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開発フロンティアの民族誌 東アフリカ・灌漑計画のなかに生きる人びと

書評/Book Review

『アフリカNOW』82号(2008年10月31日発行)掲載

石井 洋子 著
御茶の水書房、2007年2月28日 初版第1刷発行
A5判変形/縦組/本文:291ページ
定価 :4,800円+税/ ISBN:978-4-275-00514-4

評者:佐竹 ヒロ子
さたけ ひろこ:大阪府出身。19歳の時に飛び込んだケニアU村のおばちゃんたちにムウィカリと命名され、村の娘となる。女子大卒業後、結婚して渡米。出産後帰国し、大学院へ。研究テーマは、ずっと変わらず「女性のエンパワーメントと女子教育」。スイス、ニューヨーク、日本を転々とするが、やっぱりケニアが心地いい。夢は、夫(日本人男性です)と息子をつれてU村に里帰りすること! 細く長く、マイペースでアフリカに関わりたい、AJFのママさんインターン。


19歳のとき、初めて訪れたケニア共和国のU村で、私は村の女性グループのおばちゃんたちにムウィカリと命名され、この村の娘になった。学生の間、毎夏をおばちゃんたちの娘としてこの村で過ごした。しばらく遠ざかっていたこの村に、昨年久しぶりに里帰りをした。結婚して息子を産んだ私のために、村中の人がお祝いに駆けつけてくれて、日中悠々と草を食んでいた雄ヤギは、夕方には丸焼きになって登場した。そして、私は、「男の子には財産が必要だ!」という村の慣習の通り、雌の子ヤギを1頭もらった。
「ムウィカリ、コメの準備やってね」。普段は、ギゼリというマメとメインズ(白トウモロコシ)を炊いたものか、メインズの粉を熱々の湯で練って蒸かしたウガリを主食としているのだが、U村でお世話になっている家のママは、マメが苦手な私のために時々コメを炊いてくれる。その準備として、コメを一粒一粒より分けながら、小石や虫食いを取り除く作業が必要で、それを私にやれというのだ。日が暮れる前に終わらせようと必死にコメと格闘するから、コメを食べられる日は首が痛い。マメやメインズは、収穫したものを乾燥させて穀物小屋に山積みになっているが、コメはマーケットで買ってくるものだから、大変に貴重なものである。
一方、ナイロビでお世話になっている家では、調理が簡単なコメやスパゲティが頻繁に出るし、朝食は砂糖たっぷりのチャイとブルーバード(マーガリンのブランド)たっぷりの薄切り食パンが食べられる。やっぱりここでも、コメをより分けて小石を取り除く作業は私の仕事である。
今回ご紹介する『開発フロンティアの民族誌:東アフリカ・灌漑計画のなかに生きる人びと』(石井洋子著 御茶の水書房 2007)は、こんな懐かしいケニアでの一幕を思い出させてくれた。

国家主導型の開発計画に飲み込まれる人々

本書では、植民地時代における英国人入植者による開拓事業から、ケニア独立後におけるケニア人による開拓事業までのギクユの人々の生き様を見ることが出来る。国家灌漑公社の契約農民として開発フロンティア社会に入植した人びとが、初めて見る水田におけるコメ生産に悪戦苦闘する様子、そして、水田脱国営化の道を選択するまでのプロセスとその背景を、人類学的手法を用いて丹念にまとめた一冊である。

ケニア最大の民族であるギクユは、当時国内ではあまり食されていなかったコメの生産に着手した。1953年、イギリス植民地政府は、『ケニアにおけるアフリカ人農耕の強化開発計画・議会文書10号』(=スィーナートン・プラン)を提示し、徹底した土地改革の必要性を説くとともに、灌漑開発を実施した。灌漑施設を整備して作物生産増量を目指すことは、食料不足に悩むアフリカの緊急課題のひとつでありながら、アフリカでは国家主導型の大規模灌漑農地はほとんど普及していない。先行投資額が莫大であることが障壁となり、多くの計画が初期段階で断念されてきたためである。そうした中で実施されたのが、ムエア灌漑事業である。ムエアは、ギクユの農地再配分から溢れた人びとを吸収する形で創出された開発フロンティア社会で、彼らはここで初めて「水田」に出会い、それを意味する「マエカ(土地面積単位のエーカーにma-をつけた)」という言葉を造った。広い土地を得た喜びとは裏腹に、新しい土地でコメを作って生きることは平坦なものではなかった。トップダウン式の入植事業や国家事業が成功するか否かは、コツコツと作業を積み上げる大衆の力にかかっている。そこには苦闘と葛藤、時には対立や崩壊があるが、しばしばそのような悲慟の声は黙殺される。この本は、そうした人々の生声に耳を傾けている。

アフリカ的社会主義のもとで国家の成長を目指して

私が、この本の中で最も印象に残ったのは、「アフリカ的社会主義」という言葉と、「セイフティーネットとしての紐帯」という言葉である。初代大統領ケニヤッタは、ケニアの社会主義は「平等」と「家族の精神」にあり、伝統社会に息づく人々の相互の責任感を取り戻すこと、すなわち、ハランベーを一面に掲げて国民国家の形成を目指した。この言葉は、ケニアの国章でライオンが持つ旗にも見ることが出来る。もっとも、アフリカ的文化価値への回帰を唱えながらも、同時に欧米的価値も容認し、独立後の経済的自立と発展を目指すという二重価値があったからこそ、ケニアは内紛もほとんど起こさず、平均経済成長率6.6%(1964 ~1973年)を誇る「アフリカの優等生」に成り得たわけである。(同期のサハラ以南アフリカ全体の成長率は3.9%)しかし、1970年代半ば以降、原油価格高騰、輸出産品(コーヒー、紅茶)の国際価格暴落、輸入(食料、工業製品)総額の増大、そして大旱魃などが相次ぎ、ケニアの景気は下降の一途をたどった。そして、世界銀行と国際通貨基金(IMF)による構造調整政策へと突入することになる。マクロな経済政策による皺寄せは、大衆に及ぶ。コメ生産を選択した開発フロンティアの人たちも、食料や灯油、バス運賃などの価格高騰に甘んじるほかなかった。

新天地で見られた伝統的価値への回帰~ハランベーによる危機回避

著者が「開発フロンティア社会において過小評価されつつあった親族や姻族、またクランといったカテゴリーにある人びとが、新たな経済活動の潤滑油として機能し、急激に変化する日々の生活を具体的に助けた様子であった」(p.283 l.7-9)と書く通り、苦境を乗り切ることが出来たのは、ケニアの伝統社会に当然に存在した助け合いのための相互扶助組織があったからである。
ギクユの土地は、その肥沃さから植民地支配の下で入植者に奪われ、住民は周縁に移住させられたという歴史的経緯がある。土地の剥奪とは、物としての財産を奪われるのと同時に、地縁や慣習などの文化的財産をも失うことを意味する。開発フロンティア社会は、国家開発計画の延長にある「創られた社会」であるが、ここには、文無し土地無しになって悲嘆にくれる者や、一攫千金を夢見る者、そして、強制的に移住させられた者が集まっており、住民らのバックグラウンドは実に多彩である。また、「創られた社会」には、土地所有や相続などにおいて、伝統的な慣習には見られない取り決めが多数存在していた。その多様さと斬新さゆえに、地縁や血縁といった関係は希薄になり、伝統的な社会システムはしばしば否定される。
しかし、本書で紹介されている開発フロンティア社会に見られた現象とは、無縁とされた人びとの間に重層的なネットワークを張り巡らせることで、支え合う人々の層に厚みを持たせるという伝統的価値への回帰であった。助け合いのための紐を人為的に張り巡らせたのである。たとえば、コメ生産量の低下による減収を乗り切る術だが、通常であれば、手持ちのヤギを売って資金を調達するところを、ワンジコのケースでは、婦人会のなかで持ち寄ったコメを転売して米価の変動から差益を生みだし、それをメンバーに貸し付ける方法で解決を図った。また、雑貨店と自宅が全焼したニャガ家を救ったのは、小学校教員である友人が開いた募金パーティー(ハランベー)である。これによって、ニャガ夫婦は、損害額の約5分の1を賄うことが出来た。新たな生活環境で起こる日常、非日常の問題を解決する対応策として、馴染みのある伝統的な社会システムが再評価され、経済実践的な機能という新たな可能性を孕みながら、地域社会に根付いていったのである。苦境を直に支えるのは、国家主導の政策ではなく、伝統的に重んじられてきた「助け合う」という絆であることを、開発フロンティアでの開発事業を通じて人々は気づいた。

人々の地道な努力に敬意をはらった開発援助を

コツコツと作業を担う大衆に裨益が生じないねじれ現象や、更なる貧困を引き起こす可能性があることなど、トップダウン式の開発計画の問題点が指摘される。著者は本書の最後の部分で、「莫大な援助資金と政治力を兼ね備えた開発プロジェクトは、現地に暮らす人間中心の開発とはなりにくい。(中略)効果が数値として表れにくい草の根レヴェルの営みは、低く評価されてしまう。そうした地道な努力を看過し、社会文化的な配慮を後回しにする開発計画は、地域社会に大きな葛藤を生み出す危険性をはらんでいる」(p.281 l.5-8)と述べている。大衆の悲慟の声を黙殺しないためにも、開発計画を進める視点として、現地社会の可能性や将来像を熟知するための努力を怠ってはいけないという著者の警笛は、人びとの生声を満載した本書だからこそ素直に感じられるものである。


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