南アフリカ共和国元大統領ネルソン・マンデラ氏の死を悼む

Mourn the death of Nelson Mandela

『アフリカNOW』100号(2014年2月28日発行)掲載

※2013年12月6日に発表したプレスリリースを収録したものです。

アフリカにかかわる日本のNGO・市民社会のネットワーク、NPO 法人アフリカ日本協議会は、本日アフリカ共和国政府が発表した、ネルソン・マンデラ・南アフリカ共和国元大統領の逝去にあたり、以下のプレスリリースを発表いたします。

NPO 法人 アフリカ日本協議会 
代表理事 林 達雄、理事一同


ネルソン・マンデラ氏の死を悼む

南アフリカ共和国の元大統領、ネルソン・マンデラ氏が12月5日、長い闘病の末に亡くなった。アパルトヘイトの人権侵害と闘い、そして民主化後の南アフリカの人種融和と国民統合に人生を捧げたマンデラ氏を喪ったことは、南アフリカ社会、そして世界にとって、大きな損失であり悲しみである。しかし、その悲しみを乗り越え、平和を希求し、差別や貧困をなくそうと尽力したマンデラ氏の精神と行動を、私たち一人ひとりが引き継いでいくことが大切であろう。

 

アパルトヘイト(人種隔離政策)との闘いと「虹の国」づくりにささげたその生涯

マンデラ氏は、現在の南アフリカ共和国東ケープ州に1918年に生まれ、1940年代に「アフリカ民族会議」(ANC、現与党)の青年同盟の創設にかかわり、本格的な政治活動を開始した。1948年に国民党政権が成立し、アパルトヘイト体制による人種差別政策が強化されるなかで、マンデラ氏は不服従運動などの大衆的な抵抗運動を指導した。また、インド人、カラード、白人の団体にも参加を呼びかけて、1955年に人民会議の開催を実現した。人民会議で採択された「自由憲章」は、「南アフリカは、黒人、白人を問わず、そこに住むすべての人々ものである」と謳い、その後の反アパルトヘイト闘争の指針となった。

政治活動のため、マンデラ氏はたびたび逮捕された。1956〜61年の反逆罪裁判では無罪となったが、1963〜64年のリヴォニア裁判では終身刑が下され、その後1990年までの27年間を獄中で過ごした。晩年のマンデラ氏を苦しめた肺の感染症は、獄中の過酷な環境のなかで肺にダメージを受けたためと伝えられている。

1990年、当時のデクラーク大統領がマンデラ氏を釈放し、ANC をはじめとする反アパルトヘイト運動組織の非合法化措置を解除したことを契機に、南アフリカはアパルトヘイト体制の撤廃、民主化にむけて動き出した。マンデラ氏は、一人一票の平等な参政権の実現という原則については譲らなかったものの、少数派政党に連立政権への参画機会を与える国民統合政府(GNU)制度の導入をはじめとする現実的な妥協策を編み出すことで、困難な交渉を合意に導いた。アパルトヘイトをめぐる争いは、解決不能の、泥沼の人種対立とも見られていたなかで、話し合いによるアパルトヘイト体制の撤廃、民主化が実現したことは、世界中から「奇跡」と称えられた。この「奇跡」は、マンデラ氏という稀有な包容力、忍耐力、人間性をもった指導者の存在なしには起こりえなかったであろう。民主化交渉の最中の1993年に、マンデラ氏は、当時のデクラーク大統領とともにノーベル平和賞を受賞した。

ANC は1994年4 月の歴史的総選挙において大勝し、翌5月にマンデラ氏は南アフリカで初の黒人大統領に就任した。大統領就任演説において用いられた「虹の国」というフレーズは有名である。肌の色を問わず、誰もが人間としての尊厳を保障され、平和に共存する「虹の国」、それがマンデラ氏の目指した南アフリカであった。

1994〜99 年の大統領在任中、マンデラ氏の最大の関心事は、アパルトヘイト体制下で分断されていた黒人と白人を一つの国民(ネイション)にまとめあげること、すなわち国民統合であった。マンデラ氏は、新たに市民権を獲得した黒人層に対しては、「復興開発計画」(RDP)を示して、よりよい暮らしの実現(住宅供給、水・電気の普及、教育・保健サービスへのアクセス、土地改革、雇用創出など)を約束する一方、映画「インビクタス」に描かれているように、体制転換によって特権を手放すことになる白人の不安感情を理解し、その対応に腐心した。また、ツツ大主教を委員長とする真実和解委員会を設置し、アパルトヘイト体制下の政治的な人権侵害(拷問、暗殺等)について、「真実」の告白と引き換えに加害者を免責することを通じて、歴史を闇に葬ることなく、報復の連鎖を断ち切った。

 

貧困とエイズ、グローバルな課題への取り組みに大きな影響力を発揮

マンデラ氏は、1999年に大統領を退任し、公的な役職から外れたあとも、さまざまな社会活動を行ってきた。とくに、HIV/AIDS に関する問題には、ロベン島への服役時(1964〜82年)の囚人番号にちなんだ「46664」キャンペーンを立ち上げるなど熱心に取り組んだ。HIV/AIDS について語ることがタブー視される文化があるなかで、マンデラ氏が親族のエイズによる死を公表し、HIV/AIDS の問題に正面から向き合い、対策を強化する必要性を訴えたことは、南アフリカ、さらには途上国世界におけるHIV/AIDS 対策を前進させる大きな推進力となった。マンデラ氏はまた、グローバルな貧困問題に強いメッセージを発して世界の共感を呼ぶと同時に、「ネルソン・マンデラ子ども基金」「マンデラ財団」を通して、南アフリカ共和国の子どもや若者への教育支援にも力を入れた。マンデラ氏自身、子ども基金で支援する子供たちと自分の誕生日を過ごすことを、何よりの楽しみとしていた。

南アフリカと同時期に民主化が起きたアフリカ諸国のうち少なからぬ国々で、選挙後に暴力的な紛争が勃発し、内戦状態に陥ったのに対して、南アフリカでは、新たな体制を揺るがすような事態は起きなかった。選挙後の内戦の恐れも現実的にあったなかで、南アフリカの体制移行は、きわめてよく舵取りされたといえよう。ただし、マンデラ政権のもとで成功裏に完了した政治体制の移行に対して、経済的、社会的な変革についての成果は限定的なものにとどまり、マンデラ大統領退任後の課題として引き継がれた。「黒人の経済力強化」(BEE)政策のもと、黒人富裕層・中間層が拡大する一方で、貧困層は取り残され、南アフリカ国内の所得格差は、アパルトヘイト時代よりもむしろ拡大している。貧困層の不満は、しばしばスケープゴートとしてのアフリカ諸国出身移民に暴力的な形で向かっている。また、黒人にも白人にも「マディバ」と親しまれ、愛されたマンデラ氏以降、人種の壁を越えて広い支持を得ることのできる政治家は現れておらず、政治的論戦において人種カードが切られることも増えている。マンデラ氏が目指した「虹の国」の理想に反して、残念ながら近年の南アフリカ社会は、再び人種や国籍、階層による亀裂を深めているように思われる。

マンデラ氏の死と追悼は、分断された人々を一時的に一つにするかもしれない。しかしその後が正念場だ。マンデラ氏の遺志をくみ、亀裂を癒すための努力を再開するのか、それとも、マンデラ氏の遺産によってぎりぎり繋ぎ止められていた社会が分解してしまうのか。その選択は、残された人びとと、南アフリカを見守る私たちの志にかかっている。


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