TICADⅣへの対抗アクションから学んだこと

Learning from critical view of TICAD4

『アフリカNOW』82号(2008年10月31日発行)掲載

大友深雪さんと京極紀子さんインタビュー 聞き手:茂住衛

おおとも みゆき、きょうごく のりこ:ともに「横浜でG8とTICADを考える会」を立ち上げ参加。普段は「『日の丸・君が代』の法制化と強制に反対する神奈川の会」をフィールドに、盗聴法・共謀罪・住基ネットなどの監視社会に対抗する運動や反戦・反基地運動など、運動地域でさまざまな活動に参加している。

もずみ まもる:AJF理事、『アフリカNOW』編集部。


- 大友さんと京極さんは「横浜でG8とTICADを考える会」を発足されて、TICADⅣと北海道洞爺湖G8サミット(以下、G8サミット)への対抗アクションを実施されました。この会の活動は、どのようにして始まったのですか。

京極: 私は、日本で開催される今年のG8サミットに向けて日本の中で対抗アクションを起こしたいし、起こるべきだと考えていました。昨年5月ころに、私自身の生活圏でもある横浜でTICADⅣが開催されるということを聞き、何か運動をつくり出したいと考えたのです。中田横浜市長は当初、G8サミットを横浜に誘致しようと考えていましたが、今年のG8サミットの開催地が北海道・洞爺湖に決定した直後に急きょ、TICADⅣを横浜に引っ張ってきたようです。私はTICADについて、このとき初めて知りました。ですからTICADⅣについては、アフリカ関連の国際会議というよりは、G8サミット関連の国際会議という認識が最初から強かったですね。
TICADⅣについて関心を持って調べていくと、G8サミットと共通したテーマが取り上げられていますし、新自由主義者の中田市長のやること不信感もありました。中田市長はパフォーマンスは派手ですが、就任直後から、安心・安全条例の制定や警察による警備の強化などの治安管理を積極的に進めています。実際にTICADⅣに向けたテロ警備ということで、横浜市営地下鉄バスや市営バスに警察官が乗り込むという事態も起きました。
一方で、TICADⅣに対する運動を実際にどのように進めていくのかを考えたときに、最初からかなりのハードルの高さを実感していました。私自身は、これまでアフリカ関連の問題に直接に取り組んだことはありませんでした。日本にもアフリカに関わるNGOがいくつもあり活発に活動している中で、それらの団体をさしおいて、いわば「素人」の私たちがTICAD に対して何か発言するということは、正直なところ躊躇しました。大友さんがアパルトヘイト時代から南アフリカの教育支援に関わっていたので、ワラにもすがる思いで、まず私自身が彼女に話を聞くことから運動の手がかりをつかんでいくことにしたのです。そうこうしているうちに、地域で一緒になってさまざまな市民運動に取り組んでいる仲間の中から、G8サミットとTICADⅣに対して何かできないか? という声があがって、今年の3月に「横浜でG8とTICADを考える会」の発足のための相談会を開きました。

- 大友さんは、京極さんから話を聞かれてどのように考えられましたか。

大友: 私自身がアフリカと関わってきたということと、神奈川で日の丸・君が代の強制に反対する運動や教育の民営化に反対する運動などに参加していることは、私自身の中では整合性をつけていたつもりでも、整理がつかずに断絶していたところもありました。京極さんに「アフリカにどのように関わっているのですか」と問われる中で、両方の運動に関わる自分のスタンスを改めて確認するようになりましたね。自分とアフリカとの関わりに向き合うためにも、TICADとはいったい何なのか、TICADⅣに対する運動を実施することは、自分たちが神奈川で行ってきた運動とどのようにつながるのか、今後の運動にどのように活かしていけるのか、といった課題があると思いました。

- 大友さんは、アフリカとどのように関ってこられたのですか。

大友: 1987年に、国連が「人類に対する犯罪」と断罪した南アフリカのアパルトヘイト体制のもとで、当時は非合法組織であったANC(アフリカ民族会議)の東京事務所が開設されました。私はその2年後の1989年に、神奈川県秦野市で部落解放同盟とアムネスティーの共催でANC東京事務所代表のマツィーラさんの講演会が開催されたとき、秦野在勤としてさまざまな市民運動にも顔を出していた関係で、この集会で通訳を担当しました。一方、私の所属していた神奈川県高等学校教職員組合の平和問題小委員会が同じような講演会を企画したときは、同僚を誘って参加しました。これらのことをきっかけに、ANC東京事務所のお手伝いをするようになったのです。
そうした中であるとき、私を含め関東近縁から教員5名がANC東京事務所に呼ばれ、南アフリカでの黒人と白人の教育格差を埋めるために,日本の教育関係者で、奨学金制度を検討してもらえないかと持ちかけられました。そこで私たちは、「南ア黒人の教育を支える会」(1995年に「南部アフリカの教育を支える会」に名称変更)を結成し、当時のANCの用語に即して、”People’s Education Support Fund, Japan”という英語名を付けました。そしてネルソン・マンデラさんが釈放された翌年、1991年の8月に南アフリカを訪れ、現地の教職員組合、教会組織、NGOのメンバーなどと、どういった支援ができるのかということを話し合いました。それ以来、主に南アフリカの子どもたちへの教育支援を続けてきましたが、こうした援助をいつまで続けていくべきか、いや続けていていいのだろうかという疑問も持ちながら、援助対象・内容を慎重に吟味しながら、今日まで細々と活動を続けてきました。
また私は、1993年10月に第1回目のTICADの直前に開催され、AJFの結成の契機になった「アフリカシンポジウム」に参加しています。しかし、そのときは事情もよくわからずに、なんだか「場違い」なところに参加しているのではないかという感想をもってしまいましたね。何しろ最初は、そのシンポジウムをTICADそのものだと勘違いしていたくらいですから。その後は、TICADが5年ごとに開催されていたことは知っていましたが、私自身がTICADに関わることはありませんでした。
京極: 大友さんから最初にTICADについて話を聞いたときに、アフリカに関わる日本のNGOは何団体もTICADに関わっているし、TICADのときにアフリカから来日するNGOもあるが、それらのNGOは、TICADそのものに対して「反対」の意見表明をしているわけではない、「TICADの開催に反対する」と主張することは結構大変なことだと言われました。それでも、横浜で開催されるTICADⅣに対して自分たちが「おかしい」と思うことについてはきちんと表明して、自分たちができることをやろう、という話になりました。

- TICADⅣに対して、どのような対抗アクションを行ってこられましたか。

京極: 前述したように、今年の3月に、「横浜でG8とTICADを考える会」の発足のための相談会を開いたときに、まずアフリカのことについての基礎的な学習も必要だということで、4月21日に「G8とアフリカ開発会議がもたらすもの? 貧困・環境破壊・戦争を考える学習会」を開催。小倉利丸さんからはG8サミットにおけるアフリカ問題の取り上げ方について、勝俣誠さんからは今年になって食料暴動が勃発したアフリカの現状について、木元茂夫さんからは自衛隊のスーダン派兵について、それぞれ話してもらいました。この後で、TICADについてもう少し詳しく学習しようということで、5月16日にAJFのアフリカひろば(4月19日)で話を聞いた高林敏之さんを招いた学習会を開催しました。
そして、TICADⅣ本番直前の日曜日の5月25日に、「アフリカの貧困・環境破壊・戦争を考えるデモと集会」を開催しました。この日は、TICADⅣ・NGOネットワーク(TNnet)主催の”Peoples’ TICAD”も開催されていたようですが、午後3時からTICADⅣの会場(パシフィコ横浜)近くの桜木町駅前から山下公園までのデモを行い、”Peoples’ TICAD”の会場の前も通過しました。午後5時半からは、場所を変えて集会を開催。昼のデモと夜の集会で参加者は何人か入れ替わっていますが、のべ100人以上の人がこのアクションに参加しましたね。  このデモと集会では、南アフリカからソエト電力危機委員会(SECC)のトレバー・ングワネ(Trevor Ngwane)さんの招へいを予定していましたが、在南アフリカ日本大使館が彼へのビザ発給を意図的に遅らせたために、来日することができなくなりました。夜の集会では急きょ予定を変更して、ングワネさんへの実質的なビザ発給拒否に対して、参加者一同で首相と外務大臣にあてて緊急の抗議声明を採択し、合わせて何人かのスピーカーからTICADとG8サミットに関わる問題提起をしてもらいました。この抗議声明は、TICADⅣ初日の5月28日まで賛同人を集め、同日に横浜市役所で記者会見も行いました。

- TICADⅣの開催中は、どのようなアクションに取り組まれましたか。

京極: TICADⅣ初日の5月28日に日本サハラウイ協会が、西サハラがTICADに参加できないことを訴えるビラをTICADⅣ会場のパシフィコ横浜周辺でまくことを計画していました。そこで、私たちも一緒にTICADⅣの開催に疑問を投げかけるビラをまくことにしました。当日は、桜木町駅に午前8時に集合して、合計5人でTICADⅣの会場に向かったのですが、とにかく会場周辺の警備が異様でした。桜木町駅から会場のパシフィコ横浜に近づいていくにしたがって、TICADⅣに参加する人たち以外には私たちしか歩いていないといった閑散とした雰囲気で、TICADが「開かれた」会議ではないということを象徴していましたね。しかも、桜木町駅から私たちを尾行してきた警察官が、会場周辺に近づくにつれて密集してきて、会場周辺では数十人の警察官に完全に取り囲まれてしまいました。日本サハラウイ協会の方に聞いたところ、5年前のTICADⅢ(会場は東京・新高輪プリンスホテル)のときと比べて、警備は格段に強化されたようです。TICADⅢのときは多少の警備員はいても、会場のホテルのロビーではTICAD参加者にこっそりとビラを配布することができたと聞きました。
結局は、会場周辺で警察官に完全に取り囲まれてしまい、しかも私たちに近づいてくる人もあまりいないので、その場でビラまきをすることは断念せざるをえなくなりました。会場周辺を散策していると、神奈川県警から「何をするつもりなのか。いつまでここにいるのか」と問い詰められてしまい、仕方なく桜木町駅方面に戻りました。ところで、パシフィコ横浜から桜木町駅に戻る途中に動く歩道があります。私たちは帰り道にせっかくここまで来たからということで、急きょ持参してきたプラカードやサハラ・アラブ民主共和国の国旗を掲げて動く歩道を往復するというアクションを行いました。それも動く歩道を3往復した時点で、神奈川県警から「これ以上やると(無許可の)集団的示威行為になる」という警告を受けて、その場でのアクションは終えることにしました。この日は午前11時から、横浜市役所でトレバー・ングワネさんへの実質的なビザ発給拒否に抗議する記者会見も行いましたが、横浜市役所の内外にも何人もの警察官が配置されていましたね。
また、この日の夕方に朝日新聞神奈川支局の記者から、朝のアクションについて、問い合わせの電話をもらいました。この記者は、普段は警察担当だと言っていましたが、神奈川県警に「TICADⅣの開催に反対行動をする団体はいるのか」と問い合わせて、私たちのアクションについて知ったそうです。この記者は、記者会見には参加していませんが、記者会見の資料を入手して、私に連絡をくれたと言っていました。TICADⅣの開催期間中、神奈川の記者は総出で取材にあたっていて、彼もTICADⅣの会場内に入ったようですが、会場内ではアフリカからの代表団の家族と思われる着飾った子どもたちが走り回っていたり、家族でショッピングでも楽しんでいるような雰囲気で、国際会議に参加してアフリカの開発について話し合う雰囲気ではまったくない。莫大な税金を使ってTICADⅣを開催しているのもかかわらず、掲げている理念や課題と実態にはあまりにもギャップがあるのではないかと疑問を感じ、TICADⅣの開催に批判的な市民の取り組みはないかと思い、警察に問い合わせたようです。

- 記者会見の様子は、どのようなものでしたか。

京極: 5月25日のアクションでは、トレバー・ングワネさんをメインスピーカーとして予定していたので、彼の来日が妨害されたことは、私たちにとって大きな損失になりました。この事態について、このままで終わらせてはならないということで、5月28日まで首相と外務大臣にあてて緊急の抗議声明の賛同人を集め、同日に横浜市役所で記者会見も行ったのです。この日の記者会見は、日本サハラウイ協会の方と合同で行いました。
記者会見では、ングワネさんへの実質的な入国拒否の経過を説明して、TICADⅣが「元気なアフリカ」を銘打っていながら、実際にはトレバー・ングワネさんがTICAD批判の声をあげることを妨害したことに、日本政府のアフリカの人々への対応の本質が表れているのではないかということを訴えました。記者会見に来たのは、神奈川新聞、東京新聞、読売新聞、NHKなどの記者が5人ほど。全員がTICADⅣの会場内でも取材していましたが、ングワネさんの来日妨害の件についても西サハラ問題についても、何も知らなかったようです。記者会見の内容は、翌日の5月29日に神奈川新聞朝刊で報道され、同日の朝日新聞朝刊の神奈川版では私たちのアクションについて、ごく簡潔に紹介されていました。

- TICADⅣへの対抗アクションを通じて、TICADやアフリカに対する認識はどのように深まりましたか。

大友: TICAD自体に対してというよりはアフリカの債務問題について、より深く考える契機になりました。自分が小規模でも南アフリカへの教育支援を続けてきた過程においても、援助だけではどうにもならない大きな問題があることは気づいていましたが、日本政府が実際にアフリカの債務問題に対してどのような責任があるのかということは、具体的にはあまり知りませんでした。アパルトヘイトの時代から、日本政府の対アフリカ外交の基本姿勢は変わっていないのだということを強く実感させられましたね。

京極: TICADⅣに対して初めに直感的に「おかしい」と思ったことの中身がいくらかでも具体化できたり、TICADⅣに対する問題提起ができたことはよかったと思います。ちょうど世界的に食料危機が注目されていた時期で、問題点がわかりやすくなったという事情もありましたね。また、勝俣さんも高林さんも、TICADⅣでの「元気なアフリカ」という日本政府のスローガンに対して、「アフリカに『元気』がないと言い方をするのはとても傲慢だ」「アフリカの『元気』が奪われているとするならば、その責任は先進国の側にある」ということを強調していました。TICADや日本政府の対アフリカ政策への批判について、最初はあまり自信がなかったことが確信に変わっていきましたね。高林さんの話を聞いて、TICADにモロッコ政府は招待されていても、西サハラの代表は招待されないということを始めて知りましたが、このことはTICADという国際会議の欺まん性を表していると言えるでしょう。
また、日本のODA特に円借款が、アフリカの人々の生活向上のために使われるのではなく、民営化を推進したり、巨大インフラの整備を通じて援助をする日本の側に資金が環流する構造になっていることも、改めて確認することができました。また、アフリカの指導者たちが自ら進める新自由主義の政策のために重視している「アフリカ開発のための新パートナーシップ」(NEPAD)を日本政府が支持していることに対する批判もあります。人々を底辺に向けて競争させる新自由主義の問題点は、アフリカでも日本を含めた先進国でも同じことなのだと実感しました。トレバー・ングワネさんが来たならば、共通の課題と闘いの視点を共有化することができたと思います。

- 福田首相が表明した対アフリカ向けODAの今後5年間での倍増については、どのように評価されますか。

京極: 基本的には、日本の国連安保理の常任理事国入りをねらって、お金でアフリカ諸国の票を買うという構図が見えていますね。また、新たな円借款が増えると、それは更なる債務としてアフリカ諸国にのしかかることになります。またODAとは違いますが、TICADⅣの成果文章の一つである「横浜行動計画」の中で、アフリカの経済成長の加速化のために民間企業による外国投資が推奨されていますが、これは結局、民営化の推進と日本企業の利益の拡大のための方策になるのではないでしょうか。

大友: 日本のODAの多くは、南アフリカであれば結局のところ現在のANC政権の中枢とその取り巻きの人たちしかうるおわないような援助になっているのではないですか。しかも、日本企業のもうけにならないことはあまりやらないのだから、そうした援助ならば、いっそのことやめてしまった方がよいのではないかと思います。同時に、アフリカからの富の収奪も止めるべきですね。
私たちが行っている教育支援の援助は規模が小さいので、何か問題が生じたならばすぐに撤退することもできるし、せめてマイナスにはならないようにコントロールすることもできると思っています。しかし、援助の規模が大きくなれば、依存体質からの脱出が難しくなり、それに絡む利権発生を防ぐことも難しくなるのではないでしょうか。援助するとしたら、それは食料主権による庶民の食料、水と電気、最低限の医療と教育の保障を促す様な援助であるべきだし、これらが自前でまかなえるようになったら、援助はやめるべきでしょう。

京極: アフリカの人々が自立していくための援助ならよいのですが、日本のODAの多くはそのようなものになっていないでしょう。むしろ基本的には、人を使い捨て生活できなくさせる新自由主義のシステムをアフリカ諸国に受け入れさせるための道具として、ODAが使われているのではないでしょうか。例えば、先進国がアフリカ各国の債務を取り消すと言っても、実際には無条件の債務帳消しではなく、いくつもの条件をつけて、新自由主義のシステムを全面的に受け入れた国にのみ債務を取り消していくというやり方をとっていますね。日本政府がアフリカに向けたODAを倍増させても、新自由主義に基づく政策を進めようとする人たちに渡そうとしているわけで、それはアフリカの困難さをいっそう強めるものにしかならないと思います。

- TICADⅣの開催に合わせて、横浜市は「一校一国」や「一駅一国」運動に取り組み、市内の小・中学校でアフリカに関する授業が行われたり、横浜市営地下鉄の各駅でアフリカ各国のイベントが開催されました。また今年のアフリカン・フェスタも、横浜市の要望を受けて横浜・赤レンガ倉庫で開催されました。これらのことは、地元の神奈川新聞などでも頻繁に取り上げられていたようですが、こうした動きについては、どのように評価されていますか。

京極: TICADに関連したイベントなどを自治体が主体的に取り組むということは、TICADⅢまでではほとんどなかったことだと聞いています。またこうした動きによって、TICADⅣが開催されるということが、横浜市民に広範に知れ渡ったことも事実でしょう。また神奈川新聞などでは、TICADⅣの開催が近づくにつれて毎日のようにこれらのイベントやTICADⅣに関する報道がなされていました。しかし、これらの新聞報道や横浜市の宣伝を見ていただけでは、TICADⅣに対する疑問点を実感することは困難ですね。TICADⅣは、地球市民としてアフリカの「貧しい」人々につながり、この人々が直面している問題を解決するための素晴らしいイベントだというくらいの印象しか持てないのではないでしょうか。
その一方で、TICADⅣの直前にはスーダンへの自衛隊派遣に向けた動きが本格化したり、TICADⅣで福田首相(当時)がアフリカ各国の首脳と15分ずつ面会することが国連安保理の常任理事国入りをねらった行動だということは、メディアでも報道されていました。こうした報道からは、日本政府が軍事協力を含む日本流の「国際貢献」のためにTICADⅣを利用しようとしていることが読み取れると思います。

- これからは、TICADⅣに対する自分たちの経験をどのように活かしていかれますか。

京極: 私たちの取り組みは、例えば沖縄についで米軍基地の多い神奈川での反基地運動の視点からすると自衛隊のスーダン派遣に対してどのように考えるのかというように、自分たちの運動とアフリカの問題をつなげていくことを出発点にしていました。私が住む地元の米軍座間基地に米陸軍の第一軍団司令部が移転してくることに反対して、地域の仲間たちと毎月デモを行っています。今年の6月のデモのときには、インド洋のディエゴガルシア島の米軍基地に反対するグループの女性が参加しました。ディエゴガルシア島では、米軍基地建設のために住民が島から追い出されてしまったり、アフガニスタン戦争やイラク戦争のときには島の基地から米軍の戦闘機が飛び立って行くということを経験しています。私自身は、TICADⅣに対する取り組みの中で学んだ、自衛隊のスーダン派遣とも関連する米軍のアフリカ軍創設の話と彼女の話が結びついて捉えられるようになりました。
また、今年のG8サミットの対抗アクションで札幌に行き、国際民衆連帯デイズに参加したときにも、TICADのことは、日本人にもアフリカからの参加者にもあまり知られていないことがわかり、TICADのことは私たちから発信していかなくてはならないと実感しました。「横浜でG8とTICADを考える会」は、10月に大友さんの南アフリカ報告会を開催して一区切りになりますが、今回の経験で学んだことに関心を持ち続け、これからも何らかの形でアフリカの問題に関わっていきたいと思っています。

大友: 京極さんが言われた「私たちから発信していく」といことの必要性は、今年の8月に南アフリカを訪れたときにも考えさせられました。ケープタウン大学の学生と話したときに、持参していたピープルズ・プラン研究所が発行している英文雑誌”Japonesia Review”の3号と4号を見せたところ、購読したいという学生がいました。3号では日本の新自由主義と保守主義を、4号では安倍政権の崩壊とG8北海道・洞爺湖サミットを特集していたのですが、これらのことに関わる問題は、日本だけに関係するものではないでしょう。新自由主義的な政策のもとで深刻化した格差や貧困、外国人排斥の動き、公共サービスの民営化の問題、死刑制度など、南アフリカと日本で共通して問題になっていることとして話し合うことができましたし、いわゆる従軍慰安婦の問題についても興味を持ってもらえました。ですから、こうした雑誌をアフリカのオルタナティブな社会運動団体にも送付して、日本でも南アフリカと共通することを問題にしているということが発信できるのではないかと考えたのです。
さらに、日本からも発信できるようにするためには、それだけの内容をもった運動をつくっていかなくてはならない。そしてそのためにも、私たちが共有できるオルタナティブな社会のイメージを明らかにしていくことが必要ではないかと考えています。南アフリカでは、アパルトヘイト時代からタウンシップと呼ばれてきた地区にホームステイをして、住民が作っている反民営化フォーラム(APF)/ソエト電力危機委員会(SECC)が開催した学習会にも参加しました。そのときは、ジンバブエやモザンビークから南アフリカに入国した「外国人」に対する排斥の動きや暴動について、どのように立ち向かうかということが主なテーマになっていました。そして、その場で何人もが強調したことは、「とにかくジンバブウェやモザンビークからの入国者を自分たちの家に呼んで、一緒に寝泊まりしよう」ということでした。このように、みんなが助け合って何とか生きていこうとする姿の中に、私たちが目指すオルタナティブな社会のイメージの一端が示されているのではないでしょうか。

2008年9月3日 相模大野駅前の喫茶店にて


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