Chronology of anti-apartheid movements in Japan
アフリカ行動委員会(JAAC-Tokyo)の運動を中心に
『アフリカNOW』102号(2015年4月30日発行)掲載
作成:楠原彰
くすはら あきら:1938年新潟県生。20代初めに上京。どうやって生きぬくかを思案していた時に、アフリカと反アパルトヘイト運動に出会う。私立大学の教員(教育学)をしながら、「教育からの自由」についての学びと実践をもとめて、若者たちとアジアやアフリカの人々の暮らしの現場を歩く。著書に『自立と共存』(1976)、『アパルトヘイトと日本』(1988)、『南と北の子どもたち』(1991)、『学ぶ・向き合う・生きる』(2013)などがある。ブラジルのパウロ・フレイレと出会い、『被抑圧者の教育学』(1979)、『伝達か対話か』(1982)などを友人と翻訳。
■第1期 モシ会議からアフリカ行動委員会誕生まで
1960年
4月 在南ア日本人に「名誉白人」待遇が与えられる
1963年
2月 タンガニイカのモシで開かれたアジア・アフリカ人民連帯会議で、野間寛二郎(アフリカ研究者)、田中稔男(社会党衆議院議員)、田中寿美子(後に社会党参議院議員)らはアフリカ民族会議(ANC)代表団から日本での反アパルトヘイト運動を要請される
5月 日本アジア・アフリカ連帯委員会(以下、AA 連帯委。分裂前)内に南ア人種差別反対実行委員会準備会が、先の代表団のほか伊藤実らによって結成される(野間は当時AA 連帯委の理事)
6〜7月 野間寛二郎、五味川純平(作家)らは、ダルエスサラームで開かれた南ア・フリーダムデーの集会に参加
8月 ANC のムジワディ・ピリソが原水禁大会に参加(前記の実行委準備会メンバーと会談)
12月 野間はアジア・アフリカ作家会議大衆集会で「南アの人種差別」について講演
12月 野間は実行委準備会を通じて、『南ア通信』(1号)や「リヴォニア事件」のパンフなどを次々に発行。AA 連帯委が外務省の対南ア政策に抗議
1964年
2月 全電通会館に50名が参加し「第1回南ア人種差別反対懇談会」
5月 AA 連帯委内に南ア人種差別反対実行委員会(JAAC)が発足(労組・政党・市民グループなどが参加)。学者・文化人(末川博、上原専禄など)の10人アピール「南ア政治犯を救え!」。市民グループ・労組・AA 連帯委らが一緒になり反アパルトヘイト署名活動、パンフレット発行、商品ボイコットなどに取り組む
5月 アジア・アフリカの仲間(AAの仲間)は、中ソ論争や政党対立などの影響で反アパルトヘイト運動が困難になる状況の中で、歴史学者の上原専禄を訪ね教えをこう
6月26日 日本最初のフリーダムデー集会は分裂集会。南ア人種差別反対実行委員会は解体の兆し。野間らは南ア問題懇話会(後にアフリカ問題懇話会)を立ち上げ、実行委員会を引き継ぐ形となる
8月 AA の仲間の中に南班が生まれ、独自の活動を始め、野間らの懇話会につながる。『AA の仲間』(No6〜7合併号)が南ア特集
1965年
6月 第2回フリーダムデーはAA連帯委内の実行委員会と懇話会の合同開催。黒人労組指導者のミニ・カインガらの処刑に抗議し、南ア総領事館に抗議。この頃より明大・東外大・東大・日本女子大などに学生のアフリカ研究グループが誕生する
*5月24日「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の最初のデモに多くの若者が参加。ベ平連の運動はその後の市民運動のスタイルに多大な影響を及ぼす。
1966年
6月 野間はロンドン経由でガーナへ(翌年夏にも野間はアフリカ諸国とヨーロッパへの旅を続け、南部アフリカの解放組織、英国などの反アパルトヘイト運動団体と交流し、たくさんの運動資料を持ち帰る)
1967年
5月 東大の学生アフリカ研究グループのインクルレコ(INKULULEKO)が『アパルトヘイト―根源と実態と解放』(五月祭にむけたパンフ)を刊行
1969年
1月 野間はハルツームの「ポルトガル領アフリカと南部アフリカ人民支援国際会議」へ。南部アフリカ、ポルトガル領アフリカの解放闘争の動向が知らされる(欧米の反アパルトヘイト運動の動きも)
5月 アフリカ行動委員会(以下、行動委員会。最初はJAAC-Youth Section、後にJAAC-Tokyo)結成。野間の懇話会に関わっていた市民グループ・AA の仲間と東大のインクルレコが中心になって生まれる。時あたかも学生闘争の時代。多くの学生たちが関わってくる。5月 『アフリカ行動委員会ニュース』創刊(野間がメッセージを寄せる)
5月 野間寛二郎『差別と叛逆の原点』(理論社)刊行
■第2期 アフリカ行動委員会誕生からソウェト蜂起まで
1970年
3月 ANC ロンドン駐在のM・クネーネがANC の闘争資金集めのため来日。政党・労組などいずれも要請に応えず絶望して離日。作家の竹内泰宏、行動委員会らが対応
* ’Japan is killing us. Japanese prosperity depends upon ourblood.’( クネーネが残した言葉)。また彼は「Too much talkではなくGuns を!」とも語った。「クネーネ・ショック」。行動委の初めての解放戦線(ANC)との出会いであった。
6月 第1回フリーダムデーのデモ。行動委員会と懇話会の主催。清水谷公園を出発し、100名ほどが参加。大阪からも2名が参加。この2人によって1970年末に大阪に、こむらどアフリカ委員会(JAAC-Osaka)が結成される。
8〜10月 行動委員会の大岡俊明がヨーロッパ・アフリカへの旅で解放組織やヨーロッパの反アパルトヘイト運動と交流
9月 モザンビーク解放戦線(FRELIMO)の武装闘争記念日にポルトガル大使館へデモ
1971年
6月 第2回フリーダムデーのデモ。清水谷公園を出発
1972年
6月 小川忠博のギニアビサウ解放戦線従軍ルポ・写真集”NÔPINTCHA” 刊行。ギニアビサウ解放戦線および世界各地に送る。
8月 原水禁大会で来日中のアミルカル・カブラル(ギニア=カーボヴェルデ・アフリカ独立党(PAIGC)議長)を招き講演会(カブラルは1973年1月にコナクリで暗殺される)
1973年
2月 カブラル追悼集会
6月 第4回フリーダムデーで経団連に抗議デモ。
8月 小川忠博の解放区ルポ『モザンビーク解放戦線』(雑誌『太陽』臨時増刊号)にポルトガル語および英語訳を付してモザンビークの解放区へ数百冊送る
9月 『行動委員会ニュースレター』No.15で「アパルトヘイトを支える日本企業」を特集
10月 ギニアビサウ国の承認を求めて外務省へ1974年
3月 南ア選手出場の国際ゴルフトーナメント会場(読売ランド)で抗議行動
6月 「アフリカン・ウイーク・イン・東京」(講演・シンポ・映画・音楽)
7〜8月 日本企業の対ローデシア国連制裁決議違反の調査を発表。英タイムズ・朝日・行動委の共同作業により、『朝日ジャーナル』『タイムズ』に同時発表
9月 政府は来日中の国連アパルトヘイト特別委員会に対して、違法な投資を続ける日本企業をやめさせると約束
12月 北沢洋子が南アで日本企業の実態調査し、国連で発表。
12月 日本企業の「ナミビア天然資源に関する国連法令」違反についての疑義が出される(衆院予算委員会)
1975年
2月 野間寛二郎、パーキンソン病で逝去(63歳)
4〜5月 南ア問題パリ国際セミナーに行動委員会から2名が参加し、日本・南アの経済関係と核開発問題について報告
5月 三木首相と関西電力にナミビア・ウラン購入問題について公開質問状
7月 関西電力の南ア・ナミビアからのウラン輸入をやめさせる会(こむらど、伊方労学共闘、軍縮協、新左翼社などが中心)
11月 南西アフリカ人民機構(SWAPO)代表団が社会党の招待で来日。行動委と会見
11月 『行動委員会ニュースレター』No.18で「これがアパルトヘイトだ!」(野間寛二郎追悼)を特集
1976年
1月 公開セミナー「南アの黒人意識運動」(講演:三井義牧師・世界大学サービス(WUS)。映画”The last grave at Dimbaza”(デンバサ最後の墓)を上映(この映画の日本語版『アパルトヘイトの国―南アフリカ』が後の反アパルトヘイト運動の重要な媒体になる)
2月 「アンゴラ人民支援集会」(ラテンアメリカ行動委員会と共催)
5月 国連主催の反アパルトヘイト国際会議(パナマ)に2名派遣
6月 小川忠博写真集『森と精霊と戦士たち』出版。英語・ポルトガル語版を作製してモザンビーク、アンゴラ、ギニアビサウそして欧米の反アパルトヘイト団体に
送る(世界教会協議会(WCC)などの財政支援をえる)
■第3期 ソウェト蜂起からSOMAFCO 支援まで
1976年(続き)
6月16日〜 ソウェト蜂起起こる黒人意識運動(BCM)の顕在化。怒れる子ども・若者の登場。南アの「恐怖とフラストレーション」の時代が終わる
7 月 『朝日ジャーナル』に「アパルトヘイトを告発した黒人意識運動」(上・下)を発表
12月 パンフレット『黒い怒りが炸裂する』(黒人意識運動で生まれた詩)を刊行
1977年
1月 静岡アフリカに学ぶ会(JAAC-Shizuoka)が誕生
7月 反アパルトヘイト・ラゴス会議に2名派遣
9月 外務省に抗議して南ローデシア(現ジンバブエ)ヘの日本の旅行社による観光ツアー計画を中止させる(国連制裁決議違反が理由)
11月 南ア総領事館前で3週間の連続昼休みデモ
12月 ボツワナに亡命中の黒人意識運動リーダー、R・ネングェエクルを招待。全国各地で交流
1978年
5月 第1回日本反アパルトヘイト委員会(JAAC)・反アパルトヘイト全国合宿(静岡)
8月 ジュネーヴの反アパルトヘイト会議に代表を派遣
9月 国連広報センターの支援を得て映画『南ア解放への道』が完成
1979年
2月 横浜・寿町で『アパルトヘイトの国―南アフリカ』の上映会
4月 南アを訪問した国会議員10人に公開質問状
1980年
5月 京都・南部アフリカ問題研究会(JAAC-Kyoto)が発足
9月 「ナミビア人民の闘いと連帯する国際会議」(パリ)に参加
10月 反アパルトヘイト全国合宿(京都)
1982年
2月 『南アの核兵器開発』(南アの軍事及び核開発への国際加担行為に抗議する世界キャンペーン)の翻訳・出版(国連アパルトヘイト特別委員会より補助)
12月 国会で井上一成・社会党衆議院議員が南アへの日本銀行の融資問題について質問1983年
3月 東洋工業とダイハツに対して、南アでの「現地組み立て(KD)生産」計画についての公開質問状
11月 6回目の反アパルトヘイト全国合宿(鎌倉)
11月 「人種差別撤廃条約」批准問題で部落問題研究所と会談
12月 南ア問題研究所(行動委員会事務所を兼ねる)を東京・恵比寿に開設
1984年
6月 設立されたばかりの日本・南ア友好議員連盟に公開質問状
9月 行動委員会メンバーがタンザニアの南ア亡命者の学校、ソロモン・マシャング解放学校(SOMAFCO)を訪問
10月 日本・南ア友好議員連盟の石原慎太郎議員と会見
10月 ANC ロンドン事務所のS・チョアビを日本に招く
11月 衆議院予算委員会で井上一成議員が南アからの血漿輸入問題と青木功の南アのゴルフ大会出場問題で質問。1985年5月に「血漿輸入は中止させる」と政府が答弁
12月 SOMAFCOを応援する会(ナプモ)が行動委員会内に結成される
■第4期 SOMAFCO 支援から世界最大の対南ア貿易パートナーになるまで
1985年
1月 パンアフリカニスト会議(PAC)のモード・ジャクソンを招待・交流
2月 SOMAFCO 支援基金運動が始まる(若者が中心)
6月17〜28日 南ア総領事館前連続昼休みデモ
8月 3人の若いメンバーが200万円の募金で必要物資を買って、タンザニアのSOMAFCO に届ける
8月 反アパルトヘイト全国合宿(京都)
8月 反アパルトヘイト女性委員会が大阪に誕生
9月 クルーガーランド金貨の輸入禁止など、南アへの経済制裁強化を求める共同行動を呼びかける
10月 行動委員会の新聞への投書がきっかけで南ア駐在日本領事が処分される
10月 南ア総領事館包囲デモ
11月 国連アパルトヘイト特別委員会議長と会見
11月 「反アパルトヘイト・カレンダー」(降矢洋子の版画)が完成
12月 タンザニアのSOMAFCO からB・シェンベを招く1986年
2月 「反アパルトヘイト大集会」(労音会館)
3月 労働5団体の「反アパルトヘイト集会」に参加
4月 アムネスティの招待で来日中のファリサニ師(かつての政治囚)と会見(ファリサニ師は12月に再び逮捕される)
5月 ナミビアの即時独立を求める国連マルタ集会に参加
8月 デズモンド・ツツ主教来日受け入れのための連絡会議が反アパルトヘイト連絡会(市民グループ、教会、労組など)になる
9月 ボタ南ア外相来日に抗議して外務省前でビラまき
1987年
3月 サッツ・クーパー(BCM のリーダーの一人)が来日し集会を開く
3月 南ア進出企業に公開質問状を発送
3月 アフリカフェ輸入・販売プロジェクトが動き出す
4月 オリバー・タンボANC 議長来日歓迎集会(日本政府が招待)
5月 アラン・ブーサック師来日歓迎集会(日本キリスト教協議会(NCC)が招待)
5月 来日中のトイボ=ヤ=トイボSWAPO 書記長と会見
9月 「アパルトヘイト下の子ども・抑圧・法に関する国際会議」(ハラレ)に参加
10月 『あんちアパルトヘイトニュースレター』(No.1) が刊行(その後の反アパルトヘイト運動の最重要機関誌となる)
11月 集会「アパルトヘイト下の子どもと女性」
12月 南アの報道規制に抗議し、南ア紙『ニューネーション』、『サンデースター』に意見広告
■第5期 アパルトヘイトの最大のパートナーからマンデラの釈放まで
1988年
3月 政府が映画『遠い夜明け』を上映
3月 D・ツツ主教、ブーサック師らの逮捕と17組織の活動禁止に抗議して南ア総領事館抗議行動
4月 南ア紙『サンデースター』に抗議の意見広告
4月 集会「アパルトヘイト最大のパートナー」(K・スローター、千草スティーヴンらがゲスト。千駄ヶ谷区民会館)
4月 死刑を求刑された「シャープヴィル6」の救援要請のために南ア総領事館内に30名が入り、「コシシケレリ・アフリカ」の合唱。逮捕されず
5月 ANC 東京事務所開設(ジェリー・マツィーラ着任)
5月 南ア商品ボイコット・キャンペーンを東京・銀座の歩行者天から開始
5月 D・ウッズ講演会(主催:反差別国際運動)
6月 イトーヨーカ堂、ダイエー、ジャスコなどが南ア商品取り扱い中止を決める。各地の小売店からもアップルタイザー、南アワイン、黄桃缶詰などが消える(アパルトヘイト商品ボイコット運動が盛り上がる)
6〜7月 南ア紙『ニューネーション』、『ウィクリーメール』に全面意見広告
6月 世界中の著名画家の反アパルトヘイト絵画を積んだ特殊トラック「ゆりあ・ぺんぺる号」が沖縄を起点に500日間、日本各地を回り、美術展を開催(主催:「アパルトヘイト否国際美術展」実行委員会)
7月 マンデラ70歳誕生記念集会(主催:ANC)
8月 「反アパルトヘイト・アジア・オセアニア地域ワークショップ」(主催:JAAC、後援:国連アパルトヘイト特別委員会)。ANC、PAC、SWAPO などの解放組織、それにアジア、オセアニア、アメリカ(ハワイ)などの反アパルトヘイト市民グループ、人権団体、宗教組織、日本国内の反差別団体、マイノリティ、女性グループなどが早稲田奉仕園に会して4日間のセミナーを開催。「東京宣言」が採択される( 8月29日)。その記録集は1989年12月に刊行
9月 総評主催の「反アパルトヘイト集会」
10月 10回目の反アパルトヘイト全国合宿(広島)
10月 「国連・反差別国際NGO 会議」(ジュネーヴ)に代表を派遣
11月 ナミビア・ウラン密輸に関して東京電力と交渉
11月 「南部アフリカ前線諸国会議」(ハラレ)に参加
12月 「南ア・ナミビアの政治犯を救え!コンサート」(主催:ANC)
1989年
1月 『二匹の犬と自由』(JAAC 訳編、現代企画室)を出版
1月 「南ア・ナミビアの難民・女性・子どもを支援する会議」(ハラレ)に参加
1月 F・チカネ師を迎えて「反アパルトヘイト集会」(NCC が招待)
2月 演劇『アシナマリ』東京公演(2月14〜28日)
3月 集会「シャーブヴィル6を救え」(南アの弁護士P・ディアを迎えて)
3月 ナミビア・ウラン密輸に反対する国際統一行動(東電本社、関電本社、東電ロンドン支店などに対して国際的抗議)。その日、14人が電気解約手続きをとる
4月 一日電気ボイコット運動
4月 コッツェ・南ア環境水資源大臣の来日に抗議
6月 東京に「マンデラ・ハウス」(勝俣邸)がオープン
7月 集会「独立に向かうナミビア」(SWAPO のジョー・カパンダを迎えて)
8月 「南ア女性の日」東京集会(M・チャーリー、E・モコトングを迎えて。主催:JAAC、NCC。庭野財団支援。フォークシンガーの豊田勇造も参加)
9月 大阪で「日本反アパルトヘイト委員会の調整連絡会議」
11月 JAAC 全国会議(大阪)
11月 ナミビア独立選挙の国際監視団に峯陽一(JAAC-Kyoto)が参加
12月 銀座田中貴金属店に30人のメンバーがANC 東京事務所のジェリー・マツィーラと出向き、「名誉白人大賞」の賞状とクリスマスケーキを贈る
1990年
2月 集会「南アのアパルトヘイトは今〜マンデラ氏獄中の27年を考える」。昼は南ア総領事館へ行き即時釈放を要求
3月 ミュージカル『サラフィナ』東京公演(3月10〜19日)
3月 南ア紙にアパルトヘイト完全廃棄の意見広告
5月 南アのスクォッターキャンプ「ウィラーズ・ファーム」の学校建設基金カンパの開始(2年間で300万円ほど集まる)
6月 「反アパルトヘイト・ウィーク」(コンサート、チャリティ・ウォーク、天皇即位10万円金貨反対キャンペーン、徐勝釈放集会など)
7月 「マンデラ・バースデー・コンサート」(主催:マンデラ歓迎日本委員会)
9月 「マンデラ歓迎集会」「マンデラ歓迎シンポ」などが労組、法律家協会、市民グループ、歓迎実行委員会などの主催で全国各地で開かれる10月27日〜11月1日 マンデラらANC 代表団が政府招待で来日
10月28日 「ネルソン・マンデラ歓迎集会」(マンデラがスピーチ。大阪・扇町公園)。東京では日本大学文理学部講堂で歓迎ライブ
10月29日 「ネルソン・マンデラ歓迎集会」(マンデラがスピーチ。東京日比谷野外音楽堂)。マンデラは国会でも演説
■第6期 マンデラの離日からマンデラ大統領のもとでの新国家成立まで
1991年
1月 集会「なぜ、まだアパルトヘイトなのか」
6月 経団連に対して「経済制裁早期解除反対」行動
9月 行動委員会制作の絵葉書の1枚「ナイロビの売春婦」をめぐる論争が『あんちアパルトヘイトニュースレター』紙上で始まる9 〜10月 JAAC の招待でジョハネスバーグ・ソウェトからエリック・ンゲレザ、ノマテンバ・ンゲレザ夫妻が来日。東京・北海道・広島・名古屋で交流
11月 「国連アパルトヘイト特別委員会とNGO の協議」(ジュネーヴ)に参加
1992年
1月 外務省前で「対南ア早期外交関係再開は時期尚早」を訴える
3月 集会「南アの現状と新憲法」(主催:アムネスティ)
3月 日本国際ボランティアセンター(JVC)主催の帰国報告会「南ア草の根の動きー女性・スラム・農村」
6月 「南ア大統領デクラーク来日緊急シンポ」( 初めて財界代表、ジャーナリスト、開発・援助NGO、反アパルトヘイトグループが同席して討論)
7月 「南アの政治的暴力に関する国際公聴会」(ロンドン)に参加
9月 セミナー「南ア・暴力事件の背景」(行動委員会とNCC の共催)
10月 「グショナ・ショーペを囲む夕べ」(行動委員会とJVC の共催)
10月 14回目のJAAC 全国合宿(全国合宿はこれが最後となる)
11月 「私が変わる・村が変わる」(講演:ノグゾラ・マギダ。主催:JVC)
1993年
7〜9月 南アの写真家ヴィクター・マトムが来日。全国各地で写真展と交流(主催:写真展「南
アの人々」実行委員会)
9月 「日本と南アの今後を考える市民の会」(川崎市平和館、マトム写真展実行委員会、黒人教育を支える会などの主催)10月 行動委員会の事務所閉鎖(JAAC、ニュースレター発行所、南ア問題研究所はそれぞれ別のところに移転)
1994年
2月 「反アパルトヘイト国際会議」(ブリュッセル)に参加
3月 松島多恵子・南ア特派員を支える会発足(1995年2月まで)
4月 パネル・ディスカッション「今、南アの選挙と私たち〜草の根の声を求めて」(日本カトリック会館)
6月 シンポジウム「新生南アの現状と女性たち」(佐保美恵子、勝俣誠らが講演。マトム写真展神奈川実行委員会とJVC の共催)
7月 講演会「激動の南ア」(JVC、マトム写真展実行委員会)
10月 AJF 主催シンポジウム「新生南アと私たち」(2部構成で、NGO、外務省、南部アフリカ貿易懇話会、南アからの研修生、国会議員、アフリカ研究者らが参加)
1995年
4月 「民主南アの展望」(主催:写真展「南アの人々」連絡会)
6 月 「南アのために世界が祈る日ー草の根の新たな連帯を求めて」(主催:NCC)
7〜8月 マシイレ中等学校合唱団来日(主催:ましいれプロジェクト実行委員会)
11月 『あんちアパルトヘイトニュースレター』最終号(No.85)