『南アフリカを知るための60章』に執筆して考えたこと

My South Africa, writing “60 chapters for understanding South Africa”

『アフリカNOW』91号(2011年5月31日発行)掲載

※ 本稿は、2010年6月26日に開催した『南アフリカを知るための60章』の執筆者による公開座談会「私にとっての南アフリカ」における発言を再構成したものです。

『南アフリカを知るための60章』
明石書店2010年4月25日初版第1刷発行
縦組、本文363ページ
定価:2,000円+税
ISBN:978-4-7503-3183-6

(発言者)
峯陽一/みね よういち :同志社大学大学院教授。主著として『南アフリカ 「虹の国」へのあゆみ』(岩波新書、1996)など。
牧野久美子/まきの くみこ :アジア経済研究所研究員。『エイズ政策の転換とアフリカ諸国の現状』(共編著、アジア経済研究所2005)。
津山直子/つやま なおこ :関西大学客員教授。日本国際ボランティアセンター(JVC)南アフリカ事務所前代表。
小山えり子/こやま えりこ :社会福祉士、精神保健福祉士。南アフリカのエイズ・ホスピスでボランティアを経験。ニバルレキレ事務局。
佐藤千鶴子/さとう ちづこ :アジア経済研究所研究員。主著として『南アフリカの土地改革』(日本経済評論社、2009)など。


峯: 『南アフリカを知るための60章』(以下、本書)の編集を担当しました。本書を出版したのは、もちろんワールドカップの機会にできるだけ多くの人に南アフリカについて知って欲しいという願いがあったからです。本書は、研究者だけでなく南アフリカにさまざまな分野から関わっている32人もの人たちが執筆しています。執筆者がとても多いのは、今の時点で、日本から南アフリカを見た記録を残したいと考えたからです。50年たって図書館でこの本を見る人がいたとき、50年前の日本ではこのように見ていたのだということが伝わる本にしたかったのです。そのために、編者の私とは南アフリカに対する見方が違う人たち、また、執筆者同士で違うだろうなと思う人たちを含め、あえてさまざまな立場にある人に執筆をお願いしました。かつて反アパルトヘイト運動に関わった人、つい最近、南アフリカに関わり始めた人、いろいろな世代の人たちと、執筆者を広く募ったのです。そのために、本書を一冊の本としてみると、焦点やイメージがぼんやりとしているという印象を受ける人がいるかもしれません。
さらに、本書をきっかけにして南アフリカ研究者が増えてほしいと願っています。私は最近、南アフリカの研究をする人がいないことに対して焦っています。南アフリカは注目されているし、研究者もたくさんいるでしょうと言われますが、そんなことまったくありません。大学に限らず、20?30代で南アフリカに関わってリサーチしたり翻訳している人はほぼ皆無に近い。私の研究室に来る大学院生が一人、二人いたりしますが、それ以外はほとんどゼロなのです。このままいくと、これから20年後に日本の南アフリカ研究はどうなっているのだろうという危機感があります。そのために、本書をリソースブックにしたいという思いもありました。
本書を読んで、いろいろな切り口から南アフリカを見ていく中で、この切り口ならわかるというところがあるでしょう。読む人の関心は多様だと思いますので、全60章でいろいろな項目を取り上げています。事典的に使ってもらえるとうれしいですね。ちなみに私は、この本で一番おもしろいのは「南アを知るための読書案内」だと思います。
また本書では、個人的な想いも込めました。アフリカに関わる研究者やNGOの人たちと話しているとときどき、南アフリカはアフリカではないと思われているように感じることがあります。たとえば、「南アフリカは大事ですよね。だけど自分のフィールドに行ってみると南アフリカの商品ばかりで、南アフリカの独り勝ちですよ」というような嫌みを言われることが結構あります。また、アフリカ人の中にも、南アフリカに対するある種のやっかみのようなものがあったり、アフリカ研究者の中でも、南アフリカは白人がいてちょっとアフリカじゃねえよ、みたいに思ってる人も結構いるのです。
しかし、南アフリカの人口の8割はバンツー系のアフリカ人たちです。これがどうしてアフリカじゃないのか、と私は思います。またパンアフリカニズムなど、アフリカ全体の解放を目指す世界的な運動も南アフリカの中で大きく成長した時期がありました。パンアフリカニスト会議(PAC)は、いまでは影響力が弱くなってしまいましたが、昔はアフリカ民族会議(ANC)を超えそうな勢いがありました。アフリカの他の国をとってみても、ザンジバルはアフリカなのか、エチオピアはどうか、などと言い出す人がいそうです。アフリカの「純粋さ」ばかりを追求してると、アフリカの多様性が見えなくなってしまいます。私は「南アフリカもアフリカです」と言いたい。そのために本書は、南アフリカはアフリカの一部であるという章から始まり、最終章は佐藤誠さんにお願いしてゼノフォビア(外国人嫌い)の話で締めくくることにしました。アフリカの他の国々から多くの人々が南アフリカに移住してきている。そして、アフリカの一部であるはずの南アフリカにゼノフォビアが広がっているという逆説を、本書の構成で示したかったのです。

勘違いで参加した反アパルトヘイト運動

峯: 私が南フリカに関わるようになったきっかけは「勘違い」でした。大学に入った1981年の少し前には、光州蜂起やニカラグア革命があったり、ソ連がアフガンに侵攻したりと、国際政治が大きく動いていた時期でした。私はラテンアメリカ連帯運動に関心があったので、京都大学西部講堂に部室があったラテンアメリカ研究会の例会をのぞいてみようと思いました。ところが曜日を間違えて、その日は同じ部室で南アフリカの研究会が開かれていました。何か変だなと思いながら座っていたのですが、そこにいた先輩に、目標は世界の被抑圧人民の解放だからどの地域でも一緒だと言われて、ふむ、そうかもしれん、と思いながら南アフリカの研究会に毎週行くことになったわけです。
南アフリカを深く知っていくと、きっかけなんて忘れてしまっても、必然的にもう逃れられなくなってしまいます。当時、全国各地でそれぞれに自立した反アパルトヘイトの市民運動があり、それらが集まって日本反アパルトヘイト委員会という連合体を作っていました。この運動を担っている人たちは会社員だったり主婦だったりと、普通の市民が多かった。ただし、私が入っていた京都のグループは学生が中心で、「君たち時間があるんだろ」「英語ができるよね」という感じで、南アフリカの解放運動の文書や新聞記事を翻訳し、日本語で読めるようにして日本の市民運動に流していくという活動に時間をかけていました。国際会議の招待がきたら、若造なのに派遣されて、話をしてきたりもしました。昼間に動けるのも学生の特権で、デモをやったり、ナミビアからウランを買っていた関西電力の本社でピケをやったり、南アフリカからの輸入品のボイコットを呼びかけて京都・四条河原町でビラをまいたりしました。その一方で、スティーブ・ビコ(Steve Biko)の『俺は書きたいことを書く』という黒人意識運動の文献を翻訳したりもしました。普通の人たちが日本語で南アフリカの情報を読めるようにしないと話が始まらないので、翻訳には特に力を入れました。
そうした活動をしているうちに、1990年にネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)が釈放され、反アパルトヘイト運動をどうするのかという問題が起きます。日本の反アパルトヘイト運動は、一方的なお助けや慈善じゃダメなんだ、南アフリカの黒人たちとつながるためには、まず、自分たちの足下から変えていかないとダメだという考え方を共有していました。そこで、日本の南アフリカ進出企業や政府の姿勢を批判し、国連が呼びかけている対南アフリカ経済制裁を強化するなどの活動に取り組むことが日本のわれわれの一義的な責任だと考え、「現地に行って、困っている人を助ける」という感覚に対しては、暗黙のうちに批判的でした。この姿勢は正しかったと思いますが、それじゃ、南アフリカでアパルトヘイトが終わって、次はどうするの? という話になるわけです。いろいろな議論がありましたが、ANC政権ができて、私たちが支援してきた相手は自分の足で立ち上がることができた。アパルトヘイトが終わった以上、反アパルトヘイト運動は目的を達成したのだから、解散しましょうということになりました。
ただ、本当にそれでいいのだろうかという疑問はありました。この時期に現地に入って、南アフリカの人たちとともに歩んでいくという道を最初に切り開いたのが、津山さんです。それから小山さん。そうした流れが、アパルトヘイトが終わった後で出てきます。南アフリカに関わる現在の取り組みは、反アパルトヘイト運動から一度は切れていると言えます。同じ問題にぶつかるということも含めて、どこかでつながっている部分があると思いますが、組織的にはやはり切れている。私自身、どうしようかとずいぶん悩みました。研究者として南アフリカとつながることになりましたが、振り返ってみると、かつて運動を経験した人でいまでも南アフリカとつながっている人は、大阪を中心にしてほんとに数人しか残ってません。
南アフリカとつきあい続けようと決めた後、私もまた、これからは現地に行って南アフリカの人たちとつきあいたいと考えるようになりました。研究者の道を選んだ以上、研究者として現地に行けたらと思っていたら、南アフリカのステレンボッシュ大学にポストがあったので、そこで任期付きの助教授として3年間教える機会に恵まれました。ステレンボッシュは白人政権の歴代首相を輩出したところで、もともとは白人保守派の牙城でした。しかし、さまざまな経過を経て、この大学も新生南アフリカのために貢献したい、ホワイト・オンリーじゃだめでアジアにも目を向けようということになって、異色の求人を行ったのです。私はあえて自分の活動家時代の業績、例えば「名誉白人はごめんだ」といった、普通は履歴書に入れないビラのような書き物もわざと入れて、相手がどんな反応をするかなって思っていましたが、ぜんぜんかまわないから来てくれということになりました。あんなアパルトヘイト大学に行くなんて、活動家時代には想像もしていませんでしたが、いろいろとおもしろい変化があって、滞在中はたいへん勉強になりました。あそこのスタッフの何人かとは、人種にかかわらず、かなり深くおつきあいをするようになりました。
自分の過去を振り返って、佐藤さんのように私より少し下の世代の皆さんの話を聞くとうらやましくなることがあります。学部を卒業してすぐに南アフリカに行けるなんて、私の世代では考えられず、「南アフリカは遠くにありて思うもの」って感じでしたから。そうやって古くから南アフリカとつき合ってきましたが、現地に行ってしまうと、誰でも一緒に「いま」と向き合うので、世代は関係なくなってしまいます。それより、かつて反アパルトヘイト運動をやってた人たちは今どこで何を考えてるのかなと、個人的には思うこともあります。それぞれに事情や感慨があるとは思いますが、粘り強くかかわり、定点観測をやめないというこだわりも大切ではないでしょうか。

ピーター・ガブリエルの曲に導かれて

牧野: 私は、JETROアジア経済研究所のアフリカを研究する部門で、主に南アフリカを担当しています。研究者として南アフリカに関わるのに並行して、アフリカ日本協議会(AJF)や、南アフリカに図書を送ったり学校菜園活動を支援しているアジア・アフリカと共に歩む会(TAAA)など、いくつかの南アフリカに関わるNGOの活動を、微力ながら支援しています。
私の場合は、南アフリカに関わるようになった最初のきっかけは音楽でした。1980年代の中学生・高校生のころイギリスやアメリカの洋楽が大好きでした。特にピーター・バラカン(Peter Barakan)がNHK-FMでDJをしていた番組が大好きで、録音して気に入った曲をダビングし、学校から家に帰るとテープデッキに張り付いて好きな曲のコレクションを何百本と作る、そういう暗い生活を送っていたのです(笑)。その中でも特に好きだった、そして今でも好きなピーター・ガブリエル(Peter Gabriel)は、いくつもの社会的な発言をするタイプのアーティストで、彼が歌っていた「ビコ」という曲はとてもインパクトがありました。1976年のソウェト蜂起に影響を与えた黒人意識運動のリーダーであるスティーブ・ビコが、白人政権によって1977年に殺されたことが知られたとき、世界中で非難が巻き起こった中で作られた曲です。この曲の中身を知って、南アフリカでこういう酷いことが起きているのかと、ずしんときたのです。
また1980年代半ばには、”USA for Africa”や”Band Aid”など、多くのアーティストが集まって、困っているアフリカの人たちを助けようといったイベントがいくつもありました。それを割と素直に受け取って、アフリカのさまざまな問題について憤るところから関心を持ち始めたのだったと思います。
ただ、けしからんとは思いつつ、やはりどこか遠くの世界の話だという感じも抱いていました。大学で国際関係論を専攻し、関心があった南アフリカについて卒論を書いたときも、まだよその国のけしからん白人が黒人を弾圧してきた、というところで止まっていたと思います。でも、修士課程でスティーブ・ビコを正面から取り上げ、彼の書いたものや関連する文献を読んでいるうちに、だんだんと南アフリカの問題が自分の問題になってきました。
ビコは黒人の解放のために必要なのは、黒人自身が自信を持つことだと主張し、黒人の意識の問題をすごく重視しました。一方で、黒人の解放を支援しようとする白人に対しては、かわいそうな黒人を助けようと手を差しのべる、そのあり方をすごく批判していました。ビコが提起した黒人意識運動、また、別の反アパルトヘイト運動のリーダーであったデズモンド・ツツ(Desmond Mpilo Tutu)の「白人は白人自身を解放しなくてはならない」という言葉も印象に残っています。あそこに問題があってけしからん、苦しめられている人たちを助けてあげるという意識ではなく、私自身の意識の問題、自分自身の考え方に関わる問題なのだと思うようになり、南アフリカへの関心はよその国の問題への関心ではなく、自分がどうするのか、自分の国が何をすべきなのかという問題になったという想いを強く抱いています。
南アフリカでは、アパルトヘイトが終わったと言っても貧困や不平等などのさまざま問題があります。そうした問題に対してどのように対処していくことがいいのか、どうすることが可能なのか、などの社会政策に関わる問題と、そうした政策を提言したり実施する主体としてのNGOや支援組織などについて関心を抱いて、研究をしています。

反アパルトヘイト運動にスウェーデンで出会う

津山: 私は、大学時代から福祉関係のボランティア活動をしていたので、福祉国家はどういうものか、そこに生きる人々はどのように考えているのかを知りたいと思い、スウェーデンに行きました。スウェーデンでは普通の市民が、国内の弱者を支援するのと同時に国際的な弱者を支援するということが福祉国家としての責任だと考えていて、そのことにカルチャーショックを受けました。その当時、1986年のことですが、南アフリカでは、非常事態宣言が出されていて、反アパルトヘイト運動に対する弾圧がより厳しくなっていました。スウェーデンの新聞では、毎日のように南アフリカのニュースが一面に載っていましたし、市民レベルでも政府レベルでも、反アパルトヘイト運動への支援活動が非常に盛んでした。日本にいるときも、南アフリカに関する本を読んだりはしていましたが、反アパルトヘイト運動が日常にあるということは、日本では経験したことがありませんでした。こうした状況に直面して、人口の80%の人々が選挙権を持てない南アフリカのことや、人間としての尊厳を奪われ暴力的な抑圧を受けている人々のことをもっと考えるようになり、反アパルトヘイト運動に関わるようになったのです。
一方でそのころの日本は、国連で決議された南アフリカに対する経済制裁を守らず、1987年に南アフリカとの貿易高が世界一になり、国際社会から批判されていました。国連の反アパルトヘイト特別委員会で、委員長が名指しで日本を非難したこともありました。
ANCは、現在では南アフリカの政権与党ですが、当時は非合法組織として南アフリカでは活動を禁止されていました。しかし、世界各地に事務所を開設し、反アパルトヘイト運動や南アフリカの民主化への理解を広げていく活動をしていました。ネルソン・マンデラはまだ投獄中で、”Free Nelson Mandela”キャンペーンが世界各地に広がり、マンデラ釈放、アパルトヘイト廃止への声が高まっていたころです。
ANCは、アジア特に日本のような国で、南アフリカの民主化への理解をもっと広げていく必要があると考え、1988年に東京事務所を開設しました。私は知人から働いてみないかと誘われ、ANC東京事務所の職員になりました。しかし、解放運動団体でお金もなく、日本の市民運動や労働運動の支援を受けて、職員は南アフリカ人が1人と日本人が2人だけの小さな事務所でした。開設したばかりの事務所にファックスを寄付してくれたのが、まだ大学院生だった峯さんでした。峯さんは日本反アパルトヘイト委員会のメンバーとして、スウェーデンなどで開催された国際的な反アパルトヘイト会議にも参加していたので、ANCの駐日代表になったジェリー・マツィーラさんとも面識があったのです。
ANCでの仕事はやりがいがありましたが、南アフリカ政府からすれば非合法団体なので、行きたかった南アフリカには行けなくなってしまいました。それから2年後の1990年2月にANCが合法化され、ネルソン・マンデラらが釈放され、私も晴れて南アフリカに行くことができるようになりました。でも南アフリカに行けなかったときに、行けないからこそさまざまな書物や資料を読んだり、南アフリカの人が日本に来る機会には必ず話を聞きに行ったりして、もっと知って自分のできることをしようという行動が強い意志で起こせたのだと思います。
マンデラさんは、釈放された1990年の10月に日本を訪れましたが、市民レベルでネルソン・マンデラ歓迎日本委員会を作り、歓迎集会を開催して、東京で1万人、大阪では2万5千人くらいが集まりました。そのころには、ANC東京事務所と南アフリカのANC本部を行き来しながら、教育支援や女性運動にも関わるようになっていました。
その後、日本国際ボランティアセンター(JVC)が南アフリカで活動することを計画し、1991年に現地調査をしたときに、一緒に農村や都市の黒人居住区を回り、活動計画を立てました。ANCは民主化後の政府を担っていく組織としての準備を始めていましたが、私自身はNGOなどで草の根の活動に関わりたいと思い、1992年に南アフリカで活動をすることになったJVCに入りました。最初の2年間は東京事務所にいて、その後1994年から南アフリカに駐在し、2009年4月まで15年間現地にいました。
マンデラさんは日本を訪れたときに、新しい国を作っていくための人づくりが必要だと何度も言っていましたが、私も南アフリカが新しい国づくりに向かうにあたり、アパルトヘイト下の人種差別で教育や技術を得る機会がなかった人々が学ぶ機会を持ち、能力を発揮していく機会を一緒に作って、可能性を伸ばしていく活動に従事したいと思いました。南アフリカでは、難民として南アフリカから外に出ていった人たちが戻ってきたので、その人たちへの職業訓練や地域で必要とされている技術の人材育成、障害児のケア、貧困地区での学校運営、有機農業による持続的な食料生産、住民を中心としたHIV/AIDSの予防とケア、などの活動を行ってきました。

日本で病に苦しむアフリカ人と出会って

小山: 私はニバルレキレという活動をしていて、本書では、エイズに関わる章とタウンシップを紹介する章を書いています。ニバルレキレは、同じ想いを持っている日本と南アフリカの現地の仲間とが一緒に続けている活動です。職業としているわけではありません。現地でそれぞれのコミュニティの人々が自ら作った小さな活動プロジェクトが主人公であり、ニバルレキレは縁の下の力持ちということで、資金や技術で援助するという関わりをしてきました。私自身はソーシャルワーカーの仕事をしていることもあり、個別に出会った家族や個人と個別に関わっていく活動を長く続けています。
私が初めて南アフリカに渡ったのは2003年で、それ以降の関わりになりますので、今日の発言者の中では、南アフリカとの関わりは浅い方だと思います。私の元々のアフリカとの出会いは子どものときのことでした。私が幼いとき、家庭ではほとんどテレビを見せてもらえなかったのですが、父親が「えり子これが外国だよ」と言ってみせてくれたのが、アフリカに関する番組だったんです。外国には肌が黒い人が住んでいるんだ、動物がこんなにいるんだと思ってとても憧れ、当時放映されていた「野生の王国」という、アフリカの様子を淡々と見せてくれるような番組だけ楽しみにしていました。また、母親が私を生まれて初めて映画館に連れて行ってくれたときに見た映画がなぜか「遠い夜明け」だったのです。その映画で、幼いなりに初めてアパルトヘイトのことやスティーブン・ビコのことを知り、とても衝撃を受けました。思い返せば、普通に暮らしてるとすぐには出会えない世界へのきっかけを作ってくれたのは親だったと言えます。その後、戦争体験者や原発に関わる人、ホームレス、あるいは「不法滞在」の外国人などのマイノリティと呼ばれる人との出会いや関わりを持ちながら、大学を卒業して、ソーシャルワーカーになりました。
仕事では、精神科の患者さんと関わることが多かったのですが、公立救急病院で働いたときにとてもたくさんの外国人の患者さんと出会いました。滞在資格のない多くの外国人が、末期のエイズを発症した状態で運ばれて亡くなっていく、あるいは何とか治療を開始して少し持ち直したところで自分の国に帰っていく、そうした中でできる支援をしました。そして、エイズにも本格的に向き合うことになりました。そのことと元々もっていたアフリカへの想い、南アフリカのアパルトヘイトのことを知っていて反アパルトヘイトの集会にも出たこともあっても、何もしていない自分に対する想いが募っていったのです。
そのころ、根本神父が南アフリカのエイズ・ホスピスで活動していることを伝える新聞記事を読み、根本神父に連絡をとってホスピスで働くことになりました。そのホスピスで活動をしながら同時に、ホスピスの周辺にたくさんあるタウンシップや貧困地区というか「不法滞在者」の暮らす「不法居住」地区(スクオッターキャンプ)を回るようになり、そうした地区でニバルレキレの活動が始まりました。

南アフリカの多様性と外から来る人を受け入れる環境

佐藤: アジア経済研究所の同僚の牧野さんと同じように研究者として、15年ほど南アフリカの研究をしてきました。南アフリカについて本格的に勉強するようになったのは大学院に入ってからですが、学部の学生の時に、先進国と途上国との間の格差の問題や途上国の低開発について研究する南北問題のゼミに参加して、アジア・アフリカ・ラテンアメリカに対して全般的に興味を持つようになりました。
私が大学生だったときは、バブルがちょうどはじけたころで、円高がすすみ、海外にとても行きやすくなっていました。私自身もバックパッカーとして、中国、インド、タイなどに行きました。でもアフリカは遠いのでなかなか行けないと思っていたのですが、そのころにゼミで途上国の勉強を始めたのです。ゼミの先生は、元々ジンバブウェの研究をしていた人だったので、研究をしていけばいつかアフリカにも行ける日が来るんじゃないかと思いながら南アフリカに興味を持つようになりました。
南アフリカに初めて行ったのは1995年、大学を卒業した春休みのことです。南アフリカでアパルトヘイトが正式に終わったのが、1994年に初めて全人種が参加する総選挙が行われたときなので、その直後にあたります。アパルトヘイトという人種差別体制があり、それによってとても酷いことがあったことは学んでいたので、この国の人たちはそれを乗り越えて、どうやって新しい国を作っていくんだろう、どうやって新しいアイデンティティや国民を作っていくんだろう、過去にあった大変なことに対してどう向き合い、どうやってそれを乗り越えていくんだろう、といったことを考えるようになりました。アパルトヘイトが終わった後の社会改革の一つとして導入された土地改革や土地返還に興味を抱き、今日に至るまで研究を続けています。
峯さんも最初に言われましたが、日本のアフリカ研究者の間では南アフリカというのは非常に特殊な国だと思われていて、南アフリカ研究をしているとアフリカの研究をしているようにはあまり思われないのです。ワールドカップに関する報道が増えて、ジョハネスバーグの写真を見る機会が多くなったと思いますが、たくさんビルがありハイウェイもあるので、一般的に想像しているようなアフリカじゃないよなと思われるかたもたくさんいらっしゃるかと思います。南アフリカはとても多様な国なので、そういうところがある一方で、アフリカ人の人口が8割で、いわゆる伝統的首長の影響力がかなり強いところもまだまだあり、自分や家族の身に不幸があるとサンゴマという伝統的な呪医というか霊媒のような役割をする人のところに行く人も多いです。ヨーロッパ的価値観とアフリカ的価値観の両方が混在しています。そのことをとてもおもしろいなって思うと、南アフリカにはまってしまい、なかなか抜けられなくなるのです。
なんでそんなにはまるのかなと思って、ひとつ考えられるのが、あれだけ多様な国だからかもしれませんが、南アフリカの人は割と外から来る人も受け入れてくれるところがあるからではないかと思います。その象徴的な一例として、外から来た人に名前をくれるのです。私もいくつか名前をもらっています。そのひとつのシボンギレという名前は、「感謝をする」「あなたが来てくれたことに感謝をする」という意味です。またノンピロは「活発な人」という意味です。彼らがそういった名前で私を呼んでくれるのは、「あなたはわれわれの一員です」と考えてくれるからだと思っています。
私がイギリスに留学しているときも、南アフリカから来ている留学生が私のことを「あなたはAdapted South Africanだ」と言ってくれました。つまり南アフリカのことを勉強していて、とてもこだわっているので「あなたも南アフリカ人だね」といった感じで言ってくれるのです。そうした扱いをされてしまうと、南アフリカからなかなか抜けられなくなってしまいます。
ですから、今回のワールドカップで日本が決勝トーナメントに進んだことはうれしいのですが、それ以上に、南アフリカが決勝トーナメントに進出できなかったということにとてもショックを受けています。いま着ているポロシャツは、1996年に南アフリカで買ったけっこう古いものですが、南アフリカの国旗を模したシャツなので、この場に着てきました。


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