ろう者たちの「王国」史を追いかけて

『アフリカNOW』 No.76(2007年3月25日発行)掲載

亀井伸孝
かめいのぶたか:関西学院大学社会学研究科COE特任助教授。理学博士。専門は人類学・アフリカ研究。1996年からカメルーンを中心とした西・中部アフリカ諸国でフィールドワークを行い、ろう者と手話の文化人類学的研究や、熱帯雨林の狩猟採集民の子どもたちに関する研究などにたずさわってきた。主な著書に『手話でいこう: ろう者の言い分 聴者のホンネ』(2004年、ミネルヴァ書房)、主な論文に「アフリカの手話言語」(『アフリカ研究』64号、2004年)など。


はじめに

アフリカのろう者(手話を話す耳が聞こえない人たち)と聞いて、読者のみなさんはどのようなことを連想されるだろうか。

私が「アフリカのろう者と手話の調査をしています」と言うと、周囲の反応は大きく二つに分かれるように感じている。一つは「低開発アフリカの障害者ですか。さぞかし大変でしょうね」というもので、たとえば貧困や疾病の問題などに関心をもつ方がたの中に見受けられる。もう一つは「アフリカには未発見の手話があるのでは? あるいは村むらに独自の身振りの文化があるのでは?」というもので、アフリカの言語や文化に関心をもつ方がたに見られるようだ。

私はこれまでおよそ10年にわたり、西・中部アフリカ諸国でろう者と手話の調査をしてきたが、諸都市で出会ってきたろう者の姿は、そのどちらのイメージとも大きくずれている気がしていた。国際的な教育事業を自ら運営し、手話で教える学校や教会を数多く設立し、その歴史をおごそかな手話で語ってくれる高齢のろう者たちに出会うたびに、私はその威厳ある姿に圧倒されるような思いがした。この人たちの言語、文化、歴史の存在を、耳が聞こえる人たちにも正しく紹介したいという思いがつのっていた。

このたび、日本学術振興会科学研究費補助金(研究成果公開促進費[学術図書「文化人類学」分野])を受け、その成果を著書として世に問うことができた機会に、アフリカのろう者たちとの出会いの経緯をご紹介し、これからの私たちの関わり方についても考えてみたい。

ろう者と手話の世界へ

「耳が聞こえない人たちが手話を話している」ということはよく知られている。しかし、手話がろう者たちの間で自然に生み出され、ろう者の世代間で伝承されている自然言語であるということは、一般的には十分に理解されてこなかった。手話が身振りではなく固有の文法をそなえた言語であること、世界には100種類をこえる異なる手話言語が分布しており、各地のろう者たちの間で話されていること、それらが音声言語と関わりのない言語分布を示していることなどが、言語学的な調査の中で明らかになってきた。

手話を学んでいない立場から見れば、ろう者たちは手を使って身振りのような簡単なコミュニケーションをしているな、というくらいに見えるかもしれない。しかし、一度手話を勉強してみれば、その言語世界の難解さ、複雑さ、奥深さに圧倒されてしまう。異文化の中で生活やフィールドワークをした人なら、だれでも次のような経験をすることがあるだろう。仲間に入れてもらう前はちんぷんかんぷん、でもそのことばの世界に一歩足を踏み入れてみたら、想像もしていなかったホンネの世界ががぜん見えてきた…。耳が聞こえる私にとって、ろう者たちの手話の集まりに入るというのは、まさにそういう経験だった。

私はアフリカに行く前から、日本で日本手話(1)の勉強をしていた。ろう者の世界について学ぶには、自ら体当たりでその土地の手話を身につけ、手話を通していろいろと話をうかがうのが一番よいということをあるていどは知っていた。先行研究が乏しいアフリカにも、各地に豊かな特色をもった手話言語が分布しているにちがいない…。そんな思いから、カメルーンに滞在した折に首都ヤウンデ(フランス語圏)(2)のろう学校を訪れ、ろう者たちと会い始めた。1997年のことであった。

すべてはカメルーンで始まった

カメルーンのろう者たちからまず教わったことは、「ヤウンデのろう学校ではフランス手話で教えている」(3)ということだった。また「カメルーンの英語圏(旧イギリス植民地)のろう学校では、アメリカ手話で教えている」(4)ということも知った。なるほど、音声言語の世界でアフリカに英語やフランス語がもたらされたのと同じように、手話の世界でも植民地主義的な言語の強制があったわけか。そんなふうに事態をとらえた私は、「カメルーンのろう教育は、アメリカ手話とフランス手話の二つの外来手話言語によって分断されている。これは一種の植民地主義である」という趣旨の論文を書いた(5)。

ところが、私のこの素朴な認識を大きく裏切るような事実が、次第に明らかになってきたのである。まず、植民地統治期にカメルーンにはろう学校が一校もなく、外来手話の伝播はヨーロッパによる分割・統治とは直接関係がなかった。また、カメルーンにアメリカ手話をもたらした人物は、現地のろう者たちの絶大な尊敬を集めていることがわかった。批判どころではなく、その人に育ててもらったからこそ今の私たちがあるのだというふうに、ろう者たちの価値観と歴史観の中で肯定的に位置づけられていた。さらにそれはカメルーンだけの話でなく、ナイジェリア、ベナン、ガーナなど、アフリカ諸国を広くおおった巨大な国際的教育事業の一端を見ているだけにすぎないということもわかった。

背景にあるこのような歴史や価値観を知らず、「アフリカへのアメリカ手話の伝播」という現象だけをとらえて植民地主義と言ってしまった私は、そのことを非常に後悔した。そしてゼロからアフリカろう者たちの歴史を学び直すべく、フィールドワークを始めた。こうして、西・中部アフリカ諸国に広くろう教育事業を普及させたアフリカ系アメリカ人ろう者であるアンドリュー・フォスター博士(1925~1987)とその弟子たちの足跡を訪ねる旅が始まった。それは、事情も知らないままに彼ら/彼女らの営みを「植民地主義」と決めつけてしまった若輩者による、一種の「贖罪の旅」でもあった。

5ヵ国での手話での調査

フォスターはアメリカで大学院を終えた後、1957年に初めて西アフリカを訪れ、同年、ガーナ独立の年にアクラに西アフリカで最初のろう学校を設立した。以後、西・中部アフリカ13カ国でろう教育事業を展開し、「アフリカろう教育の父」と呼ばれている。彼はナイジェリアのイバダンに「ろう者のためのキリスト教センター」を設置し、アフリカ諸国の若いろう者たちを集めた教員研修を開催、各地のろう教育のための人材育成にも寄与した。

この事業の概要を学びたいと思った私は、フォスターと弟子たちの活動が盛んであったと考えられる5カ国、カメルーン、ガボン、ベナン、ガーナ、ナイジェリアを訪れ、ろう者たちの手話言語、文化、歴史についての調査を進めた。

最初のきっかけはカメルーンだったため、まずカメルーンで現地の手話を頭にたたきこみ、その手話を調査の使用言語として、かつてフォスターの教え子であったろう学校教員やろう者団体役員などとのインタビューを進めていった。

ついで、ガボン、ベナンの二つのフランス語圏の国を訪れて同様の調査をしたが、これらの国ぐにではろう者たちの手話がカメルーン(フランス語圏)の手話ときわめてよく似ていた。ヤウンデで手話の特訓を受けた私がこれら近隣諸国を訪れたとき、ほとんど方言くらいの違いしかない手話言語が話されていたために、初対面のろう者たちの会話の中にすぐに入っていくことができた。

ガーナとナイジェリアは英語圏で、ろう者たちの手話にも英語からの影響が見られたが、もともとナイジェリアのイバダンという「手話言語の発信源」が共通しているためか、フランス語圏アフリカの手話とも共通語彙が多く、毎日ろう者たちと茶飲み話をしていればやがてなじんで、それぞれの国の手話でインタビューや研究発表ができるほどになった(6)。

隣村を訪れるような感覚

これらの国ぐにを訪れて驚くのは、手話の類似性だけではない。ろう者の世界では手話で話す者どうし、国境を越えて友人・知人のネットワークが広がっている。とくにこの5カ国では、同じイバダンのセンターでフォスターの弟子として教育を受けたろう者たちが、今では各地のろう者社会の「顔役」となって活躍し、学校の校長、ろう者の全国協会の幹部、キリスト教会の牧師などになっていることがある。

こうした旧知の縁もあって、「去年、○○国の〇〇さんに会いましたよ」「おお、知ってるぞ。彼の近況はね…」などと、その国を初めて訪れた私が、国境を越えて共通の知人を見つけるということも珍しくなかった。

こうして、ろう者伝いに紹介を受けることで、あたかも「隣村を訪れるような感覚で」、近隣諸国のろう者たちとコネクションをつくることができた。実際に行ってみれば手話は方言くらいの違いしかなく、あるていどろう者たちの歴史観をわきまえていれば話も弾む。最初にカメルーンでろう者たちの集まりに入った時のギャップと困難さに比べれば、後の調査ははるかに軽い労力で進めることができた。

この広域調査の中で、ろう者たちが自ら運営し、手話を使用言語とした世界最大級のろう教育事業──それを私は「ろう者たちが築いた手話の王国」と呼んでいる──の全容が姿を現したのだ。

在米アフリカ人ろう者たち

フォスターは、アフリカ系アメリカ人のろう者だった。アメリカでは人種差別を受けていたこともあり、それが後に彼がアフリカに活躍の場を見出すことにつながったのではと、私は考えている。彼の生い立ちを探るために、私はアメリカのギャローデット大学に客員研究員として滞在した。

ギャローデット大学は、アメリカのワシントンDCにあるろう者のための総合大学である。 140年もの歴史を持ち、アメリカのみならず世界中から耳の聞こえない学生たちを受け入れ、アメリカ手話を使用言語として研究・教育を行っている大学・大学院である。フォスターは、1950年代当時、白人ろう者が構成員のほとんどを占めていたこの大学を、黒人ろう者として初めて卒業した人物としても知られている。

私が研究のためにこの大学に滞在したときにもっともお世話になった大学の国際局長が、くしくもナイジェリア出身のろう者だった。弁護士の資格をもつ彼は、ナイジェリアのろう教育の発展がフォスターの功績によるものだと語り、私がフォスターとその後継者たちの事業の歴史を調査テーマとしていることを喜び、励ましてくれた。

さらに国際局長は、かつてフォスターの部下や教え子として関わりをもった在米アフリカ人ろう者たちを紹介してくれた。ナイジェリア、ガーナ、カメルーン出身で、かつてフォスターとともに働き、アフリカのろう教育の発展に寄与した人たちが、後日アメリカに留学し、今ではギャローデット大学教授になったり、アメリカ各地のろう教育を担う人材となったりしている。この現象は、一面では「手話の世界の頭脳流出」とも言えるが、一面ではアフリカろう者が高等教育に挑戦して社会的地位を得た成功譚だとも言えるだろう。

偉人伝からろう者群像へ

アフリカのろう教育事業は、「手話によって行われる教育」という共通点において、アメリカの高等教育ともつながっていた。耳が聞こえないろう者たちは一方的に支援を受けるだけの人びとではなく、教育や研究の場を創出し、手話という言語によってそれを担う主体であるということを、アフリカのろう者たちは実績とともに示してきた。

自身もろう者であるフォスターは、「ろう者は納税者になるべきである」という教育理念をもっていた。この理念に基づいた教育実践が、今日、アフリカ各国のろう者たちの活躍ぶりとしてのみならず、大西洋を越えたアメリカ社会の中でも実を結んでいる様子を見ることができる。

フォスターは航空機墜落事故によって世を去ったが、アメリカでは多くの伝記が書かれており、ろう者たちの間では著名な人物である。ただし、私はフォスター個人の伝記を書くことだけでは、満足することができなかった。なぜなら、この大事業はフォスター一人の手になるものではなかったからである。フォスターの理念に共鳴して事業に参画し、ろう者のための学校や教会の設立運動に取り組んでいった数多くのアフリカ人ろう者たちの姿があり、フォスター没後も各地でそれら事業を引き継いで奮闘を続ける弟子たちがいる。彼ら/彼女らの姿をも浮かび上がらせることで、「フォスターの偉人伝」にとどまらない「アフリカのろう者群像」を描いた書物にしたいと思った。その試みは成功しているだろうか。読者各位のご批判をまちたいと思う。

ろう者の文化理解と開発援助

この研究は、文化人類学的な参与観察調査を通して、これまで知られていなかったアフリカろう者の世界を浮かび上がせようとした。その意味で、これは通常の文化人類学的研究の一環として行われてきた。一方、私はこの一連の調査結果を、アフリカにおける開発援助に関心を寄せる人たちにもぜひ読んでいただきたいと思っている。なぜならば、アフリカのろう者に対する援助のあり方を考える上で、ろう者たちの歴史と価値観を学ぶことは避けて通れないからである。

アフリカで、ろう者たちの支持を受けていないタイプの支援が散見される。一つは、補聴器などの機器を贈るというケースである。耳の聞こえる支援者たちは「聞こえない人には、聴力を補う機器を与えるのがよい」と信じて疑わないことが多い。しかし、このような善意の思い込みが、えてして本人たちが望んでいない「音声言語世界への同化」を強要してしまうことがある。しかも補聴器は高価な割に、熱帯アフリカでは壊れて使えなくなることが多く、受け取った側でお蔵入りになっているケースもある。軽い難聴の人などに壊れにくい補聴器が渡ることは朗報となるかもしれないが、手話を第一言語として視覚文化の世界に生き、手話によって教育事業などの実績を積み上げてきたろう者たちにとっては、かすかな音が入るだけの壊れやすい機器よりも、手話で教えられる教員や手話通訳者を育成する事業の方が、はるかに効果的で有益な支援となるにちがいない。

もう一つは、現地のろう者が望まない外来手話を導入するケースである。フォスターらの事業はアフリカにアメリカ手話をもたらして教育で用いたが、それらは現地でピジン化し、アフリカの地域文化になじんだ手話言語となって、各地のろう者たちの間で世代間伝承されるようになった。その手話で教育を担える人材も育ち、ろう者たちのNGO活動などもその手話を使用言語としてさかんに行われている。この状況において、耳の聞こえる教育者たちが別の新しい外来手話言語(フランス手話など)を導入して学校で使い始めるというケースがあった。聞こえる人たちはよかれと思ってしているのだが、成人ろう者たちはこのことにはげしい不快感を示し、よい協力関係ができていない。手話を擁護したつもりの支援がこのような失敗をしてしまったのも、支援者が事前にろう者たちの歴史と価値観を十分に学んでいなかったからだと考えられる。

開発援助のプロセスにおいて、当該地域・集団の文化的背景を学び尊重することは、今やさほど珍しいことでもないだろう(7)。それは、手話を話すろう者たちにおいてもまったく同様である。「ろう者=音声言語に不自由をきたす人たち」というとらえ方にとどまるならば、いかに善意によって支援を行っても現地のろう者たちの反発を招いてしまうだろう。一方、「ろう者=地域で歴史的に成立した言語集団」というとらえ方をすれば、異文化理解にねざしたろう者たちとの協働を通して、ろう者たちに歓迎される支援が実現するだろう。耳が聞こえる人たちはろう者に対する支援を検討するにあたって、まず現地の手話を学び、手話を通してろう者に教えを請うことが肝要であるということを本書で示したつもりである。

声ではなく手話で語り継がれている無数のアフリカの物語。そこから紡ぎ出されたろう者たちの「王国」の歴史。本書をご一読のうえ、アフリカの言語、文化、歴史、教育、開発、援助、さまざまな領域でのヒントにしていただくことがあれば、この世界の紹介者としてこの上ない喜びである。

 

【注】
(1) 日本手話は、日本のろう者たちの間で成立し話されている自然言語。 日本語とは異なる文法をもち、ろう者たちの世代間で伝承されている日本の少数言語である。話者は数万~10万人程度と推定される。
(2) カメルーンは、英語圏(2州)とフランス語圏(8州)をあわせもつ国で、両方の言語を国の公用語としている。
(3) フランス手話は、フランスのろう者が話している手話言語。
(4) アメリカ手話は、アメリカのろう者が話している手話言語。イギリスのろう者が話しているイギリス手話とは別個に成立した異なる言語。
(5) 亀井伸孝、 2000年「もうひとつの多言語社会:カメルーン共和国におけるろう教育とろう者の言語」
編集委員会代表:仲村優一・一番ヶ瀬康子『世界の社会福祉11 アフリカ・中南米・スペイン』東京:旬報社、pp.83-108
(6) これらの国ぐにの手話言語が似ているのは、フォスターらによる手話教育が広域的に行われたという歴史的背景に起因している。
手話が世界共通の身振りだということではない。
(7) 国連開発計画、2004年『人間開発報告書2004:この多様な世界で文化の自由を』東京:国際協力出版会


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