追悼:アフリカ農業問題研究機関(AIAS)設立者サム・モヨさん

『アフリカNOW』105号(2016年発行)掲載

執筆:壽賀 一仁
すが かずひと: 1992年にジンバブウェの NGO と出会って交流を始め、2000年から今日まで DADA(アフリカと日本の開発のための対話プロジェクト)と一緒に同国中部の農民グループとの交流を続けてきている。現在、(一社)あいあいネット(いりあい・よりあい・まなびあいネットワーク)専務理事。


長年お世話になったジンバブウェ人の長老の追悼式に出席するため、年末年始に現地を訪問した。1939年生まれの長老は、1970年代にローデシアの人種差別支配からの独立戦争に協力し、1980年の独立後は共同体地域(黒人小農の居住地)の環境保全に取り組みつつ、農地解放を求め続けた。そして 2000年からの急速土地改革計画(Fast Track Land Reform Program)による再入植地で晩年を過ごし、2015年10月に75年の人生をまっとうした、同時代の黒人小農の典型だった。そんな長老を追悼した旅の最後に、彼らのために尽力した行動する研究者サム・モヨ(Sam Moyo)氏の墓参りへ赴いた。

1954年ソールズベリー(現在のハラレ)に生まれ、独立後の黒人小農の調査からその困難の根本である人種間の不平等な土地アクセスの改革に向けた政策研究を進め、近年は急速土地改革計画による再入植者の調査を積み重ねていたジンバブウェの土地問題の第一人者サム・モヨ氏は、2015年11月に突然この世を去った。訪問先のニューデリーで国際会議場から宿舎へ戻る途中に交通事故に巻き込まれた早すぎる死だった。ジンバブウェのみならずアフリカ社会科学研究発展評議会 (CODESRIA: Council for the Development of Social Research in Africa) などを通じて国際的に活躍していた彼の知性がいかに高く評価され、またその気さくな人柄がいかに愛されていたかは、世界中から寄せられた哀悼のメッセージに表れている。

人種差別支配のローデシアから国外に高等教育の機会を求めることを余儀なくされたモヨ氏は、シエラレオネやカナダ、ナイジェリアを経て1983年に母国へ戻り、黒人小農の研究に取り組み始めた。その後ジンバブウェ大学や自ら設立した環境団体 ZERO(ジンバブウェ環境研究機関)を拠点に続けられた、薪や水などの自然資源利用、協同組合活動、農業投入財の使用、開発援助の受容、雇用機会、行政機構と地縁組織、干ばつや構造調整計画の影響、など多岐にわたるテーマのフィールドワークと統計資料を駆使した実証的な研究は、主著 “The Land Question in Zimbabwe”(SAPES Trust, 1995)に結実した。

同書でまずモヨ氏は、ジンバブウェの土地改革政策が1990年代に黒人小農を軽視し黒人資本家を優先するものへと変わった背景に、環境劣化による共同体地域の階層分化や社会的再生産の困難と、それに伴う黒人小農の土地のガバナンスをめぐる主体性への関心不足があったと指摘した。そして国民経済への貢献など土地の供給側である政府や白人商業農家の視点から、大規模商業農場が広大な未利用地を含めて温存され、再入植事業の多くは自然条件の悪い大規模商業農場の周縁への移住にとどまった 1980年代の土地改革を振り返った後に、土地の需要側である黒人小農について全国的な世帯調査と自身のフィールドワークから詳細に分析した。

その結果、共同体地域では人口増加と環境劣化で減少した各世帯の土地面積の差から階層分化が進み、貧農が近隣の大規模商業農場に侵入して薪を調達するなど新たな土地へのアクセスを模索する一方、州や郡では小農のほか黒人資本家や都市住民、移民などからの多様な要求を調整する政府の土地管理権に対して地方行政や伝統的首長が影響力の確保を争っている状況が明らかにされた。結論として、歴史的正当性を持つ土地改革によって黒人小農の社会的再生産の困難を解消するには、生活に必要な自然資源の使用価値へのアクセスをも充足する政府の介入が求められ、その成功の鍵は研究者や農民代表、財界人などが幅広く参加して地域ごとの多様性にきめ細かく対応する、透明性を持った土地政策策定の仕組みづくりにあると指摘したモヨ氏は、以後その主張を行動に移していくことになる。

1995年、南部アフリカ地域・政策研究機関 (SARIPS: Southern Africa Regional Institute for Policy Studies) へ移ったモヨ氏は、土地所有や農業の改革にかかわる諸問題を南部アフリカ地域共通の政策課題と位置づけ、各国の政策担当者を対象にした修士コースの運営を通じて研究を進めていった。同時にジンバブウェの土地改革への関与も強め、1997年に独立戦争の元兵士に突き上げられたムガベ(Robert Gabriel Mugabe)大統領が土地の強制収用による改革の停滞の打破を宣言して以降は、政府の土地改革・再入植計画第2フェーズ策定の中心人物として、商業農場の国民経済への貢献と黒人小農の生活向上をバランスさせた改革の平和的実現に向けて関係者間の協議・調整に奔走した。しかし、英国をはじめとするドナーの反対と民主化運動の高まりによる協議の停滞は、2000年に全国的な農場占拠とそれを追認する政府の急速土地改革計画の実施を誘発し、白人商業農家と政府の双方から譲歩を引き出そうと試み続けたモヨ氏の努力は実らなかった。

2002年、土地所有や農業の改革にかかわる諸問題の研究をより広くアフリカ全体の文脈の中に位置づけて進めていくことを目指して、モヨ氏は新たにアフリカ農業問題研究機関(AIAS: African Institute for Agrarian Studies)を設立した。そして再入植地の詳細な調査によって受益者の大半が共同体地域の黒人小農であることを明らかにし、その社会経済的な変化の調査を続けてきたジンバブウェの急速土地改革計画を他国の経験と比較検討し、歴史的な文脈から正当に評価しようとする取り組みは”Reclaiming the Land Question”(Zed Books, 2005) や”Land and Agrarian Reform in Zimbabwe”(CODESRIA,2013)などの著作を生み出した。研究がさらにグローバルな展開を見せつつあったそのピークに交通事故の悲劇が襲ったことは、あまりに残念でならない。

社会正義へのコミットメントと実証的な批判的思考力に加えて、人をひきつける魅力を持った行動する研究者の周りにはたくさんの人が集ったが、モヨ氏は誰に対しても親しく気さくに接した。私の友人にもアドボカシー団体のメンバーなど彼と共に活動してきた者は多く、その誰もが煙草を手にしたモヨ氏と議論を交わし、グラスを傾けて談笑した彼の自宅のベランダでの思い出を語っていた。葬儀では普段喫煙しない者も煙草を口にして、皆で愛煙家だった彼をしのんだという。

2000年までは公開セミナーで彼の講演を聴く程度だった私も、急速土地改革計画をきっかけにそのベランダに通う幸運を得た。そこで私が交流を続けている再入植地の話をするたびに、農民の実践を美化する危険と政府が支援に介入する必要を説いたモヨ氏との会話を忘れることはない。ただ他の人の思い出と違い、そこにはいつも煙草に加えて最初に私が持参して彼のお気に入りになった柿の種があった。だから私は墓参りの際も、墓前で柿の種を口にしてモヨ氏を偲んだ。舌先の辛さが政府の十分な介入がないまま再び大干ばつに襲われた亡き長老の再入植地の今を表すようで、それを報告し議論する先達の喪失をあらためて痛感しながらハラレ郊外の霊園を後にした。

WHAT COLONIALISM IGNORED: African Potentials’ for Resolving Conflicts in Southern Africa
Edited by Sam Moyo, Yoichi Mine [amazon]

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