徳永瑞子(アフリカ友の会 代表)帰国報告会
『アフリカNOW』 No.15(1995年発行)掲載
10月中旬より一時帰国中のアフリカ友の会の代表徳永瑞子さんの報告会に伺った。アフリカ友の会は中央アフリカ共和国の首都バンギーでエイズ患者の診療とエイズ啓発教育を行っている。今年12月には、現地政府の保健省と活動契約の更新(3年間)をすることになっている。
報告の始めにまず、HIVとAIDS(フランス語圏ではSIDA。中央アフリカはフランス語圏)の違いが述べられた。HIV感染者はAIDS患者ではない。感染者と患者を混同してはいけないと。AIDS患者とは免疫不全の病状を呈した者を言う。
先進国ではHIV感染からAIDS発症まで10年前後、AIDS発症から死亡まで2~3年と言われている。中央アフリカの場合は感染から発症までの期間が短い。尤も、いつ感染したかわからないことがあり、徳永さんの働く診療所に来た時には大抵発症している。しかし、発症から死亡に至る長さは、先進国のそれと変わらない。むしろ長生きしているくらいだと、徳永さんは語る。
発症から死亡までの期間が長い(と言っても2~3年ではあるが)理由の一つは、この国に先端医療も薬もないため、使いたくともしえず却って人間の持つ自然治癒力を引き出しているのではないかと言うことだ。また、先進国で死んだ患者の例を引きながら、先端医療によって種類の違う点滴瓶を何本も掛けられ、毎日山のような錠薬を服用しながら、死の間際の日々を苦痛に悶えながら過ごす人々を思うと、己の無力感に苛まれながらも、医療がないために闘病生活中膨大な薬の副作用に苦しむことなく、ロウソクの灯が燃え尽きるように安らかに命を閉じることが、バンギーでの活動の慰めになっているという。
中央アフリカ(大方のアフリカがそうであろう)ではAIDSの問題は社会福祉の問題であるという。
AIDSの患者は、多くが若者であり、家族の経済を支える大黒柱だ。彼らが病気で死ぬと、家族は飢えで死ぬことに直面する。目の前の患者だけを看ているだけでは事は済まない。彼らの後ろに控える家族を含めて支えて行く覚悟が必要だという。
例えば診療所では、患者に対する給食サービスを毎日行い、週に1度米や魚の配給を行っている。配給はもちろんだが、給食サービスさえ彼らは自分の口に入れず、持参の鍋に放り込み、自宅に持ち帰り自分の子どもたちに与えている。これでは、患者の体力のつけようがない。
女性患者が性病にかかったと来所する。シングルマザーの場合、手っ取りばやく現金を得る手立ての売春をする。自分が病気だからと何もしなければ、子どもたちや家族が飢えてしまう。だから、自分がAIDS患者だとは判っていても売春をする。病気だからと構っていられない。”飢えて死ぬ方がAIDSより怖い”のだ。
徳永さんたちはAIDS患者に性交渉は禁止はしないが、コンドームを使用するように勧めている。そのための、コンドームも無料で配布している。しかし、HIV感染は広がるし、母子感染も多い。
中央アフリカにおいて母子感染率は40%と非常に高い。女性たちは子どもを産むことが重要とされる。彼女たちは子どもを産むことが重要とされる。彼女たちは60%のマイナスの確率に賭けて、コンドームを使わずに性交渉をする。徳永さんは彼女たちに、子どもを産むなとはいえないと語る。部族社会においては、子どもを産むことが大切なのだ。
ここでも問題が出ている。母子感染の乳児は生後1年以内に死亡するが、非感染の子どもたちは生き続ける。しかし、その子たちのほとんどはAIDS孤児になり、ストリートチルドレンになっていく。女の子たちは売春してやがてHIV感染をし、AIDS患者になる可能性が大きい。AIDS感染乳児は社会問題にならない(それは早期に死亡するため)が、非感染の子たちが社会問題となっていくという。
中央アフリカにおいては、AIDSで死ぬことなど怖くはないのだ。HIVに感染しAIDSで死ぬのは数年先の事。それよりも、明日食べられるか、食べられないかが重要なのだと。
アフリカ友の会は10月にエイズ福祉センターを開所している。ここでは、AIDS患者のデイケアを行っている。建設費から運営費まで、全てを会で賄っており、国からの援助は一切ない。尤も公務員の給与が2~3ヵ月遅配(隣国のコンゴやザイールは1年遅配)の状況では、援助なぞ望むべくもない。
このセンターでは患者たちが働いている。そのため、軋轢がしょっちゅうだ。健康な人間を置き、円滑な運営を計っているという。
今回、報告会に出席しAIDS問題に対して改めて考えさせられた。医療の発展の是非はさて置き、”AIDSで死ぬことよりも、明日食えるか食えないかの方が重要な問題”という現実の重み。”エイズは社会福祉(そして社会開発)の問題でもある”という背景。HIV感染拡大の問題が解決し、患者が安心して治療を受けられるようになるには、社会全体が体力を付けねばならないのだろう。
どうすればいいのか。深く考えさせられた。