The Future of “Two Sudans”: Reflections from a Historical Perspective
『アフリカNOW』 No.96(2012年11月発行)特集記事
執筆:栗田禎子
くりた よしこ:千葉大学文学部教授。専門はスーダンおよびエジプトの近現代史。1985~87年、1994~95年、2005年にスーダンに長期滞在、現地調査を行う。著書に『近代スーダンにおける体制変動と民族形成』(大月書店)、『戦後世界史』(大月書店・共著)、『アリー・アブド・アッ・ラティーフと1924年革命』(アラビア語)など。訳書にW.S.ブラント『ハルツームのゴードン』(リブロポート)がある。2003年に参議院外交・防衛委員会で、イラクへの自衛隊派遣に反対する立場から意見陳述を行った。
南スーダンの独立によって得られたものと失われたもの
2011年7月に南スーダン共和国(以下、南スーダン)が独立してから1年以上が経ちましたが、客観的な事実として、南スーダンの独立によって得られたものと同時に失われたものがあるといえると思います。南スーダンの人々にとってはもちろん得られたものの方が強く意識されているでしょう。独立によって得られた最大の成果はいうまでもなく、自決権を行使して、自らの主権国家を作ったということです。これまでスーダンの中ではともすれば「二等市民」的な位置にあった人々が、初めて自分たちが主人公である政治空間を手に入れることができたということはやはり大きな変化ですね。
一方、南スーダンの独立によって1956年の成立以来2011年まで続いて来たスーダン共和国という国は最終的に分裂してしまいました。現在でも北部ではスーダン共和国(以下、スーダン(北))という名称は残っていますが、1956年以来、存在してきたスーダン共和国は消滅してしまった。そのことによって、これまでさまざまな深刻な問題が生じていたとはいえ、ともかくもスーダンという国が一つの国家としてまとまっていることによってありえたかもしれない政治的・経済的あるいは文化的な発展のあり方、また、人種や宗教の違いにかかわらず人々が共存していける国のあり方をめざすというビジョンが失われてしまったことも、指摘しておかねばならないと思います。
1.植民地期のスーダン
――世界の近現代史の中でのスーダン
近現代の世界の国際政治の中でスーダンという地域が持ってきた戦略的・地政学的な意味はとても大きなものです。それゆえスーダンは19世紀から20世紀にかけて百数十年の間、侵略と植民地支配を受けてきました。その時々のグローバル・パワー、帝国主義勢力にとって、スーダンを支配することがとても重要な意味を持ってきたということを念頭に置いておく必要があると思います。
19世紀末におけるイギリス(大英帝国)のアフリカ分割は1882年のエジプト占領から始まり、ついでその後背地を押さえるため、内陸部(=スーダン)にも介入するという形で進みました。イギリスがエジプトを占領した最大の理由は、1869年に開通したスエズ運河の権益の確保です。スエズ運河は、当時のエジプト総督サイード・パシャ(Muhammad Sa’id)から利権を得たフランスのレセップス(Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps)によって建設されますが、以後、当時の大英帝国にとってもっとも重要な海外植民地であるインドへの道を確保するため、スエズ運河の支配権が他の列強の手に渡ることを防ぐことがイギリスにとって死活的関心事になります。スエズ運河、ひいてはエジプトに対するイギリスの介入は、最終的には1956年にエジプトのナセル(Jamal‘Abd al-Nasir)大統領がスエズ運河国有化を宣言するまで続きます。
さらに、こうした帝国主義の論理には歯止めがなく、スエズ運河を押さえるためにエジプトを占領しただけでなく、エジプトがフランスなどの他の帝国主義国家に脅かされないためには、その後背地であるスーダンも占領・支配しておかなくてはならないと考えるようになります。こうしてイギリスはスーダンに軍事侵攻し、1899年にはスーダンは事実上イギリスの植民地支配下に置かれます(形式上は、イギリス=エジプト共同統治)。
――植民地国家としてのスーダンの形成
他のアフリカ諸国と同様に、スーダンという国家も植民地国家(Colonial State)として形成されてきたという歴史を抱えています。イギリスの植民地になる以前からスーダンは、北隣のエジプトによって占領・植民地化されていました。1820-21年にエジプトのムハンマド・アリー(Muhammad Ali)政権によってスーダン北部が征服され、エジプトは次第に南部に支配を広げていきます。しかし、そのエジプト自体が1882年以降はイギリスに占領されてしまったため、最終的にはスーダンは実質的にはイギリスの植民地になったわけです。
ムハンマド・アリーは、もともとはオスマン帝国から派遣された軍人でしたが、エジプト総督に就任すると、エジプトをオスマン帝国からなかば自立させ、一族による世襲政権を打ち立てました。同時に、中央集権化と経済・軍事の近代化を進め、日本の明治政府に先立つ形で、富国強兵・殖産興業を推進しました。そして、明治時代に日本が自国の工業化・近代化の踏み台として朝鮮や台湾を植民地にして、東アジアに支配を拡大していった歴史と同様に、エジプトも自国の近代国家建設の踏み台にするために、近隣の市場や原料供給地として南のスーダンに目を付けて、軍事侵略を進めていきました。
エジプトがスーダンを支配するようになる以前に、現在の私たちが知っている「スーダン」という国の枠組みが最初からあったわけではありません。エジプトはまず、16世紀以来、北部にあったフンジュ・スルタン国を崩壊させ、ナイル川沿いの北部を支配すると、1850-1860年代からスーダン南部に侵攻します。エジプトがスーダン南部にも支配を広げることができたのは、蒸気船などの近代技術を利用してナイル川をさかのぼることができたからです。一方でダルフール(Darfur)地方には、17世紀からダルフール・スルタン国が成立していましたが、エジプトがこの地を征服したのは、南部スーダンにおける支配を確立した後のことで、1874年にダルフール・スルタン国を崩壊させました。こうして1870年代までにエジプト領スーダンという骨格ができあがりました。
エジプト領スーダンでは、エジプトに「お雇い外人」として雇われた欧米人が総督や知事の地位に就くことがよく見受けられました。その中でも有名なイギリスの軍人チャールズ・ゴードン(Charles George Gordon)は、当時のエクアトリア(Equatoria)州(赤道州)の知事として雇われ、その後スーダン全体の総督に就任します。1881年にムハンマド・アフマド(Muhammad Ahmad bin Abd Allah)を指導者とするマフディー運動が起きると、ゴードンは事態収拾のために再度イギリスによってスーダンに送り込まれますが、1885年にハルツーム(Khartoum)で戦死、スーダンには一時、マフディー国家(Mahdist State)が建設されました。
そのゴードンが描いた1870年代末の「エジプト領スーダン」の手書き地図が残されています。この地図を見ると、南スーダンも含むスーダンという国全体の骨格がこの頃につくられ、スーダンという国家が植民地化の過程で形成されてきたことがよくわかります。南部のエクアトリアやバフル・アル・ガザール(Bahr al Ghazal)州、またダルフール、コルドファン(Kordofan)、ヌバ(Nuba)山地、青ナイル(Blue Nile)州など、今日われわれがスーダン関連のニュース(紛争関連が多いですが)で耳にすることが多い地名も、既にこの地図に出ています。
2. スーダン独立後の展開
――スーダンの地政学的な位置
スーダンは1956年に独立しますが、独立後は第2次大戦後に英仏に代わって最大の資本主義国となり中東・アフリカでの覇権を握るようになった米国の世界戦略のもとで、一方では(1952年のエジプト革命や1962年のアルジェリアの独立などの)北アフリカのアラブ諸国の革命、他方ではサブサハラ・アフリカのアフリカ諸国の独立を牽制するという、地政学的な重要性を付与されていくことになります。欧米諸国は、1950~60年代のアラブ地域における革命の波やアフリカにおける民族解放闘争、独立運動の高揚を抑え込むために、スーダンには親英米的・保守的な政権を維持していかなくてはならないと考えるようになったのです。
地政学的に見て、スーダンは古くはスエズ運河の後背地であったわけですが、冷戦期のアメリカの世界戦略の中では、周辺のエチオピアやソマリアが次々と社会主義化して行く中での防波堤としても位置づけられるようになります。ペルシャ湾とアフリカの角(Horn of Africa)を結ぶ地点にあるスーダンは、この地域を統制する上でも戦略的に重要な位置にあると認識されるようになりました。ちなみに現在では、米国国務省の文書などでは、従来の「アフリカの角」(ソマリア、ジブチ、エチオピア、エリトリア)に加え、スーダンとチャドも含めた”Greater Horn of Africa”(大アフリカの角)という概念が提起されるようになっています。
――内在化された植民地支配の負の遺産
スーダンは独立後も、植民地時代のイギリスによる統治政策の影響を受けた構造的な矛盾を抱えることになります。独立後のスーダンが抱え込まざるをえなかった国家の体質は、実は植民地支配の過程を通じてできあがったということができます。イギリスはスーダンの独立に備えて、独立後もスーダンに対する支配的な影響力を行使することができるように、スーダン人エリートを育成してきました。たとえば、イギリスの支配とつながる綿花大農園の地主層や、宗主国であるイギリスに原料を供給してイギリスの工業製品を買うという不平等な貿易関係の中で潤う商業資本家を育成してきました。独立によってスーダンが表面的には政治的に自立しても、イギリスによるそれまでの政治的・経済的支配の構造を変えようと思わないスーダン人エリート(基本的には首都ハルツームを中心とする北部スーダンのエリート)が、植民地時代とまったく同じやり方でスーダンの政治・経済を引き継ぎました。それによって現在に至るまで、政治的には強権的・軍事的な支配のあり方が、経済的には「中心-周辺」構造に基づく不平等な発展のあり方が、温存・再生産されてきたということができます。
政治面でいうと、現在のバシール(‘Umar Hasan Ahmad al-Bashr)政権がまさに典型的ですが、とても強権的で軍事的な国家機構が独立直後からできあがっていました。アフリカの政権は軍事政権が多いといわれていますが、元はといえば欧米の植民地支配そのものが軍事支配だったのです。前述のゴードンのように、イギリスの軍人がスーダンの総督になっていく。イギリスによる本格的植民地支配が始まった1899年以後の時代でも、1920年代まではイギリスの職業軍人がスーダンの総督を務め、各州に配置されている知事もその下の地区の行政官も基本的には軍人が担っており、植民地支配に対して住民の反乱が起きたときは軍事的に弾圧しました。こうした軍事支配の体質が、独立後のスーダン人エリートの政権にも引き継がれてきたということができます。
また、経済的な側面からも植民地統治の影響を指摘することができます。宗主国にとって植民地経営は基本的に、宗主国にとって有益な資源を効率よく集めて外に運び出す、あるいは先進国の市場として商品を買わせるもので、植民地全体を経済発展させようとか、バランスのとれた発展を実現しようなどとは考えません。独立後においても、国全体に植民地型の経済構造のゆがみが当然、残存することになります。
植民地支配の過程で形成された「中心 – 周辺」関係は、独立後も行政の中心であるハルツームとそれ以外という形で再構築されていきました。ハルツームは権力の中心で、軍や警察の中枢もある場所なので、植民地時代から近代的都市として発展し、インフラ整備も行われています。それ以外の地域では、既にある程度は発展していて、資本投下すれば容易に利益が上がることが予測される地域には資本が集まる一方で、歴史的にも低開発であった地域には資本が投下されないためにインフラ整備も進まず、低開発状態が放置されてきました。こうして、独立後のスーダンでも、政治的・経済的に「周縁化」された地域の固定化という現象が進むことになります。これらの地域が、スーダン南部(現在の南スーダン)や、南スーダンの分離・独立後もスーダン(北)内部にあって武力紛争が絶えないヌバ山地(=南コルドファン州)、青ナイル州、西部のダルフール地方などになります。
――イスラームの政治利用
さらに、独立後に見受けられるようになった、植民地時代にも増してネガティブな要素として、イギリスに代わってスーダン人エリートが支配するようになったことで、イスラームの政治利用が公然化したことをあげることができます。
スーダンでは独立前後から、イギリスに育成された一握りのスーダン人エリート(大地主や商業資本家)に対し、北部の中でも労働者や農民を中心とした民衆の抵抗運動が起き始めました。スーダンにおいて労働者階級が形成されてきた背景には、スーダンを全体として低開発状況にとどめ、工業化を促進することがなかったイギリスが、にもかかわらず植民地統治の都合上、鉄道網の整備だけには力を入れざるをえなかったことが関連しています。広大な国土から資源を効率よく運び出す、あるいはどこかで反乱が起きたときにすぐ軍隊を派遣するために、植民地時代のスーダンにおける近代的なセクターとして唯一整備されたのが鉄道でした。その鉄道で働くようになった労働者が、独立後のスーダンにおける労働者階級や労働運動の重要な基盤を提供するようになるのです。一方で農民運動は、イギリスが植民地時代に力を入れた綿花の大量生産に従事していた農民が中心になっています。イギリスは綿花の大量生産を実現するために、スーダン中央部、青ナイル川と白ナイル川に囲まれたゲジラ(Gezira)と呼ばれる地域で大規模な潅漑計画(ゲジラ計画)を実施し、巨大な公営の綿花プランテーションを設立しました。植民地時代にこれらのプランテーションでイギリスに雇われて働くようになった農民は、農民であると同時に労働者的なメンタリティを持つ農民集団ということができます。こうして独立後のスーダンでは、鉄道労働者や綿花プランテーションの農民が中心になって、スーダン人エリートに対して民主化を求める大衆的な運動が形成され、その過程で1950~60年代には、中東・アフリカにおいて最大・最強と言われたスーダン共産党が勢力を伸ばしていきます。
こうした民衆運動に対抗して、スーダン人エリートが労働者や農民の運動やそれを担う共産党などのやっかいな勢力を押さえつけるために、イスラームが政治的に利用されたのです。労働者や農民の権利とか民主化などを主張する連中は「共産主義=無神論」の輩であり、イスラームとは相容れない、というレトリックで民衆運動を押さえつけるのがもっとも簡単なやり方でした。
独立前後のスーダンでは、北部内部における労働運動・農民運動と同時に、「周縁化」された地域、低開発地域の住民の異議申し立ての運動も起き始めます。すでに独立前夜の1955年には南部で反乱が発生します。こうした動きに対して北部のスーダン人エリートの政府は、植民地時代のイギリスと同様に軍隊を派遣し、武力弾圧を行いました。
その際、こうした弾圧の口実として、宗教や言語、文化が違うというレトリックが持ち出されたのです。北部のスーダン人エリートは、スーダン南部は非イスラーム=非アラブの連中がいる地域で、その連中がイスラームやアラブ文化に反発して反乱に立ち上がった、と主張してきました。実際は経済格差・開発格差が原因となって内戦や対立が起きているにもかかわらず、宗教や言語、文化が違うというレトリックにすり替えることによって、スーダンの低開発地域の人々の要求に北部の市民が共感することを妨げたのです。イスラームを政治的に利用することによって国民を分断し、弾圧を容認させ、イスラームを守るための闘い=ジハードだと主張することで弾圧を正当化しました。
こうして独立後のスーダンにおいてイスラームは、北部の民主勢力を叩くために政治的に利用され、さらに南部などの低開発地域の抵抗運動を弾圧するためにも利用されてきました。
――「新しいスーダン」を目指す動き
このように独立後のスーダンの状況を振り返ってみると、昨年7月の南スーダンの独立に至ってしまったのも仕方がないという印象を持たれるかもしれません。しかし私は、それ以外の選択肢もあったのだということを強調したいと思います。
なぜならば、植民地時代からスーダンが抱えてきた政治的・経済的なゆがみを是正して別のスーダンのあり方を追求する、「古いスーダン」”Old Sudan”に対して「新しいスーダン」”New Sudan”をつくろうという動きがあったからです。それまでの強権的・軍事的な国家のあり方抜本的に変えて民主化した国家をめざす。中心-周辺の構造によって分断されていたこれまでのスーダンに代わり、富と権力が公正に分配されバランスのとれた発展を遂げていくことができる新しいスーダンにしていく。軍事力によって国家の統一を維持するのではなく、周辺化されてきた地域の人々も自主的にもう一度、統一を選びとっていく。こうしたビジョンのもとで「新しいスーダン」をつくっていこうという動きが広がった時期がありました。
1989年にバシール政権が軍事クーデターによって成立すると、これが独立後のスーダンにおける非民主的な政治手法(軍事政権、宗教の政治利用)を極限まで推し進めたともいえる政権だったため、北部の市民の間ではこれまでになく危機感が強まりました。さらに、バシール政権のもとでこれまで以上に激しい弾圧にさらされることになった南部をはじめとする低開発地域の人々も加わり、1990年代のスーダンでは、国民民衆同盟(NDA; National Democratic Alliance)という、バシール政権に対する反対勢力を広く結集した連合体が抵抗運動を展開します。重要なことは、この組織には、バシール政権成立時の与党であった国民イスラーム戦線(NIF; National Islamic Front)を除くほとんどすべての政党や政治勢力や運動体が参加していたということです。独立後に北部の労働者や農民の運動を担ったスーダン共産党、労働組合、女性組織、人権団体などだけではなく、伝統的にはスーダン北部の保守層を代表していたウンマ党(Umma Party)や民主統一党(Democratic Unionist Party)の支持者層も、バシール政権のあまりに強権的な政治に抗議し、民主化を求めて運動に参加していきます。さらに、北部の政治勢力と並んで、スーダンの低開発地域の抵抗運動の中心を担ってきたスーダン人民解放運動(SPLM; Sudan People’s Liberation Movement)もNDAのメンバーになって共闘していたのです。
SPLMは、昨年の南スーダンの独立後の現在では、スーダン南部の分離・独立を求めてきた政治勢力だと錯覚されがちですが、もともとは南部だけの政治勢力ではなく、スーダン国内で「周縁化」されたすべての地域の人々の声を結集した運動体です。SPLMは1983年に南部で活動を開始しますが、その支持は急速に低開発地域であるヌバ山地、青ナイル州、ダルフール地方そして紅海(Red Sea)沿岸地方に広がっていきます。その意味でSPLMは、南スーダンの人民解放運動ではなく、スーダン全域の低開発地域全体を対象とした人民解放運動であったということができます。
SPLMの創設時からのリーダーで2005年に死去したジョン・ガラング(John Garang de Mabior)は、スーダンの低開発地域の問題は、それらの地域が分離・独立することでは解決しないだろうと考えていました。周縁化されている低開発地域がそれぞれ分離・独立を要求し始めたら、スーダンという国家の枠組みそのものがなくなってしまう。スーダンの低開発地域の問題を解決するためにはスーダン国家全体を変えないといけない、「古いスーダン」の権力構造や政治・経済のあり方を抜本的に変えることで自分たちの問題も解決する、と彼は考えていたのです。
南部では既に述べたように独立前夜の1955年に反乱が起き、さらに1958年に北部でクーデターによってイブラーヒーム・アッブード(Ibrahim ‘Abbud)軍事政権が成立して低開発地域に対する弾圧政策を強めると、これに抵抗するゲリラ組織アニャ・ニャ(Anya Nya)による武装闘争も開始されました。ただ、この時期の運動は基本的に南部の問題のみに関心を集中させ、かつそれを分離・独立という形で解決しようとする傾向を持つものでした。
これに対し、1983年以降に活動を開始したSPLMは、それまでの南部の分離・独立運動を批判して、自分たちはスーダン全域を解放するということを主張しました。バシール政権対する抵抗闘争の中でも、SPLMは北部の民主化勢力と共闘していました。バシール政権を打倒するために一致団結し、北部においては北部の民主化勢力がデモやストライキなどを展開し、南部などの低開発地域ではSPLMが中心になって武装闘争を行っていく。北部におけるインティファーダ(市民蜂起)と低開発地域での武装闘争を組み合わせる形で、バシール政権を打倒するという方針を掲げていました。
さらに、バシール政権を打倒後は、これまでのスーダン国家が抱えていた構造的な矛盾を抜本的に正し、「古いスーダン」に代わって「新しいスーダン」をつくる。政治的には民主化を進め、経済的には開発格差を是正しバランスのとれた発展をめざして、統一を築いていく。それが「新しいスーダン」のビジョンでした。
3. 南スーダンの独立後の展開
――南北和平交渉とCPAの問題点
2002年頃から、米国のスーダンへの介入が活発化し、同国による強力な後押しのもとに、「南北和平交渉」が急速に展開し始めます。これは、バシール政権を「北部」の代表に、SPLMを「南部」の代表にして、対話によって両者を和解させようとするものでした。ここで忘れてはならないことは、この南北和平交渉が始まる前までは、スーダンの人々は「北部」対「南部」という対立構造ではなく「バシール政権」対「(それ以外の)反政府勢力」という構造のもとで、北部の勢力も南部の勢力と共にバシール政権の打倒を掲げて闘っていたということです。その意味では米国は反政府勢力を分断させ、SPLMを他の反政府勢力から引き離し、唯一の代表としてバシール政権と対話させることによって「和平」を進めようとしたといえます。その結果、2005年には包括的和平協定(CPA; Comprehensive Peace Agreement)が締結されます。
米国が主導した南北和平プロセスによって、それまでのスーダンにおける「新しいスーダン」をめざす動き、すなわちスーダン国家が抱えてきた政治的・経済的なゆがみを正すことでスーダンの統一を守ろうとする動きは失われ、南部を分離・独立させる方向にレールが引き直されたといえます。CPAでは、バシール率いる国民会議党(NCP; National Congress Party「国民イスラーム戦線」より改称)とSPLMが交渉当事者になり、両者の間で停戦し、石油とポストを分配していくこと、また、2005年から6年後の2011年までの暫定統治期間中はバシール政権とSPLMが協力してスーダン全域を統治することが決まりました。南部には自決権を認め、2011年1月に住民投票を実施して、南部がスーダンにとどまるのかあるいは分離・独立するのかを住民自らが選ぶという決定も盛り込まれました。
バシール政権は、1989年の成立当初は反政府勢力との対話に応じるつもりはなく、SPLMを武力によってつぶそうと考えていました。しかし、結局はそれを諦めざるをえなくなった。和平プロセスの進展によって、反政府勢力の一役を担うSPLMを武力でつぶすことができず、交渉に応ぜざるをえなくなったことはCPAのポジティブな成果であるといえるでしょう。それまでバシール政権によって激しい弾圧が加えられ、戦場と化していた南部において平和がもたらされたことは、南部の人々にとっては明るいニュースになりました。
しかし、「新しいスーダン」のビジョンと照らし合わせてみると、CPAは後退であったといえます。スーダンが抱えてきた問題というのは、南部やヌバ山地、青ナイル州、ダルフール地方などの特定の地域に限定される問題ではなく、スーダン全体の構造的なゆがみの問題です。「新しいスーダン」はこれらの問題を包括的に解決するというビジョンでしたが、米国をはじめとする国際社会が主導する南北和平プロセスは、スーダンの問題を南北間の内戦と捉えて、南北間の和平を実現すれば問題は解決するという考えに基づいていました。これは、スーダンの問題を基本的には宗教や文化、人種の対立として描き、異なる二つの勢力を和解させれば問題は解決するという発想であるともいえます。米国をはじめとする国際社会は、バシール政権に反対する広範な民主勢力が存在したにもかかわらず、一勢力のSPLMだけに反政府勢力を代表させ、バシール政権と手打ちさせることによって、それ以外の勢力を政治プロセスから排除してしまったのです。その結果、スーダンの問題を包括的に解決するという見通しは失われてしまいました。
また皮肉なことに、バシール政権はCPAの当事者になったことで温存されてしまいました。1990年代には北部の民主勢力と低開発地域の勢力が協力してバシール政権を追い込むという共通の目標が掲げられ、こうした動きが順調に進んでいれば、バシール政権は打倒されていたかもしれません。しかし、バシール政権は、南北和平交渉に応じたことで、国際社会からCPAの当事者としての地位を保障され、内戦終結後もバシール政権は温存されるという結果をもたらしてしまったのです。
CPAには、北部の民主化勢力の要求を反映するかに見える内容も多少は含まれていました。6年間の暫定統治期間中には、統一の可能性も残しながら南北間で「信頼醸成」を行い、2011年1月の住民投票では南北分離ではない結果をもたらすように努力すべきであるということや、スーダンの民主化に向けての努力を行うことも盛り込まれていました。しかし、現実にはそれは絵に描いた餅になってしまいました。スーダンの民主化勢力がめざしていた民主化は、バシール政権の打倒を前提という前提とするものでした。しかしCPAは、あくまでCPAの一方の当事者としてのバシール政権のもとで「民主化」を実施するよう求めました。独裁政権であるバシール政権に民主化推進を求めても、独裁政権下での形式的な選挙や「民主化」でしかなく、実際に暫定統治期間中にスーダンの民主化は実質的には進みませんでした。
またバシール政権は、南部に関しては米国の圧力もあって譲歩することを余儀なくされましたが、それ以外の低開発地域で同様の権利要求が起こるのは何としてでも避けたいと考え、そのため、北部内部の低開発地域に対しては、この時期以降、むしろ弾圧を強めていきます。ダルフール地方では2003年以降、権力と富の公平な分配を求めてスーダン解放運動/軍(SLM/A; Sudan Liberation Movement /Sudan Liberation Army)や正義と平等運動(JEM; Justice and Equality Movement)などの組織が活動を開始しますが、これらの動きに対してバシール政権は過酷な弾圧を加え、ダルフールでは国連が「今世紀の最悪・最大の危機」と称するような事態が起きました。南北和平プロセスの一方でこのような危機が深刻化し、さらに現在ではヌバ山地や青ナイル州でも同様の事態が生じている最大の原因は、CPAによってバシール政権が温存されてしまったことにあるといえます。
このような状況では、2011年1月に実施された南部の住民投票において、圧倒的多数の住民が南部の分離・独立を選択したことは当然の成行きであったともいえるでしょう。
――いまだに続く戦争状態
CPAが成立してから7年、南スーダンが独立してから1年以上を経た現在でも、南北間の戦争状態は終結する様子がありません。南スーダンの独立は認めても、解決すべき事項はそのままになっています。南北境界部に位置するアビエイ(Abyei)地区は、油田地帯として重要ですが、歴史的に南部のディンカ(Dinka)人と北部の遊牧民バッカーラ(Baqqara)が混住・共存してきた地域であり、CPAの時点では南北いずれに帰属するかを定めることができませんでした。2011年に帰属先を決める住民投票を行う予定でしたが、現在まで実施されていません。
さらに、他にも南北間で所属の決まっていない地点があり、国境線の画定はストップしたままの状態です。また、石油の大半は南スーダンで産出されるものの、パイプラインはスーダン(北)を通過しています。暫定統治期間中は石油による収入はバシール政権とSPLMで折半することになっていましたが、南スーダンの独立後は戦争状態が続いているために、石油の取り分を決めることができません。さらに、白ナイル川の水利権をどのように分けるのか、北部に居住している南部出身の人々や南部に居住している北部出身の人々の国籍問題をどうするのか、といった問題も存在しています。
また、南スーダンが分離・独立したことにより、いわばスーダン(北)内部に取り残される形になったそれ以外の低開発地域、ヌバ山地や青ナイル州、ダルフールなどに対するバシール政権の弾圧も深刻な問題になっています。特にヌバ山地と青ナイル州は、従来、南スーダンと並んでSPLMの重要な基盤を形成していました。SPLMの観点からすれば、SPLMはもともと南部だけではなくスーダン全域を対象にした政党なので、これらの地域での活動も合法であるということになります。暫定統治期間中にSPLMはハルツームで政党登録を行い、ハルツームにはSPLMの事務所がありました。それゆえ南スーダンが独立しても、ヌバ山地や青ナイル州などでSPLMが活動するのは合法的であるはずです。しかし、バシール政権は、南スーダンの分離・独立に伴い、北部のSPLMを非合法化し、ヌバ山地や青ナイル州で活動するSPLM-N (Sudan People’s Liberation Movement-Northスーダン人民解放運動・北部)を一方的に武装解除させようとしています。その結果、これらの地域では抵抗運動が起き、弾圧によって多くの住民が国内避難民化し、あるいはエチオピアや南スーダンに流出しています。
――強まるバシール政権の弾圧
また、既に述べたように、ダルフール危機も深刻化しています。何度か和平合意が成立したと伝えられましたが、バシール政権のやり方は変わらず、ダルフールのいくつかの勢力を絶えず分断させ、その一つを味方に付けて政府ポストを与えて懐柔し、抜本的な解決はせずに時間稼ぎをする、という手法を繰り返してきました。そのために、いまに至るまで問題の解決には至っていません。
現在のスーダン(北)では、バシール政権発足直後の1990年代のような状況が再現されつつあるともいわれています。南北和平交渉を機にスーダンの民主化が進むのではないか、という期待は裏切られました。2005年から6年間の暫定統治期間中は国際社会の「目」があり、バシール政権もその間はいちおう民主化に向けての姿勢を示し、南北和平に励んでいる振りをして、亡命していたNDAのメンバーの帰国を認め、野党系の新聞の発行を許可しました。しかし、南スーダンが独立してしまうと、バシール政権は失うものが何もなくなり、1990年代に行ってきたむきだしの強権政治に戻りつつあるといえます。野党系の新聞社が閉鎖され、恣意的な逮捕が増えているなど、気になるニュースが伝えられています。
一方で、ヌバ山地や青ナイル州の勢力とダルフールの勢力が連携してスーダン革命戦線(SRF; Sudan Revolutionary Front)という組織が結成されるなど、バシール政権に対する再度の武装闘争が本格的に開始される可能性も高まっています。南北間の対立は一見、終焉したかにみえますが、スーダン(北)の中にいわば「新しい南」(New South)ができ、「南」が北部にずり上がる形で新たな内戦が起きつつある、という指摘もあります。このままバシール政権が続けば、結局はヌバ山地や青ナイル州、ダルフール地方などが南部同様に分離・独立し、スーダン(北)がしだいに縮小するという可能性も指摘されています。
――南スーダンが直面する諸課題
南スーダンは、「アフリカで一番新しい国」として国際社会の祝福を受けましたが、その前途には課題が山積しています。
まず、スーダンとの軍事対立が終結していないことがあげられます。
また、南スーダンには、北のバシール政権とは異なる民主的な体制が形成されることが期待されましたが、現実にはそうなるという保証はありません。SPLMはもともと武装闘争組織であり、独立を果たしたことで与党になりました。しかし、武装闘争組織は基本的に上から下へと命令を下す組織構造なので、民衆の意見をくみ上げて民主的に意思決定をする政党に転換することは難しいといえるでしょう。
SPLM政権のもとで言論の自由が抑圧されるという状況も発生しています。南スーダン独立後から複数の新聞が発行され、人権団体も存在していますが、新聞記者が突然襲われたり、新聞が停刊になったり、政府を批判するジャーナリストや政治家が逮捕され拷問されるというような事件が起きています。新憲法における大統領の権限が大きすぎるとも指摘されています。また、SPLM以外の政党も誕生しつつありますが、弱小政党に不利な政党法も制定されました。
SPLMは、これまでの「古いスーダン」では権力や富の分配が不公平であることを主張していましたが、現在の南スーダンで権力や富の分配が公平になされているのかというと疑問であり、SPLM関係者だけで政権のポストを分配しています。また、これまでは北部の独裁政権と戦っていたため、それに対抗して「南部」としてのまとまりという意識を持つことが可能だったかもしれませんが、南スーダンの中にもディンカ、ヌエル(Nuer)、ムルレ(Murle)など複数の住民集団が存在しています。新国家において権力や富の分配が平等になされなければ、矛盾が「部族紛争」「民族対立」に転化する可能性も否定できません。さらにこれまで南部が戦場と化していたために農地が荒廃し、農業生産が食料需要に追いつかず、ウガンダなどの近隣諸国からの輸入に依存しています。医療・衛生サービスの提供も緊急の課題になっています。
また、南スーダンは、アメリカを始めとする「国際社会」が北部と南部を分離させる道筋をつくり、働きかけることによって成立しました。その延長線上で、南スーダンの国づくり全体は、国際社会が全面的に関与する形で進められていますが、このこと自体が持つ問題性にも着目すべきと思います。
国際機関のスタッフなどはよく「南スーダンには水も道路もインフラもなく、大変である」といいますが、それはある意味では当たり前で、南部は、これまで低開発地域にされてきたからこそ内戦が続いてきたのです。世界史における国家の独立は一般的には、経済活動の活性化により地域独自の資本家層、ナショナル・ブルジョワジーが形成され、独立の機運が高まる、という過程をたどってきました。しかし、南スーダンの場合は逆に、周縁化されてきた地域が低開発状況に耐えかねた結果、国際社会の応援によって元の国家から分離・独立するという経過をたどりました。国家としての政治・経済や人材などの基盤がまったくないところに、国際社会が肩入れして人工的な国家を無理矢理つくったといえます。そのような国家が先進諸国から、自らの主権を守りきれるのか、ということが大きな問題となります。この場合の主権には、政治的主権に加えて、軍隊の駐留を許可するかなどの軍事的主権、世銀などの国際金融組織の言いなりにならない経済的な主権、資源主権なども含まれます。
南スーダンは自分たちの主権を求めて独立国家になりましたが、皮肉なことに、今度は国際社会から自分たちの政治的・軍事主権、経済主権、資源主権を守らなくてはならないという事態に直面しています。将来、米国などの先進国が基地を置き、他方では中国を含む国々が経済進出し、石油その他の天然資源を食いものにするというように、独立したばかりの南スーダンの主権が国際社会によって脅かされるという状況は容易に想像できるのではないでしょうか。
――南スーダンの主権を脅かす自衛隊の派遣
日本はこのような状況の南スーダンに自衛隊派遣を決定しましたが、この問題はどのようにとらえるべきなのでしょうか。政府は自衛隊が活動する地域は安全だから問題ない、といった説明を繰り返していますが、実際には南北間の停戦が破綻し戦闘状態が再燃している状況にある中で、日本はその一方の国に軍隊を派遣しているのです。日本が国連平和維持活動(PKO)に参加を決定したときのいわゆる「PKO5原則」(1. 停戦合意の成立 2. 紛争当事国によるPKO実施と日本の参加への合意 3. 中立的立場の厳守 4. 基本方針が満たされない場合は撤収できる 5. 武器の使用は命の防護のための必要最小限に限る)は完全に崩壊しています。自衛隊の海外派遣はそもそも日本国憲法第9条に抵触するといえますが、今回自衛隊が参加している国連南スーダン・ミッション(UNMISS; United Nations Mission in the Republic of South Sudan)の性格自体にも、新生国家の国づくりに「国際社会」が全面的に関与し、また、それをPKOというすぐれて軍事的な形で、諸外国の「軍隊」が中心になって押し進めようとしている、という問題性が指摘できると思います。一国の道路・橋梁建設などを外国の軍隊に任せるということは、本来、安全保障の観点からすると問題があるはずなのですが、それを受け入れてしまっている南スーダン政府の側にも主権意識の鈍化という問題があるのかもしれません。われわれ日本の市民としては、「自衛隊の派遣先が安全かどうか」ということよりも、軍隊を送ることで南スーダンの主権を脅かしている可能性があるのではないかという視点から、自衛隊派遣の問題を捉え返す必要があります。
また、米国は米国アフリカ軍(アフリカ総合司令部)と南スーダンとの軍事的協力関係を強化しています。冷戦後のアメリカの世界戦略の再編の過程で生まれた米国アフリカ軍は、2011年夏にはリビアを空爆してNATOによるリビアへの軍事干渉、カッザーフィー(Mu ‘mmar al-Qadhdhaf)政権打倒の先鞭をつけた軍隊です。また、米国はウガンダのキリスト原理主義武装集団、神の抵抗軍(LRA; Lord’s Resistance Army)が南スーダンでも破壊活動を行っているという理由で、ウガンダや南スーダンに特殊部隊を派遣しています。この地域における米国アフリカ軍の軍事的プレゼンスはしだいに拡大しています。長期的にみると、南スーダンの日本の自衛隊も米国アフリカ軍や、ソマリア沖の「海賊対策」を口実に派遣されている自衛隊とも連動し、東アフリカにおける先進国の軍事的プレゼンスを高める流れに寄与していくことも考えられます。先進国の東アフリカに対する新植民地主義的な進出に日本も加わり、一役を担うという動きが強まっているといえるのではないでしょうか。
――「スーダンの春」とこれからの展望
1970年代までのスーダンは、綿花のモノカルチャー栽培に特化した農業国でした。しかし、1980年代から南部での石油開発が始まり、1990年代には産油国となり、21世紀に入る時期には石油輸出も本格化して、南スーダン独立までのごく短い期間は石油収入によって潤いました。国家収入の大部分を石油に依存していたわけですが、南スーダンが分離・独立したことによって石油収入が途絶え、財政状況は一気に悪化しました。また、国際通貨基金(IMF)はスーダン(北)に対してさまざまな「財政健全化」政策を要求し、これに応えてバシール政権は、地方公務員の削減や食料・ガソリンなどに対する補助金カットなどの財政緊縮策を進めています。その結果、失業や物価高騰などの矛盾が噴出し、国民生活は危機的状況に置かれています。
こうした状況下のスーダン(北)では、政権を批判し、民主化を求める動きも再度、活発化しています。特に2012年の6月から7月にかけては、失業や物価高騰に抗議して市民が立ち上がる、「スーダンの春」ともいうべき運動が起きました。1990年代にNDAを軸に活動を展開していた諸政党・組織は、現在では国民的合意勢力(NCF; National Consensus Forces)という組織を形成していますが、これに加えて6月には生活の困窮を理由に若者が街頭に繰り出しました。こうした中で、南スーダンとの戦争およびスーダン(北)内部(ヌバ山地や青ナイル州、ダルフール)における全戦闘の停止、政治犯の釈放、バシール政権の打倒を訴えるアピールが出されるという大きな動きがありました。まずバシール政権を打倒し、ついで国家全体の枠組みを再構築するための憲法会議を開催して、民主化や低開発地域の権利回復などの課題に取り組むべきだという声が上がっています。これはある意味では、1990年代に掲げられた「新しいスーダン」というビジョンをスーダン(北)の中で改めて実現していこうとする動きといえるかもしれません。
SPLMは1983年の綱領の中で、「自分たちの運動の第一義的な目標は南部の分離・独立ではない。アフリカはこれまで十分に植民地主義・新植民地主義によって分割されてきたため、これ以上は分割すべきではない」と述べています。SPLMは結果的にこの初心にそむいて、南スーダン分離・独立という方向に向かったわけですが、本来の目的は、スーダンの統一を維持した上で、内側から変革していくということでした。アフリカの国境は植民地政策の中で人工的に画定されたものであるとはいえ、人種や民族、宗教に基づいて国境を変更しつづければ際限がない。そうではなく、政治的・経済的構造を内側からラディカルに変革することで、国家としての統一を守るという「新しいスーダン」のビジョンが本来の方針だったのです。このビジョンが実現できれば良かったのですが、結果的にはそのようになりませんでした。
南スーダンが独立したという事実を尊重した上で、これから何十年間という歳月をかけて、今後のこの地域のあり方を模索していくしかない。将来的には、双方が民主化した後で、南北が再統一するという流れが出てくるかもしれませんが、もちろん現状では難しく、何世代か後のことになるでしょう。今後、南スーダンでは、国際社会に全面的に依存しながら国づくりをしていかなくてはならないという特殊な現状の中で、いかに経済や軍事における主権を守るのかということが当面の課題になります。一方でスーダン(北)では、内側からの民主化をいかに実現するかということが課題になります。バシール政権が倒れてスーダン(北)に民主的な政権が成立すれば、南スーダンとの関係が劇的に変わり、国境画定や資源分配の問題も冷静に議論できるようになるかもしれません。二つのスーダンが協力し合う展望も描けるでしょう。
スーダンの歴史を振り返ると、現在この地域が抱えるすべての問題の根源には、植民地支配の過程で作り出されてきたさまざまなゆがみがスーダン独立後も引き継がれたという事実が横たわっていることに気づかされます。地政学的・戦略的な理由や資源の存在のゆえに、南北両スーダンという地域は植民地主義・新植民地主義に翻弄されてきました。南スーダンをめぐる国際社会の関与や働きかけにも、一皮むくと新植民地主義の再来となってしまいかねない面が存在します。日本社会にあってアフリカやスーダンに関心を持つ私たちには、こうした点をたえず絶えず自覚し、批判的に検証していく姿勢が求められているのではないでしょうか。
2012年9月8日
聞き手:『アフリカNOW』編集部