What is TICAD4? Review of its poor and dangerous reality
『アフリカNOW』82号(2008年10月31日発行)掲載
執筆:高林 敏之
たかばやし としゆき:1967年生まれ。アフリカ協会職員、四国学院大学教員などを歴任し、現在西サハラ問題研究室を主宰。日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会全国理事。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員。
はじめに
2008年5月に開催されたTICADⅣは、並行してさまざまなアフリカ関連イベントが行われるなど表面上は華々しく、アフリカへの関心を喚起することに寄与したようにみえる。しかし現実には、TICADプロセスのアフリカの要求からの乖離、建前と現実の落差がいっそう鮮明になったと考える。
そもそも筆者は、「元気なアフリカを目指して」というTICADⅣのテーマに大きな違和感を覚えた。「アフリカには元気がない」と言わんばかりのこのテーマは、苦しい政治・経済・社会状況の中でも懸命に生き抜き前進しようとするアフリカの人々の営みや、ダイナミックな文化活動(音楽、美術、文学、映画など)の存在、さらにはマクロ経済レベルでのアフリカ諸国の平均5%を超える経済成長(もちろん、それが民衆全般に裨益していないという問題を見逃すことはできないが)を看過し、あたかもアフリカの人々が苦難に打ちひしがれているかのような表現である。日本政府がアフリカを見るまなざしの歪みと非現実性を端的に示しているといえよう。
アフリカ諸国の要請から乖離したTICADⅣの結果
TICAD Ⅳにはアフリカから40名の首脳級を含む51ヵ国(チャド、および日本が承認していない西サハラとソマリア暫定連邦政府を除く)およびアフリカ連合(AU)の代表が出席した。しかし「首脳級」のうち、最高執政権を有する元首・首相(以下これを「首脳」と呼ぶ)は31名であり(他の9名は副大統領や、最高執権者でない首相)、2006年の中国アフリカ協力フォーラム(FOCAC)首脳会議の39名を大きく下回った。ちなみに、2006年当時に中国と国交を有するアフリカ諸国は48ヵ国であったが、「首脳級」の出席は42名に達していた。FOCAC首脳会議に参加したがTICADに首脳が出席しなかった国は11ヵ国(日本が未承認のソマリア暫定連邦政府を除く)にのぼる。逆にFOCAC首脳会議に出席せずTICADに首脳が参加したのは4ヵ国のみで、うち3ヵ国(ブルキナファソ、マラウイ、スワジランド)は台湾と国交を有するためFOCACには招待されなかった国である(マラウイは2008年1月に中国と修交)。中国を意識してTICADⅣを「アフリカ・サミット」と銘打った外務省の思惑にもかかわらず、日本の劣勢は明らかであった。
TICADⅣで採択された「横浜宣言」には、アフリカ側の強い要求をうけて食料価格高騰の問題に関する言及が挿入されたほか、「横浜宣言」および「横浜行動計画」の履行状況を監督するため、フォローアップ・メカニズムを設置することも決定された。これまで日本政府はTICADを「開発の哲学を討議する場であって、具体的な約束をする場ではない」と位置づけてきたが、文書の積み上げよりも具体的な行動を求めるアフリカ側の声に押し切られたのである。
しかし目玉とされた「政府開発援助(ODA)を2012年までに倍増する」との約束は、国内総生産(GDP)の0.7%をODAに充てるという、国連ミレニアム開発目標(MDGs)の実現に程遠い現状への批判を回避するため、財源の裏づけもないまま付け焼刃的に発表されたという印象を否めない。そもそも、アフリカ側の要求が援助よりも投資・貿易の促進へ向けた具体的な確約へと移行する今、ODA倍増公約はいまだに最小限の約束すら果たせていない現実をあらわにしたにすぎない。
他方、「横浜宣言」「横浜行動計画」には、アフリカが中国、南米、インドと相次いで開催した協力会議の成果文書に繰り返し盛り込まれた要求への言及がほとんどない。つまり、(1)債務減免措置の強化、(2)発展途上国産品の先進国市場へのアクセス強化、とくに先進国の保護的な農業補助金の廃止、(3)国連や世界銀行、国際通貨基金などにおける途上国の代表性の拡大である。アフリカの要請の力点は、より公正・平等な国際秩序と経済関係の樹立にこそ置かれているのであるが、日本政府はこれに応える意思を示さなかったのである。
それどころか日本は今回も「国連安全保障理事会常任理事国入り」への支持取り付けに奔走した。しかし、5大国の拒否権独占の即時廃止と最終的な拒否権の完全廃止、総会権限の安保理との対等化を柱とする「アフリカ共通の立場」を堅持するアフリカ側はリップサービス以上の言質を与えることはなく、「横浜宣言」では安保理改革の重要性に抽象的な言及がなされるにとどまった。2008年4月のインド・アフリカ首脳会議においても、同じく常任理事国入りへの支持を求めたインドにアフリカ側は妥協せず、デリー宣言ではインドの常任理事国入りの願望とアフリカの立場が両論併記されるにとどまっている。いわゆる「国連の民主化」なしに特定国の特権階級入りを容認することはしないというアフリカ側の固い意志を、日本はこの段階で理解しておくべきだったのである。
本誌第80号の拙稿(「審議会政治」への関与ではなく対アフリカ外交の第三者的監視を)でも指摘したように、アフリカ諸国の関心はパートナーシップの多角化にある。実際、大部分の首脳はFOCAC首脳会議にもTICADⅣにも出席しており、タンザニア(キクウェテ、現AU議長)、ガーナ(クフォー、2007年度AU議長)、コンゴ(サスー=ンゲソ、2006年度AU議長)、ベニン(ヤイ)の4首脳は、2006年11月の韓国アフリカフォーラムにも出席している。つまり、東アジア諸国同士で首脳の出席数を競うことに、実はあまり意味はない。欧州連合(EU)や南米のように、東アジアとアフリカとの「地域間関係」を模索する時に来ているのではないか。「日本が東アジアの経験を媒介する」という時宜を失したスローガンに固執せず、東南アジア諸国連合(ASEAN)を中心として推進される「東アジア共同体」構想に本腰を入れて取り組むべき時である。
取り上げられなかった「人権」
前節でTICADⅣにおける首脳の出席状況に触れたが、しかし、日本がTICADの独自性を明確に打ち出したいのであれば、首脳の出席数などにこだわらず、人権問題に対する積極的な内外政策を提起すべきであった。それも、日本の政治のあり方を問わず一方的にアフリカの「グッド・ガヴァナンス」(良き統治)を説くのではなく、包括的な人権問題に対する積極姿勢を打ち出すべきだったのである。それこそが、南アフリカのアパルトヘイト体制をはじめとする人権侵害体制との協力の歴史をもつ日本が、歴史的責任の清算としてなすべきことであろう。しかし、TICADⅣにおいてそれが実現することはなかった。
TICADⅣを受けた7月初めの北海道洞爺湖G8サミット(以下、G8サミット)ではジンバブウェのムガベ政権を厳しく非難する特別声明が発表された。大統領選挙における暴力による権力居座りなど、数々の失政を重ね国の混乱をもたらしたムガベ大統領が非難されるべきなのは当然である。しかし日本を含む従来からのサミット参加諸国は、1980年の同国独立後に、白人少数支配体制の遺制を一掃するために必要であった抜本的土地改革を先送りしたムガベを「穏健で現実的な指導者」だと持ち上げ、1983年に同政権が南部マタベレランドで2万人以上を虐殺した事件に目をつぶった過去を省みようとしない。ジンバブウェの社会構造の正常化を支援しなかった責任を棚に上げて、ムガベ個人を悪役に仕立てて済む問題であろうか。
一方で、本誌第80号の拙稿で指摘した、国連総会においてアフリカが重視しながら日本政府が否定的な投票行動を重ねてきた「普遍的人権」の諸問題(傭兵の法的規制や、移民の権利など)について、TICADⅣの成果文書には何らの言及もない。アフリカとの「パートナーシップ」をうたうTICADの足下で、移民・難民の権利に否定的な日本の入国管理政策に起因する在日アフリカ人市民の人権侵害が続くという深刻な矛盾は、バレンタインさん裁判の例にも示されている。このような日本自身の人権に対する姿勢を問う努力は、まったくなされなかったのである。
また、ダールフール地方における深刻な虐殺・人権侵害が国際的に憂慮される中でスーダンのバシール大統領をTICADⅣに招聘したことは、同国南部に展開する国連スーダン派遣団(UNMIS)への自衛隊派遣に道筋をつけるためなら、ダールフールの人々の人権も命も顧みない姿勢だと受け取られても仕方のないものであった。そもそもUNMISへの貢献を協議するためであれば、包括和平協定(CPA)のもう一方の主要当事者であるスーダン人民解放運動/軍(SPLM/A)の指導者キール第1副大統領兼南部スーダン政府大統領を同時に招聘するべきであったろう。1989年のクーデタによる政権獲得以来、ダールフール地方のみならず南部、ヌバ山地など全国で暴力的弾圧を繰り広げてきたバシールのみを招聘することは、日本政府がバシール一派の正統性を認証するに等しい行為である。
さらに、日本サハラウイ協会などが要求してきた、AU加盟国サハラ・アラブ民主共和国(RASD:西サハラの亡命政府)のTICAD招聘を日本政府は今回も拒否し、アフリカ最長の紛争であり、国連安保理の議題でもある西サハラ問題の公正な解決に向け、何らの意思表明もすることはなかった。かえって、当協会の公開質問状を受けて財務省が西サハラ(被占領地域)産資源の正確な申告を輸入業者に指導した結果、財務省貿易統計において1996年以来12年ぶりに(これまで「モロッコ」からの輸入として計上されていた)西サハラ産リン鉱石の「輸入」数値が復活した。被占領・難民という境遇にさらされるサハラウイの「開発の権利」を侵害する、占領国モロッコを通じた資源収奪の実態が、明るみに出たのである。
TICADⅣの直前に、これを疑問視する立場の市民団体の招聘により来日しようとした南アフリカの著名な社会活動家トレバー・ングワネさんは、日本政府の作為的なビザ発給拒否により来日と集会への参加を阻止された。上述した西サハラの排除とングワネさんの来日阻止に通底するのは、アフリカの抑圧された人びとの声をTICADおよびその周辺から排除するという、日本政府の人権軽視の姿勢にほかならない。
「市民参加」の虚妄
TICADⅣの会場(パシフィコ横浜)周辺は厳戒態勢が敷かれ、一般市民が会議にアクセスする余地は関連イベント以外、皆無に等しかった。筆者を含む市民団体有志5名はTICADⅣ開幕日の朝に、会場前で西サハラの排除とングワネさんの来日阻止に抗議するビラの頒布を試みたが、50人を超える私服・制服警官に包囲され阻止された。続く小規模なデモンストレーションも「集団示威行動にあたる」と警告を受け、その後も公安刑事に尾行され続けるという有様であった。丸腰の少数の市民による抗議行動を警官の数の力で威圧し排除する、これがTICAD会場周辺に存在した現実であった。それはG8サミットにおける過剰警備・市民運動排除の予行演習というべきものであった。
一方、外務省との定期協議を重ねてきた日本のNGO諸団体、およびアフリカから招かれたNGO代表者ら、56団体87名のNGO関係者がTICAD会場内に入ることを許可された。しかし「市民参加」の建前とは裏腹に、これらNGOの会議室入場パスはわずか11枚しか発給されず(当初は3枚と発表された)、実質的にはNGOの活動と主張を紹介するブースおよび「市民社会セッション」での活動しか許されなかったことが報告されている。アフリカから来日したNGO代表やジャーナリストも、討議そのものを見る機会はほとんどテレビモニターに限定されていたという。当然ながら、「横浜宣言」および「横浜行動計画」に対する市民の意見の反映はきわめて限定的であった。
憂慮されるのは、TICADへの「入場」を政府に認められた一部の「市民」(NGO)と、TICADの会場にすら近づけない大部分の市民(アフリカ人を含む)の「階層分化」の進行である。TICAD会場内で開催された、一般市民の参加できない「市民社会セッション」は、日本政府による市民分断がもたらした矛盾を典型的に象徴している。その意味で、TICADⅣは今までのTICAD以上に、一部民間人をアリバイ作りに利用する「審議会政治」としての「成功」を収めたと筆者は考える。NGOはこのような市民分断の構造がもたらす危険性に、もっと自覚的であるべきではないだろうか。