反アパルトヘイト運動から研究へ

私の南部アフリカとの関わり

峯陽一さんに聞く Interview with MINE Yoichi

From anti-apartheid activism to Africanist scholarship

My engagement in Southern Africa

『アフリカNOW』105号(2016年6月30日発行)掲載

峯陽一
みね よういち 熊本県天草生まれ。1981年から京都で暮らす。反アパルトヘイト運動に巻き込まれ、やがて他の人たちを巻き込んでいく。現在は同志社大学教授、AJF 理事。担当するゼミ生の半分はアフリカ人学生で、研究の面でもアフリカ人研究者との共同作業に取り組んでいる。南アフリカに関する著書がいくつかあるが、スティーブ・ビコ『俺は書きたいことを書く』(現代企画室)、ネルソン・マンデラ『自由への容易な道はない』(青土社)、シンディウェ・マゴナ『母から母へ』など、南アフリカ人自身の作品の翻訳も心がけている。

聞き手:牧野久美子、津山直子


南部アフリカ問題との出会い

牧野 今日はお忙しいなか、ありがとうございます。数年前、私が日本の反アパルトヘイト運動のことを調べようと思い立ったとき、最初に相談に乗っていただいたのが峯さんと津山さんでした。今日は、一緒にこのプロジェクト(日本学術振興会科学研究費助成事業(科研費)基盤研究(C)「反アパルトヘイト国際連帯運動の研究:日本の事例を中心として」)を進めてくださっている津山さんと一緒に、改めて峯さんに、南部アフリカ問題研究会(京都の反アパルトヘイト運動グループ)での活動から始まって、またその後は研究者として、南部アフリカにどのように関わってこられたのか、お聞きしたいと思います。これまで寄贈していただいたりお預かりしている資料のなかから、関連しそうなものをいくつか持ってきました。たとえば1987〜89年ごろに南部アフリカ問題研究会が出していた”Anti-apartheid News clip”。この時期は、峯さんがつくられていたのではないですか。

峯 ああ、懐かしいな。皆でやりましたが、翻訳とか、僕もだいぶん仕事をしました。あと、ナミビア独立支援のキャンペーンの機関誌も4、5号くらいまで出し、すごい気合い入れてつくっていました。当時はパソコンもでっかいNEC のPC98(PC-9800 シリーズ)で、インクリボンのプリンターで。

牧野 この頃になると、もうパソコンで制作していたのですね。南部アフリカ問題研究会が活動を始めて、機関誌”JOL’IINKOMO” を創刊したのは1981年。このときはすべて手書きだったのに、1980年代の10年間でずいぶん変りましたね。”JOL’IINKOMO” は1981年の1年間に6冊も出して、そのあと発行が止まっています。活動にはずいぶん波があったのでしょうか。

峯 その通りですね。その理由は単純です。これを引っ張っていたのは、神野明さんと砂野幸稔さんで、当時は二人とも大学院生だったので、ご自分の論文の仕事もあったでしょう。だから、後継者というか、若手のメンバーを発掘しないと立ち行かなくなる。言ってみたら、大学サークルですからね。

牧野 代替わりしていかないといけない。

峯 そう。大学院生がやっている大学サークルで、そこに学部生として入っていったのが僕なのです。新入生の僕からすると、大学院生の人たちはすごい大人で、仰ぎ見る存在でした。だけど僕の方も、1980年代前半には学生自治会など、別の運動のほうに巻き込まれて、南部アフリカのことに集中できない状況になりました。大学の寮にいたので、周りにいろんな運動をやっている人たちがたくさんいて。ラテンアメリカのことをやっている人もいたし、日韓連帯をやっている人もいたし、パレスチナのことをやっている人もいた。だから、かなりたくさんの課題があって、みんなで取り組みながら、そのなかで南アフリのことも取り組んでいるという状況でしたね。

津山 その頃の学生自治会は、どのような活動が主要なものでしたか。

峯 学生寮をつぶされてたまるかという寮闘争が大きな活動でした。その他にはいろんな政治課題、三里塚や釜ヶ崎もあった。

津山 大学の自治会だけれども、ほかにもさまざまな政治課題に取り組んでいたんですね。

峯 そう。大学という場所で、いろんな人たちがさまざま活動をやっていたので、南部アフリカのことが特別、ということにはなりませんでした。

牧野 私が”JOL’IINKOMO” を見ていてすごくおもしろいと思ったのは、毎回、「今月のビラ」というコーナーがあって、だいたいラテンアメリカ関係の集会のビラを載せていたことです。ニカラグア革命2周年だとか。あと、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴ(Ngũgĩ wa Thiong’o)をゲストに迎えた「第三世界の民衆と文化運動」シンポジウムが1981年11月に開催され、そこには神野さんと、ケニア出身で後に四国学院大学の平和学の教員になられたゴードンC. ムワンギ(Gordon.C.Mwangi)さんが登壇していますが、これもラテンアメリカ関係の人たちも一緒に行った集会のようですね。

峯 そうそう、僕自身、ニカラグア革命2周年のチラシを見て、ふらっと集会に行ったのが運動のきっかけだったんですよ。その続きで、ラテンアメリカのことに関わろうと思ってボックスに行ったら、曜日を間違えたみたいで、たまたま南部アフリカの研究会を行っていたのです。で、そのまま席に座っていたら、来週もいらっしゃい、という話になった。曜日を間違えなかったら、今ごろはラテンアメリカの専門家になっていたかもしれない。当時、ラテンアメリカの研究会を中心的に担っていた一人が、いま一橋大学教員の鵜飼哲さん。デリダとか現代思想の研究者ですが、当時は京都大学文学部の大学院生でした。それで、南部アフリカの研究会は神野さんと砂野さんが中心になって引っ張っていて、2 つの研究会のボックスが一緒だった。

牧野 ボックスというのは?

峯 部室です。学生新聞の『京都大学新聞』の倉庫みたいな部屋があって、そこにラテンアメリカと南部アフリカの研究会が同居していて、曜日を変えて勉強会などをやっていた。お互いに集会をやるときは、みんなどちらにも参加するというスタイルでしたね。それぞれにメインの思い入れがある活動があって、でも僕は釜ヶ崎の越冬にも行っているし、入管問題の集会があったら行くし、そうやってみんながいろんな課題をそれぞれ支援しながら、自分の思い入れがあるメインの課題はこれという運動スタイルでつながっていました。

牧野 南部アフリカ問題研究会の集会には定期的に出られていたのですか。毎週の勉強会や現代史セミナー、文学を読む会などもあったようですね。

峯 そうですね。そういう会には僕もできるだけ参加しますっていう感じで、でも他のことが忙しくてなかなか出席できないこともあっても、それを尊重してくれていました。欠席が続くと恨まれていたかもしれませんが。

津山 ムワンギさんもいらしたのですか。

峯 いらっしゃいましたよ。あと、宮本正興さんと楠瀬佳子さんが、当時からパトロン的に若手のわれわれを応援してくれていました。

牧野 当時の資料をみると、南部アフリカの経済史や現代史を勉強するというだけでなく、文学を読むこともすごく大事にされていたように思います。

峯 東京でも読書会をやっていたので、その影響もあったと思います。それに京都では、砂野さんはフランス語圏文学が専門だし、楠瀬さんや宮本さんもアフリカ文学の研究者ですから、自然と、第三世界の民衆と文化運動っていうあたりが活動のベースになっていたと思います。すべて政治に流し込むのではなく。

津山 原文で読んでいたのですか。

峯 英語で読んで、でも、やっぱり少しでも多くの人に読んでもらわないといけないから、翻訳したりしていました。

大学院への進学と初めての翻訳出版

津山 学生寮にはいつまで住んでおられましたか。

峯 1987年に大学院に進学したときに学生寮を出たと思います。大学院に行ってから落ち着いて、そこで南アフリカと本格的に付き合いだしました。南アフリカの状況も深刻でした。

津山 卒業論文のテーマは南部アフリカ出稼ぎ労働論でしたね。このとき、影響を受けたり、相談したりした先生はどういう方だったのですか。

峯 このときに指導教授だったのは、イギリス社会主義やイギリス労働運動の専門家の富岡次郎さんでした。富岡さんは、日本でイギリス史っていうと相変わらずヨーロッパのイギリスとしてしか見てないけれど、ロンドンで地下鉄に乗ったらアフリカ系とか南アジア系とかの乗客ばっかりでしょう、こういう現実に切り込むイギリス史でないと駄目なんだ、と言われました。イギリスの移民の歴史を研究して、明石書店から分厚い『現代イギリスの移民労働者』(1988年)を出されました。だから、「アフリカの労働移民っていうテーマはすごくいいから」と応援してくれたのですよ。西洋社会経済史から始まって、そこにコロニアルな視点を入れて書こうとしていた先生ですね。いまはグローバルヒストリーの時代ですが、当時はそういう歴史家はまだ珍しかったのではないでしょうか。富岡さんからすると、僕みたいなテーマの学生も珍しかった。

津山 アジアやアフリカに目を向けていた。

牧野 ある意味、帝国イギリス史のコロニアルな部分を最も体現しているテーマでもありますね。

津山 大学院の先生も富岡さんだったのですか。

峯 いや、世界経済論の本山美彦さん。僕は文学部から大学院は経済学研究科に移って、開発経済学を専攻しました。南アフリカというテーマについては本山さんも応援してくれたし、カリブ海出身の黒人経済学者アーサー・ルイス(William Arthur Lewis)やインドの開発経済学者アマルティア・セン(Amartya Sen)の面白さは、本山さんから学びました。

津山 この頃、峯さんは、スティーブ・ビコ(Stephen Bantu “Steve” Biko)の本『俺は書きたいことを書く〜黒人意識運動の思想』(原題:” I Write What I Like”)を神野さん、前田礼さんと一緒に翻訳されました(1988年に現代企画室から刊行)。

峯 そうです。ビコの黒人意識運動のことは、楠原彰さんも議論しておられて、それがとても素晴らしくて、僕も大きな影響を受けたのですが、ビコを読んだ日本人がビコの思想について書くのも大切だけれど、まずは、ビコその人に語ってもらうのが大切じゃないか、という思いが強くなりましたね。訳文は現代企画室の太田昌国さんがていねいに見てくれました。初めての本格的な翻訳だったから、育てようとしてくれたのでしょう。すべて原文と照らし合わせてくださって、ここの翻訳はちょっとおかしいのではないかというように、真っ赤にコメントをしてくれました。で、太田さんのコメントを一つ一つ参照しながら訳文を直していきました。僕がこのあといろんな翻訳書を出せるようになったのは、このとき太田さんに手ほどきしてもらったおかげです。

津山 修士論文を書きながらこれをやるのは大変だったでしょう。

峯 大変でしたよ。ビコがのりうつっている感じで、ひたすらパソコンに向かっていました。

知らせる、つなげる、動く

牧野 このあと、『わたしたちのナミビア ナミビア・プロジェクトによる社会科テキスト』(原題:”Our Namibia : a social studies textbook”)の翻訳を現代企画室から、『ネルソン・マンデラ伝〜こぶしは希望より高く』(ファティマ・ミーア(Fatima Meer)、原題:”Higher than Hope”)の翻訳を明石書店から出されていますよね(いずれも1990年に刊行)。

峯 僕だけが翻訳したわけじゃないですけどね。ただ、日本の反アパルトヘイト運動のなかで、「知らせる、つなげる、動く」という点は意識していたと思います。

「知らせる」という点については、このビコの翻訳もそうだし、それ以前の”JOL’IINKOMO” もそうだけど、南アフリカの人たちの声、それから南アフリカで起きていることを、誰でも日本語で読めるように知らせていくことが大切だと考えていました。逆に、世界の反アパルトヘイトのNGO が集まる国際会議とかに行ったときには、日本で行っている運動のことをがんばって英語で紹介するわけです。こうやって「知らせる」のは、大学生や大学院生として運動にかかわっていた僕らの使命というか。やっぱり、仕事を持っている人たちと比べると、僕ら学生には時間があった。たまたま他の言語が比較的できる人がそれをやらないと、国際連帯運動っていうのは成立しない。大阪では下垣桂二さんたちが部落解放同盟やキリスト教会とのネットワークで運動を大きく広げていたし、京都では環境運動とか生協運動の人たちが反アパルトヘイト運動もナミビア独立も全面的に支援していました。翻訳したものは、そういうネットワークのなかで読まれていくはずで、読者を具体的に想定して仕事をすることができた。そうすると自然と力が入ります。ということで、まずは知らせるところから。情報のインフラをつくらないと。

牧野 峯さんの翻訳の仕事は、ご自身の存在を一歩後ろに隠しつつ、解説がすごく長く、読み応えがある、という印象を持っています。翻訳と解説がセットになっていますね。

峯 そうですね。でも、それがスタンダードなやり方なんだろうと思いますけど。ちゃんと解説をつけないで情報を垂れ流してもわかってもらえないことがある。他方で、翻訳したものが自分の思想であるかのように、この人は偉いから俺も偉いみたいに語るのもよくないと思う。責任が伴いますね。とにかく、こういう翻訳を含めた知識の伝播が「知らせる」で、「つながる」の方は、まさに国際会議とか、南アフリカ以外に関する運動をやっているいろんなネットワークとのつながりとか……。

牧野 国際会議のことで言うと、私自身がこの反アパルトヘイトについての研究プロジェクトについて書いたり話したりするときに、必ず枕詞のように「日本ではこんなに運動が行われていたのに、南アフリカや欧米での反アパルトヘイト国際連帯に関する研究・情報の蓄積のなかで、日本の運動というのが全然触れられていない、知られてない」みたいなことを言ってしまいますが、実際には国際会議に出られて、つながっていた。今どう覚えられているかは別として、同時代的にはつながっていたわけですよね。

峯 つながっていましたよ。

津山 1987年に初めてスウェーデンの国際会議に参加されましたね。ストックホルムですか。

峯 シチュナっていうところでした。木造の家が集まった村としては欧州最古だそうです。そこにあったYMCA かYWCA の施設で開かれました。

津山 スウェーデンの反アパルトヘイト運動団体が主催したのですか。

峯 そうですが、予算を出してくれたのはスウェーデン外務省でした。それもカルチャーショックでしたね。スウェーデン国際開発協力庁(SIDA)が航空券代を払い戻してくれましたが、こういうNGO の集まりのために、スウェーデン政府が日本から来るNGO の活動家にまで航空券を出してくれるというのが。

津山 反アパルトヘイトの国際連帯がテーマの会議だったのですか。

峯 そうですが、いちおう南アフリカとナミビアの2つがテーマになっていて、そこでナミビア問題に出会ったということがありますね。

津山 そのときに、1988年にアフリカ民族会議(ANC)東京事務所が開設された際に代表として赴任したジェリー・マツィーラ(Jerry Matjila)さんに会われたそうですね。

峯 彼はこの会議に、ANC ストックホルム事務所の一員として参加していました。日本にすごく興味を示していたので、日本にANC 事務所をつくる話が、当時すでに内々にあったのかもしれない。

津山 1987年に、当時ザンビアに亡命していたANCのオリバー・タンボ(Oliver Reginald Tambo)議長が日本に来て、1988年にANC 東京事務所を開いたから、そういう話があったのかもしれないですね。峯さんは、このときが初めての海外旅行だったとか。

峯 そうです。

牧野 このあと毎年、海外に行かれていますね。

津山 1988年がカナダ。

峯 これはナミビアがテーマの会議でしたね。それから、1989年のオーストラリアもナミビアについての会議でした。ナミビア問題は大事だし、行ってこいっていう話になって。

津山 会議の参加費用はどうされたのですか。

峯 そういった国際会議は、すべて招待されていましたね。カナダの国際会議は確か国連ナミビア理事会が招へいしたと思います。

津山 そのなかで、ナミビアのことを発信しはじめたのですか。

峯 そういうことですね。スウェーデンの会議に出たときに、みんな南アフリカのことに注目していて、ANC の人がいるとみんなワァーと集まるけど、そこに南西アフリカ人民機構(SWAPO。ナミビアの解放運動)の人がいても、寂しそうに、なんかしょぼんとしている。なんでそうなるのかいう義侠心は、正直ありました。隣の国から南アフリカを見たらどう見えるのだろうって関心もあって。同時に、この会議にナミビア問題をとりあげているイギリスのNGO の人が来ていて、ナミビア産ウランの密輸問題で一緒に活動しようということになり、そこから電気ボイコット(関西電力によるナミビア産ウラン輸入に抗議するため、一時的に電力需給契約を解除する運動。尼崎市で喫茶店「どるめん」を経営する金成日さんの発案による)などにつながっていった。当時は今みたいに反原発運動が盛り上がっていた時代でした。

牧野 このときの少し前(1986年4月26日)にチェルノブイリの原発事故が起きましたね。

峯 そう。ただ、そのときの反原発運動は、放射能が怖い、事故が怖い、生活を守れ、という運動で、その広がりが「すごいね」って言って参加しつつ、でも、自分が加害者かもしれないというところはまったく見なくていいのかと。被害者性を強調する運動と加害者性を強調する運動が、当時の日本の運動では接点がなかったから。だから、この2つをあえて結びつける運動がありうるのではないかというのが、ナミビア・ウランの運動の発想だったのですね。つまり、日本の電力会社は国連の布告を無視して、原発の燃料としてナミビア産のウランを買っているじゃないかと。国際法に違反してウランを買っていることでナミビアの人たちを犠牲にしているじゃないかっていうように、当時、反原発運動の参加者たちに問題提起しながら、しかもその内部で一緒にやろうとしていたわけですね。燃料ウランの輸入を止めさせたら、日本の原発も止まるし、ナミビアの独立にも貢献できるし、素晴らしいじゃないかって。

津山 関西電力がどこからウランを買っているのかなどの点は、どうやって調査したのですか。

峯 先ほど言ったイギリスのNGO が、どんどん資料を発掘して僕らに送ってくれたし、あと、鈴木真奈美さんという、イギリスによく行っていた総評や原水禁に近いジャーナリストが、かなり動いていましたね。社会党を動かしたりもして。

津山 ナミビアについては、東京では上林陽治さんが活動の中心でしたね。

峯 そうです。ナミビア問題のブックレット(日本反アパルトヘイト委員会編『ナミビアの独立〜ウランの密輸と日本』、1989年)は、文字どおり上林さんと二人でつくりました。東京と京都だったけど、一体になってやっている感覚がありました。

牧野 国際会議に出ると、その場で数日間かなり濃密に他の出席者と一緒に時間を過ごすことになると思いますが、会議の外では、普段どうやってつながっていたんですか。まだメールとかないときじゃないですか。

峯 そうでしたね。

津山 ファックスはあったよね。

峯 ファックスはあった。それから、スウェーデンで会った、ナミビア問題に関わっていたイギリスの活動家がすごく盛り上がって、「モデム、モデム」って。「俺たちはモデムがあるから大丈夫だ」みたいに。

牧野 モデム? パソコン通信?

峯 そう。パソコン通信。日本ではnifty とかね、その時代でしたね。

津山 峯さんは、まだパソコン通信を使ってなかった。

峯 そうですね。まだパソコン通信も始まりかけで、僕も当時は電子メールを使っていなかったな。だから彼ともやりとりが続かなかった。国際会議ではスウェーデンでも、トロントでも、メルボルンでも、どこに行ってもアジア人はほとんど自分1人だったから、それは強烈に自覚せざるをえなかったですね。何で俺だけなんだって。あとはすべてヨーロッパ系の活動家と、それから南アフリカ出身のANC とかの活動家たちですね。そういう意味では、東京でやったアジア・太平洋の反アパルトヘイト国際会議は画期的だったと思います。

牧野 国際会議で報告されるとき、「日本がいかにアパルトヘイトに加担しているか」という話をされたのか、あるいは「日本ではこういう運動をしています」という話なのか、どういう話をされたんですか。

峯 どちらもですが、特に運動の話を中心にしていたと思います。森川純さんが執筆された”Japan and Africa – Big Business and Diplomacy”(Hurst &Company、1997年)はとてもいい本だったと思うのですが、日米貿易戦争のジャパンバッシングの余波もあってか、当時は一種の「日本悪玉論」と解釈されるところがあった。そりゃ名誉白人の汚名を返上できなかったことは罪悪なのですが、それが日本の外で流通するとステレオタイプにはまってしまうのですよ。当時はまだ日本の経済力へのやっかみがあった時代でした。しょせん日本は欧米とは価値観が違う、集団主義で金もうけ優先だという文脈で、ストンと納得されちゃうのは、ある意味、アジアの一部としての日本を対象とするレイシズムでもある。アパルトヘイト体制と日本の政財界の癒着を暴き出した森川さんの本の貢献は大きかったと思うけれど、僕自身は「日本批判にとどまらずに、自己批判を踏まえてインターナショナルに行動しましょうよ」っていう方向に力点を置いて問題提起をしていたつもりです。

 それで、ナミビア問題も、電気ボイコットのことを話したりね。主宰の金さんは在日コリアンだから日本の差別と南アフリカの人種差別のつながりを考えようという話にもなるし、電気ボイコットっていうメソッドは愉快だけど深く考えさせるところがあって、海外でも評判でした。

津山 峯さんが今おっしゃったような方向性とか話を聞くと、やっぱり東京の反アパルトヘイト運動とは少し違いがありますね。

峯 完全に違うわけじゃなくて、重なりつつ分業していたのかも。

津山 あまりそこは議論せずに、自分のできることをやるという感じですか。

峯 そう。ただ、正直言って、東京の人が皆そうではなかったけど、ちょっと東京のグループへの反発もありましたよね、内省的なところに。「自分の内なるアパルトヘイトをどこまで真摯にとらえ返すかが大事だ」と言われると、それはその通りだけど、当時の左翼文化の悪いところでもあったと思う。つまり、当事者に向き合う前に、支援者同士がお互いに誠実さを競い合って……。

牧野 疲れてしまう。

峯 そうですね。お互いに糾弾し合うような形になって、それで、運動から離れていく人もいたんじゃないかな。折れて去っていった。「自分はそんなに立派な人間じゃない。そんなにストイックになれない」って。

津山 その内省的なところと、南アフリカやナミビアの人たちの切迫した状況で期待される連帯運動とのギャップもあったかもしれないですね。

峯 そうですね。だから、結局のところインパクトがないと駄目だ、というのは強烈に思っていました。いくら誠実に考えていても、実際に物事の仕組みを変えないと意味がないから。意図も大事だけど結果も見ないといけない、失敗したら次はもっとうまくやろうよ、と。

津山 そのあたりが「動く」っていうところですかね。

峯 そのことは、ナミビアの運動の関係者たちはとても意識していました。実際にウランの輸入を止めるのだという明快な目的を立てて、大衆行動もやるし、マスコミも使うし、国会も使う。

牧野 国会も。

峯 うん。東京の運動では、当時の社会党の議員に活発に動いてもらったみたいです。最終的に、読売新聞が1面で報じました。運動としては珍しく、勝ったのですよ。「東京電力はナミビア産と疑われる燃料ウランの契約は更新しません」と言わせた。ナミビアについて「動く」ことの大切さは、京都が東京がという話ではなくて、東京のアフリカ行動委員会(JAAC-Tokyo)でも上林さんとかは、「やっぱ、そこは大事だよね」って言って、ガンガン乗ってくれたし、それは東京の仲間たちが支援してくれていただろうと思います。
それと、「アパルトヘイト否ノン! 国際美術展」(反アパルトヘイトのメッセージを伝える現代美術作品の展覧会を1988年から1990年までの500日間に、全国194ヵ所で開催。38万人が訪れた)も、インパクトが大きかったですよね。全国であれだけの人数が集まった。美術作品を観てもらった上で、アパルトヘイトに関する情報も、桁違いの数の人たちに何らかの形で届けることができた。

津山 この美術展は、私たちもいろんな人に話を聞くなかで、どこの地域でも出てきます。反アパルトヘイト運動に深く入っていなくても、「アパルトヘイト否ノン! 国際美術展」があったよね、とよく言われます。

牧野 私自身もまだ高校生で、反アパルトヘイト運動のことは知らなかったけれど、この美術展は観に行きました。

津山 峯さんは、ネルソン・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)さんが初めて日本に来たときのスピーチをどう思われましたか(編集部注_ 1990年2月に釈放されたマンデラは、同年10月に日本政府と市民による歓迎委員会の招きで初来日。国会での演説などの他、大阪と東京で市民による歓迎集会も開催された。そこでのマンデラのスピーチがANC への資金援助要請に力点を置いたものであったために、反アパルトヘイト運動のメンバーのあいだに失望や批判もあった)。

峯 ひどかったですよね、本当に。津山さんの方がよく知っているだろうけど、マンデラに対するブリーフィング(事情説明) の問題だったのでしょうね。マンデラが自分で原稿を書いたわけじゃないから。

牧野 峯さんは大阪の歓迎集会には出られましたか。

峯 大阪では、主催者の一員として当日のマスコミ対応の担当になっていました。すごい目つきの『週刊文春』の記者が「マンデラに会わせろ」って体当たりしてきたのを覚えている(笑)。

津山 南アフリカに関わっていた人たちは、その内容について違和感があったでしょう。でも、私のように当時はANC 東京事務所のスタッフで、当事者みたいなところにいると、あえて、あのように言うしかなかったとも思えます。白人政権との交渉が始まる一方で、政治囚が釈放され、亡命していた人が帰国し、何万人もの生活、教育にお金がかかる。世界を回るマンデラへの資金集めの期待は高く、マンデラ自身もそれが自分の使命だというような切実感がありました。

峯 「お金をくれ」っていうのは、組織的にはどこの決定だったんでしょうね。

牧野 このプロジェクトの調査で南アフリカに行ったとき、フォートヘア大学の解放運動アーカイブに保存されているANC 本部と東京事務所のやりとりを見ましたが、それによると「マンデラの来日は、そもそもファンドレイジング(資金集め)が主な目的だった」とはっきり書かれていました。

津山 ファンドレイジングに力点があったとしても、日本の文化として、やっぱり「お金をくれ」とは言わないで、これまでマンデラがしてきたことを訴えることによって結果的に資金が集まる、という戦略であればよかったですね。2014年に峯さんの監訳で『自由への容易な道はない〜マンデラ初期政治論集』(青土社)が刊行されましたが、マンデラはあの頃は自分で書いたけれど、釈放後のスピーチはほとんど自分では書いてないでしょうね。

峯 ただ、この初期のものも、マンデラは必ずしも自分の言葉で書いているのではなくて、南アフリカ共産党(SACP)の理論をストレートになぞっていますね。ただ、彼の個性が出ているところもあって、そこが面白いのですが。当時の彼は、ゴリゴリのコミュニストでした。

牧野 それが公になったのは死後だったんですよね。亡くなったあとで、SACP のカードホルダー(党員)だったことが発表されて。

峯 そうですね。生前から、亡くなってから事実を公にするという約束だったのでしょうね。

運動から研究へ

牧野 2010年6月にAJF の主催で行った、『南アフリカを知るための60章』(明石書店、2010年)の出版記念の座談会で峯さんは、「反アパルトヘイト運動をやっていた人のなかで、そのまま南アフリカとつながり続けた人が少ない」という話をされました。私はその言葉がずっと引っかかっていて、聞き取りをすすめるうえでの一つの問題意識となっているんです。1990年以降、マンデラが釈放されて、南アフリカが民主化に向けて動き出すなかで、日本で運動している人たちも、これから何をしようか、という話があったのではないかと思います。1990年代前半の峯さんの著作を見ると、NGO や市民社会のことをたくさん書かれていますよね。この時期、ODA をNGO の活動に使おうといった話もかなり出て来たと思いますが、こういう考えは、当時の日本の反アパルトヘイト運動のなかでは少数派だったのでしょうか。

峯 少なくとも僕の周りでは、アパルトヘイトが撤廃されたあとも何かの形で支援を続けようという議論はなかったように思います。全国的にも「反アパルトヘイトで一致して運動していたのだから、アパルトヘイトが終わったら解散するのが筋だ」という雰囲気だったのじゃないかな。それに満足できない人はちらほらいたけど。

実を言うと、これは津山さんに言ったことはないと思うけど、僕自身の進路の選択にあたって、津山さんの存在が大きかった。津山さんはこの転換期の頃、日本国際ボランティアセンター(JVC)で活動を始められたでしょう。当時、僕はナミビアのキャンペーンが一段落してNGO の醍醐味を知ったというか、国際的にネットワークをつくって現場とつながっていけたらいい、ナミビアや南アフリカの現地とつながりながら、こういう仕事を続けていきたいな、と思っていた。当時NGO の専従というのは今ほど多くなかったけれど、この際、大学院なんて中退して、NGO の世界で生きていけたらなあって。

津山 よかったですね、それを実行しないで(笑)。

峯 当時、国際協力NGO センター(JANIC)ができた頃で、中心人物だった伊藤道雄さんを訪ねたりもしました。市民の国際協力という方向で仕事を見つけるか、仕事をつくるか、あるいはアカデミックな方向に戻るかで悩んでいたのが1990年代の前半です。津山さんを見て、津山さんがやってくれるんだ、というので、自分は安心して研究のほうに戻れた、みたいな。

津山 1989年11月にナミビアの選挙監視団に参加され、そのとき南アフリカにも行かれましたね。マンデラが釈放される前で、この頃はまだあまり南アフリカに行った人はいなかった。そのときの印象は。

峯 今でも鮮明に覚えていますよ、本当に。まず、空港からジョハネスバーグの街中まで車で移動したときの光景から始まって……、今と全然違いますからね。当時は、黒人は自家用車を運転していなかったし、くすんだ、昔の東ヨーロッパみたいな雰囲気の街並で。あれは忘れられないな。

津山 このときに初めてアフリカに行かれたのですね。

峯 南アフリカはトランジットで、初めてのアフリカ経験はナミビアでした。この帰りに南アフリカに寄って何日か長めに滞在しました。ジョハネスバーグでタクシーをつかまえて、ソウェトをぐるぐるまわってもらって、運転手さんの家にホームステイしたりして。

津山 私が初めて南アフリカに行ったのは1990年5月で、やっぱりソウェトって、すごく神聖というか、運動の原点のような特別な場所という想いがあったので、ソウェトに入った時には感動しました。ここがソウェトか!みたいに。

峯 僕もそうでした。でも、ソウェトのタクシーの運転手さんとその連れさんとしゃべっていて、「南アフリカに来る前、どこに行っていたの」と聞かれて、「ナミビアの独立の……」とか話していたら、「野蛮なブッシュマンが住んでいるところか」って笑われました。すごく優しいご夫婦だったけど、アフリカ人の連帯を信じていたのに、と少しショックでした。

津山 その当時からゼノフォビア(外国人嫌悪)があったというか、南アフリカの人は、教育やニュースで外のことを知る機会がほとんどなかったですね。

牧野 特にずっと南アフリカにいた人はそうだったのでしょう。

津山 私は1988年から1991年までANC 東京事務所に勤めていましたが、1991年の後半にはJVC の南アフリカでの活動を模索する現地調査にも協力しました。1990年から1992年のころは反アパルトヘイト運動から次のネットワークをつくって時期でもあり、そこに峯さんも入っていましたね。

牧野 この時期、南アフリカには何回も行かれたのですか。

峯 基本的には毎年行っていたと思います。科研(日本学術振興会の科学研究費補助事業)とかで。

津山 NGO はもうやめて、研究のほうで。

峯 研究ではあるけれど、ただ、研究の方面でもやっぱりつながりたいというか。日本人がアフリカに行って、自分の論文を書くために一方的に観察して、日本語で書いて業績にする、というのではよくないです。南アフリカの研究者たちと同僚としてつながって、一緒に知識を生み出していきたい、という思いが少しずつ強くなりました。それが実を結んで、サム・モヨ(SamMoyo)さんやスカーレット・コーネリッセン(Scarlett Cornelissen、南アフリカ・ステレンボシュ大学教員)さんと一緒に英語の本を出したりすることになりますが。

牧野 当時、参加されていた科研は、川端正久さんと佐藤誠さんのグループですか。お二人の編集で勁草書房から三部作『南部アフリカ〜ポスト・アパルトヘイトと日本』(1992年)、『新生南アフリカと日本』(1994年)、『南アフリカと民主化〜マンデラ政権とアフリカ新時代』(1996年)が刊行されていますね。

峯 そうです。反アパルトヘイト運動がなくなるなかで、南アフリカとつながっていこうと思ったら南アフリカに行かないといけない。でも南アフリカに行こうと思ったら、単純な話、旅費がないと行けません。だから、大学に戻って来た僕にとっては、この当時の科研は生命線で、これを使って南アフリカに行っていました。

津山 JVC のスタッフと一緒に、東ケープ州に行ったりもしましたね。

牧野 この科研プロジェクトのあと、『南アフリカ「虹の国」への歩み』(岩波新書、1996年)を出されました。それから『経済セミナー』の連載をまとめた『現代アフリカと開発経済学』(日本評論社、1999年)。これもすごくいい本ですね。

津山 この本はステレンボシュ大学に在職されたときに書かれたのですか。

峯 書き上げたのはその直前です。1993年からの連載をまとめたので。刊行から15年ほど経って、出版社から増補改訂版を出してくれって言われているのですよ。いまだに売れているらしくて、著者としてはうれしいです。ただ、牧野さんも実感されているでしょうけど、最近の日本では英語で発信しないとまずい、という圧力があります。大学は世界ランキングを気にしているから、グローバルスタンダードの英語で業績を出しなさい、という話になる。でも、僕はそういうふうには考えないです。これは、反アパルトヘイト運動のときとある意味同じことなのですが、英語でも日本語でもいいけど、できるだけたくさんの人が読める言語で書いていこうじゃないか、ということ。しばらく南アフリカの大学で教えてみて、そこで「南アフリカの人たちに読んでもらえるものを書かないと」と強烈に思ったということがありますね。南アフリカの人、世界中の人が読める言語で成果を出さないと、アフリカで調べたことを日本人のために書くという一方通行の関係になるし、そもそも読者の絶対数が少なすぎる。だから、この10年ぐらいは、僕は英語で書くほうにシフトして、しかもできるだけアフリカの人たちと一緒に書くように心がけています。その一方で、日本語で書くときは、できるだけよい本を選んで、日本語への翻訳を続けていきたいな、と。

津山 翻訳って労多くして、研究者の実績としては評価されにくいところがあるかと思います。でも、峯さんは、翻訳は伝えるという意味で重要だというスタンスですね。いまはさらに、アフリカとアジアの研究者のネットワークづくりにも活動を広げられていますね。

峯 自覚していませんでしたが、振り返ってみると、同じようなことを繰り返しているのかもしれませんね。境界線を越えて、ネットワークで仕事をしたい、日本語の世界で閉じないように双方向で情報を開いていきたい、そして、できればインパクトのあることをやりたい。でも実際には、うまくいかなかったこととか、やり直したいことも多いです。まあしかし、二度目の人生があるとしても、だいたいは同じようなことをやるんでしょうね。

2015年6月20 日 東京外国語大学本郷サテライトにて

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