小国エリトリアが見せるもの

アフリカの現場から

アフリカNOW No.73(2006年発行)掲載

執筆:菊川 穣

きくがわ ゆたか:1971年神戸生まれ。ロンドン大学ユニバーシティーカレッジ地理学部在学中に、国際機関やNGOを通して途上国をフィールドとして活躍する多くの指導教官の影響を受け、開発支援分野に関心を持つ。同大学教育研究所での修士課程、日本での民間シンクタンク勤務を経て、1998年よりユネスコ南アフリカ事務所で2年間勤務。その後、ユニセフに異動し、現在に至る。レソト、エリトリアでの現地事務所では、HIVエイズ分野を中心とした業務を担当。


エリトリアは、今年5月24日にちょうど独立15周年を迎えた、アフリカで一番新しい独立国です。在留邦人は一時滞在も含めて10人ほどという、アフリカ大陸の中でもどちらかと言えばマイナーな国かもしれません。首都アスマラは高度2,400mに位置し、常春の陽気と濃紺の青空を享受できる美しい街です。人口は約50万人。アスマラは、かつてイタリアのムッソリーニがアフリカにおける第2ローマ帝国の首都にしようと、ある意味とても迷惑な野望に燃えてイタリア中の新進気鋭の建築家を集めてつくった街で、1920年代から50年代に建てられたアールデコや未来派建築の宝庫なのです。ユネスコ世界遺産にはまだ登録されていませんが、世界銀行の文化遺産保護事業で建物の整備がされているようです。何と言っても、街の本屋で買える唯一の市内地図が『アスマラ建築マップ』なのです。

「アフリカの角」での宗教の共存

エリトリアの宗教は、45%のスンニ派イスラム教徒、35%のキリスト正教会徒(コプト教)、10%のカソリック、そして5%ぐらいのプロテスタント(福音派)と、イスラム教徒とキリスト教徒が半々の状況です。

エリトリアに来たばかりの頃に、宗教関係者に対するHIV/エイズのワークショップに参加して、実に驚く光景に出会いました。イスラム教代表の聖職者の発表はティグリニア語(エリトリアにある9つの言語の一つで、一番広く話されている)でなされたのですが、僕のような外国人の参加者のための英語への同時通訳を、なんとカソリックの神父さんがしてくれたのです。イスラム教徒はHIV/エイズの問題をこのように考えるという内容を、そのままカソリックの聖職者が翻訳するという行為にショックを覚えました。

実際、エリトリアではイースターなりクリスマスなり、イード(ラマダン明け)なり、宗教関係のイベントがある時は、他宗教・宗派の人をゲストとして招待する伝統もあります。クリスチャンとムスリムがお互いに尊敬し合っている雰囲気なのです。この相互理解の深さの背景には、宗教の違いにかかわらず皆で力を合わせて独立を、という解放闘争時代のエリトリア人としての強い共同体意識があると思います。 ただし、上記のスンニ派イスラム教とキリスト教3派以外の宗教に対しては政府からの弾圧があるようなので、一概にエリトリアにおける宗教環境がすばらしいとは言えません。しかし、文明や宗教の対立が煽られている今日の国際情勢をかんがみると、この共存の姿には胸が熱くなります。

エチオピアからの独立解放闘争と国境紛争

イタリアは19世紀半ばにエリトリアを植民地化し、南側のエチオピア征服も企てますが、1896年アドワの戦い(日露戦争と比較される、欧州列強が非欧州国に敗北した世界史的意味を持つ紛争)で敗退。エチオピアは植民地化をまぬがれます。一方、エリトリアへはかなりの数の入植者があり、工業化も進んだので、20世紀初頭のアスマラは、サハラ以南アフリカでは南アフリカを除いて最も産業化された街だったようです。

第2次世界大戦で早々と負けた枢軸国イタリアに代わってイギリスが1952年まで統治しますが、その後エリトリアは国連を通して独立する予定でした。ところがアメリカの後ろ盾を持つハイレセラシエ皇帝のエチオピアが領有権を主張し、エリトリアはエチオピアとの連邦時代を迎えることになります。さらに1961年にエチオピアが強制的にエリトリアを併合すると、エチオピアに反発する多くのエリトリア人が殺され、ここからゲリラ的な独立闘争が始まります。

1970年代半ばにエチオピアは社会主義政権になりましたが、それでもエリトリアは独立できませんでした。このゲリラ解放闘争はなんと30年間続き、ようやく1991年にエチオピアからアスマラを解放します。国連監視下の国民投票を経て1993年に国際的に独立が承認。ゲリラ闘争時代の草の根社会主義の伝統に基づく、外国からの援助に頼らないユニークな国づくりが注目を浴びました。

しかしそれも束の間、1998年から2年間、再度エチオピアと国境地帯にある村の領有権をめぐって紛争になります。2000年からは停戦平和協定に基づいてエリトリア、エチオピア両国には平和維持軍の国連エチオピア・エリトリア・ミッション (UN Mission for Ethiopia and Eritrea: UNMEE)が駐屯しており、今も国境地帯の緩衝地帯を警備・管理しています。

エリトリア、エチオピア国境紛争のきっかけになったバドメという村は、AU、EU、アメリカ合州国、そして国連が公認したアルジェ平和協定においてエリトリアへの帰属が決まったにもかかわらず、エチオピアは依然占領したままでした。つまり、両国の国境線は未だに合意されておらず、緊張状態のままだったわけです。にもかかわらず、国連をはじめとして国際社会はエチオピアに対して特に圧力をかけようとはしませんでした。エチオピアは人口約7,000万人の地域大国で、400万人の小国エリトリアと比べると、国際社会にも影響力があると言えるのでしょう。

国連安全基準の変更がもたしたもの

こういった膠着状態にしびれをきらしたエリトリアは、ただ駐屯しているだけのUNMEEに対していらだちを感じ、昨年9月上旬からヘリコプターの飛行禁止に代表されるUNMEEへの移動制限などを強めてきました。もちろん、移動制限などをされると、UNMEEとしては通常の国境監視業務に支障をきたし、国境付近の安全保障に責任をもてなくなります。

そこで国連は、国境地帯とスーダンに近い地域の安全基準をフェーズ3から4にあげ、当該地域での外国人スタッフの常駐を禁止。その後は、あっという間に首都アスマラ含めて全土の安全基準がフェーズ1から2にあがり、われわれも出張目的以外での移動が禁止されます。全土の最低安全基準が家族の帯同が認められなくなるフェーズ3についにあがったのが、昨年11月半ばでした。UNMEEの活動に制限がでてから、エリトリア国内では報道されませんでしたが、エリトリア、エチオピア両国とも国境付近に兵を集積させていたようです。また2003年のバグダットでのテロ以降、国連は職員の安全管理に神経質になっています。

しかし、アスマラの安全基準が一夜にしてフェーズ3になって、職員の家族は即時退去というのは、アスマラで平和に暮らしていた我が家(私と妻と1歳半の息子)にとって本当に寝耳に水でした。なぜならアスマラはおそらく、先進国も含めて世界でも最も治安の良い安全な首都だからです。南部アフリカに5年住んだ者としては、夜でも女性が街を歩けるというのは想像を超えた世界でした。実際、アメリカ合州国やEUなどの他の外交使節団の家族には退避命令など出ていません。この国連の決定には未だに納得できません。このフェーズアップの後にエリトリア政府もさらに態度を硬化させ、12月中旬にはほとんどが文民であるUNMEEの欧米人スタッフ(カナダ人とロシア人も含む)に対して、強制国外退去命令を出しました。エリトリアの国連に対する不信感は相当に強いと言えます。

続く準戦時体制

エリトリアは今でも準戦時体制にあるわけですが、その最たるものは、ナショナル・サービスと言われる国民皆兵制度です。男性も女性も基本的に皆18歳になれば、このナショナル・サービスの軍事訓練を強制的に受けなくてはなりません。スーダンとの国境に近い軍事キャンプに、最低半年は缶詰にされます。食事も基本的に1日1回のインジェラだけのようです。またこの半年のキャンプが終わっても、政府に奉仕する形での仕事が待ちかまえています。「奉仕」という言葉を使うのは、どういった仕事をしても月500~1,000円ぐらいしかもらえないからです。ナショナル・サービスの期間は3年間と言われていますが、最近では、10年以上もナショナル・サービスから解放されないという人がかなり増えてきています。

ナショナル・サービスの対象者は18歳から40歳の男女でしたが、最近では、独立闘争時の軍歴がないという理由で、50~60歳の人も連れて行かれることも多くなっています。ユニセフのエリトリア事務所の現地職員でも、ナショナル・サービスをきちんと勤めた証明がないという理由をつけられて、ある日突然、軍事キャンプに送られてしまった人が何人もいます。お昼を食べにいったきり帰ってこないのです。こうした状況下で、国民が不安や不満を抱えていることは容易に想像できます。国からの脱出を試みる若者の話は、珍しくなくなりました。


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