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視点を変えてアフリカの問題に取り組む

Tackling African issues with a different perspective

『アフリカNOW』108号(2017年5月31日発行)掲載

執筆:中野 智之
なかの さとし AJF 理事。1992年4月から2年間、青年海外協力隊員としてエチオピアに赴任。2015年3月に勤務していた外資系通信会社を会社都合で退社。牧師になる決心をして、昨年日本ルーテル神学校に入学し、現在2年生。


私は1992年から1994年までの2年間を青年海外協力隊員としてエチオピアで過ごした。そして、日本国際ボランテイアセンター(JVC)のボランティアとしてエチオピアを訪問したアフリカ日本協議会(AJF)の初代事務局長の尾関葉子さんと夕食を共にした縁から、帰国後にAJF の事務所を訪ね、会員となった。その後1995年から運営委員になり、設立間もないAJFの活動に関わった。
その当時は日本にいても心はアフリカにあり、現地に行って活動したいという気持ちを強く持っていた。実際、1994年のルワンダの大虐殺の後、AJF が始めた勉強会に集まった人々で結成されたNGO に私も関わり、現地NGO の調査という名目で1995年にルワンダの首都キガリを訪問した。
しかしその気持ちとは裏腹に、当時の私には、アフリカに行って直接的な支援活動を行うためにはないものが2つあった。まず、某大学の経済学部を卒業後コンピューターのエンジニアとして勤務した後、システムエンジニアという職種で協力隊員となったのが、私の国際協力の最初の経験であったので、帰国して間もない私には支援活動を行うために必要な知識も経験も持ち合わせていなかった。加えて、本職として外資系企業でIT エンジニアとして働いていたため、支援活動を行うためのまとまった時間もなかった。そういう状態であったため、父親ががんを患い、私が父親のケアをしなければならなくなったときに、そのNGO での活動終止符を打ち、AJF の運営委員も辞任することにした。その後はAJF の会員は続けたものの、主だった活動はせず、またアフリカとの関係においても、たまにインターネットでアフリカのニュースを検索する程度で、積極的な関わりを持たなくなった。

最近もうひとつ欠けていたものがあったことに気づかされた。それは現地の問題を正確に判断するために不可欠な当事者からの一次情報である。私がそのNGOに関わっていた当時、ルワンダの大虐殺については各メディアも大きく取り上げていたが、彼らが描く大虐殺のストーリーは決まって、次のようなものであった。すなわち、1994年4月6日にルワンダとブルンジの両国大統領が乗った飛行機が撃墜された直後からフツ過激派がツチを殺戮し始め、その虐殺を止めるためルワンダ愛国戦線(Rwandan Patriotic Fron; RPF) がルワンダに侵攻し、ルワンダ軍を撃退し、ルワンダ全土を制圧した。このストーリーではRPF が、虐殺を止めたいわばヒーローという形で捉えられていたように思われる。しかし、最近読んだ『あやつられる難民:政府、国連、NGO のはざまで』(米川正子、ちくま新書、2017)では、虐殺の発端になった大統領機の撃墜がRPF によるもので、虐殺を止めたヒーローと考えられていたRPF も多くの虐殺に関与していたとする証言が紹介されている。当時もし当事者から直接、状況把握のための情報を得られていたら、マスコミが描く虐殺のストーリーを全面的に受け入れるのではなく、違った見方を持つことができたかもしれないと思うと、改めて当事者からの生の情報、つまり一次情報の重要さを感じた。
さて、アフリカおよびAJF との積極的な関わりを持たなくなって20年近くの年月が過ぎた昨年(2016年)、私は理事になり再びAJF の活動に直接関わろうと決心した。その経緯について述べる。

私は過去3年間、毎年6月に開かれているAJF の年次会員総会に出席している。特に昨年は、議長を務めた。その時点では、同年10月に開催されたAJF 臨時会員総会において理事に立候補することは考えてもいなかったが、AJF 代表理事の津山直子さんの一言がきっかけで、事は思わぬ方向に展開した。私が議長を務めた昨年6月の年次会員総会では、役員改選が行われた。その選挙の開票時間の間、コンゴ民主共和国出身で栃木県小山市在住のロンゴ・ツァサ(Longo Tsasa)さんが招かれ、講演をされた。ロンゴさんは、小山で個人的にコンゴ民主共和国出身の難民および難民申請者の支援を行っていること、また、難民および難民申請者に対して一番必要な支援は日本語教育である、と述べられた。ロンゴさんの話を聞いた後、津山さんが思いもかけない発言をされた。「日本語の問題は中野さんが関われるかもしれません」。実は津山さんは、私が文部科学省の定める420時間の日本語教師養成講座を修了していることを知っていたので、中野ならロンゴさんの要望に答えられるかもしれないと考えて、私の名前を出したようである。私としては、直接依頼されたわけでもないので、受け流すこともできたが、総会での代表理事からの直接のご指名である。私に何ができるかわからなかったが、とりあえずロンゴさんがどういう経緯で日本語の問題を指摘されたのかを探るため、ロンゴさんに会いに小山まで行った。

そしてわかったことは、(1)ロンゴさん自身は、奥様が自治医大に留学されていた期間に日本企業に正社員として就職した。コンゴ民主共和国の政変の後、帰国が難しい状況に陥った際、奥様の留学に伴って取得された在留資格を本人の就労に伴うビザに変更することができた、(2)その後、多くのコンゴ民主共和国出身の難民申請者たちがロンゴさんの情報を得て、訪ねてきて、そのまま小山周辺に住み、そうした人たちとコミュニティを作って、支援活動を行なっている、(3)そのコミュニティに所属する人たちのほとんどは日本語教育を必要としているが、中には就労資格を得て就職して忙しい人も多く、一方で日本語を話さなくても生活にそれほど不自由を感じていない人もいて、積極的に日本語を勉強しようとする人は多くない、などであった。そして、もし積極的に日本語を勉強したい人がいるのであれば、面談のため再度小山を訪問する意向があることを告げ、小山を後にした。

実はロンゴさんとの待ち合わせの際に、ちょっとしたトラブルがあった。ロンゴさんが、私との待ち合わせの時間に他のアポイントを入れてしまったのである。そのアポイントは、難民支援協会のスタッフとのものであった。結局、難民支援協会のスタッフとのアポイントを優先していただき、その後で私がロンゴさんと会うことになったが、私としては難民支援協会のスタッフと知り合う、という思いがけない副産物を手に入れることができた。ロンゴさんから直接難民についての話を聞いたことで、難民・難民申請者についてもっと知りたいと思った私は、後日、小山でお会いした難民支援協会のスタッフを訪ねて事務所に行き、難民・難民申請者の状況についていろいろと知ることができた。また、インターネットで難民への日本語教育を行っているカトリック東京国際センターを訪れて、話を聞いた。この2つの団体訪問を経て、私はAJF の活動としてアフリカ出身の難民・難民申請者への支援に本腰を入れて実施したいという気持ちになり、理事に立候補することを決めたのである。

長いブランクを経て、再度AJF の活動に関わることになるのだが、最初の関わりとは視点が異なる。前述したように、前回AJF の運営委員をしていたときは、視点がアフリカに向いていた。アフリカの問題と関わるためには、アフリカの現場に行かなければならないと考えていたのである。そして、今は視点が日本に向いている。その理由は、日本に住みながらも、アフリカの問題に関われると考えているからである。私がAJF の運営委員を務めていた当時とは異なり、現在は難民・難民申請者だけではなく、多くのアフリカ出身者が来日し、日本で生活している。その人たちと関係を築き、直接話を聞くことで、アフリカの問題を新たな視点で捉えたい。そういう思いで理事に立候補し、信任され理事となった。

その思いを理事会で話したことから、津山さんの提案により、日本での生活に困難を抱えているアフリカ出身の難民・難民申請者などの在日アフリカ人への支援や、在日アフリカ人向けに活動を行なっている個人や団体との連携・協力を、新たな活動形態であるチームという形でスタートさせることになり、そのチーム在日アフリカ人チームのリーダーを務めることになった。これまでそのチームの活動として、難民支援者全国会議へのオブザーバー参加や、なんみんフォーラム加入のための手続きなどを行なった。今後、在日アフリカ人から直接話を聞く場として、アフリカひろばの開催を計画している。

先日、横田事務局長がAJF の会員メーリングリストで告知したように、新しい活動形態であるチームは、会員に限らず幅広い方々からの参加を呼びかけようということになった。私たち在日アフリカ人チームでも、関心のある方々からの参加を募っている。アフリカから日本に来られた人たちが、日本で人間らしい生活が送れるように手助けをしながら、その人たちからアフリカについて学ぼうとする私たちの活動に、ぜひ参加してください。


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