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東京で学び、アフリカでコミュニティを構築する

Studying in Tokyo,building a prosperous community in Africa

『アフリカNOW』106号(2016年10月30日発行)掲載

執筆:キニュア・レイバン・キシンジ
Kinyua Laban Kithinji 1986年生まれ、ケニア東部エンブ県出身。現在、上智大学大学院博士課程に在籍。学外でも、UNHCR やILO バンコク支部でのインターン、マクドナルドや読売新聞、英会話学校でのアルバイトを経験。四谷インターナショナルスクール講師、上智大学でのティーチングアシスタントを務める。2013年のTICAD V 学生プロジェクトやAJF キッズクラブのイベントにも参加し積極的に活動している。


初めての日本渡航

初めて来日したのは2007年のことだ。地元のケニア東部エンブ県の高校を卒業後、成績は良かったものの金銭的な理由で公立大学に進学できなかった私は、進学するための支援者を探していた。韓国系キリスト教会からの奨学金を受けて大学へ進学できたのだが、1年で奨学金が切れてしまい、退学せざるをえなくなった。私は希望を失うことなく、大学での勉学を続けるため、学費を後払いすることも検討していた。そんな時、ケニアにあるアフリカ・ナザレネ大学の教授を訪ねる機会を得て、その教授と学長から同大学の姉妹校である東京基督教大学(千葉県)の紹介をうけた。

東京基督教大学には、アフリカの他国からの学生が多くいたが、ケニア出身者としては私が最初だった。難しい入学試験や面接などすべての手続きを終えるまで1年を要したが、ついに日本留学と奨学金授与が決定した。それまでは、いつか飛行機に乗って外国へ行けるとは夢にも思わなかったから、成田に到着した時、自分の人生が一変したように感じ、教育をうけられなかった父に、リスクを恐れず大志を抱けと、幼少時何度も言われたことを思い出した。

 

学部時代の生活

学部で学び始めた頃は、故郷の若者が自分と同じように留学の機会を得られないか考えていたが、全員が日本へ来て夢を叶えるのは不可能だと気付いた。それが自分で行動を起こすきっかけになり、第一歩として、アルバイトをして、故郷の若者一人の高校進学を支援することにした。アルバイトは、読売新聞の新聞配達員で、週6日間朝4時に起き、200部を配達するのに毎日1時間半かかった。ケニアで誰かの教育を支援するためにと思うとやる気が湧き、小さいころ母親が重労働の大切さを教えてくれていたことも助けになった。

日本人の友人からは「勉強の方は大丈夫?」とよく聞かれた。しかし、日本に住むアフリカ人として、幼い頃からの苦労を無駄にせず、自分に厳しくした。アルバイトの大変さを言い訳に勉強を疎かにすることのないよう、睡眠時間を6時間にして、授業を欠席することは一度もなかった。もちろん、友達との交流の時間も大切にした。結果、学業では成績評価値のGPA(Grade Point Average)4.0中3.8を取ることができ、アルバイトで貯めたお金で一人の高校進学と、もう一人の教員養成学校進学を支援することができた。

 

博士課程での研究

地元の学生を支援するだけでなく、自分自身が帰郷したときに大学で教鞭をとり、また自分の故郷にもっと貢献できるように、学部卒業後は上智大学大学院に進学した。現在は博士課程で貧困を中心に研究している。

ケニアのエンブ県高地の農家が現金収入源のコーヒーや茶を育てていながら、なぜこれまでずっと貧困から抜け出せていないのかについて、同県低地の半乾燥地帯との比較アプローチを使って、調査している。現地の人々にとっての「貧しさ」とは何なのかを考え、グローバルな文脈の中での「貧困削減」が、ポジティブなものなのかネガティブなものなのかということを理解できるのではないか。

私の研究では、民族誌学的・歴史学的アプローチで地元民の経験を記録していき、貧困の概念を地元レベルで捉えることや、彼ら自身が貧困というスティグマを払拭する方法を考えている。エンブ県高地は、持続的な食料生産に適した天候に恵まれているが、コーヒーも茶も買い取り価格が低い。水などの天然資源に恵まれた高地でさえ現状では貧困レベルが高く、ましてや低地での水の確保などの状況改善は難しい。また高地は、様々な環境的好条件があるにもかかわらず、国際的な開発機関の援助が少ない。援助制度は利益獲得や資源開発のために存在しているというよりは、資源にまつわる様々な要因があるために存在している。貧困の程度が低かったり、気づかれないところでは、地元の要望が明らかにあったとしても、援助が行われる可能性は低いようである。

また、援助機関が開発モデルを転換しようという試みは、地元の文脈には当てはまらなかった。例えば、ムンガニア(Mungania)茶工場が良い例だ。1970年代前半、ある日系企業は、地元に紅茶への高い需要がある中で、緑茶のニーズと調整しようとしたが、失敗に終わった。工場はケニア茶協会に引き渡されてからは、主要商品を日本人好みの緑茶から紅茶に転換し、高い収益を得るようになった。また、開発や貧困削減にある程度貢献しうる資源があることで、逆にさまざまな農業投資を寄せ付けないようになり、貧困削減策を改善する選択肢がなく利益の得られないまま、地元民はますます貧困に陥っている。

このような状況下でどのように「貧乏人」が「貧困」に立ち向かうか、批判的に分析する私の研究は、開発機関が推進する貧困削減策とは相反するものだと思う。しかし、例えば開発機関に置き去りにされたエンブ県高地の地元民が取り入れている「ハランベー」は、貧困削減策として活用されている。私の研究では、M-PESA ( エムペサ) の携帯電話の送金方法(1) も、起業の成功例としてだけではなく、貧困にある人々がテクノロジーを生活改善と貧困との闘いに利用した「ハランベー」の一例として紹介している。

研究を通して貧困の意味と原因を理解することは困難であったが、貧困削減に関する様々な取り組みに参加してきたことで、教育が最も重要な解決策の1つではあることを学んだ。その一方で、自分の故郷には若者に対する多大な投資も必要だと気付かされた。内に秘める大きな可能性が引き出されないまま、学校卒業後も薬物や性的虐待に陥ってしまう若者も多いが、こういった問題は、貧困者への投資で解決できる。お金に困っていない訳ではないが、日本で学ぶ学生として自分は恵まれている方だ。少しの犠牲で故郷の若者に大きな投資ができるのだ。

私はこの夏、2人のバイクタクシー運転手のための小さなベンチャー事業を始めた。2年間の貯金のたった14万円で、2人の若者が薬物やアルコール依存症になる危険をまぬがれた。14万円は日本では大した額ではないかもしれないが、僕の故郷ではそういった小さな貢献が、若者の人生を変えるのだ。

日本の多くの学生にとって、学生としての時間は研究や勉強にあてられ、それは良いことでうらやましいのだが、ケニアの貧しい農村出身の学生である私は、勉学と故郷での確かな基盤づくりとでバランスをとらなくてはならない。地元では、” Kidogo kidogo hujaza kibaba(キドゴ キドゴ フジャザ キババ)” という表現がある。「少しのことが大きなことに繋がるのだから、小さな一歩を恐れるな」という意味だ。その機会を与えてくれた日本と神様に感謝したい。

 

(翻訳:和田 奈月)

(1)ケニアの携帯電話会社サファリコムのモバイル送金サービスで、利用者数拡大が続いている。携帯電話のショートメッセージ(SMS)で手続きや本人認証をする。M はモバイルを指し、PESA はスワヒリ語でお金を意味する。


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