-Journey to Japan-
『アフリカNOW』 No.22(1996年発行)掲載
どこから始めようか。今日は充実した一日であった。今日は1日中いろいろな団体を訪問するスケジュールの最初の日であった。
私の部屋は、日本の伝統的な備え付けがされている。マットレスは部屋の中央の床に置かれ、家具類はあまりない。
私の頭はまだジンバブエ時間だ。昨夜、私は午前1時をだいぶ過ぎた時間まで寝付けなかった。午前1時はジンバブエ時間では午後6時である。
その後、8時45分にYoko(注:事務局長の尾関葉子)に起こされた。彼女は私がいつまでも起きてこないので具合が悪いのでは、と心配していた。
食事を済ませると、私たちはグリーンコープの本部を訪問した。グリーンコープは1960年代後半から活動を始めた協同組合の連合体である。活動開始の際、主役を演じたのは主婦たちであった。1960年代初頭の化学処理された食品の登場以降、主婦たちはさまざまな健康上の問題を抱えており、自分の子どもたちのために安全な製品を見つけるという目的でグリーンコープを設立したのであった。
そうしてできた消費者協同組合は「班」と呼ばれるグループにより構成されている。1つの「班」は5人から6人の構成員を必要とする。班の構成員は定期的に会合を持ち、協同組合からの命令を実施する。
こうした消費者協同組合のもう1つの重要な目的は、都市にいる消費者が彼らが消費している食料の生産地と分離しないために、生産者と消費者とのよりよい関係を築くことである。そうした協同組合はその一方で環境にやさしい生産方法を支持し、また、全ての食料を輸入に頼るのではなく、より自給自足に近づけることを目的とした生産方法を支援している。
今、日本では、強い円を背景に、どこからでも安い食料を輸入しようとする傾向が見られる。多くの農地が、作物が育たないと言う理由で、耕作されていない。グリーンコープ自身、一定量の食料を輸入しているが、輸出国、特に近隣アジア諸国の生産団体とのつながりがあるオルタ・トレード・ジャパンを通じて行っている。例えば彼らは有機栽培されたバナナをフィリピンから輸入している。
消費者協同組合の考え方が紹介されたのは、食料不足で深刻であった第2次大戦後出会った。消費者協同組合は人々が自分たち自身で安定した食料の供給を目指し、それを保証する事のできる1つの方法であった。80年代後半になると、多くの協同組合は自分たちの供給システムをより効率的なものにすることを努力目標とすることと決め、グリーンコープのような連合体を組織した。グリーンコープはおおよそ150万人の人々を代表している。グリーンコープを構成する協同組合の構成員である消費者は主に中流階層の主婦であり、彼らは食品の値段ではなく、安全性により注意を払っている。実際には、(グリーンコープでの)食品の値段はスーパーマーケットの平均の値段と大差はない。グリーンコープは、しかしスーパーマーケットが「特別なセール」での価格(特にセールス品価格)とは競争できない、という。
グリーンコープの本部では、多くの人がコンピュータに向かい、能率的で、うまく機能しているという印象を持った。グリーンコープでの会合の中で、私たちはその日の夕刊に記事を掲載する予定というある新聞社の記者からインタビューを受けた。その人の名は高山一郎さんといった。彼は私たちに、それまでの日本の印象や、セミナーで何を伝えたいか、またこの意見交流がジンバブエのためのどういった効果を生み出すか等について質問をした。シトレさんは(日本の)工業や生産の全体的な考えがいかに彼女に多くの感銘を与えたかについて語った。私はドナー援助(資金援助)の問題について答え、そうした援助が依存性を生み出すとともに、組織のスキルやエンパワーメント、またジンバブエですでに行われている取り組みなどの全体的な問題に考慮していないと言う点で、援助は百害あって一利なしである、と述べた。