わたしのお話~HIV/AIDSと向き合うこと

My Story:Coping with HIV/AIDS

AJFは、季刊の会報「アフリカNOW」を発行しています。AJFの活動紹介にとどまらず、アフリカに関する最新情報を伝える、日本で出会えるアフリカを紹介する内容の記事を掲載しています。

【アフリカNOW No.63(2003年発行)掲載】

執筆:アスンタ・ワグラ

KENWA(ケニア・エイズとともに生きる女性たちのネットワーク)執行責任者。1965年生まれ。1988年にHIV感染が判明した。その後、ナイロビのスラム街を中心に、エイズとともに生きる女性たちのサポートグループを組織している。学校におけるエイズ予防啓発なども実践し、現在はケニア国家エイズ委員会委員をつとめている。2000年には、ケニア大戦士勲章を受章。昨年11月に、「地球規模のエイズ問題について考える10日間」のゲストスピーカーとして来日した。


HIV感染とともに生きてきた私の経験を、このように皆さんと共有する機会を与えられたことに大変感謝しています。私は、私の痛みを理解し、それを共有しようとしてくれる人たちを探しにきました。私には、勇気にあふれた、模範となるような人たちが必要です。変化というものはなかなか到来しませんが、それを待っている間に、私が意欲を失ってしまわないように。自分ではそれ以上持ちこたえられないときに支えてくれる人、もう力が残っていないときに、直面する問題と戦う気力を奮い起こさせてくれる人たちが必要です。理解し、配慮し、忘れないという人たちです。私のHIV感染の経験を話すように頼まれるたびに、私はいつも疑問に思います。それは、他の人たちが信じようとしないからなのか、それとも、私が語るべき話というものを持っているからなのか。私は、自分がみんなと共有する話を持っているからなのだと信じています。私の人生で最も辛かった日は、「アスンタ、気の毒だけれど、あなたはエイズにかかっています」と自分の耳で聞いたときでした。12年も前のことですが、この声はまだ昨日のことのように耳の中に残っています。その瞬間のことを思い出してみると、私はその病気で死ぬこと自体には恐怖感は持ちませんでした。しかし、(感染しているという)真実とともに生き続けることが怖かったのです。そのため、その瞬間、私は気を失いそうになりました。苦い真実と現実を受け入れるのにはそれから数ヶ月かかりました。「こんなことありえない!これはうそに決まってる!こんなこと私に起こるはずがない!」と自分に言い聞かせました。何度もこれが夢だったらと願いました。私たちはしばしば、短い人生を嘆くことがありますが、HIVとともに生きていると、人生において悲しんでいる時間が増えることになります。HIVに感染している人々のほとんどは、感染していても健康なまま暮らしていて、次に何が起こるのか不安を感じたり、子どもたちにどんな約束をしてあげられるのか確証がなかったり、いつ死を告げる鐘が突然近くで鳴るのか心配しながら生きています。私たちはこうした悲嘆から立ち直ったわけではありませんが、なんとか、その悲しみと共に生きながらえています。それが(HIVに感染している)200万人のケニア人がその影響の下で生きている、むきだしの真実なのです。

惨めで暗い3年間、私は様々な苦悩に直面しました。最初に、私は衝撃の中にあり、それから怒りにとりつかれました。怒りは高まって悲嘆になり、悲嘆は深い悲しみになり、深い悲しみは悟りと受容につながりました。そして、私は行動すること、つまり身体だけでなく家族や友人までも蝕んでいくHIV/AIDSに対する活動をすることを決心したのです。私はいったん自分が真実を受け入れると、みんなも同じように真実を受け入れることを期待しました。私は間違っていました、完全に間違っていたのです。かわりに、私は拒絶や孤立、怒り、屈辱を受けました。私が経験するのと同じ段階を、私を愛してくれた人々もすべて経験するのだという真実に立ち向かう準備が私には全くできていませんでした。しかし、私はこのことによって立ち止まることはありませんでした。私にはやるべき義務、この恐ろしいエイズウイルスにまだ感染していないケニア人たち、そして世界中の人たちに話すべき義務があるのです。このウイルスとの戦いへの努力の中で、私はいってみれば “宣教”といったものを開始しました。共感、尊厳、勇気、リスクへの気づき、HIV/AIDSに感染した人々の中での連帯の必要性、そして希望に向けた約束。こうしながら私は、この病気はどんな人間でも感染する可能性があるということ、そして感染した人たちが人間以下であるなんてことはありえないということを、他の人々に分かってほしかったのです。私が秘密を公表して、他の人たちにとっての「生きた実例」になろうとしているのは、こうしたことに気付いたことによるものです。だから私は、ごく普通の人間としてここにいます……いまや最も一般的に存在するウイルスの一つとなりつつある病原体とともに。私は自分を惨めだと思うのはやめました。私は今、積極的に生き、考え、さらには活動することも身につけつつあります。私は隠れ家を飛び出し、私は被害者ではなくむしろメッセンジャーであるのだと世界に対して言うことができる舞台を見つけました。希望のメッセンジャーです。あなたの求めるのは、あわれみでも思いやりでもなく、私を人として、母として認めること、私にはまだ価値があるということだけです。私はまだ、一つの問題として存在しています。私を数字や統計ではなく、この闘争における対等なパートナーとして認識してください。そうです、私が致死のウイルスをもっているというのは真実ですし、自分が最悪の状況におかれているということも知っています。しかし私は一つの事例でも、数字でもありません。私はウイルスによって死んでいくことに焦点を当てるのではなく、ウイルスと共に生きていくことに集中します。時々私を“エイズの犠牲者”(AIDS victim)という説明する人たちがいますが、私はその言葉を嫌悪します。他の人がどんな風に私のことを言っていても、私は自分を犠牲者だと思う必要はないのです。犠牲者は弱くて力がありません。犠牲者は受け身です。犠牲者には、もはや責任を負う必要はありません。私は犠牲者ではありません。私は力に満ちています。それは変化をもたらすための力です。私は私と同じようにHIVに感染した人たちと結びついて、私たちの生活を変えていきます。私は私自身の権利や好みを求めて活動していくことが、まだできます。私は、自分の生活に責任を持ち、自分の子どもの世話もしているので、私は私自身のままであり、責任があります。ウイルスは私の免疫力を弱めただけで、私の人間性は弱めていません。私は、そんな状況が起こることは絶対に許しません。

私がここに来たのはあなたがたを意気消沈させるためでも、寛恕を与えるためでもありません。HIV陽性だけれどもそれを言うことができない人、愛する人を失ったけれどそれがエイズの結果だとみとめることができない人。あなたはエイズという言葉をつぶやくこともできない状態にあります。あなたは静かに涙を流し、ひとり悲嘆に暮れるのです。私を信じてください。あなたは責められるべきではないのです。恥じる必要はないのです。責任があるのは私たち、つまり無知や偏見を我慢している私たち、あなたに恐れることを教えた私たちなのです。私たちは沈黙の幕を開けなければなりません。今、私たちは、安心して共感にたどりつくことができるように、沈黙を破らなければいけません。沈黙の拒絶ではなく、効果的な行動によって、子どもたちを守っていくための方法を見いだすのが、私たちの課題なのです。私たちは今、私たちの子どもたち、私たちの国、そして世界全体を救うために、この沈黙を破らなければいけません。私たちは今勇気を出さなければいけません。その原因が、あまり知られておらず、誤解されやすい状況にあるときに、一歩前に進むには勇気を出さなければいけないことを、私は知っています。私を信じてください。私は知っています。私自身が勇気を見つけだすために闘ったり、他の人がそうしているのを見てきたりしたので、知っています。しかし、勇気がなければそこには共感もありません。勇気によって、私たちは他の人々を自分たちの上に置くことができ、共感は動機付けを生み出します。共感を持って信じてください、私たちは友人たちに病気を感染させることはないだろうということ、私たちは、苦痛の中にある人々をいやすことができる、私たちの力をもって、苦しみを押さえるということができるということ。私たちは不公正、差別、孤立に反対することができます。私たちは苦しみの中にあり、原因を防ごうとする人々を抱擁することができます。私がここで述べた思いやりとは、パスファインダー・インターナショナル(米国の国際協力NGO)から私たちが受けたのと同じようなものです。共感は言葉を超えます。共感は具体的な活動なのです。私は、ケアや治療に専心してきたあなたたちに、あなたの献身の重要性を知ってもらいたいのです。HIV/AIDSの全ての分野にあなたは責任を持てないでしょう。また、全てが私たちを支援してくれるわけではないでしょう。しかし、重要なのは、私たちが機敏に活動し、自ら引き受けたことについて最善を尽くすことなのです。そして、あなたが誰であっても、男性でも女性でも、エイズの蔓延を止めるために最善を尽くしてください。

もし時間があるなら、惜しみなく提供してください。
もし科学や管理の才能があるのなら、それを作業に反映させてください。
もし教えることができるなら、理解することを教えてください。
もし書くことができるなら、公正について書いてください。
もし歌うことができるなら、希望の歌を歌ってください。
もし詩を作ったり手紙を書いたりできるなら、書いてください。
もし祈ることができるなら、世界のために祈ってください。
できるなら行進してください。
できるなら癒してください。

何をするにしても、決してあきらめないでください。もしこの病気の苦悩を知っているなら、あなたができるのは悲しみに明け暮れることばかりでしょう。人前にたって、誰かが理由を問うまで涙を流し、彼もしくは彼女に、私を悲しませているのはエイズなのだと伝えてください。私があなたを必要とするときはそばにいて、抱きしめて自信を与えてください。私たちが政治的な合意に欠けているのは真実であり、十分な資金源がないのも真実ですが、とりわけ私たちに足りないのは、純粋な共感です。私たちは、歴史がしばしば私たちに教えてくれるように、共感は目に見えず、希望は色あせるということ、希望は色あせ怒りは高まっていくということを学ばなければいけません。私たちは共感のある生活を作り出す必要があります。私たちがもし共感を維持し続けていたならば、希望を失って怒りや疲れを増大させて異議を申し立てる人々のかん高い声が聞こえたら、私たちは彼らの希望を奪い去った無関心の10年間を思い起こすでしょう。私たちは怒りや拒絶ではなく、知恵によって応答します。私たちは、理解する、というでしょう。たくさんの友達を埋葬し、多くの愛する人を失い、多くの弁解を聞いた人の激しい怒りを見たとき、私たちは彼らが十分に苦しんできたことを知るでしょう。あまりにも容易に、あまりにも寡黙に、あまりにも長く受け入れてきたことがらに対して抗議する人々を、私たちは歓迎します。最も手強く致死的なウイルスであっても、これ以上ウイルスを広めないために活動する、エイズとともに生きる人々の勇気と共感、善意によって身を固めた私たちを打ちのめすことはできません。私たちは希望を保ち続けます。もし回復できないとしても、私たちの癒しの力で苦しみを抑えることはできます。私たちは不公正に反対し、共感を促すことができます、私たちは、苦しんでいる人々、苦しみの原因から自分達を防衛しようとしている人々を抱擁することができます。

エイズはパニックでなく緊急性を必要とする。
エイズは非難ではなく共感を必要とする。
エイズは無知ではなく、理解を必要とする。
私たちに思いやりを。
私たちに生きる希望を。
私たちに回復する希望を。
私たちに公正と公平への希望を。

そして、私はあなたたちにとって価値があることを祈ってあなた方の中に参加します。 ひとりのHIV陽性の人の声が違いを生み出せるときがくるならば、私は幸せです。それをすることができるのが私であればなおさら。 私は自分の人生を延長することも救うこともできませんが、自分の人生を実り多いものにすることはできるのです。


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