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ブルンジの苦悩ー民主主義の果実を味わうその日まで

The distress of Burundi Until the day for enjoying fruits of the democracy

『アフリカNOW』103号(2015年9月30日発行)掲載

執筆:ドゥサベ友香
どぅさべ ともか:1989年生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科修了。2011年にブルンジにてボランティア活動をして以来、農村での小規模ビジネスやコーヒーの販売等を手がけている。夫は自給農家出身のブルンジ人。


2015年4月25日、ピエール・ンクルンジザ(Pierre Nkurunziza)大統領が、違憲である3期目の大統領選に立候補したことを機に、ブルンジは再び紛争状態に陥った。
ブルンジでは、2006年の紛争終結後も、政治抗争が絶えることなく続いていた。与党から野党への弾圧は激しく、集会開催等の容疑や時には理由もなく投獄・拷問され、毎年数十人が殺害されてきた。ある友人は、野党党員として反政府活動をしたという無実の罪で投獄され、与党のユースウィングであるインボネラクレ(Imbonerakure)によって8ヵ月間も拷問を受け続けた。彼の投獄中には何人も殺害されたという。一般の人々も、多くの場合与党の党員である村長やインボネラクレによる監視下で生活してきた。
ブルンジの紛争は、1993年から全ての武装勢力が和平合意に署名した2006年まで続き、少なくとも30万人が犠牲になった。この紛争以前の1972年および1988年にも大規模な虐殺があり、それぞれ約20万人、5万人が虐殺された。旧宗主国のベルギーによってツチ(Tutsi)/フツ(Hutu)という支配層/被支配層が導入されたことに、これら虐殺の起源があると言えるだろう。ベルギーがツチ/フツをどう区別したかについて、身体的特徴や出自、生業による区分等さまざまな説があるが、恣意的に線引きがされたことは明白であろう。少なくとも、両者は全く同じ言葉を話し、同じ神を信じ、共に暮らしてきた。
ブルンジの紛争は、ツチ/フツの民族紛争と説明されることも多いが、それは事実と異なるように思う。確かに紛争勃発の直接の契機は、ツチを中心に構成される軍がフツの大統領を暗殺したことによるが、ツチ/フツの中で細分化された武装勢力が次々と生まれ、それぞれが敵対して戦闘を続けた。ツチであろうとフツであろうと、多くの人が難民生活や肉親の殺害等の経験をしており、その傷はまだ癒えていない。
この紛争は、1993年のアルーシャ和平合意を持って終結した。その結果、紛争中に力を付けたゲリラである民主防衛国民会議・民主防衛勢力(CNDD-FDD)が政権を獲得した。当初は、この政権が平和と発展を主導すると、国民の多くは期待を寄せたそうだ。ゲリラの一部は、インボネラクレと名称を変え、今日では若者たちを取り込み、全国各地で「治安維持」を担っている。軍は、もともとの勢力を維持しつつも、与党に近い勢力が加わって再編された。こうして軍が二分されていることが、今年5月13日の反政府派閥によるクーデターの背景にあると言えるだろう。

紛争の傷

紛争後、人々はどういう思いで生きてきたのか。尋ねると、既にトラウマを乗り越えたかのように感じられる答えが返ってくることが多い。しかし、本心を打ち明けてくれる人に言わせると、そうではないということがわかる。虐殺や紛争の後、ほとんど裁判は行われなかったが、「赦さなければならない」という一心で生きてきたという。しかし実際は、今でも心の奥で、肉親を殺されたり土地を追われた憎しみや苦しみを抱えて生きているそうだ。紛争中に父親が殺害され、エリートから転落した友人が私にこう言った。「国家間の戦争の場合は、例えば日本ならアメリカ人を憎めるからいいよね。でも、内戦の場合は、憎むことができないんだよ」。人々の亀裂は、植民地支配に端を発しているため、「加害者」であれ「被害者」であれ、ブルンジ人は皆「犠牲者」であるだろう。しかしながら、当事者一人一人の目線で見ると、犯罪に対する裁きも謝罪も一切ないことは事実として目の前に常に横たわっている。
ブルンジの経済は、紛争中はマイナス成長を記録したが、近年は年約4% の成長を続けている。しかし、実感としては紛争前より貧しくなったと人々は言う。世界銀行(World Bank)によると、1人あたりの国民総所得(GNI)は米ドル建て購買力平価(PPP)で725ドルと、サブサハラアフリカの平均の4分の1にも満たず(1)、また、国連開発計画(UNDP)によると、1日1.25ドル以下で暮らす貧困層は81% にのぼる(2)。国際食糧政策研究所(IFPRI)が定義する飢餓指数(GHI: Global Hunger Index)において2014年は、エリトリアと並んで、5段階で最悪の「緊急警告レベル(Extremely Alarming)」に位置付けられている(3)。
人口の約9割が、自給を基本とする農業に従事しているが、土地の矮小化等が原因となり、自足を達成している農家はごくまれである。よって、現金収入のある家族・親戚に扶養の負担が集中する傾向にあるが、一方で、就職は非常に困難であり、大卒者でも無職状態にある人も多い。また、家事労働で忙しい女性に比べ、少年・青年たちは仕事をしていない傾向にある。私の夫の村で、「仕事をくれ。仕事さえあれば生きていけるから」と夫にすがってきた少年がいた。彼は、若者の心境を代弁しているように感じる。
このように、紛争や飢餓、貧困の中で高まる政府への不満を抱えているにもかかわらず、それを口外できない状況が約10年続いてきた。

暴力の連鎖、再び

このような苦労を踏みにじるかのように、大統領は、和平合意や憲法に違反して立候補を宣言した。我慢の限界に達した多くの市民たちが、すぐに主に首都ブジュンブラの一部地域にてデモを開始した。多くは平和的なデモであったが、一部は、道路封鎖や警察への投石等に発展した。このような行為に対し、警察やインボネラクレが市民への暴力や人権侵害行為を激化させてきた。国際的な人権団体のヒューマン・ライツ・ウオッチ(Human Rights Watch)によると、警察が実弾でデモ隊の頭や胸を狙う、逃げる人を背後から撃つ、デモに参加していない人に発砲する、平和的なデモに発砲する、怪我人を運搬中の人に発砲する、発砲後に殴る蹴るなどの暴行を加える、人権活動家に暴力を加える等、数多くの暴力行為が確認されているという。現地メディアが撮影した映像の中で「警察が市民を殺している。どれだけ殺そうと私たちは抵抗をやめない」とある男性が語っていた。再び暴力の連鎖が始まってしまったのだ。
そして、軍によるクーデターが起きた。クーデター直後は、歌い踊る市民が街に溢れた。恐怖政治を自ら追いやった、民主主義の花が咲いたと確信したそうだ。しかし、大統領派の軍が応戦し、主要機関を抑えるための砲撃戦に発展した。その結果、大統領が戻り、クーデターは失敗に終わった。友人たちからは、もう希望がないというメッセージが届いた。
もともと異なる武装勢力であった野党が結束を始めたが、警察によって野党党首1 名が殺害されたのを機に、他の党首も亡命せざるをえなくなった。政府への糾弾と対話の開始を主張しており、また、国連が調停人を送るも、与党は交渉を拒否し続けている。
与党の暴力はメディアにも及び、警察やインボネラクレによって主要メディア局が焼かれ、ラジオに関しては全て放送が停止している。また、複数のジャーナリストに対して殺害の脅迫を行っている。
大統領の違憲行為に反対する与党員への脅迫も激しく、亡命者も発生した。隣国へ亡命した与党の国会議員アイメ・ンクルンジザ(Aime Nkurunziza)の内部告発によると、反対するのであれば国を出ること、さもなくば命はないという脅迫があったそうだ。インボネラクレが国境を厳しく監視しているため、亡命時に拘束された人も多い。
インボネラクレによる脅威に加え、複数の反政府ゲリラが活動を再び活発化させていることもあり、特に農村部において、紛争の生々しい記憶を持っている多くの人たちが国外に逃げている。また、武装闘争に向けた資金集めとみられる強盗事件も増加している。
首都ブジュンブラの多くの学校は、常時でさえ学校側のストライキ等で授業が遅れる傾向にあるにもかかわらず数か月間閉鎖され、若者たちが不満を募らせた。なお、ある大卒の友人は、教育を受けた人の多くは現在の与党を支持していないが、ブルンジの問題は、教育を受けた人があまりに少ないことだと言う。
貧しい庶民たちは、物価高騰や日用品の品薄により生活が更に困窮している。例えば塩の価格は、ンクルンジザ大統領の立候補前の今年4月は800FBU/kg(約60円)/kg であったが、9月初旬には1,000FBU/kg(約76円)になった。また、特にベルギーが一般財政支援を減額させたことは、国家予算のおよそ半分を援助に依存するブルンジには大きな痛手である。私のもとには、農民・商人・起業家・公務員・NGO 職員等あらゆる職業の人から、仕事がない、生活が苦しいといった嘆きの声が届く。

ブルンジの未来

4月25日以降、およそ200名の市民が死亡し、数百人が投獄され、20万人近くが国外に避難した。結局、7月21日に大統領選挙が強行され、違憲のまま大統領が3選された。
選挙後、少しずつ日常生活が再開される中、秘密(私服)警察の前トップが暗殺された。彼は大統領の右腕とも言われ、多くの市民の虐殺に関与している。容疑者は反政府派のいずれかとも、大統領によるとも言われ、はっきりしていない。しかし、警察が周辺地域へ弾圧を加え、再び無実の市民の血が流れ始めたことは事実である。さらに、一命は取り留めたものの、最も著名な人権活動家であるピエール・クラベール・ムボニンパ(Pierre Claver Mbonimpa)が銃弾を受けた。また、軍の前トップは殺害され、現トップの暗殺未遂も起きた。与党と複数の反政府派との複雑な対立は、再び激化していることが明らかである。さらに、中国等がニッケル鉱山の開発および輸入と引き換えに急速に政府に近付いており、対立は複雑化する一方である。欧米諸国が政府を糾弾し、また、一般財政支援や個別の援助プログラムの一部を凍結しているが、そのような制裁は政府にとって痛手ではなく、国民の生活を苦しめているだけのようである。「これから何が起こるかわからない」と、私の家族や友人は口をそろえる。
独立以来、殺戮が絶えなかったブルンジは、アルーシャ和平合意によって先の紛争を終結させた。恐怖や失望から立ち上がり、極度の飢餓と貧困に日々立ち向かいながら決死の思いで這い上がってきた人々は、今日の政府や警察、インボネラクレを赦すことはできず、これからも暴力の連鎖とそれに伴う治安や経済の悪化は続くであろう。この絶望の中で、ある友人が私にこう言った。「民主主義の果実を味わうその日まで、諦めない」
日本にとってブルンジは馴染みのない国であるが、一方、ブルンジ人は親日的であり、戦後復興の経験から多くを学びたいと考えている人も多い。本文が、彼らの苦悩に対する理解をわずかでも促進し、この苦悩の克服のためにブルンジの人々を支える活動が日本からも生み出されるならば幸いである。

(1)http://data.worldbank.org/indicator/NY.GNP.PCAP.PP.KD/countries/ZG-BI?display=graph
(2)http://hdr.undp.org/en/countries/profiles/BDI
(3)http://public.tableau.com/profile/ifpri.td7290#!/vizhome/2014GHI/2014GHI


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