映評:母たちの村

『アフリカNOW』 No.73(2006年7月25日発行)掲載

映評:母たちの村
立ち上がる物語
監督・脚本・制作:ウスマン・センベーヌ
出演:ファトゥマタ・クリバリ
原題:Moolaade「聖域」
2004年/フランス・セネガル合作
カラー/ヨーロッピアンビスタ/124分
6月17日より東京・岩波ホールにてロードショウ

 

評者:伊藤 充子/Reviewer: ITO Mitsuko
いとう みつこ:FGM廃絶を支援する女たちの会(WAAF)スタッフ。1980年代末から女性運動、とくに反・性暴力の運動にかかわる。


 「母たちの村」(原題:Moolaade「聖域」)を観た。監督はウスマン・センベーヌ(脚本・製作も)、2004年セネガル・フランス合作の作品である。
 私は知らなかったのだが、センベーヌ監督はアフリカ映画の父とか呼ばれるすごい監督らしい。と言っても、私はナントカの父だの、感動大作だの、ナンだのという修飾語は信用しないことにしているから、観る前はあんまり期待していなかった。だが、いや、参りましたよ。センベーヌ監督、すばらしいです。女性たちが少しずつ立ち上がっていく様を、いかにもゆったりとしたおだやかな生活の中にあたたかく描き出している。
 さて、それは西アフリカの濃い緑の木々に囲まれた小さな村。白っぽい砂地の地面に立つ淡いオレンジ色の土造りの家。そこに幼い女の子たちが駆け込んできて物語は始まる。“お浄め”の儀式を受けたくないというのだ。実は、この家の第2夫人であるコレは2度の死産の後、やっと帝王切開で生まれた娘アムサトゥに“お浄め”を受けさせていない。だから、小さい女の子たちは、コレおばさんならきっと自分たちを守ってくれると信じているのだ。
 男たちは一様に伝統を守れと主張する。母親たちも伝統は守らなければならないものと思っている。そんな中でコレはどうやって幼い女の子たちを守り、娘アムサトゥに自尊心を持たせるのだろうか。
 私がとても印象的だったのは、長い旅から帰ってきた夫とコレがベッドを共にするシーン。本来なら喜びであるはずの時間がコレにとっては苦痛、拷問に等しい時間。指をかみしめて血をしたたらせながらただひたすら夫が果てるのを待つだけ。センベーヌ監督はなぜわざわざこのエピソードを映画の中に組み入れたのだろうか。
 これは私の個人的な直感なのだが、FGM(映画では“お浄め”)は一夫多妻制を支える装置なのではないだろうか。
 実際、このシーンの前にコレと第1夫人、第3夫人が、「男の精力が弱くなればいいのに」などと話をしていた。FGMを受けていなければ、性交は苦痛ではなく、性の喜びを楽しめるだろう。そうすると複数の妻がいたら、夫の愛(というより性愛か)を競って、嫉妬したり、反目したりということが起こりうる。コレや第1夫人たちは「姉さん」「妹」と呼び合うほど仲がいい。コレが夫の相手をした翌朝、第1夫人は水浴するコレをいたわる。複数の妻たちを仲良くさせておく、つまり、家庭を平和に保つためにはFGMはとても便利な装置なのではないか。いや、家庭の平和うんぬんという前に、妻たちからSEXを求めないということが肝心なのかもしれない。そうでなければ、男の身体がとてももたないんじゃ…。
 ともあれ、コレは理屈を語って“お浄め”に反対するわけではない。静かに、だが、きっぱりと立ち上がる。夫は、背中に長老たちの権威、家長としての威厳、男としての誇りや村の伝統を負ってコレの前に立ちふさがる。この後、コレが背中に負うものとの対比が鮮やかだ。それは痛々しいけれど、だからこそ女たちは「自分も同じように痛かった」と共感する。コレに「立て、立て」と声援を送った村の女たち自身も立ち上がって声をあげる。アムサトゥも「自分はこのままでいい、“お浄め”を受けずに生きていこう」と決意する。そして、ついには思いもかけない人まで立ち上がる…。
 この映画に副題を付けるとしたら、「立ち上がる物語」がふさわしいと思う。しみじみと心に染みとおるような映画であった。


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