Introduction of modern Swahili novel “Kichwamaji”
『アフリカNOW』106号(2016年10月30日発行)掲載
執筆:小野田 風子
おのだ ふうこ 大阪府立千里高等学校卒業。大阪大学外国語学部スワヒリ語専攻卒業。大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻博士前期課程卒業。現在は同専攻博士後期課程に在籍。研究対象はスワヒリ語の小説、詩。学部時代にタンザニアのスワヒリ語作家ユーフレイズ・ケジラハビの小説に魅了され、大学院でもケジラハビの小説と詩を中心に研究を行っている。また、スワヒリ歌謡「ターラブ」の歌詞など、スワヒリ語による多様な表現に関心を持っている。
スワヒリ文学とは
スワヒリ文学とは、スワヒリ語を公用語とする東アフリカのタンザニアとケニアで出版され読まれる文学のことである。その歴史は古く、西洋による植民地期以前はインド洋貿易の影響でアラビア文字を使って書かれていたが、植民地化の結果、ローマ字による書記法が広く普及した。1960年代に東アフリカ諸国が独立すると、公用語となったスワヒリ語による文学の発展が国家規模で目指され、現在に至るまで多数の作品が生み出されてきた。
スワヒリ語作家ケジラハビ
筆者はこれまで、小説家であり詩人のユーフレイズ・ケジラハビ(Euphrase Kezilahabi)を中心に研究を行ってきた。ケジラハビは1944年にイギリス領タンガニーカのヴィクトリア湖に浮かぶウケレウェ島で生まれ、20歳のときにタンザニアの独立を経験する。彼が小説を書き始めた1970年代は、タンザニアが社会主義を国家政策として掲げ、理想の国家建設に突き進んでいる時期だった。その政策が頓挫する1980年代までは、スワヒリ文学は愛国主義や反植民地主義といったイデオロギーを訴える一つの方法であった。そのようなテーマの作品が多く書かれた1970年代に、ケジラハビは主人公が最後に自殺する悲劇的な小説を2作続けて書いている。これら異色の2作は、その悲観主義とイデオロギーの欠如が独立後の国家にそぐわないとして批判の的になった。これに対しケジラハビは以下のように反論している。「明確な政治的主張をもつ作品の内容は、常に何らかのイデオロギーに一致するよう定められている。あたかも絶対的な明確さこそが良い芸術の基準であるかのように。しかし文学が『人生』そのものである限り、そこには絶対的な明確さというものはありえない。(略)ぼんやりしたものこそが、人生の輪郭を追い求める価値のあるものにするのである」(1)。実際に彼の作品は、明確なメッセージを期待しながら読むと、足元をすくわれるものとなっている。
“Kichwamaji”(うぬぼれ屋)
1970年代に書かれた異色の作品のうち一つが、今回紹介する”Kichwamaji”(うぬぼれ屋)(2)である。本作では、タンザニアの田舎の村出身のエリートである男性カジモト(Kazimoto)が大学を卒業後、教職に就き、結婚したのち、女遊びが原因で性病に感染し、人生に絶望して自殺するまでの過程が描かれる。また、彼の周辺人物にもそれぞれ不幸が降りかかる。例えば妹のルキアは、幼なじみのマナセによって妊娠させられ、流産のために死んでしまい、また母親も悲しみのあまり娘の後を追う。さらにそのマナセは名門大学を卒業後、地方長官となってぜいたくな暮らしを満喫するが、女癖の悪さから性病に感染し、妻と子にも感染させてしまい、最後には死を意識する。またカジモトの妻のサビナも、カジモトに性病をうつされ、流産してしまうのだ。
本作の原題である”kichwamaji” は「水頭症」と「バカ」という二つの意味をもつ。実際に作中には、性病に感染した子の頭が異常に大きいという描写がある。しかしこの語は作中では罵倒語として使用され、さらに罵倒されるのはカジモトであるため、筆者は「うぬぼれで頭が膨れた人」という意味を重視し、タイトルを「うぬぼれ屋」と日本語訳してきた。
性病について
本作を悲劇と化すための装置である「性病」というモチーフには、女癖の悪い男たちを破滅へと追いやる罰という教訓的な役割が付与されていると考えられる。しかし当然ながら、この性病とは何かという疑問が生まれてくる。作中では病名は明らかにされないが、著しくやせる、血液の中に入る、潜伏期間が14年以上であるなどの特徴からすぐに思い浮かぶのはエイズであろう。しかしエイズが公的に認知されたのは1981年、アメリカにおいてであり、本作の発表よりも後である。
もう一つの手がかりは前述の水頭症である。感染した子に先天性の水頭症を引き起こす性病には、梅毒がある。サブサハラアフリカでは、死産の原因の約1/3が梅毒に関係しているという。しかし梅毒の潜伏期間は約3週間と短く、作中では長さが強調されていることは無視できない。
ここでエイズについてもう一度考えてみたい。エイズの起源はアフリカ中央部とされ、本作の舞台であるヴィクトリア湖周辺でも、公的な報告以前からHIV 感染が起きていたとみられている。1970年代の作品に「数年後エイズと名付けられる病」が描かれていてもおかしくはないのである。よって作者は、同じ性病である梅毒とエイズとを混同したのではないだろうか。真相を知るすべはないが、もしこの推測が正しければ、本作はエイズが報告される前にエイズを描いた作品となる。このことは、西洋諸国で感染者が出るまでは病気への注目が集まりにくいというこの世界の構造をも示唆するだろう(3)。
自伝性と自嘲性
本作は登場人物のほとんどが最後に破滅を迎える悲劇的な小説ではあるが、笑いの要素も見出すことができる。その要素はひとえに主人公であり語り手のカジモトの人物造形にある。タンザニアの名門ダルエスサラーム大学に通うカジモトは、エリートとしての自意識を過剰にもつ人物である。カジモトの語りからは、彼が故郷の無知な村人たちの間で味わう疎外感が強調される。しかし彼の実際の行動からは、彼が村人たちと親密に交わっていることが明らかである。カジモトはうぬぼれのために事実を歪曲して語る人物なのである。カジモトのような語り手を、現代小説理論では「信頼できない語り手」と呼ぶ。ケジラハビは文学理論に意識的な作家であり、ここでも語り手の設定に工夫を凝らしている(4 )。
作中には、カジモトが村人からの学術的な質問に答えられず、尊敬を集めることに失敗する場面もみられる。特別扱いを受けられずいらだつ彼の姿はこっけいだ。このようなカジモトのこっけいさが最も際立つのは、女性の前である。女好きのカジモトは、女性に対して優位を見せつけようとするたびにヘマをする。彼のヘマの中には、ズボンのチャックが開いていた…というような卑近なものも多い。
しかし本作のおもしろさは、カジモトが作者と重ねられる点にある。本作はスワヒリ文学研究者から「自伝的小説」であると指摘されてきた。この小説の舞台が作者の故郷ウケレウェであることに加え、主人公のカジモトは作者と同じ世代で、同じ大学出身であることが理由である。さらに、当時ケジラハビは伝統的なスワヒリ定型詩の権威に対抗し、スワヒリ語による自由詩を初めて書いたことで有名であったが、作中にはカジモトが下手な自由詩を作り、妻に一蹴されるという場面まである。つまり作者がカジモトを笑いの対象とし、破滅させるとき、彼への非難はすべて作者自身へと跳ね返り、自嘲となるのである。
『うぬぼれ屋』の中に含まれる信頼性の欠如、自伝性、自嘲性は、ケジラハビの他の小説や詩にも見られ、彼の作品を特徴づける魅力となっている。今後もケジラハビをはじめ他のスワヒリ語作家の研究に励むとともに、翻訳にも挑戦していきたい。
(1)Xabier, Garnier (2015)The Swahili Novel: Challenging the Idea of ‘Minor Literature’ James Currey. より引用。
(2)Kezilahabi, Euphrase (2008) Kichwamaji. Vide-Muwa Publishers Limited. 初版は1974年.
(3)原題であるkichwamaji の意味と性病のモチーフについては、小野田風子(2015)「語り手としてのカジモト像-E・ケジラハビKichwamaji の主人公カジモトをとらえなおすー」『スワヒリ&アフリカ研究No. 26』大阪大学大学院言語文化研究科スワヒリ語・アフリカ地域文化研究, 1-19.において詳しく論じた。
(4)カジモトを「信頼できない語り手」としてとらえる読みについては、小野田風子(2016)「スワヒリ現代小説『うぬぼれ屋』Kichwamaji における「信頼できない語り手」カジモト」『アフリカ研究 No. 89』日本アフリカ学, 29-35. に発表した。