僕たちハートは地球人

-ケニア子ども使節団を受け入れて-

『アフリカNOW』 No.29(1997年発行)掲載

執筆:ミコノの会

3000発の打ち上げ花火

昨夜みんなで特訓したアフリカンダンスを、特設の舞台の上で披露した8人のチビッコ親善大使の1人、ワイルム=ムトゥリさん(13歳)を、地元テレビ局のカメラが暗闇の中に青白い光を放ちながら迫っている。足下の導火線に彼女が火をつけると、スルスルと火花が横に走り、数秒の沈黙のあと、巨大な花火が観衆の頭上にさく裂した。
1万1千キロの彼方のケニアからきた小さなお客様が、久居市民祭り(参加者約2万人)のイベント「3千発の打ち上げ花火」に点火した姿が、こうして地元テレビのニュース画面に映し出された。

とにかく日本の空港まできて

8月2日から3日間、「ミノコの会」の地元の三重県を「ケニア子ども使節団」が訪れた。ナイロビを飛び立ったインド航空機が、途中でウガンダのエンデベ空港に立ち寄り、そこで長い間とどまるなど予期せぬ事が何度か起こり、少し疲れた様子でケニアの子ども達はやってきた。
日本は遠い国。言葉・習慣・食べ物・人種・などの多くの違いが最初、子ども達を戸惑わせた。それに物価が高く、そこで滞在することは並大抵のことではない。ケニアで1ヵ月暮らせるお金が、数日でなくなってしまう。その物価高の国を訪れ、たとえ短期間でもそこに滞在することは、ケニアの子ども達にとって相当な重荷だ。
そんな子ども達に対して「ミノコの会」は、「とにかく日本の空港まできなさい。それから先はなんとかするから」と手紙を送った。

ナイロビの町をきれいにする運動を起こしたい

三重県の県庁所在地津市では、地元のNGO「アフリカ村おこし運動」の受け入れで津市市役所を表敬訪問したあと、セントヨゼフ中学校に招かれた。そこでは”ケニアの未来”と”日本の未来”が一緒に話し、一緒に食事し、一緒に歌を歌いそしてお互いの住所を交換した。  「将来ジャーナリストになりたい」というレオン=ムオティア君(11歳)は、津市在住の生徒の質問に応えて抱負を次のように語った。「津の町はきれいだ。いや日本の町はみんなきれいだ。大きくなったらナイロビの町をきれいにする運動を起こしたい」
その後、NKK(株)のご厚意で、津市にある造船所を見学した。そこでは、2ヵ月後に海に浮く17万トンの巨大船が作られていた。一行には、船はおろか海を初めてみる内陸部出身の子どもも多くおり、「信じられなーい」を連発していた。

温泉さわぎ

日本書紀にも登場する2大古銭のひとつ「七栗の湯」(現名;榊原温泉)が、久居市にある。「市民祭りの疲れをいやすために、七栗の湯でひと風呂あびては」との久居市長のご厚意に甘えて、子ども達全員と温泉に行った。
温泉に着くやいなや衣類を脱ぎ捨てて裸になる日本人だが、ケニアの子ども達は何故かもじもじしている。「シャワーはあるが個室はない」と答えると、待合い室に戻ってしまった。「とにかく見るだけみて、それから決めよう」と浴室の中を見せたが、やはり「みんな丸裸」の文化には抵抗があるらしい。
人影が減った頃を見計らって浴室から呼ぶと、最初は入口の扉の影から内部をのぞいていたが、やがて腰にタオルを巻いてやってきた。初めての温泉だが、お湯がヌルヌルして体に気持ちいいし、外にはマッサージ機もある。私と浴槽につかっていたレオン君は「ポールが待合い室にいる。ポールを呼んでくる」と、また出ていった。そして今度は、2人とも裸で浴室にやってきた。
結局、最後には私たちが待合い室で待つはめになったが、ケニアの子ども達はそれから小一時間、温泉のヌルヌル湯を楽しんでいた。「郷に入れば郷に従え」といったところか。

何故ケニアの子どもを日本に招くのか

1986年よりケニアで本格的にNGO活動をして以来、「日本子ども使節団」として日本の子ども達を、ほぼ毎年ケニアに派遣してきた。子ども達は活動現場で学校建設、植林、井戸掘りなどの国際協力活動だけでなく、歌や踊り、隠し芸、ホームステイなどを通じて、いろいろな体験を積み重ねてきた。
夕食のおかずになるヤギが喉笛を切られて屠殺されるところを見て、人間が生きていくためには、多くの命を奪わなくてはならないことを知った。これは、日本のスーパーマーケットの肉売場では味わえないものだった。雨の降らないところでは、野菜がいかに大切かを知った。
1日にバケツ1杯の水で家族6人が生活する。その水運びが、いかに重労働だということも体験した。日本の、蛇口をひねればすぐに水が出てくるという生活は、決して当たり前や、当然ではないのだ。
冬には、ストーブやファンヒーターで灯油を1斗缶単位で消費しているが、ガリッサでは、杯のような器で計り売りされている。その灯油を燃料として、薪のない所に住む人々は食事を作り、灯りを得るということも知った。
しかし、「日本子ども使節団の派遣」というお付き合いのし方には、ひとつの落とし穴があった。それは、「ケニアの子ども達と共有できる物が、いつまで経っても半分しかできない」ということだった。そこでは日本の子どもはいつも訪問役であり、ケニアの子ども達は、いつも受け入れ役である。つまり、「日本の子ども達は、ケニア体験・日本体験を元に話ができるが、ケニアの子ども達には日本の経験がないので、ケニアの体験話ができても日本の体験に基づく話ができない」というところからくる「心の一方通行」だった。
こうして始まった共通の体験作りの「ケニア子ども使節団」の受入は、「ケニアと日本の架け橋的人材」を輩出するための「種まき」的な事業として来年へと続いていく。

日本語に見える日本人の落とし穴

ケニアの子ども達と日本で行動を共にしていると、「黒幕」「浅黒い」「白黒をつける」「白星・黒星」「腹黒い」「灰色高官」などといった、日常私たちが使っている日本語の表現に対していろいろな疑問が湧いてくる。つまり、これらの言葉を平均的日本人が使うとき、きまって「黒い色にマイナスのイメージを連想して表現している」ことに気づく。意識する・しないにかかわらず、黒い色は「不吉」「悪」「汚れ」といったことを、白い色は「純潔」「美しい」「正義」といった一元的感覚の裏返しとして、私たち日本人はあわせ持っているのだ。これは、西欧化ならまだしも国際化するには、ずいぶん足カセ・手カセになる「民族規模の心の重荷」だ。できれば早く捨て去ってしまいたい。
これらの表現方法をあらためて、「白幕」「浅黒い美人」「腹白い」といった言葉を、あえて使うのもおもしろい。だが、「”腹黒い”などと言ってはいけません」といった単なる「言葉がり」ではなく、これらの言葉が以下に無知で鈍感で後進的で破壊的であるかに気がついて、人々が自己意識を改革するための精神土壌が早く日本に育ってほしいと思う。
ケニアの子どもたちとのお付き合いは私たちにとってこのように、日本という精神沙漠で風化している私たちの心に、肥料を与える作業なのかもしれない。末尾だが、心からケニアの子ども達に「アサンテ サーナ」(どうもありがとう)とお礼を言いたい。そして私たちのために、来年もまた日本に来てほしい。

今回の反省点

(1)「O-157大腸菌」の影響を受けて、受け入れが不安定になった。

(2)住所や連絡先を書くのに、ケニアの子ども達が疲れてしまう。お国柄によって筆跡が違うので、せっかく交換した住所が誤解の原因になったりする。名刺のようなものをあらかじめ作って持たせるのもいいだろう。

(3)食生活が違う。ケニアの子どもはごはんの上にスープをかけたものを好む。そうすると食事は、カレーライスばかりになってしまう。日によっては、昼食・夕食の両方がカレーライスになったこともあった。


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