Non Super Global !?
斉藤事務局長が語る
アフリカと世界と自分がつながる仕組み
2015年3月21日
1 なぜ、今日、僕なのか?
「大逆転の発想」ということで僕がしゃべることになりました。なんで僕なのか、というところで3つほど引き受けた理由があります。アフリカにかかわるNGOというイメージがあるなかで、AJFはわかりにくいと言われます。でも自分で実際にやっているとわかりやすい団体なんですね。その辺のことをしゃべりたいのが一つ、二つ目は一昨年から毎年入院してガンを切っていて、健康に問題を抱えている人間が事務局長というのはちょっとよろしくない。15年間事務局長でいるのはちょっと長い。来年で還暦を迎えるのもいい機会だし、違う人にやってもらいたい。そういうときに次の人がやりたいという気持ちになってもらえる話をしなくてはならないという点。三つ目は、明治学院大学でNGO論という授業をもっているのですが、期末レポートで、自分の課題を書いていいよと言っているんですね。学生が自分のことを考えるときに手がかりになるような材料として、僕のことをもうちょっとしゃべってもいいじゃないのかな、と最近思っていて、今日はその予行演習です(笑)。
2−1 振り返るとあの時
1)1960年、池で溺れ、肺炎・肋膜炎・中耳炎を発症
改めて自己紹介ということで振り返ってみると、いわば人生のターニングポイントという時が3回ありました。
ひとつは1960年、6歳のとき。僕は池で転びまして、そのあと気が付いたら布団の中だった。肺炎、肋膜炎をおこして死にかけたわけですね。で、そのあとも熱が下がらないというのでよくよく診てもらったら中耳炎でした。当時中耳炎は鼓膜に穴をあけてうみを出すんですね。ずっと医者に通っていました。小学校に入ったころは縄跳びをするなと言われていた。水泳は当然できない。健康不安を抱えていた子どもだった。今は丈夫なんですが、難聴といえば難聴です。高校ぐらいまでは余計なことが聞こえないのがちょうどいいな、と思っていたんですけどね(笑)。
2)1974年、大学入学。親の家を離れる
大学に入って東京に出てきました。僕は農家の長男に生まれたけれども体力に不安があって、四つ下の弟は健康優良児だったので、なんとなく跡継ぎはあいつがいるからいいや、というのがあったんですね。でも、何をやればいいのか、仕事のイメージというのがなくて、実感がわくのは手伝ったことのある酪農だった。だから大学4年生の夏休みに、親と一緒に仕事をしたことがあります。酪農をやるのはきらいじゃなかったんですが、それをずっとやっていくのはイメージが持てなかった。それで大学に戻って、また出発点から考えたりしたんですけど。
親元を遠く離れて東京に来た、というのは大きいです。大学に入って周りを見たら結構みんな先が決まっている。そういうものなんだな、とちょっとびっくりしたのを覚えています。東大教養学部理科二類だと、ここで90点とれれば医学部に行ける、という意識の人もいました。僕のクラスは浪人が多く、なんで浪人してまで入るかというと、次があるから。大学という名前が必要とか、あるいはステップとして大学が必要だからという意識がある。そのあたりでちょっと違うんじゃないかなと漠然と感じはじめました。
大学には、すでに非正規雇用の職員がたくさんいて、3月31日に一回首切られるのですね。1977年に予定されていた100周年記念(東大創立百年記念事業)に反対する運動がきっかけで、その人たちの運動とも接点ができたんですけど。そのつながりがあったというのはやっぱり大きいですね。当時、寮に行くといろんな人がいて、けっこう夜中に転がり込んで泊まらせてもらっていました。そういうスペースがあるというのはやっぱり大きいですよね。そういうところを通して違う世界の人たちとの接点ができたな、と。もう一つは大学3年生で教育学部教育行政学科に進みました。その研究室の先生のところに、松崎運之助さんの『夜間中学』という本がありまして、それを読んだ。識字学級のこととかはそうですね、狭山闘争をご存じの方はいらっしゃるかもしれない。1963年に起きた狭山事件の犯人にされた石川一雄さんにかかわる運動があって、そういう運動を通して識字学級を知った。「じをおぼえてほんとうに夕やけがうつくしいと思うようになりました。」という北代さんの詩があって、それはすごく衝撃的で、全部は覚えていないけれどもそこだけは今でも覚えています。文字を知るということはそういうすごいことなんだな。なんとなく知っているとあまりありがたみを感じなくなるんですね。そのときに感じたのは、自分のやってきたことというのは、実は少数者に向かっていくことで、みんなが知らないことを僕は知っているつもりで偉そうにしているけれども、逆に言うとみんなが知らないってことはみんなでないんですよね。そのときすごく感じたのは、自分の言葉はどこまで通じるのだろうということでした。たぶんこのままで覚えた言葉っていうのは使いこなせないし、使おうとしても伝わらないんだな、と。そんなことを感じたのを今も覚えています。ちょっとその辺うまく言えないので、あとで何か質問とかしてもらえると嬉しいなと思います。
大学には6年半いました。大学の3年目の終わりくらいから学生運動に入って、授業には出ないが大学にはいるというので、お正月を本郷のキャンパス構内で迎えたこともありました。全共闘運動はさっき言った臨時職員の問題とかで、人が動くのは本郷のほうがボリュームがあるんですね。本郷には病院があり工学部があります。工学部というのは実験機材を扱う技官という人たちがいて、そういう人たちの運動と接点がある。その頃は亡くなった宇井純さんがまだ東大本郷にいて、助手会というのを背景に、自主講座「公害原論」というのをやっていたんですね。その公害原論で使っていた部屋というのは、工学部の2号館の都市工学科の実験室だった。行くとその並びに「ゲバラの部屋」というのがあって、まだそういう時代です。ゲバラの部屋で顔を見た覚えのある人に、20何年か後にAJFの事務局長になったあと、ばったり出くわしたこともあります。高橋基樹さんともそこで顔を合わせたことがあるんですね。といってもお互い「見たよな」くらいなんですけど。なんとなく向こうも顔を覚えていて、2002年だかに神戸大学での研究会に行ったときに「会いましたよね」っていう話になったことがあります。
大学を出た時は、出た、というか、出たというよりところてんみたいに押し出されたという気分ですね。日本育英会の奨学金を止められたので抗議行動をやった。大学側は僕を処分するのは簡単だけど、処分したあとが面倒くさい。処分するというのは騒ぎの大義名分を作ってあげるみたいなものだから。67年68年の二の舞にするわけにはいかないということで大学側は押しとどまったわけですね。代わりにとにかく早く出しちゃえ、という方針になったみたいです。処分に反対するやつが試験受けないと、ただ騒ぎを起こしたいだけと言われるんで、試験を受けました。試験を受けると「待ってました」と単位がつく(笑)。とそういう感じで大学を出ました。学卒というと自分で大学出てどうなんだろうなと今でも思っているんですけどね。いわゆる学卒としての力、能力はよくわからない。ただ、今思い返すと、自分の書いている文章というのは、大学で学生運動をやってビラを書く、ビラを書くというのは難しい言葉を使わない、一つ一つの文章を短くしろ、飛び出しを入れろ、と言われたんですね。チェックしてくれる人もいまして、そのおかげで文章は少し書けるようになったのかという気がします。
大学を出た後、幸いにというか、運動をやっていたつながりで仕事先を見つけた。ずっと20年間、部落解放同盟の仕事をしていました。そういう意味ではあんまり屈折しなくてすみました。
大学の卒業間近に東京足立区で、養護学級から普通学級に移ろうとしていた金井康治くんの転校事件運動にかかわるようになっていました。転校事件運動にかかわって、金沢から東京に来て北千住にそのまま住んじゃった脳性麻痺のおじさんがいて、僕より10歳ぐらい上ですけど、週1回ぐらいそこへ泊まりに行くようになりました。一昨年「ちょっと入院することになった」と言ったら、「お前のかわりは探すから大丈夫だ」と30年目にして泊まり会は終わりました。今日の会場をとってくれた市野川くん(市野川容孝氏、当会会員、東大教授)はその時の介助仲間です。20年くらいは月に2回火曜日の朝に顔を合わせるわけですね。顔を合わすだけでなく、「こんな文章を書いたから見て」とコメントを求められるようなつながりです。そのあと2000年にAJFの事務局長になったのが一つの転機なのですが、その前のつながり、解放同盟の仕事をしていた人や障害者運動でかかわった人というのは、いろいろお世話になっています。今日も来てくれていますし、市野川くんの後輩やつながりのある人もAJFで活動しています。
2006年に彼は『社会』という本を書いたんですね。その本のなかに、世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)のことにちょっと触れた文章があった。たどれば2002年の夏に8月に世界エイズ・結核・マラリア対策基金にもっと金出せというキャンペーンをやったときに、呼びかけ人になってもらおうということで話しをして、それでその辺から、人としてのつながり、そして課題としてのつながりですよね。世界エイズ・結核・マラリア対策基金というちょっと新しい動きのときに、ちょっと大きな言葉で言えばグローバルジャスティス、昔風の言葉で言えば南北問題に関係しますよね。国境線のこちらと向こうとで人の生き死の重みが違うのであれば、これは低いほうに流れていく。水は低きに流れると同じでコストはかからない方に流れていく。それはもう工賃がやすいところ、人権が守られないところに向かって仕事が流れていくという。それを黙ってみていたら日本の中だけなんとかなる、という話にはならないだろう、というのがあった。そういうところで一緒に考えてくれる、考えていくつながりになったのかなという風に思います。
3)2000年 AJF事務局長就任
2000年に45歳でAJFの事務局長になった。僕はそれまで日本にいて、日本にずっといたからかかわっていく仕事があって、その延長線上で、ちょっと気になったからAJFの事務局長になった。何が気になったのかというと、ひとつは1993年のTICAD(アフリカ開発会議)に向けた動きのなかで、アフリカの人びと、アフリカ開発の課題というのは国連や国の政府各国だけの問題ではなく、そこに暮らす人々の声を反映しないのはおかしいじゃないか、そういう動きを伝えようとする試みというのはとても重要ですごく魅力的だなと感じたこと。そのタイミングと重なるように、部落解放同盟の仕事のきっかけになった運動が一区切りついた。1982年に足立区の同和対策集会所をめぐる運動というのが起きて、10年目に和解して集会所は明け渡すけど和解金を出してもらうことになりました。それまでずっと時間をかけて、自分の身体を動かしていた運動に区切りがついたところに、「AJFの事務局長を探しているよ」という話があった。そういうのがあってやってみるかな、と思ったんですね。やってみようかな、と思ったときに、事務局長というのは何をやるのか、団体によって違うと思うんですよね。AJFだとまだ小さくて、雑用といってはなんだけどいろんなこまごまとしたことをやる。名簿の管理とか会計帳簿をつけるとか。そういうことはできるな、と思ったわけですよ。前にいた職場でなんだかんだといって職場のPCを使って顧客名簿を作ったり本のリストを作ったり、本のリストとお客さんを引き合わせるデータベースを作ったりそういうようなことをやっていました。今のAJFで使っている弥生の会計ソフトを前の職場でも使っていて導入したんですよね。前の職場でそういうのを覚えたんでそういうことならできるな、という実感はあったんですね。
2−2 違った角度で見ると
1)誕生~18歳:主として学校規範を教えられ身につける
振り返った時に「あの時」という3回ターニングポイントがありました。
ちょっと別の角度で見てみると、18までというのは健康不安というのが初期の頃ありましたが、学校にいるとできのいい生徒の自由というのはあるんですね。今はわかりませんが、僕らの頃はできがいい生徒はほっといてくれる。さっきの聞こえなくてもいいというのは、先生の話を聞いていなくても「しょうがないや」ということで適当にほっといてくれる。そういう自由というのはすごく味わった気がします。18歳くらいまでは。学校のなかで窮屈な思いをしなくてすんだ。学校の成績がいいということですんじゃうわけだから、成績ということに現れるような大きくいえば、学校のもっている規範というものを身につけて教えられるというプロセスだったのかな、と。
祖父は敗戦時の1945年8月に村長だったんですね。戦後もずっとたばこ耕作組合の組合長、農協の組合長とか村の名誉職的な団体で看板を立てないといけないときに出てくる人でした。最後は70歳のときに保育園を作ったんですね。村で誰かやらなきゃいけないというときに出番に応えるべき人だったんでしょうね。保育園の建物というのは合併して使われなくなった古い小学校の建物を使っていて家から徒歩5分くらいのところにあったんですけど、保育園を初めて3年くらいは毎晩泊まりに行く。その意味みたいなのを考えるようになったのはちょうど10年くらいAJFにかかわり始めてからですね。なんであの人はあんなことをやっていたのかな、と思ったら、それがそういう「家」の人なんですね。まだそういうのが生きていた時代でした。そういうことを考え始めたのはボランティアという問題を考え始めたときですね。アメリカみたいにボランティアが作った国というのがありますよね。ボランティアというか、やるんだという人がいて、やるんだという人が動いて、それをオフィシャルなものに転化させるために、投票とかコンスティテューション、約束ごとが重要になる。元がやりたいといってやってるのを公的なものとしてみんなが共有するためには、投票というものを経て、その投票の前提になるコンスティテューションというのを共有する、そういうプロセスがあるんだなと思う。それと比較したときに日本というのは、日本に限らないですが、古い世界、ヨーロッパの古い世界もとにかく狭いなかで折り合いをつけなきゃいけないとなると、そういうことを担う家というか担うべき社会階層というのか、そういうのが形づくられてくる。そういうのを意識するようになって、うちのじいさまはそういうことをやっていたのかな、と思ったんですね。じいさまの時代のお家の重たさっていうかそういうのは、父親のときに1回切れてくれたのは助かったなと(笑)。まあ、これ引きずっている人がいると思いますよね。僕らの世代くらいにはやっぱりあるんじゃないかな。ただ、僕がなんで大学に行くようになったのかというとじいさまの想いもあるのかな。農協の仕事で行っていた時に、帝大出の若い人にあごでこき使われる。それに対するなんていうのか屈折した思いというのはあったらしいです。直接聞いたことはないからわからないですけれども、父親には「あいつはできるらしいから大学に行かせろ」と言っていたらしいです。そういうことがあって、僕はまあ父親や母親から勉強しろと言われたことはないんですけど、大学行くんなら行ってもいいよという扱いですよね。
2)19歳~44歳:運動を通じて価値観を学び、その枠組みの中で行動
僕の大学生のころには全共闘運動というのがひとつ山を越して、大学のなかでは残滓というと残りものがあるというイメージですが、ちょっと違う広がり方をしていた。全共闘運動というのは反公害運動だと僕は思っているんです。あるいは日本のなかでの反開発運動。だから大学を離れてあちこちに行って、そこに居座って新しい道を開いた人たちがいる、部落解放運動にもそういう人たちが入っているんですね。前にレールを引いてくれた人がいて、その後ろにくっついていると僕のころにはある程度運動のなかで仕事というのは作られていて、その仕事の枠に乗っからせてもらったと。大学を出た段階で周りには、そうですね、似たような例でいうと自治労(全日本自治団体労働組合)とか自治労の共済組合とか、自治労がやっている旅行代理店とか、そういったところで仕事をしている同じ世代の人間っているのですね。前にやっていた運動のおかげでそういう仕事がある。自治労みたいな大きな組織になるとそれなりの人間が必要になる。そういう仕事につける。あんまりあれこれ考えなくても、枠ができていた。
3)45歳~現在:手探りで新しい活動を進める
45歳でAJFに転じたあとっていうのは、何が違うのかなと思ったら、自分なりに言うと前例のないことを始めたということですね。あまり参考になる例がないことを始めたなと。その時頼りしたのは前のつながりですよね。一つ目としてはアフリカ関連の新聞記事をまとめるという。僕は「アパルトヘイト否(ノン)美術展」下町展をやった延長で始めたんですね。91年ぐらいから手元にあった新聞記事とか、そのころから今ほど自由度は高くないけどパソコン通信を使うと新聞社のデータベースにアクセスできる、そうやって集めた記事をまとめる、というようなことをはじめた。そういのを今生存学のWEBサイトで、1980年代90年代とかの記事紹介みたいな感じで。タイトルだけしか残っていないのもありますけれど、そういうのもちょっとずつ紹介している。あとは、AJFに入ってみたらアフリカ学会に行くと結構会員に会えるんだなというので足を運んでいます。事務局長の一番の仕事は何といっても会費を出してもらう、会員に会ったら会費を出してくださいとお願いすること。総会で待っていても来ない人が多いですが、学会に行くと会えるんですよね。学会に行ってあの人が会員だというので顔を売っては会費をとるというのをやるようになりました。2001年から2005年はちょっと行けなかったんですが、ほぼ毎年行っていろんな人と長く顔を合わせていると、それはそれで顔なじみもできます。またアフリカ学会では、いろんなおもしろい発表があるんですね。気になるところで質問をする、そういう楽しみもありました。
言ってしまえば18歳ぐらいまでは出来合いの、割と限られた世界であまり大変な思いをしないですんなり来れました。AJFの事務局長で新しいことを始めなければならない、というところまでは来れた。これまで運動を始めたんだけれどもまるっきり新しいわけじゃない。ちょっと新しいところに入ると、そこはそこで仕組みができていて仕組みにちょうど乗るぐらいの世代だったんですね。でも障害者運動は違うところがありますね。僕らの前後くらいからいろんな動きがあって、金井闘争ではいろいろやったけど運動というほど運動にはかかわらず、子どものお迎えをしていました。アフリカンキッズクラブをやっていると当時の子ども会をやったことなどを思い出すんですね。同じような課題を抱えているなと。
障害者運動として大きいのは、80年代に新田さんという北区にいる人が中心になって取り組んだ有償介護保障制度。今は仕組みとしてそうなっているが、80年代から90年代にかけて新田さんたちが行った「介助者に金を出せ」という取り組みは、もうちょっと奥行きがあって、最近そのあたりをまとめた本を読んで改めてびっくりしたんですよ。
僕が直接接点のある人というのは80年代初めぐらいの人で運動論というところで止まっている。運動というのは隣の人につなげて初めて運動なんですね。「自分のところがとりあえずうまくまわっているからいいや」では運動ではないんですね。自分のところがうまく行っていても、かかわる人がいないと回らない、かかわる人をどうやって引き込むのか、というときにいろんな試みがありました。介助者への所得補償というか有償、金出せというのもそうだし。自分のところがなんとかなっているからいいやで止まっちゃったら、それ以上前には進めない。介助の問題が面倒くさいのは人のうちにはいっているから。自分のことしかしゃべらないというわけにはいかない。見えちゃったものをしゃべり始めると人様のあれこれを引っ張りだすようなことになっちゃうし、その辺はなんとも言えないなというところがありますね。
3 AJFの魅力、AJFとの出会いから事務局長へ
いろいろありますが、基本はHIV陽性者につながったということの意味、意味というには変ですが、僕にとってはラッキーだった。そのことを通して生存学につながった。立命館の生存学研究センターがあって、僕も運営委員をやっているが、そこのセンター報告の23号に15ページほど書きました。「同じ世界を生き抜こうとする人々とつながる。アフリカにかかわる生存学の取組みとクロスオーバーから」
ひとつめは、1993年アフリカシンポジウム。翌年のAJF設立。何が魅力的だったかということですね。僕にとっては国境を越える人々の連帯、ここは協力というのは、僕はまあ、国際協力はなじみがない。僕らの世代でいうと連帯、国際連帯、ソリダリティ。ソリダリティというのはこちらだけ、というのではなく双方向性、もうちょっと肩組んで並んでっていうイメージがありますね。そういうことにつながる動きだなということですごく興味を持ちました。そこで少し具体的なイメージを持つに至ったのは、解放同盟で一緒に仕事をしていた人に教えられて今はケニアに帰っているグギ ワ ジオンゴさんの小説をいくつか読んでおもしろいな、と思った頃ですね。それで「アパルトヘイト否(ノン)美術展」もかかわった。「下町展」というのをやりました。千代田線の駅の町屋というところがあって京成線と千代田線がクロスするところです。そこでやりました。そのあと、1999年に、AJFの「ビジョン2000」合宿があって、その前から議論はいろいろあったみたいですけどAJF解散の話もあったんだと聞いてびっくりしたわけですね。せっかくこういう団体があるのに、まだまだやらなければならないことがあるのになんで解散するの。そう言ったら、「じゃああんたやりなさいよ」みたいな感じで事務局長がまわってきたというところがあります。
林達雄さんが2000年夏にダーバン(南アフリカ東部の都市)に行って国際会議に参加してきた。エイズ会議の外側でおもしろい話があったんだよ、そういう話をしたいということになったんですね。当時AJFはワーキンググループになっていたんですが、渋谷のアフリカ料理屋を土曜日も借りて、5時くらいからお店があいたら交流会をやる。そこで林さんがしゃべった。おもしろいというかすごい重要な興味深い話だなと思ったわけですね。このときの話は、岩波ブックレットの『エイズとの闘い 世界を動かした人々の声』に書かれている。もし手元に文章がないというんだったら、テキストがうちにあるので送りますから言ってください。そんな話をしていたとき、2001年の年のはじめに、当時代表だった吉田昌夫さんがウガンダに行くことになって、あとの代表をどうする?やっぱり林さんしかいないんじゃないかと相談しました。林さんにやってもらうからには、林さんがやりたいと言っている当事者運動とのつながりをどうするか。もうちょっと考えないといけない。まっさきに顔が浮かんだのはそこにいる稲場雅紀くんだったわけです。前の職場のつながりで、フランスのコアビタシオンの話をしたことがあります。詳しそうだし、やってもらえないかなーと思っていたら2002年のはじめくらいにいろいろあって来てもらうことになりました。2001年にとりあえず「感染症研究会」を立ち上げて勉強会をはじめました。エイズとアフリカ資料集を作った。これは、今は生存学研究センターの客員研究員をやっている新山君が『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動』の本にまとめてくれました。解説的なものも入れています。2002年に世界エイズ・結核・マラリア対策基金への拠出拡大キャンペーンをやると。その年に外務省の「NGO研究会」を初めてやったんですけど、そこに南アフリカのTAC、「トリートメント・アクション・キャンペーン」のホロ君(ホロゴロ・ラモスワラ氏 当時、南ア・リンポポ州のTAC支部長)というまだ20代半ばのホロ君とケニアからアスンタさん(アスンタ・ワグラ氏 当時、ケニア・エイズと共に生きる女性ネットワーク(KENWA)代表)に来てもらった。そういった取り組みが広がって、まあ広がってと言うよりそのなかから今につながるような国際保健の取り組みとして形になっているんですね。NGO研究会の成果物は外務省のホームページに載っています。ほかにないものもあるので今でも参照されているみたいです。
今日のコメンテーターにつながるのが次のあたりですね。アフリカ障害者の10年というのが1990年に始まって、今第二次障害者の10年、19年までですね。AUアフリカ連合の取組みとして行われた。で、ここにかかわって2002年からJICAがアフリカ障害者の地位向上研修というのをやっているんですね。これはなかなか世界的に言っても興味深い取り組みだと思うんですね。もっと注目されてもいいなと思います。どういうことかというと、当事者団体の次世代リーダーをインスパイアする。日本に来てタイに行ってもうちょっと見聞を広めてごらんよと。また、リーダーというのは自分のところの問題を自分の言葉でしゃべれないと困る。そういう機会を作りましょうと発表の機会を作った。支援側の人が全部、お膳立てするってんじゃない、本人たちが語る機会を、そういう場面を用意する、そういう取り組みってすごく重要だと思うんですね。そういうのを2000年からやっていて、それを担っているのがDPI日本会議。2004年に相談があったのかこちらから押しかけたのかよく覚えていないけれども、話しとしては障害者団体もエイズの問題で取り組みをやりたい、当時、エイズ対策をきちんとやるといえば、お金が動くというふうになっていた。なので自分たちもエイズ対策のプログラムを持ちたいというのが一つ。あともう一つは、障害者団体もエイズの問題はすごく切実な問題としてあった。ご存じの方はご存知と思いますが、処女とセックスすればエイズが治るというみたいな神話があって、その時に狙われる女性というのが障害者の女性たちということがあった。そういったところを含めてエイズに対する取り組みというのが、点字でなければ資料が読めない人に向けて資料がない。文字資料があっても手話が第一言語である人たちは文字資料がぱっと読めるかと言ったら読めない。障害者をイメージした啓発というのをちゃんとやってもらいたい、という声があった。そういう声があって協力してくれないか、ということで2004年に稲場君が話をしにいったりしている。そのあたりからつながりができた。2009年から障害学研究会を通して、愛知県立大学の亀井伸孝さんともつながった。2006年に『アフリカのろう者と手話の歴史』という本を書いた人で、障害学研究会、関西部会と1990年の暮れに2回ぐらい会っていた。彼がアフリカ学会でアフリカの手話についての発表をしたのを見て、ああ元気でやっているんだな、と思っていた。機会があって2009年に、「アフリカのろう者と手話」ということで、話してもらった。そういう動きと並行して2007年にAJFにインターンとしてきた人が、「スーダン障害者教育支援の会」というのがあると言う。そのメンバーがここにいるヒシャム君(ヒシャム エルセル氏、スーダン障害者教育支援の会理事)、ついこの間文庫本になった「わが妄想」の執筆者のアブディン君(モハメド オマル アブディン氏、同会代表理事)、アラビア語の通訳とか翻訳の仕事をしているバシール君(モハメド バシール氏、同会元理事)、当時3人。それとJICA札幌で研修の仕事をしている福地君(福地健太郎氏、同会理事)、彼も全盲で当時筑波の学生でした、そういった人たちが中心になって、「スーダン障害者教育支援の会」が立ち上がっていて、NPOになりたいへんで相談に乗ってくれと来た。そういう機会があるのはうれしいですよね。早速その年2007年、福島さんに相談して、生存学研究センターの企画、当時のグローバルCOE生存学の企画としてやろうとういうことで一緒に座談会をしました。翌年はヒシャム君に京都に行ってもらって座談会をやりました。いろいろ興味深い話が出てきましたが、その辺の記録は生存学のサイトにあるので見てください。
第5章 スーダンと日本、障害当事者による支援の可能性
https://www.ritsumei-arsvi.org/publication/center_report/publication-center12/publication-191/
座談会「大学における視覚障害者支援の現状と課題 スーダンで今求められていること」
http://www.arsvi.com/2000/080621.htm
スーダン障害者教育支援の会・バシールさん公開インタビュー
http://www.arsvi.com/i/2-disabled200901.htm#060602
今日は、代表理事の津山さんの授業でしゃべってくれた岐阜に来ているジンバブウェの人や、そのことを記事にしてくれた城島さん(城島徹氏、毎日新聞元ヨハネスブルグ支局長)が来てくれています。そういったつながりが広がっていくのはうれしいですね。具体的な形になって見えているのがうれしいです。
今日触れきれないことがいっぱいあります。本当は亀井伸孝さんと一緒にアフリカ子ども学というのをやりたかったし、あと食料安全保障の研究会のセミナーでずっと明治学院でいまも「食べものの危機を考えるセミナー」をやってますし、吉田昌夫さんと一緒に立ち上げた食料安全保障研究会のことも触れないといけないんですけど、今日はそこまで時間がないのでこれで終わりにします。