The leading role of women in the anti-apartheid movement
『アフリカNOW』110号(2018年3月31日発行)掲載
※ 本稿は、2017年5月27日に開催された研究会「反アパルトヘイト運動と女性、文学」における津山直子さんのスピーチをまとめました。
津山 直子
つやま なおこ:AJF 代表理事(2014年から)。関西大学客員教授。スウェーデン留学中に反アパルトヘイト運動に参加し、帰国後、1988〜1992年にアフリカ民族会議(ANC)東京事務所に勤務。1992年に日本国際ボランティアセンター(JVC)のスタッフとなり、1994年〜2009年に南アフリカ現地代表を務める。「草の根からの変革」をテーマに活動してきた。
私は、社会福祉について学ぶために行ったスウェーデンで反アパルトヘイト運動に関わるようになり、帰国後、1988年にANC(アフリカ民族会議)東京事務所ができ、専従スタッフとなりました。総評に加盟する自治労や日教組などの労働組合がANC のために基金を作り、私の雇用にもつながりました。ANC は、南アフリカ国内では活動を禁止された非合法団体でしたが、1990年2月にPAC などと活動禁止が解かれ、ネルソン・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)も釈放されました。マンデラはその年の10月に来日しました。くぼたさんも話された1989年の「アシナマリ」来日公演は、それまで経済制裁など南アフリカへの制裁措置の一つであった文化的ボイコットに関して、反アパルトヘイトの立場に立つものは例外とする、という世界的な動きの中で実現したものでした。
アパルトヘイトが強化される中での女性の運動
南アフリカの反アパルトヘイト運動の歴史を見ていくと、女性たちが人種の枠を超えた運動を先進的に行っていたことがわかります。女性たちの運動が1950年代の不服従運動や1990年代の民主化のときにも重要な局面を担っていた。それは、全人種参加の総選挙や新憲法の制定にもつながります。
南アフリカの女性たちの運動は1910年代に始まりました。1910年代というのは土地法がつくられ黒人の土地が奪われていく、その中で男性は金やダイヤモンドの鉱山などに出稼ぎに行かざるをえない状況になてきて、黒人だけが持たされる身分証とか、雇用主から毎月証明をもらわないといけないなど、パス法ができる前からすでに始まっていました。そのことに反対する女性たちの運動は各地で生まれ、1956年8月9 日にプレトリアの大統領府への抗議デモに全国から2万人の女性が集まった歴史的な行動へとつながっていきます。
1940年代には、都市のインフォーマルな居住区、貧困地域などでの女性たちの活動が活発になりました。近所や教会の仲間で集い、お金を貯めて融通しあう自助グループが各地にでき、それが女性たちの運動を広げる草の根の場にもなったのです。男性と一緒にバスの運賃値上げに反対したバス・ボイコット運動では、バスを使わず歩き、抗議デモをして、バス運賃の値上げを撤回させました。
ANC 女性同盟の活動は1948年に始まりましたが、同じ年に国民党政権によりアパルトヘイト政策が導入されました。女性たちは、団体・人種を超えた運動が重要であると動き、南アフリカ女性連合(Federation of South African Women:FEDSAW)が1954年4月17日に設立され、女性憲章(Women’ s Charter)が採択されたのです。男女平等の社会の実現のために雇用、賃金、婚姻、財産などにおける平等、出産休暇の保障、すべての人種の子どもたちの無料の義務教育などを求めました。その翌年の1955年には、自由憲章(Freedom Charter)をつくった3,000人の集会がジョハネスバーグのソウェトで行われましたが、女性憲章は先にできていたのです。女性憲章の存在や女性たちの運動は、自由憲章という自由で平等な南アフリカを求めた憲章づくりに影響を与えました。
1964年にはネルソン・マンデラらが投獄され、1970年代に入ると、黒人意識運動(6 ページの注(2)を参照)など、若者を中心にした運動が広がりました。1976年6月16 日にソウェト蜂起が起こりましたが、1970年代から1980年代にかけて学生、女性、労働者などの運動が南アフリカ各地で広がり、政府による弾圧に屈せず大衆民主化運動(Mass Democratic Movement)として強固なものになりました。
1983年には、200以上の団体が集まり統一民主戦線(United Democratic Front: UDF)ができました。この中心になったリーダーの一人が、ネルソン・マンデラとともにロベン島に投獄されたウォルター・シスルの妻のアルベティーナ・シスル(Albertina Sisulu)です。ウォルターは投獄された時、ANC の書記長でした。アルベティーナはソウェトに住み、自分も何度も逮捕・投獄されながら看護師として働き、ANC や地域での運動のリーダーとなり、夫不在の家を守り、子どもたちを育てました。アルベティーナらは1984年に、くぼたさんの話にも出てきたトランスバール女性連合(FEDTRAW)を設立しました。トランスバールというのは、ジョハネスバーグやプレトリアがあるエリアです。その後1987年に、全国的なUDF 女性会議(UDF Women’s Congress)ができました。
人種差別も性差別もない社会の実現に向けて
1990年にANC などが合法化されると、1991年には民主南アフリカ会議(Convention of a Democratic South Africa : CODESA)が開かれて、人種を超えてさまざまな組織が参加し、新憲法や選挙実施についての話し合いが開始されました。同時に、女性たちは、組織を超えて女性全国連合(Women’s National Coalition: WNC)設立に動きました。1950年代に女性憲章が自由憲章につながったのと同じように、憲法にしっかりと男女平等や人権保障を入れていくために、政党や人種を超えて女性たちが一緒に取り組みを進めたのです。とにかくWomen というのが一番重要だから、それを最初に持ってこようと、National Women’s Coalition ではなくWomen’s National Coalition という名称にしたのです。WNC は全国的に広がり、200万人の女性が参加しました。
私はANC が合法化された後に晴れて南アフリカに渡航できるようになり、1990年5月に初めて南アフリカに行きました。その時、ANC 女性同盟(ANC Women’s League)の大会が開催され、国外に亡命していた人も戻ってきて、国内で運動していた人と一同に会したのです。喜びにあふれ、すごい熱気でした。
1996年に制定された南アフリカの新憲法は、優れた憲法として世界的にも評価されていますが、その憲法の、特に人権保障を規定した権利章典(Bill of Rights)について、女性たちの運動が大きな貢献をしました。また、1994年4月の全人種参加の初の総選挙のときに、女性候補者の割合を高めることにつながりました。ANC の中では、候補者の30%を女性にすることが決められ、その後、1996年に40%、2000年には男女50%ずつとしました。現在、国会議員の女性の割合は41.5%で、世界10位です。列国議会同盟(IPU)による193ヵ国の比較では、日本はずっと少なく、衆議院で9.3%で164位です(1)。
反アパルトヘイト運動のスローガンで、「人種差別も性差別もない民主的な南アフリカを実現しよう」と繰り返され、男性たちも言ってはいたけれども、本当に性差別のない社会にしようという部分では、女性たちの先進的な運動があったからこそと思います。
政治的な運動と草の根での地域活動の両立
私は1992 年から日本国際ボランティアセンター(Japan International Volunteer Center : JVC)のスタッフとして、南アフリカの農村やタウンシップで草の根での活動をしてきましたが、その中で出会った女性たちも、こうした女性運動にも関わっていた人たちでした。最初にJVC が一緒に活動した現地のNGO は、黒人意識運動のリーダーだった女性が、自分の村に帰って女性の協働組合の活動を始めたところでした。東ケープ州の、当時はまだトランスカイ・ホームランドだった農村地域です。
ソウェトやその周辺のスラム地域で活動していく中でも、障害を持った子どもたちのケアを地域の女性たちが始めたり、学校のない地域で教え始めた人たちがいて、コミュニティの人々が運営する学校になったり、そういったところで一緒に活動し、研修を行ったり、施設を改善していくこともしました。
くぼたさんの話でも名前が出たノマテンバ・ンゲレーザさんは、ソウェトで活動していた一人で、アルベティーナ・シスルさんとも非常に近い人でした。彼女の夫もロベン島に投獄されていたので、同じような苦労がある中で活動していました。
佐竹さんが世話人を務める、関西・南部アフリカネットワークは、前身の反アパルトヘイト関西連絡会から数え、今年(2017年)で設立30周年になります。私も南アフリカでの交流や写真展など一緒に取り組みました。ノムザモ・パークというソウェトの中でも生活が厳しい地域の人たちとつながり、女性たちが保育園をつくったり生活改善の活動するのを支援したり、スタディツアーで訪ねたり、佐竹さんは個人的にも、女子生徒が大学に進学するサポートをしてきました。
こうやって振り返ると、南アフリカの女性たちの運動には、多面的な広がりがあったと思います。女性たちの政治的運動と草の根の活動がつながっているということを感じてきました。
(1)Inter-parliamentary union 1st May 2017
http://archive.ipu.org/wmn-e/arc/classif010517.htm
>>「反アパルトヘイト運動と女性、文学」発言者の対談「南アフリカにおける草の根の女性の闘いと文学の可能性」