、市民社会同士のフォーラムとしての役割なのだと、自覚するようになったからである。
それ以降、TNnet会合で「アフリカ市民社会を前に」という言葉を何度耳にしたかわからない。もちろん、アフリカに詳しいNGOである。皆がアフリカ市民社会なるものの限界を重々に承知していた。と同時に、所詮はアフリカ社会において「よそ者」にすぎない自分たちの役割を強く認識するようになっていたように思う。TICADⅣに向けての議論の中で、アフリカ市民社会の役割と日本市民社会の役割とはそれぞれ何なのか、関わった皆が問われたように思う。TICADⅢの前夜のように。あのときは、それに対する応答は心もとないものであったが、今度は違っていた。TICADⅣ開催が迫る5月半ばには、すでにTICADⅣ後にもネットワークを継続させようという意志の確認ができていた。このことが、具体的なアフリカのパートナーたちとの議論の中で深まっていったことは、何よりもの財産であった。
本番直前に「パス問題」(本番参加のパスが80名近くのアフリカ・日本・国際NGOに対して3枚しか発給されないという通達が、外務省からあったこと)が発生したこともまた、危機のように見えて、その実大いに好機をもたらした(もちろん、一瞬ぐらいは落ち込んだが)。というのは、この会議は誰に対して開かれているべきか、誰の声を前にもってくるべきか、誰が声を発するべきか、という点がTICAD主催者だけでなく、日本のNGO関係者、はたまた日本の国会議員、マスコミも鋭く問われたからである。「3枚のみのパス発給は妥当なのかどうか」というわかりやすい問題設定があったおかげで、社会的論議は大いに盛り上がった。ある議員には、NGO参加拒否問題から国会議員の逮捕にまで発展した「アフガニスタン復興会議問題」の前夜のようだ、と言われたほどであった。
結果として、アフリカ市民社会なるものが存在していることを想像だにしていなかったマスコミ関係者の多くに、アフリカ市民社会が「ある」だけでなく、TICADに関心を寄せ、具体的な提言を政府と対応に行うことが可能であることを、強烈にアピールすることができた。転んでもただで起きてはいけないのだ(私のモットー)。「パス問題」を契機に、アフリカ市民社会の参加問題が「社会問題化」したことが、この変化を支えたのだ。アフリカのことを語るときに、当事者であるアフリカの市民社会が何を考え、何を言うか耳を傾けなければならない、という基本の「き」が、これ以降マスコミに浸透していった。4月から本番までの2ヵ月の間、数分おきに事務局にかかり続けた電話の大半がマスコミからのものであったことはこれを物語っている。G8サミットでもこの傾向は途切れることなく、続いていった。マスコミを通じて、お茶の間の視聴者や新聞の読者たちが、アフリカの市民社会の声を耳に、目にしていった。これらの報道一覧は、次のウェブサイトを参照にしてほしい。 http://www.ticad-csf.net
もちろん、TICADⅣの本番中、TNnet主催の市民社会セッションが公式プログラムとして開催され、アフリカ・日本の市民社会は大いに語った。そこには、U2のボノさんや、アフリカの「歌姫」イボンヌ・チャカチャカさん、モザンビーク元大統領、多数のメディアが駆け付けた。また、本会議場でも市民社会との対話の時間が設けられ、市民社会代表のグスターブ・アサーさん(C-CfA議長)が「市民社会の声」を発表している。いずれもTICADの15年の歴史の中で初めてのことであり、前回とは比べ物にならないほどの前進であった。このことは声を大にしても言いたい。しかし、私自身は、一番素晴らしかったと思ったのは、アフリカ市民社会の姿が政府代表と並んで、ときにそれ以上に報道され、その声が一般の人たちに届いたことであった。
アフリカ市民社会のキャパシティビルディングが必要なのは明らかである。しかし、政府関係者と同じような高い目線から彼らを見て、「ここがダメだからダメである」といって、すべてを否定するのではなく、一緒に走りながら、キャパシティの不足を含め、サポートしていくことこそ、同じ市民社会の一員としてやるべきことではないか、ということについて、多くの人に理解されるようになったように思う。 アフリカ市民社会のパートナーは、もうTCSFではなく、TNnet(次のネットワーク)、そして日本社会全体となった。バトンは渡された。次に走る人たちに、次なるバトンと夢と成功を託したい。


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