ドルテグラビルベースの多剤併用療法や長期残効型蚊帳によるマラリア予防で高い排出量を予測
「人新世」で気候変動や環境への負の影響への関心高まる
気候変動や生物多様性の喪失をはじめ、人間の社会・経済活動が地球に地質学的レベルで影響を与える「人新世」の時代が到来している。この「人新世」はすでに、人々の生命や健康に幾何級数的に大きな負の影響をもたらしつつある。生物多様性の喪失は新型コロナウイルス感染症パンデミックをもたらし、気候変動による大規模な災害は多くの人々を下痢症や、マラリア、デング熱など昆虫が媒介する感染症の大規模な拡大とつながり、大気汚染や水質汚染、放射能災害などは人々の健康を大規模に損ねるほか、人々がこれまですんできたところに住み続ける権利すら奪っている。こうした中で、国際保健の分野でも、「プラネタリー・ヘルス」が主要課題の一つとなっている。
三大感染症等に関わる医薬品・事業の環境への影響は?
では、本来人々の命を救い、健康を守るための医薬品や医療器具の開発・製造や使用は、気候変動や環境にどの程度の負のインパクトを与え、どの程度の人々の生命や健康を脅かすことにつながっているのか。これまで国際保健は、人々の命を救い健康を守ることを直接の目的としてきたため、この課題に必ずしも正面から向き合って来なかった。自らの領域でこの課題に挑戦する報告書がこの11月に、途上国における安価な医薬品の供給に取り組む国際機関、ユニットエイド(UNITAID)から発表された。「ミリグラムからメガトンまで:鍵となる10の保健製品の気候と自然に関するアセスメント」(From milligrams to megatons: A climate and nature assessment of ten key health products)がそれである。この報告書は、UNITAIDが幾つかのコンサルタントや援助機関・研究機関の助力を得て作成したものである。
ここで選ばれた保健製品や保健事業は、UNITAIDが主な取り組み対象としているエイズ・結核・マラリアおよび女性と子どもの健康にかかわる治療、予防、検査等に関わる医薬品や医療器具および保健事業である。例えば、治療・予防薬としては、数カ月に一回の注射によるHIV治療を行う「持効性注射剤カボテグラビル」(Long-acting injectable Cabotegravir)や、現在、世界的にHIVの第1選択薬となっている、インテグラーゼ阻害剤の一つであるドルテグラビルをベースとする多剤併用療法、新しい結核薬の一つであるベダキリン、マラリア治療に用いられるアルテミシニン多剤併用療法などが対象となった。また、検査については、HIVの自己検査、地域レベルで普及する結核菌のPCR検査、予防では、長期残効型蚊帳(LLITN)によるマラリア予防と媒介生物制御(ベクター・コントロール)、医療用酸素の製造、等が挙げられている。
気候への全般的影響、温室効果ガス排出、自然への負荷、価格面での入手可能性について評価
この報告書では、これらの保健製品や保健事業について、気候レジリエンス、脱炭素、自然への負荷、および価格面での入手可能性の4点から評価している。まず、気候レジリエンスは、これらの製品の製造・供給・使用や事業の実施が気候変動に負荷を与え、気候変動危機にさらされている脆弱層の生活の悪化につながらないかという点。脱炭素は、保健医療セクターの炭素排出量が世界全体の排出量の4.6%と、主要排出国一国の排出量に伍すレベルであることを踏まえ、これらの製品の製造や供給・使用、事業実施がどの程度の炭素を排出しているかという点。自然への負荷は、気候変動と共に、大気など環境汚染や資源消費などによって、自然の持続可能性を阻害していないかという点。価格面での入手可能性は、これらの製品や事業の気候変動や環境への影響を提言するため、製造や流通等々のやり方を変えた場合に、それらがどの程度価格に転嫁され、入手可能性を損ねるか、という点である。
HIVの多剤併用療法と長期残効型蚊帳によるマラリア予防で高い排出量
これらは現在の時点で、確実に算出できるわけではない。特に、環境汚染に大きく関わる「自然の持続可能性」や、価格面での入手可能性への影響については、不確定要素が多い。一方、炭素排出量については、一定の数値が出てきている。この報告書では、2030年段階での年間の温室効果ガス排出量の予測が示されているが、この報告書で扱われている製品や事業全体による2030年段階での温室効果ガス排出量はおよそ3.4メガトンと予測されており、これは、レソト(3.0メガトン)やエスワティニ(3.3メガトン)の現在の温室効果ガス排出量と同じ程度となっている。この中で、最も大きな排出量が予測されているのは「ドルテグラビル・ベースの多剤併用療法」で、2.6メガトンと全体の76%を占めている。これは、製造過程での単位当たり炭素排出量が他より多いこと、毎日服用が必要ということで患者当たりの使用量が多いこと、この治療を行う患者の人数もかなり見込まれることによるものである。次に多いのが全体の15%を占める長期残効型蚊帳(LLITN)によるマラリア予防である。これは、LLITNの製造に一定の炭素排出があるのと、マラリア予防のための新規のLLITNが1億1500万枚/年と、必要数がかなり多いことによるものである。
この報告書では、これらの炭素排出量のうち40%は、全体のコストを上げることなく削減可能であり、また、全体の70%を削減することは現実的に可能、としている。それは、製造プロセスにおける炭素排出量を減らしたり、容器をより良いものにしてリサイクルしたりすることや、製造にかかる電力を再生可能エネルギーにすることによる。一方、残りの30%については、炭素排出をなくすことは相当困難であると見積もっている。
長期残効型蚊帳で巨大なプラスチック廃棄物と化学物質汚染を予測
一方、医薬品や機材による環境汚染については、変数が多く、充分に予測できていない。この領域については、医薬品の製造過程での有害な化学物質による汚染や、媒介生物制御における殺虫剤等の大量使用による化学汚染、また、医薬品の容器などに多く使われるプラスチック汚染などが問題となる。特に、長期残効型蚊帳(LLITN)は2030年には年間5.75万トンものプラスチック廃棄量となり、殺虫剤による化学物質汚染も引き起こすことに注目する必要がある。さらに、利用者のアクセスへの便宜を図って医療サービスを脱中心化すれば、これらの廃棄物の処理は医療施設ではなくコミュニティに任されることとなり、何らかの良い方法が考えられない限り、プラスチックや化学物質等による汚染はより広範囲に渡り、除去するのはより難しいということになる。この点については、現段階から数値を明らかにし、対処を検討していく必要がある。
気候変動・環境汚染全体におけるこのセクターの優先順位は?
この報告書は、「人新世」の時代に、エイズ・結核・マラリアや女性・子どもの保健に不可欠な医薬品や事業が気候変動や環境汚染の関係で対処しなければならない課題を洗い出したという点で画期的である。一方で、考えなければならないのは、これら「人の命を救う」ための取り組みが、全体の中でどの程度の炭素排出量や環境汚染を引き起こしており、ここに対処することが、どの程度の緊急性を持つか、ということでもある。保健医療セクターにおいても、より多くの炭素排出や化学物質汚染を伴い、また、より効果的に排出減少をもたらすことができる領域もあるかもしれない。また、保健医療セクター以外の、各種の科学技術イノベーションは、膨大な電力を要するAIの深層学習などを始め、より多くのエネルギー使用を前提とする。実際のところ、人類の経済活動による「エコロジカル・フットプリント」は、2023年時点で地球1.75個分と計算されており、2030年には地球2個分になるとも予測されている。こうした中で、例えばUNITAIDがカバーしている領域の炭素排出量や環境汚染のマグニチュードを把握し、対処方法を明確にしておくことは重要である。「取り残されがちな人々」の命を感染症や保健危機から守るための取り組みへの資源投入が、気候や環境への影響という懸念のために減らされることがないように、また、実際に気候変動や環境への悪影響によって、「加害性」を増すことがないように、戦略的な対応をしていく必要は、今後ますます増大していくだろう。