パンデミック条約の文言交渉のための「交渉テキスト」が公表

産業界はこれ見よがしに猛反発、途上国や市民社会は慎重姿勢

来年5月の「期限」まであと半年

10月16日に送付された「交渉テキスト」(Health Policy Watchウェブより)

パンデミック条約の策定に向けた交渉をリードしている、多国間交渉主体(INB)のビューローは10月16日、来年5月の世界保健総会に向けた文言交渉のベースとなる、パンデミック条約の「交渉テキスト」(Negotiating Text)を加盟国やステークホルダーに送付した。10月26日には加盟国・ステークホルダーへの説明会が行われた上、第7回INB会合が11月7~10日および12月4~6日に開催される。第7回INB会合から、交渉テキストをベースとした文言交渉が行われることになる。同会合の開会・閉会セッションと会合の報告セッション、プレナリー・セッションはウェブ中継・公開されるが、会合の多くを占める「起草グループ」は加盟国や関係機関のみの参加となり、公開されない。

交渉テキストは29ページで3部36章で構成され、前文が付け加えられている。公平性の文脈で先進国と途上国が対立してきた技術・ノウハウの移転、生産能力の強化や「病原体情報へのアクセスと利益配分」などを含め、過去のドラフトに記載されてきた項目は、これまでの議論を反映しながら交渉テキストにも受け継がれている。

「悪い条約なら、ないほうがいい」これみよがしに猛反発する産業界や一部先進国

交渉の進展を注意深く見守ってきた市民社会団体の多くが、内容の分析に時間をかけ、公式の声明などの発表に踏み切っていない中で、ひとり迅速に、なおかつ極めて破壊的な声明を出したのが国際製薬団体協会(IFPMA)である。IFPMAは交渉テキスト送付の翌日の17日に「うまく行ったことは維持し、うまく行かなかったことに対処する必要がある」と題する声明で、特に「病原体情報へのアクセスと利益配分」について、激しい攻撃を加えた。IFPMAはこの制度によって、研究者が病原体情報にアクセスするのが遅れ、これがワクチンや治療薬の開発の遅れにつながると主張している。声明の後半でIFPMAのトーマス・クエニ事務局長は「今回加盟国に配布されたような悪いパンデミック条約なら、パンデミック条約などない方がマシである」と、口を極めて非難した。

国際保健政策の最新情報を伝えるインターネットメディア「保健政策ウォッチ」(Health Policy Watch)は、交渉テキストに関する記事において、ドイツのカール・ローターバッハ保健大臣(社会民主党)が、同国で10月中旬に開催された世界保健サミット(World Health Summit)で、交渉テキストに含まれた「知的財産権の免除」措置について、「知的財産権は我々のDNAであり、ドイツも多くの欧州諸国も、このような規定には合意できないだろう」と発言したと伝えた。このように、交渉テキスト発表後、早い段階で破壊的とすらいえる激しい拒絶反応を見せているのは、先進国政府および先進国の開発系製薬業界である。これは、この条約交渉の今後に暗雲を投げかけている。

後退した「原則」や「公正なアクセス」関連条項

先進国や産業界側からの拒絶反応に比して、条約のゼロドラフト等に含まれた「公正なアクセス」の条項を支持し、世界全体での公正な医薬品アクセスの実現を求めてきた市民社会や途上国の側は、今までのところ、早急にテキストへの評価をすることに慎重な立場をとり続けている。その背景には、先進国や産業界と同様に条文への厳しい批判を行えば、パンデミック条約自体が葬られ、次のパンデミックへの対応において、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の際と同じ失敗に陥りかねないという懸念がある。しかし、報道や市民社会ネットワーク内でのオンライン会議等から聞こえてくるのは、この交渉テキストが幾つかの重要な部分において、これまでの「ゼロ・ドラフト」や2023年6月に発表された「ビューロー原案」などと比較して、原則上も実際上も大きな後退がみられる、という指摘である。

原則上の後退については明確である。「ビューロー原案」の第1章「一般的原則とアプローチ」の第1段落「人権」においては、1940年代のWHO憲章や世界人権宣言にも明記されている「達成可能な最高水準の保健を享受する権利」が記述されている。ところが、「交渉テキスト」では、一般論としての人権以外の記述が消去されているのである。また、第7段落「共通だが差異ある責任」(CBDR)は消去され、代わりに、パンデミック対策における加盟国の能力の差を認識して「可能な手段と資源の範囲で」必要な能力の獲得を支援する、との記述が置かれた。世界全体でパンデミックへの対策に取り組む上で、より能力の高い国が果たすべき役割が「責任」から「支援の必要性」に格下げされれば、パンデミック予防・備え・対策への世界の集合的意思は弱まらざるを得ない。

この条約に基づく制度構築に関わる記述の後退の中で最も明確なのは、第9章「研究開発」における、政府など公共の資金によって行われる研究開発の成果の取り扱いの部分である。「ビューロー原案」においては、第9章第2項において、パンデミックに関して、政府など公共の資金によって行われる研究開発の成果の公開や、これによって開発された製品の最終価格に関する制度の構築、途上国におけるライセンシング、パンデミック時における安価で公平かつ時宜にかなったアクセスの確保などについての制度化を行う必要があるとの記述がなされていた。ところが、今回公表された「交渉テキスト」においては、この条項が消去され、研究開発への公共投資の必要性とその成果としての製品への公平なアクセスの確保が一般的に記述された条項に置き換えられている。

パンデミックに対する世界規模の安全網は構築できるか?

このように、「交渉テキスト」には、過去の「ゼロ・ドラフト」「ビューロー原案」と比較して、人権や、公正なアクセスのための措置などの面で深刻な後退が見られる。今後の多国間交渉主体(INB)の会合や、INB会合の中で加盟国で構成される「起草グループ」での交渉の中で、途上国側がどのように対応するか、また、産業界とならぶ主要なステークホルダーの一つである市民社会が、後退したポイントの復活をどう目指していくかが注目される。一方、ウクライナ戦争やガザ危機に対応して、「グローバルサウスの取り込み」を目指すとされる先進国の側も、IFPMAの声明に見られるこれみよがしに居丈高な拒絶に同調するばかりではいられないだろう。実際、地球規模で公正なアクセスを実現することは、先進国にとっても同様に重要な課題であるはずだ。来年5月の世界保健総会という「期限」まであと半年と迫る中、今後の交渉で、パンデミック予防・対策・対応のグローバルな体制構築という共通の目標に向けた、先進国側の歩み寄りについても注目される。