アフリカの障害者を研究すること

Led by people with disabilities living in African forest

『アフリカNOW』104号(2015年12月31日発行)掲載

執筆:戸田 美佳子
とだ みかこ:国立民族学博物館機関研究員。博士(地域研究)。2006年から中部アフリカのカメルーン共和国やコンゴ共和国,コンゴ民主共和国でフィールドワークをおこない,障害者に関する人類学的研究や,アフリカ熱帯雨林における森林資源の利用に関する実践的研究にたずさわってきた。主な著書に,『アフリカ学事典』(共著,昭和堂,2014年),『世界の社会福祉年鑑(2012年)』(共著,旬報社,2012年),『森棲みの社会誌—アフリカ熱帯林の人・自然・歴史 II』(共著,京都大学学術出版会,2010年),その他の論文に「アフリカに『ケア』はあるか?—カメルーン東南部熱帯林に生きる身体障害者の視点から」(『アジア・アフリカ地域研究』10 巻2号,2011年)ほか。


はじめに

「アフリカの障害者について調査しています」。こうした自己紹介をすると、福祉や開発援助に強い関心をもっているのだろうと思われることがある。こんなことを言うのははばかられるが、アフリカに貢献したいと夢を抱いて研究をはじめたわけではなかった。実際は、大学の学部生時代は物理を専攻する天文マニアだった。そんなわたしがなぜアフリカで障害者を研究することになったのか。そのきっかけがネットサーフィンだと言うと、ますます怪しい人間に思えるだろう。

学部生3年生の夏、わたしはインターネットで素粒子の相互作用(interaction) について調べていた。interaction というキーワードからウェブページを探しているうちに、アフリカのコミュニケーションに関する動画(1)と出会った。いったいどうやってそのページにたどりついたのかは思い出せないが、その動画を見たときの衝撃は今でも覚えている。動画は、旧ザイールの熱帯林に暮らすボンガンドと呼ばれる人びとが、まるで演説でもするかのように大声で、日常の出来事や不満を発話している様子を記録したものだった。動画のなかの村人は演説者に注目しないように、もっと言えば無視するかのように普段どおりの生活を続けていた。特定の話し相手が想定されるような会話ではない、そんなコミュニケーションをわたしは初めて目にした。

当時、わたしは大学の先生の紹介で、発達障害を抱える子どものお手伝いをしていた。言葉を発することに困難を抱える子どもたちに、どのようにして言葉を身につけさせたらいいのかと悩んでいた。そもそも会話するとはどういうことなのだろうと、思考をめぐらせるようになっていた。そんな時に出会ったボンガンドの動画に、わたしは素直におもしろい、そういう世界を知りたいと思った。今になって思い返してみるとなんともお粗末な研究動機だが、その動画をとおして、わたしはアフリカ社会というもの(2)に興味を抱いた。

それから10年が経ち、2015年の3月にアフリカ熱帯林のなかで身体障害を抱えて生活する人びとの営みを描いた民族誌を著書として出版することになった(3)。

本書の舞台となるのは、コンゴ盆地に広がる世界第二の森林面積を誇る熱帯林である。そこには、ピグミー系狩猟採集民の一集団であるバカと呼ばれる人びと(「バカ」とはわたしたちが聞くとびっくりするような呼び名だが、もちろん日本語のような意味はない)と、主に焼畑農耕を営む複数の言語集団の人わたしが出会った4人の身体障害者(下半身のマヒを抱えながらも、換金作物であるカカオの生産を営む農耕民の青年ジュドネと、女性が担うキャッサバなどの自給作物の栽培や酒造りなどをおこなう農耕民女性モニーク。狩猟採集民バカの長老アヴァンダ。大酒のみでよく酔っぱらっていたが、底抜けに明るく憎めない狩猟採集民のジェマ)の日常をモノグラフとして描いている。彼らに出会えなければ、博士論文をまとめることも、本書を出版することもできなかっただろう。そこで、彼らとの出会いを紹介し、アフリカの障害者を研究することで見えてきたことを伝えてみたい。

アフリカの熱帯林に暮らす障害者との出会い

アフリカの、それも熱帯林といった奥地の村のなかで障害を抱えて生活するとなると、その生活はさぞ厳しいだろう、悲惨なものだろうと考える人が多いかもしれない。実際にマスメディアは、アフリカではこれまで障害を「呪い」や「罪」と結びつけて考えるために、障害者が外部に対して隠蔽されているというイメージを発信してきた。こうした「隠された障害者」のイメージとは対照的に、わたしがカメルーンで出会ったのは、村で農作業をしたり、母や父として子育てしたりといった「あたり前」の日常を営む障害者だった。これまでの障害やケアに関する議論をめぐってわたしたちが感じる、ある種の「息苦しさ」はそこではあまり感じられない。それはなぜなのか。その問いに答えることがわたしの研究になった。

2006年10月、わたしはアフリカ中部のカメルーン共和国を初めて訪れた。首都ヤウンデの国際空港に降りたち、街中を散策すると、そこで驚くほど大勢の身体障害をもつ人びとがわたしの目に飛び込んできた。スケートボードのような台にコロを取りつけた乗り物に乗り、交差点を駆け巡って物を乞う少年たち。行き先を記した紙を手にタクシー運転手と交渉する聾の少女。毎日のように街中で出会う障害者の姿がわたしの眼に印象深く映った。この国に暮らす障害者の営みを知りたいと思った。せっかくならば、熱帯林地域で調査をしてみたい。そう考え、首都から600km 離れたカメルーン東部の村に入ることにした。

しかし、村で調査をすると意気込んでみたものの、その目的をどう伝えればいいのかわからず日々を過ごしていた。「障害者の調査をする」というのは、心のなかで、センシティブな問題だと思っていたからであろう。そのような逡巡のなかにあったある日、道路逞沿いに村人の家を訪ねて歩いていたとき、上腕のたくましい男性が、見馴れないハンドルのついた三輪車に乗り、子どもたちと一緒に舗装されていない道路を一気に下っていた。あまりの速さに、それが障害者用の車いすだとわからなかった。わたしは彼と話がしてみたくなり、すぐに彼の家を訪ねるようになった。彼がわたしのインフォーマントでもあり、また頼りになる友人でもあるジュドネだった。ジュドネの母はしっかり者で、わたしは農作業の方法や料理など、この土地で暮らす術を一から教わった。そして、3ヵ月が過ぎた頃、わたしは初めてこの地を訪れた本来の目的を伝えた。それを知ると、ジュドネは家族について話していたのと同じように屈託なく自分の話をよく語ってくれた。また、他の障害者も紹介してくれた。「障害者」について「調査する」ことを口に出すのをためらっていたときの緊張感は、いざそれを口に出してしまうとすぐに消えた。それからは、他の村人と話すのと同じように、彼らと生業活動や結婚、家族について話すことができるようになり、日々インタビューを続けた。そして、調査が進むにつれて、わたしはなぜ、はじめこの問題について話すことを躊躇していたのかを自問するようになった。

日本では、障害者をじっと見つめたり、障害のことを触れることがはばかられる雰囲気を感じることがしばしばある。しかし、わたしが調査のあいだに経験したことはそれとは異なる人びとの接し方であった。そこでは一見すると障害者に対して特別な配慮がみられないし、また特別視もされていないように感じられた。

村で障害者を「調査する」

人類学者がよくやる参与観察という調査方法にもとづいて、観察対象となる人たちと一緒のことをやる。わたしが村でやってきた障害者の調査とは、彼らについて一緒に農作物を収穫したり、水汲みに行ったり、お酒を飲むことだった。ただ実際には車いすに乗ったジュドネと隣村まで買い物に行っても、車いすの速さについていけずに何度もおいてきぼりになってしまったり、モニークと一緒に水汲みに行っても、モニークが20リットルの水が入ったバケツを頭にのせ、四つんばいで運んでいるのに、わたしは子どもサイズの10リットル入りのバケツでも上手く運べなくて、台所に着く頃にはたくさんの水をこぼしていた。何をしてもモニークの足を引っ張ってしまうわたしに、モニークは「ゆっくりで大丈夫」「まあ無理しないで」となかば呆れ気味に優しく接してくれた。調査とは名ばかりに、わたしは彼らから村での生活の仕方を教えてもらっていた。

そうしているうちに、彼らが日々の生活のためにやっていることがわかってきた。彼ら障害者の営みとは、そこに暮らす人びととまったく同じ、農耕や狩猟、採集活動だったということだった。ただし農作業や狩猟、採集が身体障害を抱える人にとっては容易な活動とはいえないことも事実だ。たとえば、この地域の現金獲得として重要なカカオは樹高1〜5メートルの枝や幹に実をつける。下半身のマヒを抱えているジュドネにとって、長い棒を使って高い枝になるカカオの実を収穫する作業は困難であった。そこで、彼はカカオを収穫する際、バカの少年や青年から手伝いを得ていた。

労働力を「個人の能力」として捉えるなら、農作業や狩猟採集のような身体的な労働で生計を立てる農村社会では、身体障害者の生業活動は不可能もしくは著しく困難であるということになるだろう。しかし、そこでの農耕や狩猟採集といった生業活動は、親族関係や地域集団、それが行なわれる場所と深く関連しており、その労働は規格化や標準化されておらず、対面的な関係性のなかで実践されていた。そしてそこで見出されたのは、民族の境界を越えて関係を展開する障害者の姿であった。調査を進めるうちに、わたしは、彼ら障害者の、「一人前(いちにんまえ)」の存在として生業を営み、そしてケアをとおして多様に社会とつながる姿にすっかり魅了されてしまった。

「障害者を研究する」ことの息苦しさ

フィールドでの「調査」がしだいに楽しくなっていくのに対して、「障害者を研究する」ということにある種の息苦しさを感じたままだった。日本に戻り、ゼミや研究会で「カメルーンの障害者は……」と調査の報告をするたびに、「なぜ障害者をみるんだ」「障害というものはあるのか」「障害を理想化しているのではないか」という叱咤が続いた。わたし自身、彼らを「障害者」として論文にまとめたり、発表するたびに、ある感覚にとらわれていた。それは調査のはじめにわたしが体験した逡巡の日々と同じ「障害者というセンシティブな問題」を扱っているという心苦しさにも似た感情である。わたしは調査のなかでこの感覚を忘れていたかのように思えたが、日本に戻り筆を執るに当たり、決して忘れることのない感情としてよみがえってきた。 わたしが調査をとおして出会った障害者は、「ジュドネ」であり、「ジェマ」であり、「モニーク」であり、「アヴァンダ」という名をもつ者である。彼らは周囲の人びとと名前で呼びあうような関係を構築しており、「動かない」や「目が見えない」といった状態を示す「ワ・フォア(wà phoà)」や「ワ・クマ(wà kúmà)」(脚が自由に動かない人びとの意味)という現地語は、日常会話のなかで彼らを総称する言葉としては使用されていなかった。もちろんカメルーンにおいても障害は厳然と存在し、差異はあった。自分が自分の意思でコントロールできない、身体の機能的な傷をもつことは、困難なことである。しかし、カメルーンで出会った、社会のなかに生きる障害者の姿のなかには、障害者をセンシティブな問題としてとらえるような社会、たとえば日本や西欧諸国とは何かが違っているように思えた。差異と社会的な逸脱とは単純な形では結びつかず、人びとは「彼はこういうカテゴリーである」という還元をせずに、その都度、相互行為のなかでやり方を決定していっているのではないだろうか。

もちろん、アフリカ社会における互助や扶助としての福祉が理想郷であると主張するわけではない。現状の身体の所与のなかで生活を成り立たせている彼らの手に届く公的なサービスなどはなく、均等に権利が与えられていない現状にある。たとえば、わたしが調査をした地域で、ソーシャルワーカーがそこに暮らす254人の障害者に調査をおこなったところ、83人もの身体障害者が車いすを必要としていることがわかった。現在のカメルーンの国家財源では、この県に配布される車いすは年間2台。最後の人は、40年も待たなければならない計算となる。このように、アフリカ諸国の多くは政府の公的扶助制度が脆弱であり、障害者支援に関する地域的な取り組みの遅れが指摘されている。アフリカに暮らす障害者は物理的な困難を抱えていることは事実だが, だからこそ相互の関係のなかで生きているともいえるのではないだろうか。

アフリカ研究から「障害」を問い直す意義は、(日本や西欧社会のように)ケアする側の論理に立脚する社会に疑問を呈することではないだろうか。障害者や病者、高齢者が「ケアされる者」として生活実践の外側へと導かれる社会構成、そして彼らを社会的な困窮者とみなす自明性こそ問題にしなければならないのではないだろうか。

おわりに

なぜアフリカの障害者を研究するのか。今回、アフリカ熱帯林に暮らす障害者の民族誌を執筆するに当たり、その問いを考えてきた。研究をはじめたころのわたしは障害者を研究するために、カメルーンにおける「障害とはなにか」に答えようとしてきた。そうするたびに、フィールドで見てきた状況から離れていった。そんなとき、ある人から「現地の人びとは一体どうやって生活しているのか」という質問を受けた。この根源的な問いが、抽象的な議論へと話を混乱させていたわたしに違う見方を与えてくれた。

わたしがアフリカにおける障害者の研究を通じて明らかにしたかったことは、「アフリカにおける障害とはなにか」ではなく、「アフリカの障害者と周囲の人びとのあり方(社会性)(4)とはなにか」を問うことなのだと気づいた。障害者と周囲の人びとが、たとえ互いの状況は同じではなくても、「一人前」として相手に対せるような社会のあり方をとおして、わたしたち(障害者・非障害者、農耕民・狩猟採集民、そして男性・女性)の豊かな共在への可能性を探っていきたいのだと。

アフリカの障害者を研究することは確かにセンシティブな問題を含んでいることは確かだが、もっと根本的な彼らの熱さや生き生きした姿を、少しでも多くの人に伝えることができればと思う。本書を手にとってもらい、これまで語られてきた「隠された障害者」像とは異なる、さまざまな社会的な境界を越えながら生活を営む障害者の姿に共感をもって読んでもらえれば、アフリカ研究者の一人としてこの上ない幸せである。もちろん、現地では、このままで良いとはいえない状況もたくさんある。彼らといっしょに考え、並んで歩んでいきたいと願っている。

(1)京都大学の木村大治さんのウェブページに、著書『共在感覚』(2003)の紹介として、農耕民ボンガンドの投擲的発話の様子を記録した動画が公開されている

http://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/~kimura/co_presence/index.html

(2)正確には、木村大治さんが著書のなかで述べている「共在感覚」(いがみ合ったり、無視したりしながらも他者と一緒にいるという感覚)にみられる「アフリカらしさ」というものに興味をもったのだと思う。

(3)京都大学アフリカ地域研究資料センター・アフリカ研究出版助成「平成26年度総長裁量経費(若手研究者に係る出版助成事業)」の支援を得て、2015年3月に『越境する障害者—アフリカ熱帯林に暮らす障害者の民族誌』を明石書店より出版することができた。本書は、2013年3月に京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科へ提出した博士論文に加筆・修正して書き上げたものである。

(4)ここでいう「社会性」とは、「あの人は社会性がない」などといった通常の用法ではなく、今村仁司の論考にみられるような “sociality”、すなわち社会のなかでの人間のありようを(通常は「社会性がない」といわれるような状態をも含みこんで)呼ぶ言葉として用いている。


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