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イベント概要
- 開催日時:2005年9月24日(土) 15時10分~16時45分
- 講師:ディウフ・エル・ハッジ・マサンバさん(セネガル)
- 会場:早稲田奉仕園スコットホール202
- 参加人数:全28名(AJF会員10名 一般18名)
講演内容の要旨
- セネガルは西アフリカの小さな国。人口1000万人。
- 形が人の横顔みたい:口の部分はガンビア
- ウォロフ民族が多い。
- 宗教:イスラム教90%、キリスト教10%、アニミストもほんの少しいる。
- 歴史:セネガルにはアラブ人のやってきた10世紀まで文字がなかった→グリオ(文化継承の家系)が父から子へと口頭で伝えられてきた。
- 1444年よりポルトガル→イギリス→オランダ→フランスの植民地
- 1960年フランスより独立
- 経済:農業が基礎。干ばつの被害を受けやすい。小中学校卒業程度の教育を受けた人では ダカールでも一日一回しか食事のとれない家庭もある。
- 田舎では病院も少なく、行かなくてもいいと考えている人たちもいる。
- 写真を紹介:幼稚園、セネガルのコンビニ?!、朝ご飯はフランス植民地時代の影響でバゲットとコーヒー、一夫多妻制
メインテーマ(仕事・関心事)
- 「どうしたら人々が貧しい生活から抜け出せるか?」
- 「教育」→自分の世界が広がる→世界中の情報が得られる→国が変われる!:教育支援を始めた
- バオバブの会(1995年から):最初のうちは自分の周りの仲間と一緒に始めた。
- 村の学校:1971年から1999年まで教室が3つしかないような小屋だった。小学校1年生から5年生まで。違う村からも通ってくる子供たちがいた(遠い村で5kmも!)。
- 男の子の方が多かった。
- 小学校に通わせない理由:文具・教科書が揃えられない、6年間通っても中学校に進む試験に通るのは2、3人しかいない、など。
- だが徐々に両親にも理解してもらえるようになり、3年くらい目から通ってくる子供たちが増えた。
- その後、他のNGOから補助を受けて校舎が新しくなった。屋根も直された。
- 教師が足りない→学校の隣に教師の宿舎を作って工夫。
- 学校で昼食をとれるようにした。
- ほかに2つの学校の支援も始めた。
- これから図書館を作りたい。本や施設の大切さを教える必要もあるだろう。予算は91万円(図書の費用は抜いて)。
在日アフリカン問題について~在日セネガル人として日本に滞在するということ
- (講演内容)
- 初めて日本に来たとき、街が立派なこと、人の多さにビックリした。でも日本人は電車の中とか、たくさんいてもとても静か。礼儀正しい。町もきれい。
- しかし、仕事を始めたら日本が嫌になった。帰りたいと何度も思った。電車で隣が空いていても誰も座らない、自分が座ったら隣の人が立ってどこかに行ってしまったといったような差別を受けた。
- 外国人の友人の多くも、仕事上でも差別を受けている。保険に加入させてもらえないとか。
- 病院で汚いものを触るように治療を受けたこともある。
- その中でも、優しい人もいた。
- 自分から話しかけてきたお年寄りもいた。若者、子供、女性も比較的避けてこない。
- そして、日本人は一度知り合いになると仲良くなれると徐々にわかってきた。バオバブの会の活動がうまくいっているのも日本人のおかげだと思う。
- 日本人にもいろいろいることがわかった。だから、My Japanの定義をすることはとても難しい。
質疑応答
- 質問:セネガル人の日本に対する印象はどうか?
- 答え:ハイテク。子供でもコンピューター・車を作れると思われている。日本のことをあまり知らないからいい印象も、悪い印象も持っていない。 最近JICA関係者や観光客が増えてきているから、これから日本の情報も流れていくだろう。
- 質問:フランスからの独立後、旧宗主国との関係は?
- 答え:一般的にはいい関係と言える。シラク大統領がセネガルを訪問することもある。しかし、セネガル人がフランスに行くときはなかなかVISAがおりないこともある。
- 質問:大学を卒業しても国内で職が見つからないと聞いている。優秀な人たちがフランスやアメリカなどの外国に出て行ってしまっているのではないか?どう対応しているか?
- 答え:国家が起業をバックアップするプロジェクトもあったがあまりうまく行かなかった。国家の経済が弱いから、起業しても国民の購買力がない。 国民全体の教育レベルが上がれば自分たちの周りの環境を変えようと考えるようになる。自らのリーダーもしっかり選べるようになるだろう。
- Opinion:ここ数年マリに行き来している。マリでもなかなかVISAがおりない問題はある。 しかし、宗主国は経済的にも通貨レートを固定的にするサポートしていると思われる。
- 質問:受けた差別とは具体的にどのようなもの?
- 答え:仕事でセキュリティーが確保されていない。機材の使い方もしっかり教えてもらえない。それで亡くなった方もいた。裁判が起こされたが、それもラッキーな方だと思う。裁判さえも起こせなかった人もいた。病院に通いたくても費用を出してもらえなかった人もいた。
車のレンタルをしようと電話をした時も「車はもうなくなった」と嘘をつかれた→その後、直接話しに行き、そことは友好的な関係を結べるようになったが。
- 質問:仕事はすぐ見つかったか?
- 答え:電話ではOKをもらえても、実際行くと通してもらえなかったことが多々あった。 今仕事している会社は人種を問わないところ。
- 質問:付き合っている学校では、どうやって外国人に対する差別について教えているか?
- 答え:地球の絵を見せたりして、人は皆平等であることを話している。他に、震災時の国の違いを超えた援助を例に出している。 「外国人は危ないから見たら逃げなさい」と子供に話す両親もいるが、自分と直接遊ぶことで子供たち自身に判断してもらっている→その結果、「やっぱり人間だ」 「面白かった、また遊びたい」と感想を持ってくれる子供たちが多い。
- 質問:PTAなど保護者を巻き込んだ活動は、女子に対する教育の大切さ伝える面でも大切だと思う。PTAはバオバブの会が活動を始める前からもあったのか?
- 答え:保護者会はバオバブの会の援助が始まる前もあった。しかし出席するのは男性ばかりだったので、女性に出席してもらうようにした。
- 質問:差別を受けたときでも、対応に心掛けていることは?
- 答え;違う土地にやってきたのは自分。日本人を変えるのではなくて、自分自身が日本に適応できるようになるのが筋ではないか。そのためにはまず自分自身のことを理解することが必要。例えば、電車で疲れているサラリーマンを見かけて隣が空いていても自分のせいで座らないようなら、怒るのではなく「かわいそうだから席を譲ろう」と考えるようにしている。日本人のことを知るために本を読んだり、友達を作るようにした。
しかし、コンゴ人で、日本が外国人慣れしていないというのは言い訳にならないと怒る友人もいる。