=ワクチン・医薬品の「国際公共財」化とはほど遠い内容=
2020年以降の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミックは、効果的なワクチンや医薬品の開発にもかかわらず、世界全体で感染を抑制できず、毒性や感染力の強い変異株の登場によって、その克服が困難な状況が続いている。その背景にあるのが、膨大な公的資金の投入によって開発されたワクチンや医薬品が知的財産権保護によって特許権をもつ巨大製薬企業(メガファーマ)に独占され、製薬能力のある途上国の企業への技術移転が進まず、結果として、世界の公衆衛生ニーズを満たすだけのワクチン・医薬品が製造・供給されていないことである。
この問題を解決するため、ワクチン製造能力を有する途上国であるインド、南アが2020年10月に世界貿易機関(WTO)に提出した「COVID-19に関する知的財産権の一部・一次免除」提案は、現在までに65の共同提案国、WTO加盟国の過半数を超える支持国を得るに至り、米国やオーストラリアなど先進国の一部もこれを一部支持するに至っているが、ドイツ、スイス、英国など一部欧州諸国の反対により、合意に達していない。
WTO閣僚会合はもともと昨11月末に予定されていたが、オミクロン株の登場により延期され、この6月に開催されることなった。この閣僚会議に向けて、原提案国であるインドと南ア、ワクチンに関して賛成に転じた米国、反対国を複数抱える欧州連合の4者が非公式に協議を続けている。3月15日、この4者協議の暫定合意案の内容が一部メディアに報道された。これについて、オコンジョ=イウェアラWTO事務局長は翌日、合意の形成が近づいたことを歓迎しつつ、報道で明らかになった暫定合意案は案の全体ではなく、確定したものでもないこと、4者協議自体も、まだ終わったわけではないこと、また、4者協議で結論が出ても、これを加盟国で討議するプロセスが残っていることを表明した。
リークされた暫定合意案について、公正な医薬品アクセスの実現に向けて取り組んでいる多くの市民社会組織が、一斉に強い批判を表明している。市民社会は、この暫定合意案が、もともと提案されていた「知的財産保護免除」の内容を大きく下回るもので、本来、期待されていた効果を得られないどころか、一部においては、旧来の「知的財産権の貿易の側面に関する協定」(TRIPS)で保障されていた医薬品の知的財産権の適用の柔軟性をも制限しかねないものであることを指摘し、暫定合意案の形成をリードしている欧州連合などを批判するとともに、4者協議に入っている南ア・インドに対して、この合意案に応じないように求めている。
市民社会の批判の内容は、概ね以下の3つに集約される。
◎対象の物品がワクチンに限定されている:暫定合意案では、TRIPs協定の知財権保護規定を免除される対象となる物品はCOVID-19のワクチンのみとされ、治療薬と診断・検査に関わる物品についてはこの合意案の発効から6ヵ月以内に決定することになっている。診断・検査や治療薬も、先進国と途上国のアクセス格差が大きいのが現実で、本来、知的財産権免除はワクチンのみならず、診断・検査薬、検査装置、予防機材(個人防護具やマスクなど)その他必要な物品も含めることが必要である。
◎免除の対象となる権限が「特許権」だけである:暫定合意案では、TRIPs協定の知財権保護規定のうち、免除されるのは特許権のみである。COVID-19をはじめ、パンデミック時に求められるのは、急速に拡大する公衆衛生ニーズに対応して各地域で生産を拡大することであり、そのためにはスムーズな技術移転が不可欠である。これを実現するには、特許権にとどまらず、インド・南アが提出した原案で要求されていた、幅広い知的財産権の一時免除が必要である。
◎対象国に限定がある:暫定合意案では、対象国について、「2021年におけるワクチンの輸出量が世界の総輸出量の10%未満の(WTOの定義による)途上国」となっている。ワクチンの輸出量の関係で除外されるのは今のところ中国に限られるが、今後、製造能力を向上させて他の途上国に多く輸出し、コロナ対策に貢献した途上国が知的財産権免除を受けられなくなるという逆説が生じることになる。また、「途上国」に関するWTOの定義は独特であり、例えば、ブラジルはこれまでの経緯から、途上国が受けられる「特別かつ採火された扱い」を受けられなくなっており、世界の中でもCOVID-19で大きなダメージを受けてきたブラジルが、対象から外されることになりかねない。また、それ以外にも、COVID-19の疾病負荷の高い中所得国などを対象外とするような解釈がなされないとも限らない。
この暫定合意案に対して、南アフリカ共和国で「公正な医療アクセス」に取り組む「保健正義イニシアティブ」(Health Justice Initiative)ら33団体が連名で、南アのエブラヒム・パテル通商産業競争大臣に対して、この暫定合意案に同意を与えないように要請する書簡を提出した。また、インドの医薬品アクセスキャンペーンも、モディ首相に対して、この暫定合意案についての懸念を表明する書簡を送っている。また、この課題に関する世界的な市民社会のキャンペーンである「ピープルズ・ワクチン連合」(PVA)や、貿易・投資に取り組む米国の「パブリック・シチズン」も、一斉に批判声明を出している。また、パン・ギムン元国連事務総長や、ジョゼフ・スティグリッツ氏、ジャヤティ・ゴーシュ氏らも、この提案に反対する声明を発表している。