Can WSF get rid of heterosexism?
『アフリカNOW』76号(2007年3月25日発行)掲載
執筆/鈴木 文:弁護士、精神保健福祉士、公認会計士(登録名は鈴木隆文)など。主著に『女の遺言』(麻鳥澄江さんと共著、御茶の水書房)、『ドメスティック・バイオレンス』(麻鳥澄江さんと共著、教育史料出版会)。性暴力根絶のための研修企画、出版などに取り組む「すぺーすアライズ」スタッフ(Fax: 047-320-3553)。かかわっている活動体は、「SOSHIREN女・(わたし)のからだから」「女の空間NPO」「れ組スタジオ東京」など。
世界社会フォーラム(WSF)2007には、これまで以上に多くの女性が参加した。異性愛以外について話題にする場も設けられ、活発な議論や交流が交わされた。 ここでは特にWSF2007での性と生殖の権利(1)とセクシュアル・マイノリティの人権について成果と課題を検討したい。 国やコミュニティの中でも、教育、医療、権利の切捨てによる弊害は貧しい人たちの中でも真っ先に女性に、セクシュアル・マイノリティの人たちに向かう。 WSF2007が弱い人(権利を奪われた人)へのしわ寄せを許さない社会を目指し、すべての人の健康と権利を実現しようとする場であるなら、そのしわ寄せが及びがちな女性に、セクシュアル・マイノリティの人たちに注目せざるをえないはずである。
女性の視点からの性と生殖の権利を
私は、女性の健康運動を続けている民間の国際ネットワークであるWGNRR(Women’s Global Network for Reproductive Rights)のメンバーとして、女性中心の性と生殖の権利の実現に取り組むワークショップなどに参加した。 アフリカでは、HIV/AIDSの女性化の課題、女性器破壊(FGM)を含む女性に対する悪弊、安全で合法な中絶が保障されていないことに起因するものも含めた妊産婦死亡率の高さ、などの問題が山積になっている。 その背景には女性の経済的・社会的地位の低さ、女性に対する教育の不足や健康サービスの未熟さがある。 女性たちは性と生殖の権利の実現に向けて果敢に取り組み、ここ数年でHIV/AIDSの分野での国の政策を変え、法律は大きな進歩をしたが、FGMや早期婚姻、ポリガミー(一夫多妻制)などの有害な仕組みは法制度で禁止されてもなくならない。 その背後には、宗教的・文化的な障壁があるからだ。宗教や財産は誰のためにあるのか。 WSF2007開催国ケニアからの参加女性から聞いた話では、女性は財産の所有者ではなく男性の財産の一部と扱われ、女性が自分の意思で人生を決めることは考えられないとのこと。 それでも開会式で見かけた女性のTシャツには、「女は男の財産ではない」と書かれていた。 また、強制しても異性愛社会に染まらないレズビアンへの援助はかやの外におかれがちだ。WSFに参加できない国や地域の状況、妊産婦死亡率も法律も改善せず取り残されている。 そしてその背後には、ヘルス・セクターの切り詰め、アメリカ合州国の方針にあわない同性愛者、セックス・ワーカーや薬物利用者への援助の制限、コンドーム使用の制限、グローバル・ギャグルール(2)など、女性への暴力の諸課題は、新自由主義やグローバライゼーションなどと関連がある。 このように課題は多いが、確実に前進している女性たちはどこにでもいることを実感でき、特にここ数年の大きな力強い展開の成果からは、大きな勇気をもらった。
いるのに、いないことにされてきた
セクシュアル・マイノリティ
私はレズビアンであり、トランスジェンダーである。 アフリカの多くの国では、ここ数年HIV/AIDS対策について目に見える形で「全体としては」進展が見られたが、男性と性行為をする男性(MSM)や女性と性行為をする女性(WSW)などの同性との性行為者については、政策から排除されてきた。 人権よりも、家族の価値やセクシュアリティについて固定した立場を押し付けられている。 たとえば開催地ケニアでは同性愛は懲役最高14年という厳罰である。終身刑という国もある。 アフリカでは植民地支配の名残で、法律で同性愛を厳しく禁止している国が多い。 ウガンダでの迫害事件や、ナイジェリアでの同性愛に対する法律の厳格化の動きなど、悲惨な状況がある。 レズビアンがレズビアンとして認識されず、その生き方と権利が認められない社会は、女性が男性に従って生きるしかない社会である。 それでも、メイン会場である陸上競技場から少し離れたテントに、GALCK(the Gay and Lesbian Coalition of Kenya)が虹の旗を掲げ、”Q-SPOT”と名付けられた活発な企画を開催していた。 私はアフリカ各地のセクシュアル・マイノリティの人々と会うことができ、アフリカと日本の現状を情報交換した。 WSF2007会場内で同性愛者として活動したことが自分の国で報道されると迫害される可能性が高いと話してくれた女性もいた。 情報の発信さえできない国も多い。 会場で知り合ったナイロビのスラムで暮らす若い女性も、人生は男性が決定して持ち込んでくるもので、レズビアンとして生きることを考えたことがなかったと教えてくれた。 異性愛中心の民衆運動の中で”Q-SPOT”という場をもつことができた勇気に拍手を送りたい。
「暴力」の概念をきちんともつこと
WSF2007が「女性に対する暴力」について社会運動に不可欠の課題として取り組めたのか。 たとえば女性の性と生殖の権利、セクシュアル・マイノリティの権利について、単にWSFが場を恵んだだけで済むはずがない。 無関心は切捨てと同じである。「暴力」の概念を作り直し、女性の経済的、心理的、社会的、政治的従属性も暴力に含んで社会変革をする必要がある。 女性の性と生殖の権利の中でも妊娠中絶の権利やセクシュアル・マイノリティの人権の展開を困難にしているものは何であろうか。 多くの社会運動に携わっている人たちでさえ、女性の性を決め付け、性愛が異性愛であることや産むことを疑わず、当然の義務と考えがちである。 異性愛・男性中心的な支配欲から女性を見捨てるとき、「わが身ではないものたち」への差別と偏見が切捨てへと地滑りしていく。 女性たちが自分の生と性について自由になるには世界経済のみならず、異性愛・男性中心の世界観が障壁になっている。 これを言い当てる象徴的な出来事があった。 たとえば2006年から左翼政権になったニカラグアでは、大統領が教会と結託し、妊娠中絶が全面禁止となっている。 医療機関は胎児の命のみを最優先し、女性本人が死んでしまうのを助けてはいけないのだ。 WSF2007の会場内では、あろうことか妊娠中絶の権利を否定し、女性が一度妊娠したらどんな理由や事情があっても妊娠を続けることを強要するキリスト教原理主義プロ・ライフ派のブースも開設されていた。 彼らは、会場内に持ち込まれていた表現作品である十字架にかけられた妊婦の彫刻を撤去しろとの要求までした。 また私が「セクシュアリティ」の看板があるケニアの団体のブースを訪れてレズビアンの情報を尋ねたところ、「そんなものがあるはずがない」と嫌悪の返答が戻ってきた。 その後のインターネットの報告によれば、フォーラム主催者がセクシュアル・マイノリティのグループのチラシをゴミ箱に捨ててしまったとのこと。 せっかく発信されても握りつぶされるのは、民衆運動といえども男権社会に不都合な情報だと判断されたからか。 たとえば、国全体のHIV/AIDSの感染率という「数値」を効果的に下げることは確かに重要で、現実の解決として社会改革に意欲のある宗教勢力と協力することも当然のことである。 しかし、個々の人たちは国のHIV/AIDSの感染率低下の手段ではない。 自分の人生の意味を自分で決めて、迷うことも含めて生きることを愉しむことができ、そのためにも生と性と生殖についての権利を持つ。 この権利は、宗教、国家、文化の価値観に合うから実現されるのではなく、個々の人間に尊厳があるからなのである。 離婚した女性、死別した女性、家族や社会から周縁化され排除されたセックス・ワーカー、同性愛者たちを排除し無関心になるとき、異性愛家族の価値、宗教原理主義、そしてこれに悪乗りするブッシュ政権と同じ方向を向いていないか、振り返る必要がある。 女性を踏み台にして、非異性愛者を迫害していることに鈍感な社会は、新自由主義やグローバライゼーションと同じ仕組みである。 いまだに社会運動が異性愛男性を中心とする前提で構築されていないかを自問する必要がある。
【注】
(1) リプロダクティヴ・ライツともいわれる。
女性が生涯を通じて、自らのからだについて自己決定を行い、健康を享受することであり、身体的、精神的、社会的にこの権利が保障されている状態をいう。
(2) アメリカ合州国の拠出金を得るために、中絶について「猿ぐつわ」をして黙ること。