Our experiences at WSF and Nairobi
『アフリカNOW 』No.76(2007年発行)掲載
近藤 徹子:AJF事務局員。実は、今回のナイロビ行きがアフリカ初体験。
土屋 萬佐子:ファンサバ(FAN3)代表。西アフリカは数回訪れたが、東アフリカは初訪問。
鳥養 淳子:ファンサバ(FAN3)実行委員。今回、始めてアフリカを訪れる。
茂住衛=司会:『アフリカNOW』編集部
WSFに参加して
茂住 最初に、ナイロビでの世界社会フォーラム(WSF)に参加して印象に残ったことについて、話してください。
鳥養 私はWSFの存在自体、今回初めて知りました。WSFで討論されていることは、今の私にとってはかなり難しいこともありましたが、会場の雰囲気とか情熱、参加者の空気などはストレートに伝わってきました。 たとえば、WSFの会場内ではたくさんのデモがありましたが、私はデモに参加するどころか、ちゃんと見たのも初めだった。 それでも、WSF会場への地元ケニア人の参加費無料化を要求した一連の行動など、とてもパワフルだったことが最も印象に残ってます。
近藤 まず、アフリカは結構近いなと思いました。気軽にとは言えませんが、そんなにヨイショって感じでなくても行けるところにあるんだな、ということが一点。 次に、WSFの会場では、アフリカで活動する多くのNGOやCBOの人たちと話す機会を得ましたが、みんな「自分たちの問題は、自分たちでどんどん克服していこう」というパワーがみなぎっていて圧倒されました。 特に、当事者が当事者を助けていくという仕組みがしっかりできているという印象を受けました。
土屋 鳥養さんもふれていたWSF会場での参加費無料化要求のデモ、というか交渉ですが、これが強く印象に残っています。 自分たちの権利や必要だと思うことを今、自分たちで声をあげて行動する。 自分たちの問題を自分たちでなんとかしなきゃという気持ちがストレートに伝わってきたので、その人たちと一緒に行動して楽しかったし、勇気付けられました。 また、この交渉の課程で言われていた「自分たちのことを話すのに、自分たちのいないところで話すな」という発言が強く印象に残っています。 この発言を聞いて、何かをやりたいと考えたときの原点を思い出しましたね。 日本のアフリカ報道でも、援助やODA、NGOなどの話はあっても、当事者であるアフリカの人たちが自分たちでなんとかしようと動いていることについての報道はほとんどないでしょう。 このことをもっと伝えていく必要があると思います。
茂住 今、話題になったWSF会場での参加費無料化要求の一連の行動の中で1月23日には、抗議のために会場前の道路を30分くらい封鎖してしまうという行動もありました。 さらに、数時間で釈放になりましたが、抗議の意志を表すために、入場パスがないまま会場に入った人たちが会場内で逮捕されるという事態も起こりましたね。
近藤 私は道路封鎖の現場にいましたが、道路封鎖に参加した人はさほど多くはない。最初は50人くらいですかね。 そのさほど多くない人たちがにいきなり道路に出て、封鎖をしてしまうということにびっくりしました。 また、制服警察もいましたが、あまり目立たない。 道路封鎖で停まってしまったバスの運転手や乗客もあまり違和感がないという様子で、のんびりしているというか、見物してたり、笑って見ている。 そういう土壌はすごいなと思いましたね。
茂住 ナイロビ在住者に聞いたところ、こうした行動に対して警察は、あまり混乱を招かない限りは放置することもあるそうです。 しかし、警察がいったん規制や排除の行動を取り始めると、直接的な暴力はふるうし、大量の逮捕者も出るという説明でした。
土屋 道路封鎖の前日に、ミネラルウォーター会社やケニアの携帯電話会社のセルテル、高級ホテルがケータリングを提供しているフードコートなどに、連続して抗議行動をしていました。 その後を私と鳥養さんでついて行き、最終的に交渉のために今回のWSFの組織委員会の事務所まで行ったとき、途中でその場を出ようとする人に対して、誰かが「そいつを帰すな! 誰一人ここから帰すな!」って叫んでいた。 途中退場しようとした人はたぶん、まぁ野次馬的に一緒についてきたか用があったかで、途中でその場を去ろうとしていたのでしょう。 この発言が抗議行動に参加しろ、自分たちに背をむけるという意味だということはわかりましたが、そのときはちょっと怖かったですね。 今日は帰れないかもしれないとも感じた。 でも、自分の意思で来たんだからここまできちゃったら、彼らと一緒に行動を共にするしかない、とも思いましたが。
キコンバを訪れて
茂住 みなさん、神戸俊平さん(1)のガイドで、ナイロビのスラム街の一つといわれるキコンバへのツアーに参加されましたね。 そのときの印象はどのようなものですか。
土屋 養老院で、おそらく貧しさのために3日前に置き去りにされていた子どもが育てられていました。 おばあちゃんたちは、この子はキクユとソマリのミックスで、生後2、3ヵ月ぐらいだろうと言っていましたが、その子を抱いたときは、もう切なかったですね。 格差や貧困などのしわ寄せが、まだ自分で生きていくことのできない赤ん坊にこうやってダイレクトにかかわるんだということを、この手で感じた。 これは強烈な体験でしたね。
近藤 私が特に印象に残っているのは、HIV陽性者のジョセフさんが、エイズの問題はARV(抗レトロウイルス薬)への普遍的なアクセスなどの物質的なことだけでなく、他者のHIV陽性者に対するスティグマ(汚名、烙印)とディナイアル(否定)も根深いことを強調していたことです。 周りの反応や自分を否定されることで精神的に殺されてしまう、HIV陽性者として生きていく希望をなくしてしまう、ということも聞きました。 当事者である彼の言葉は、脳裏に深く残りました。
鳥養 私もキコンバでは、養老院で会った赤ん坊のライラちゃんとおばあちゃんたちのことが印象に残っています。 ここに来るまで、ナイロビではお年寄りの姿を見かけないことが気になっていて、お年寄りは一体どこにいるんだろうと思っていましたから。 そして、キコンバの靴や古着などの青空マーケット。あれはかなり大きな産業ですね。しかも、古着をリフォームしている人たちもいて、手動のミシンや炭火のアイロンを使っていましたから。 このマーケットには、ウガンダやタンザニア、マラウイからも買い付けに来る人がいるとか。
近藤 これがまさにインフォーマル・セクターといわれるものでしょうか。こうした実情は、日本ではあまり知られていないですよね。 多くに人々が関わり、日々ダイナミックに動いているマーケットを目の当たりにして、そこに生きる人々のエネルギーを感じました。
茂住 ハイヒールの靴を火中に投げ入れている人がいたので、何をしているのかと神戸さんに聞いたところ、ヒールの中に鉄が入っているので、それを取り出しているという説明でした。 また、このマーケットの古着には、援助物資の横流しも多いと聞きました。 そのことが、ケニアだけでなくアフリカ各地で繊維産業が育たない要因の一つにもなっているようです。
土屋 スラムの住人の多くは家を借りていて、家賃は泥壁の家で月500ケニア・シリング(Ksh)、トタン屋根の家で1,000Kshくらいだと聞きました(2)。
茂住 キコンバのスラムの近くに4階建てのアパートが建っていて、そこはコンクリートの建物で水道もあっても、家賃が月2,000Ksh以上かかる。 このアパートは、公営の低所得者向けの住宅のようですが、スラムの住民にはまだ家賃が高すぎて、入居することができないと聞きました。 また、神戸さんのツアーにガードマンとして同行してもらった青年は、以前は路上で寝ていたけれども、今はホテルの警備員の仕事をしているそうです。 彼が私たちを、スラムの中の自分の家に案内してくれたのですが、3畳くらいの1部屋を月800Kshで借りていて、電気はあるが水道はない。 ベットがひとつあって、壁にはサッカー選手やシンガーのポスターなどが貼ってあり、床にはマットが敷いてありました。一人住まいではなく、弟分と一緒に住んでいると聞きましたが。
給食サービスの現場
茂住 日本からケニアに移り住んだ石川和博さんが実施されている給食サービスの現場も訪れました。 まず、このプロジェクトの経緯について、土屋さんから紹介してください。
土屋 日本で”PIGA PIGA”というアフリカン・ライヴハウス&レストランを経営していたパーカッショニストのオーナーがケニアに住むようになり、子どもたちのために何か支援をしたいということを考えていた。 その意志を長男の石川さんが引き継いで、6年間に渡って続けているプロジェクトです。また、日本に滞在していたこともあるコンゴ人のカソンゴ・ワカネマ(Kasongo Wakanema)さんを中心としたミュージシャンたちがケニアで、石川さんと一緒に音楽を指導して、このプロジェクトにも協力しています。 キベラの子どもたちに、学校に戻ろうよという呼びかけをしながら、毎週土曜日に給食サービスを実施しています。このプロジェクトは、寄付金と石川さん自身の収入の一部で運営されており、ケニア政府にNGO登録をしていますが、石川さん自身のポリシーで、助成金などはもらっていません。 空腹をまぎらわすためにシンナーなどを吸い、学校をドロップアウトしてしまった子どもたちを集めて一緒に歌詞をつくり、その歌を繰り返し歌うことによって、だんだん学校に戻ろうという気になってくる。 石川さんは、「子どもたちが自分たちで作った歌を歌うことによって自発的な行動がとれるようになっていくということに、活動をしながら気付いていった」と言われていました。 また、石川さん所有の音楽スタジオで子どもたちの歌をレコーディングして、ナイロビのラジオで流したところ、リスナーからの反響が多かったそうです。 「いままで街で物乞いをしていた子どもたちにひどいあしらい方をしていたことを反省した」「この子たちの歌を聴いて、この子たちがどんな気持ちで生きていたかというのが良くわかった」といった内容の手紙も届いたそうです。 プロジェクトの効果として、自分たちの歌がラジオから聞こえてくると、子どもたち自身の喜びや自信につながり、物乞いをする子どもたちを社会の汚点のようにみていた大人たちが、彼/彼女らを理解するきっかけになったと、石川さんはおっしゃっていました。音楽の力は偉大ですね。
茂住 みなさんも、給食サービスの現場を見学した印象を述べてください。私がまず気付いたのは、この場に女の子がほとんどいなかったということです。 また、参加している子どもたちに年齢の幅があり、衣服や靴の状態も違っていましたね。
近藤 神戸さんが子どもたちに日本の童謡を教えていましたね。「ポッ、ポッ、ポッ、鳩ポッポ」って、子どもたちと大合唱でした。 子どもたちがこの歌を完全に暗誦していたことには驚きました。みんなとっても楽しそうで、生き生きとした表情をしていましたね。
鳥養 給食サービスのときも、先に番号を書いたチケットを配って、そのチケットと給食を交換している。 給食を配る前に、そのチケットを投げて遊んでいたりしても、絶対になくさないんだよね。
土屋 後で聞いたら、あのチケットはお金なんだって。お金と同じ価値がある、だから絶対なくすなって教えているとか。 給食サービスをはじめた頃は、子どもたちが来るとすぐに食事を配っていたそうですが、満腹感と安心感ですぐ寝てしまったらしい。 キベラに住んでいる子どもたちは家のない子どもも多く、寝るときも誰かに襲われるかもしれないという恐怖を抱えながら寝ているから熟睡できないと聞きました。 でも、あの敷地の中にいるときは、門もきちんと閉っていて安全なので、食事を先にあげるとみんなすぐに寝てしまう。 そこで、まず歌って、踊って、いろいろあって最後に食事、というシステムに変えていったそうです。 現地のプロジェクトを進めるためには、やはり現地に根付くことが重要だと、改めて実感しました。
茂住 映画『ダーウィンの悪夢』に、子どもたちが数人で争いながら必死になってご飯を食べるシーンがありますが、そのシーンでは、力の強い子だけが食べられて、弱い子は食べられない。 でも今回の給食サービスでは、われ先にと争うこともなく順番通りに並んで、食事が配られるのを待っていた。 食事の後は各自で自分の食器を洗っていたしね。誰かに言われるのではなく、そういうシステムがすっかりでき上がっていることに驚きました。 では、最後に一言を。
鳥養 私は特に、アフリカの子どもたちに関わっていきたいですが、日本にいてどうやって関わっていったら良いのか、とても考えています。
近藤 私はAJF事務局に勤めているにもかかわらず、アフリカに行ったことがなかった。 しかも会社に勤めていたときは長期の休暇がとりにくい状況だったので、始めから遠いアフリカに行くことはできないと思い込んでいました。 でも自分の思い込みを超えると、アフリカも近いのだということを実感しました。
土屋 私なんかアフリカに関わっていながらなかなかアフリカを訪れることができずに、実際、アフリカに行くまで9年もかかった。9年だよ(笑)。
鳥養 じゃ、私は最短かもしれませんね。
近藤 最近では、AJFに来る大学生で、春にインターンなどで関わりはじめて、夏休みにもうアフリカに行ってきます、という人もいます。 アフリカに行くことの敷居が低くなったのでしょうが、アフリカ経験者が増えてくれば、日本社会におけるアフリカに対する見方も変わってくるのではないでしょうか。
【注】
(1)ケニア在住が30年以上になる獣医師。ナイロビのスラムでの活動も担っている。
(2)2007年1月で、1Ksh=\1.7-1.8。
2007年3月3日。編集協力:鳥養淳子