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「文化が違うから分ければよい」のか

アパルトヘイトと差異の承認の政治

‘Segregation in the name of cultural differences’?


『アフリカNOW』102号(2015年4月30日発行)掲載

執筆:亀井伸孝
かめい のぶたか:文化人類学、アフリカ地域研究。愛知県立大学外国語学部国際関係学科准教授。京都大学大学院博士後期課程修了。理学博士、手話通訳士。現在、日本文化人類学会理事、日本アフリカ学会評議員を務める。おもな著書に『アフリカのろう者と手話の歴史』(明石書店, 2006年)、『森の小さな〈ハンター〉たち』(京都大学学術出版会, 2010年)、『手話の世界を訪ねよう』(岩波ジュニア新書, 2009年)ほか。雑誌『at プラス』24号(太田書店)にインタビュー「『同化か/隔離か』の暴力にあがなう」掲載。
Website http://kamei.aacore.jp/ Twitter @jinrui_nikki

※ 本稿は、インターネットマガジン”SYNODOS” に掲載された記事全体を20~30%ほどに圧縮して、紹介しています。くわしくは、”SYNODOS” 掲載の全文をご覧ください。
http://synodos.jp/society/13008 (2015年2月25日掲載)


本論の概要

・曽野綾子氏の産経新聞コラムには、第一の誤謬「人種主義」と、第二の誤謬「文化による隔離」の二つの問題点がある。
・現状において、より危険なのは、第二の誤謬の方である。
・文化人類学は、かつて南アフリカのアパルトヘイト成立に加担した過去がある。
・アパルトヘイト体制下で、黒人の母語使用を奨励する隔離教育が行われたこともある。
・「同化」を強要しないスタンスが、「隔離」という別の差別を生む温床になってきた。
・「異なりつつも、確かにつながり続ける社会」を展望したい。そのために変わるべきは、主流社会の側である。

産経新聞コラムとその余波

2015年2月11日の『産経新聞』朝刊に、曽野綾子氏によるコラム「透明な歳月の光:労働力不足と移民」が掲載された。曽野氏のコラムおよびその後に追加で公開された言説を分析しながら、二つの誤謬を指摘し、アパルトヘイト期との類似性を指摘しつつその危うさを検討したい。

第一の誤謬:わずかな事例を「人種」と結びつける悪意

曽野氏の第一の誤謬は、人びとの肌の色に関する言説を堂々と新聞紙上で開陳したことである。南アフリカで自身が見聞したと主張する事例を、何十億人にも上る世界の人びとに対して拡大適用し、生まれつきそなわった外見的特徴に関連させて決定論的な言説を振りまいたことは、文字通りの「人種主義」として非難に値する。

第二の誤謬:「文化による分離」の素朴さが孕はらむ危険性

第二の誤謬は、文化を異にする人びとの分離を提唱していることである。これは、一見、リベラルでものわかりのよさそうな言説に見える。自分の文化を守るとともに、表向きは他者を否定せず、自他の違いを認めた上で、別の場所でそれぞれ自由に生きていくことにしましょう、と。しかし、この「一見ものわかりのよさそうな他者理解の言説」こそが、実は、南アフリカにおけるアパルトヘイトの成立を後押しし、かつ巧妙に存続させた重要な要因の一つだった。

アパルトヘイトの成立を後押しした人類学

アパルトヘイトに対して文化面での装飾を施し、人びとを同意へと誘った役割を果たしたものの一つに、イギリス系の社会人類学があった。自他の文化の本質的な差異を強調し、それを承認しようとする、一見して「良心的で、多様性に対し理解を示す」言説が、隔離政策を正当化し、異論を封じ込める側の陣営にいた。

バンツー教育:黒人には黒人の言語を与えよ

「黒人には黒人の文化を」という、異文化を尊重するふれこみで巧妙に強化されていった隔離の思想は、その後も政策として実行された。初等教育では、黒人住民たちの母語であるコーサ語やズールー語などの民族諸語が用いられた。しかし、それは自らの決定権により選んで行っている自律的な母語教育ではなく、明白な隔離原則のもと、それを補完する目的と効果とともに行われていた「強いられた自文化の実践」であった。
文化の差異を承認することを、隔離の口実にしてはならないし、また、結果として隔離の事態を招くこともあってはならない。差異を承認しつつも、その差異を越境する自由は、あらゆる人間の基本的な権利だからである。それを、特定の集団や階層に居合わせた者が一方的に否認することなど、できようはずもない。

南アフリカの手話通訳者の事件

南アフリカ共和国憲法第6条では、多くの民族諸語と並んで、手話の地位が明確に示されている。南アフリカが、これまで「黒人たちの文化の差異を承認しつつ」「そのまま主流社会から切り離してしまった」アパルトヘイトの苦痛に満ちた歴史から学び、克服しようとしている努力の一端を見ることができる。

二種類の差別:「同化型」と「隔離型」

フランスの社会学者タギエフは、次のような指摘を行っている。人種主義には「同化型(assimilation)と「隔離型」(ségrégation)の2タイプがあり、一方の差別に対する告発は、もう一方の差別を容認してしまう、と。
なぜ、少数者は、主流社会との距離において「近寄っても地獄、遠ざかっても地獄」の二択の立場に立たざるをえないのか。そして、どちらか一つを選んだ時に、なぜ「自己責任」の名において、どちらか一方の差別を受忍せねばならないのか。それは、主流社会が自ら一向に変わろうともせずに、少数者に対して一方的に「同化か/隔離か」の二択の踏み絵を強いているからに他ならない。
少数者たちが差異をそなえたままでありながらも、主流社会とつながり続ける。そのための居場所をともに新たに創ろうとする努力は、少数者のみに課せられた責務ではない。主流社会こそが、その変化のために汗を流すべきである。

同化と隔離のはざまで:手話をめぐる共存の課題

「同化/隔離」のテーマは、手話言語とろう者コミュニティの研究の分野でも、先鋭化した課題として立ち現れる。
近年では、音声言語のみによる教育の限界が指摘され、手話の使用を容認する教育が世界で普及しつつある。しかし、私たちが忘れてはならないのは、それがいつしか「強いられた自文化の実践」、つまり、「差異の承認」を口実とした、主流社会からの強制的隔離の事態を招くことがあっては絶対にならない、という強い意志を確認し合うことである。
人びとの多様性に寛容であることを基本として展望しながらも。頭のどこかで、それがアパルトヘイトの再来になりはしないかという警戒心をもって、慎重の上にも慎重を重ねつつ、差異の承認とつながりの確認の両方の歩を進めていく。「同化か/隔離か」の二択を迫る踏み絵を行うのではなく、主流社会こそが率先して変わる努力を常に伴わせる。
この綱渡りのような繊細な作業を通じてこそ、初めて、文化の差異の尊重と、それを相互に越境し合う自由が両立するものと考える。

異なりつつも、確かにつながり続ける社会へ

曽野氏のコラムには、人種をめぐる「第一の誤謬」があった。ただし、これはあまりに明白な間違いであり、賛同を得られないはずである。
実は、このコラムがはらむ危険性の本丸は、文化をめぐる「第二の誤謬」にある。こちらは、一見説得的に見えてしまうだけに、かえってその危うさに気付きにくい。アパルトヘイトが利用した「差異の承認の政治」の過ちを何度でも思い起こし、その轍を踏まないために学び直す必要がある。
通俗的かつ固定的な文化観に基づいた隔離への潮流にうっかりと共感してしまわない慎重な姿勢を、読者のみなさまに呼びかけたい。新しい、他者との共存のあり方のために。新しい、文化人類学の営みを手にたずさえながら。
出典 http://kamei.aacore.jp/synodos20150225-j.html


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